2007年12月19日水曜日

ご無沙汰しました

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ながらくご無沙汰いたしました。今年も後2週間弱になってしまいました。

退院後、このブログについて「今までのようなことでいいのだろうか」などいろいろ考えています。しかし、「下手な考え休むに似たり」で、ブランクの期間が長くなってしまった。やっぱり初心にかえって、足の向くまま、気の向くまま、のんびりとぶらぶら歩きを楽しむことにする。

とりあえず今日のところは、4コマまんがを楽しんでください。

このマンガにポインタをもっていくと現れる【snap shots】の中をクリックするとマンガ画面と会話の文字も大きくなって読みやすくなります。

こんなマンガを作ってみたい方は下記のサイトへどうぞ。

http://crocro.com/auto4koma/index.cgi

なお、二人の会話をすこし替えたマンガは→http://z.la/bpekm

2007年11月7日水曜日

余計なお世話

1.右のサイドバーについて
1-1.一番上の[自己紹介〕(には、ほとんどなっていない!)の下は、〔tacchan パンダ〕です。「見ればわかる!」はい、そのとおりですが、右下に【more】と書かれたボタンがありますね。ここにポインタの矢をもってくると、笹の葉のついた枝が現れ、パンダちゃんは欲しそうに見ていますよ。一度笹をクリックすると大きくなりますから、そのまま笹をドラッグして口へ持って行ってください。パンダちゃんが頭を振ります。笹は【more】へドラッグして左クリックをすれば、隠れます。動物は毎月変わります。

1-2.〔文字拡大ツール〕名前の通りです。ごうなのように、字が小さくて読みづらいぞ、という方は「中」のボタンをクリックしていただくと、全ての文字が大きくなります。むろん、文章自体が名文となって読みやすくなる、なんてことはありません。「小」ボタンをクリックで、元にかえります。

1-3.〔このブログを検索〕これは、現在 Blogger が試行(Blogger in draft)のひとつとして提供しているものです。最初は確かにこの名称の通りでした。例えば「H君の父上」について2回書いたなあ、と思い、これを検索したところ、たちどころに、5月6日の[映画「わかれ雲」6〕と8月30日の〔米原万里の父 4〕、およびそれぞれ「H君の父上」の文字を含む文章がブログ全体のトップに現れました。そしてそれぞれのタイトルをクリックすると、それぞれそのブログ全体が現れて読むことができます。すごいな、と思いました。
ところが、今は検索範囲がウェブまで拡大されました。それはいいが、逆にブログを範囲とする検索がだめになりました。さきほどの「H君の父上」で検索すると、「このブログ」では「結果はありません」が出るので、ウェブに範囲を拡げると8月30日の方だけが出て私のブログ「らむぶらー Rambler」とはまったく関係のない結果がずらりと並びます。これでは、Google やYahoo! の検索と同じことでサイドバーに検索機能を置く意味がないと言ってもいいでしょう。
この文章は Blogger in draft へも送るつもりです。

1-4.次は〔FEEDJIT Live 〕が二つ並んでいますが、これらはわたし個人のためです。イタリアの旗が出ると「あっ、娘が読んでくれたんだ」とよろこんでいるわけです。

1-5.ふたつの Amazon に続く淡いグリーン色の〔タグ クラウド〕は、関心のある言葉をクリックしていただけば案内が出ます。一番下の右にある more をクリックするともっとたくさんのタグが出ます。

1-6.Amazon の広告はクリックしていただけば、アマゾンのサイトにとびますから、他の本も探せます。活用してください。

1-7.右のサイドバーではありませんが、ブログの上下の〔Ads by Google〕は、広告の中身はわたしにはわかりません。何も買っていただかなくても、訪問者がクリックして広告を見てくだされば、こちらに少しお金が入ります。いつか、本の二三冊でも買えたらいいな、とみみっちいことを考えています。

2.明日からしばらく、入院して左眼の白内障の手術を受けます。ノートパソコンを持っておりませんので、ブログは当分の間、休みます。


2007年11月5日月曜日

秋の学生野球

先週の日曜日、10月28日は、ごうなにとって暗い日曜日だった。
東京六大学野球の早慶1回戦。3季連続優勝を期した早稲田は慶応の加藤幹投手に完封され、延長12回、0対1で敗れた。

一方、広島市民球場での第109回秋期中国地区高校野球大会の第2回戦で、下関商業と対戦した鳥取西高は、3回1点を挙げてリードしたが、7回裏2死1、2塁で好投手といわれていた小畑投手がホームランを喫し、1対3で涙を呑んだ。

早慶戦は翌29日、2対0で早稲田が勝ち、翌日の第3戦で雌雄を決することとなった。この日の早稲田は打棒おおいに振るって毎回の15安打で7点を奪い、守っては、斎藤佑樹投手が15奪三振、被安打4で初の完封勝利、今季4勝目の好投を見せた。
齋藤の防御率は0.78でリーグ第1位、春に続いてベストナインに選ばれた。1年生選手の春秋連続ベストナイン受賞は2005年の上本博紀(早大)以来2人目、投手では初めてである。
また、早大の田中幸長(4年)は打率3割9分3厘で首位打者となり、本塁打3,打点18で三冠王となった。これは、2001年春期の早大・鳥谷敬(現阪神)以来戦後12人目である。
こうして見てくると、早稲田大学創立125周年を祝うにふさわしい成績であったというべきであろう。

最後に、高校野球に戻ると、昨日(11月4日)の決勝戦は鳥取西を破った下関商と鳥取県大会では3位だった八頭高との間で行われた。延長10回の好試合であったが、4対3で下関商が優勝した。来春の選抜に両校ナインが出場することは間違いあるまい。さて、残る1校はどこであろうか。
八頭高は春の甲子園ははじめてである。健闘を期待したい。
     


2007年10月17日水曜日

米原万里の父 (最終回)

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米原章三翁は鳥取県の政・財界でまさに八面六臂の大活躍をしたが(具体的な業績については、あえて割愛した)、むろん、仕事ばかりしていたわけではない。『米原章三傳』のなかで鈴木実さんが書いている。

 ……冷たい水を入れた大きなコップをかたわらに、愛用のウイスキー・グラスを傾けつつ、無心に盤を囲むのが、多忙な彼にとっての何よりの楽しみだった。(p.254)
中高生のころ、日の丸クラブとか呼ばれていたところで、そのような章三翁の姿を何度か見た記憶がある。そんなとき、碁の相手をしていたのは鈴木さんであった。



「仮に章三がその生涯において苦難を味わった時期があるとすれば、昭和二十三年から同二十六年にいたる追放の期間であろう。(pp.252―253)」と鈴木さんは書いているが、「年譜」によれば公職追放になったのは1947(昭和22)年の10月である。

たぶん、この年の秋か冬の初めのことであったと思う。酒の相手が欲しい、と章三翁に父が呼ばれて出掛けていった。翁は64歳、父は一歳年下である。父は毎日晩酌をやっていたが、人に呼ばれてのこのこ酒を飲みに出掛けるような人間ではなかった。が、この時は違っていたらしい。それにしても、学歴を含め、まったく異なる人生経歴を持つふたりがどんな話をしながら飲んだのだろう、と現在のわたしは思う。何はともあれ、父はウイスキーを飲み過ぎてべろんべろんになって帰宅し、戻してしまった。こんな父を見たのは、後にも先にもこのときだけである。

ついでにもう一つ、ばかな思い出話をすれば、早大時代に東京で偶然章三翁と出会ったことがあった。別れ際に翁は千円札を出して「菓子でも買って食べんさい」と言った。当時、千円で酒が2升買えた。無論というのも変だが、酒代に消えてしまった。



『米原章三傳』の見返しに、翁愛用の印章の印影が八つ印刷されている。そのうちの四つを紹介する。むろん、すべて縦書きである。

〔爾地塩}〔爾愛隣]。キリスト教にうといわたしでも、前者がマタイ伝5.13の「あなたがたは、地の塩である。」によることはわかる。翁は早稲田大学政治経済科時代、神田の下宿から徒歩でかよっていたが、その途中に富士見町教会があった。この教会を主宰していた植村正久によって洗礼を受け、熱心な教徒となった。しかし、婿養子となった米原家は浄土真宗であった。ために、かなり長い間苦しんだけれども、親鸞の教えの中にキリスト教と共通するものを見出し、改宗したと言われている。

三つ目は〔吾唯足知〕(2字2行)。「ワレタダ足ルヲ知ル」。これは石庭で有名な京都の龍安寺の茶室の蹲踞(相撲のソンキョ:つくばい)、すなわち、茶室の庭先に低く据え付けた、手や口を清めるための手水(ちょうず)を張っておく鉢である。この写真のあるブログ「ちぃの日記」を見つけたので、そちらで見てください。  http://yaplog.jp/chi--nyan/archive/41



今日のブログに載せている写真はこのつくばいを模した青銅製の灰皿である。章三翁のなにかのお祝いの引き出物の一つ。「年譜」を見ると、1955(昭和30)年11月に「金婚式ならびに長男夫妻の銀婚式をともに祝う」とあるから、そのとき母がいただいてきたものかもしれない。

最後の一つは、「描夢無悔人生」(3字2行)。

『米原章三傳』本文篇の最後となる鈴木実さんの文章(p.255)を引用する。

 「夢を描いて悔なき人生」、その座右銘を刻んだ顕彰碑が、昭和四十年七月一日、鳥取商工会館前に建てられたときには、欣然として除幕式に元気な姿をみせた章三であったが、それに先立って昭和三十九年十一月三日には生存者叙勲の栄に浴して、勲二等瑞宝章を受けた。同十一月二十八日、鳥取市民体育館で開催された祝賀会で、満場の参会者を前にした章三は、朗々とした音声でその生涯を回顧し、自らの幸福を感謝した。寿命百二十才説を信奉して、悔なき生涯を事業に捧げたこの巨人が、彼を敬愛する郷党に対する、最後の謝辞であった。

昭和四十二年十月十九日午後十一時五十五分、米原章三は智頭町の自宅に、八十四才をもって永眠する。葬儀は知事石破二朗らが葬儀委員となって、同月二十五日午後一時、鳥取市民体育館で盛大に執行された。参列するもの県内外より千余名であった。

戒名は慈恩院殿寿岳簡堂大居士である。
簡堂は章三翁の生前の雅号であった。



       





2007年10月10日水曜日

米原万里の父 (15)

米原万里の父と題して14回続けてきたなかで、ときどき言及した祖父の米原章三翁(1883―1967)について紹介しておきたい。第13回で述べたように『米原章三傳』を紹介し、さらに同書からの二つの引用によつて米原章三という人物を知ってほしい。同書は現在入手しがたいだろうし、引用文はともに翁の人物像を見事に描出していると考えるからである。

『米原章三傳』は、1978(昭和53)年6月発刊された。編集・発行は米原章三傳刊行会。
「本文篇」は8章、255ページ。「寄稿篇」は、長男、六男、長女、次女をふくむ28名が寄稿している。「参考資料」として関連諸家系図、鳥取県郡市町村図(明治22年)、米原章三年譜。
修は徳永職男(鳥取大学名誉教授)、松尾尊兊(まつお・たかよし)(京都大学助教授)、浜崎洋三(県史編纂専門委員)。
本文篇執筆は、第1・2章 篠村昭二(鳥取東高教諭)、第3・4・5・6・7章第4節、第8章第1節 小谷進(米原章三伝刊行会主事)、第7章第5節,第8章第2節以降 鈴木実(鳥取県経営者協会専務理事)
〔ごうな注:カッコ内の役職は出版当時〕
―――――――――――――――――――――――― 
「編集後記」に浜崎洋三は、本書に対する自負を述べ、章三翁が歴史上に占めている位置について的確に指摘している。(p.350)
 監修には、章三翁に縁故の深い徳永職男鳥取大学名誉教授と、松尾尊兊京都大学助教授にあたっていただいた。特に、日本近現代史研究の斯学界の最先端にある松尾助教授の多くの助言と示唆を受けて本書ができあがったことは、本書が鳥取県地方史のみならず日本近現代史研究を進める上に役割の一端を果しうるものとなったと自負している。
監修と編集の任の一端を負った筆者の私見をのべれば、章三翁の占める歴史上の位置は、鳥取県地方史の近代から現代へという流れの中における一つの大きな湖のような存在であったと思う。近代の諸動向の流れがその最終点としての湖に集まり、そしてその湖から現代の諸潮流が再び分岐し流れはじめている。県下憲政会系と政友会系の両政治勢力の統合、農村部地主層と都市部商工業者の糾合による企業活動の展開、これらの動きの中で、章三翁の果たした近代史上の湖のような役割が明らかになると思う。湖から分岐した現代史の流れについては、戦後史でこれを詳察せねばならないが、同時代史としての諸種の制約を考慮して、本書では概要を加えるにとどめた。
もう一つの引用は、浜崎洋三も「斯学会の最先端にある」と紹介している松尾尊兊(京都大学名誉教授)が本書に寄せている「一期一会」と題した一文の最終部分である。
 当時(引用者注:1965(昭和40)年9月27日)普通選挙運動の研究に打ち込んでいた私は、昭和初年に民政党が政友会と交代で政権を担当できるほどの大政党に成長しえたのは、憲政会時代に普選運動団体を傘下におさめ、中間層を基盤に組み入れることに成功したことによるとの想定に達していた。この想定は鳥取においてもっともよく実証される。そこで改めて当事者にその間の事情をうかがおうというのが、訪問の一つの意図であった。 
章三翁(引用者注:この時翁は82歳)の談話は、大体自説を裏付けるもので嬉しかったが、とくに私を驚かせたのは、「いつの時代でも歴史を動かすのは青年だ」という認識であった。私はその頃も活発だった学生運動の話を持ち出し、現在でもそう思われるかと念を押すと、然り、という返事で、ますますおそれ入り、なるほど昶氏の父親で由谷義治氏の義兄だという感を深くした。
実は私には翁訪問のいま一つの目的があった。それは、翁という人物をこの眼で見たいということである。鳥取の政・財界を牛耳ってきた大ボス、保守反動の権化と目されているのに、涌島義博氏のような歴然たる共産党系の人物をもしたがえている怪物、それを一目みたい、これが本心であった。
一言でいえば、徳川家康とはおそらくこのような人物ではなかったか。小柄で、八十歳をこえても頭脳におとろえを見せず、威あって猛からず、構えずしておのずから人の心をひきつける力をもつ。米原家には失礼だが、率直にいって鳥取には、家系や財産の点で米原家をしのぐ名家は十指に余ろう。その功罪はともかく、翁が鳥取の政・財界に卓絶した地位を占めえたのは、一にその人間としての器量によるものである。そのときの私の確信はいまも変わらない。そして今日にいたるまで、仕事の関係上元首相をふくむ何人かのいわゆる大物と対座する機会をもったが、翁に匹敵する魅力の持主に、一人として出会ったことはない。(pp.316―317)
――――――――――――――――――――――――――
今のテーマとははずれるが、この機会に浜崎洋三さんの紹介をしておきたい。彼は1936年生まれで小・中・高を通じてわたしの2年後輩であるが、むろん、それは年齢だけのことであって、はるかに立派な人物である。
京都大学文学部史学科を卒業後、一年間の非常勤講師のあと、1960年母校鳥取西高の教諭となる。1969年、鳥取西高在籍のまま鳥取県総務部広報文書課県史編纂室主任に併任。1982年鳥西高に復帰するが、1990年、県立公文書館勤務、次長を経て翌年館長、1993年県立図書館館長となる。1996年9月、肝臓癌で死去。彼の学識、人生観、読書力をもって、生徒たちはもちろんのこと、卒業生、周辺の若者たちに大きな影響を与え続けた。
死後発刊された著作に、『伝えたいこと 濱崎洋三著作集』(1998年発行)がある。
お問い合わせ先:定有堂書店 鳥取市元町121  TEL&FAX:0857-27-6035

     


2007年10月9日火曜日

米原万里の父 (14)

米原昶について、戦後の活動を「米原昶 年譜」により概観する。
敗戦の年11月、16年ぶりに帰郷、12月、日本共産党に入党した。翌年の12月、北田美智子と結婚。
1947(昭和22)年、38歳。4月、第23回衆議院議員選挙に立候補するため公示三日前に急遽帰郷、落選。10月、党の中国地方委員、鳥取県委員長となり、鳥取、島根両県の党活動を指導した。
1949(昭和24)年1月、第24回衆院選に鳥取全県区から再度立候補し、43,654票でトップ当選した。

新制中学の二年生だったごうなは、当時、真空管を使ったラジオ製作に夢中になっていた。そのラジオで捕らえたモスクワ放送の日本語放送が「今回の選挙結果は、鳥取県の人民の勝利である」と伝えていたことを覚えている。一方、大人たちの間で、米原昶の当選は父親、章三翁の陰の力が大きい、と言われていたことも記憶に残っている。

1950(昭和25)年4月に長女万里誕生。いわゆる「レッドパージ」の年である。翌年1月、二女ユリ誕生。
その後の昶の政治的な活動などについては、ここでは書かない。彼の人柄を物語るエピソードや手紙などを紹介するにとどめよう。
 ……父の実家は、鳥取のお金持ちなんです。戦後になって父が地下活動から表へ出てきたとき、祖父がとっても喜んでね。それで板橋に広大な土地と家を買ってくれたそうなんです。ところが父は、それを共産党にカンパしちゃって、次にまた田園調布に家を買ってもらったんだけど、それもカンパ(笑)。けっきょく、大岡山の党員の家の八畳間に間借りしてたんですよ。(『終生ヒトのオスは飼わず』p.188)

つぎの2通の手紙は結婚した年(1946年12月)の3月と4月に北田美智子に宛てたものである。
 共産主義とは何か、きつとあまりくわしくは、御存知ないと思いますけれど、今まで私のお話ししてきたことは、みなそれから出てゐると申してよいと思います。詳しいことは、今後お聞きになれば、今までよりも、もつとあからさまにお話しようと考へてゐます。でも、私にとつては、共産主義とは、人類文化の總計なので、もちろん私が現在、知り盡くすしてゐるものではなく、たえずもとめ、きはめてゆくべきものです。それは一つの科学ですから、私の説明できるのは、單にその方向と考へ方にすぎないともいへるでせう。しかし、人間にとつては、それだけが可能であり、また必要でもあるので、これはぜひ、この次の機会に説明したいと思ひます。(『回想の米原昶』p.81)

なるほど、そだってきた環境や世代には,大分相違があり、考へてきたことも表向きは異つてゐるようです。けれど、わたしの思索は平凡です。わたしは誰にもわかるごくあたりまへのことしか考へられない人間です。(同 p.82)

米原万里は「おやじのせなか」(聞き手・大久保孝子/朝日新聞 2004/02/08)で最後にこう語っている。
 お説教をまったくしない人でしたが、妹が学生運動のリーダーに選ばれそうになったとき、「運動というのは考え抜いて心の底から確信を持ったときにするもので、周囲の空気に乗せられてやってはダメだ」とめずらしく真剣に言いました。父が亡くなってからも正念場に立たされるたびに思い出す言葉です。
米原昶は、1982(昭和57)年5月31日、死去した。73歳だった。
米原家の告別式は6月3日、東京の自宅で、同月12日青山葬儀所で日本共産党葬、7月10日には、鳥取市福祉文化会館で日本共産党鳥取県委員会主催「米原昶氏追悼集会」が行われた。
年譜の最後の記述によれば、「遺骨は、両親の眠る生地・鳥取県智頭町の浄土真宗・光専寺に納められた。」
   


2007年9月25日火曜日

米原万里の父 (13)

もう一度、敗戦前の話に戻る。
1929(昭和4)年、米原昶がフランス留学を、という父親の最後の説得を聞き入れず、その志を貫いて敗戦後の「政治犯釈放の日」までの16年間をどのように生きてきたか―その概略を先回ご紹介した。その間、父親の米原章三はどうしていたのか、若干述べておきたい。引用を含め、資料はすべて『米原章三傳』(編集・発行 同刊行会)による。なお、本書についてはこの「米原万里の父」の最終回に詳しくご紹介する。

米原章三は1932(昭和7)年9月(すなわち昶が北海道での地下生活から、再び東京へ戻った年の3か月前)貴族院議員となり、1946(昭和21)年4月、貴族院議員を辞している。つまり、この間絶えず上京していたということになる。
六男の米原弘(1919年・大正8年生まれ。東京大学名誉教授)が『傳』に「東京の宿」という一文を寄稿している(pp.324―328)。以下は、必要な箇所だけを抜き出して結びつけるといった、著者に対してたいへん失礼な引用をしているが、お許しいただきたい。「…」は省略〔 〕内は引用者の付加「/」は改行を表している。
 父が東京に長く滞在するようになったのは貴族院議員に選出されてからだろうが、私はその頃、鳥取二中の生徒だったし、…山口高等学校に進んだので、東京での父の宿が何処であったかはよく知らない。/…父の常宿を初めて訪ねたのは昭和十五年三月初めのことで、神田駿河台の日昇館である。…〔ここ〕を利用させてもらって、東京大学の受験をした。その当時、鳥取から上京される多くの方が、この日昇館を利用しておられたようである。
私が東京大学農学部の学生になった…頃から、父は港区琴平町の村上旅館に常宿を移した。多分、国会に近いという事がその理由だったろう。…私は本郷の下宿で、父からの呼び出しを楽しみにしたものだ。父からの呼び出しは大抵食事を一緒にしようというもので、当時二十才前後の食い盛りだった私にとって、父のおごりは干天の慈雨だった。食事は外の飲食店やホテルに出掛けるのではなくて、近くの有名店から村上旅館に取り寄せて、父子で卓を囲むもので、随分度々御馳走になり、戦地に行っている兄弟に悪いなあと思う程だった。…特に、すき焼きを自分で味付けし、少々濃味に甘辛くしたものを「どうだ、旨いだろう。食え、食え」といって奨めたものである。
在学中に太平洋戦争が始り、私は卒業すると直ぐに陸軍技術部に入隊した。技術将校になると自宅からの通勤が認められる。丁度その頃、長兄穣が高知高等学校の教師から、文部省の課長に転勤になって東京に住んでいた。私は神奈川県登戸の第九陸軍技術研究所に勤務することになったので、兄と一緒に暮らすことにした。たまたま、兄の知人の家が麻布広尾町に空いていたので、そこを借りることになった。…今でも麻布広尾といえば東京山手の一等級住宅地である。隣は大東亜大臣の桜井兵五郎氏の邸であった(今はそこに立派な西ドイツ大使館が建っている)。そこに、かなりの庭のついた平屋建五十坪位の家を借りたのである。兄との二人住まいには、少々もったいない位であった。父が上京するとそこへ来るようになった。多分、戦争が激しくなり、食料事情も悪化して、村上旅館も、都心でゆうゆうと旅館業をやっていられなくなったからだと思う。/そこから父は議会に通った。父の上京は年に数回だったが、父の運ぶ物資は、物の無い東京住いの者にとっては大きな恵みであった。
昭和十九年空襲が始まり、中野に住んでいた代議士の叔父由谷義治は叔母を鳥取に帰し、我々と合流することになった。昭和二十年、空襲は益々激しく、東京は焼のが原となって行く。麻布は、その九割までが焼け…た。だが、私達の住んだ家は、隣が有栖川公園という地の利もあって、焼け残った。都心に近い家が焼けなかったので、便利なこともあったろう。今度は三好英之代議士(引用者注:長女世志子がその長男に嫁す)が栃木県選出の故森下国男代議士と共に同居を求めてやってこられた。終戦間際になって、一軒の家に四人の国会議員と一緒に住まうことになったのである。…
終戦後、陸軍から復員して、東京大学の研究室に復帰した。待遇は無給副手である。兄も文部省にそのままだったので広尾で一緒に暮らした。都内は焼のが原なので、父も上京するとそこへやって来た。(以下省略)
10年ほど前、いやもっと以前のことだったかもしれない。「週刊読書人」に、井上ひさしがこんなエピソードまで書かれている人物事典があると紹介していた。【地下活動をしていた米原昶と貴族院議員でもあった父親の米原章三が東京駅(頭)でばったり顔を合わせる。互いに互いを認め合いながらも、二人はそのまま無言で別れざるをえなかった。】
井上は何故この例を取り上げたのだろう、と思ったが、その後、彼が米原ユリと再婚していることを知り、合点した。
それはそれでいいのだが、肝心の事典の名称を忘れてしまっている。いろいろ調べてみて日外アソシエーツの『近代日本社会運動史人物大事典』ではあるまいか、と見当をつけた。〔本の検索 books search〕という有り難いフリーソフトで調べてみると、総索引も含めて5巻からなるこの事典を所蔵しているのは中国地方では広島、山口、岡山の県立図書館だけである。
そこで、鳥取県立図書館を通して、「上記のような記述がその事典にあったら、コピーを送って欲しい」むね、岡山県立図書館へ依頼して貰った。しかし「米原昶」の項目自体が無かったとのことであった。

「なにごとであれ、これはと思ったらメモせよ」の教訓をあらためて思い知らされているが、どなたか、ご教示いただけませんか?
      


2007年9月21日金曜日

米原万里の父 (12)

米原昶の16年間の地下生活は「年譜」を見ても、かなり具体的なことが分かる。
1930(昭和5)年、日本繊維労働組合の会員となり、翻訳のアルバイトや家庭教師をしながら、偽名を使い偽名を使い、住所を転々と変えながら労働運動を行った。
翌年の夏には、拷問で重体となった同志に付添い札幌の知人を訪れたが、引き取りを拒絶され、その同志の看病をしながら小樽の鉄工所で仕上げ工として働いた。北海道に1年半滞在した後、1932年12月帰京。以来、石川島造船所の下請けで肉体労働をしたりしながら、身辺に危険が迫ると群馬、福島、また東京へと転々と移り住んだ。
1939(昭和14)年、30歳で、東京・中野区の育英社で中学生を対象にした数学の通信教育の指導に当たるようになって、やっと生活が落ち着いた。『回想の米原昶』に、「育英社時代 一九三九年から敗戦まで」と題した池田平吾(引用者注:出版当時、トーイツ株式会社会長)の寄稿がある。

当時の彼は地下にもぐったままだったので、名前は勿論偽名で、「弘世哲夫」と名のっていました。本名を知っていたのは義兄(引用者注:矢崎秀雄。昶の一高時代の同級生で、親友。昶はずっと矢崎とだけは連絡を保っていたという。)夫婦と私との三人だけだったとおもいます。
育英社での彼の仕事は数学のテキスト、問題、模範解答の作成及び添削員(主としてアルバイトの大学生)の指導即ち数学の先生の仕事でした。彼の純粋素朴誠実な人柄は集まってくる添削員の大学生達の信頼を得、仕事を離れて話しにやってくる者が多かったことも思い出のひとつです。……
育英社も一九四二年頃までは会員も少なく、自炊して食っていくのがやっとでしたが、一九四三年頃から会員もふえて生活も楽になって行きました。当時の育英社は、会員向けの機関誌にも戦争については一切ふれず、社の内部には戦争の匂いは少しもありませんでした。結局育英社は、反戦、反ファッショの少数の仲間の小さな隠れ家で、皆がより集まって力づけ合いながら、嵐の吹き終わるのを待っていたと言えるでしょう。ただしかし彼はこんな時節に何らの政治活動、反戦運動もせずに暮らしているのが非常に辛いらしく、或る時彼から「僕は今むしろ刑務所に入っていたい。」と言われたことがあります。随分悩んでいたに違いありません。
一九四四年に彼に徴用令が来たことがあります。勿論偽名のまま本籍もでたらめで住民登録をしていたのですが、徴用になると戸籍謄本を提出しなければならなくなるので、困ったことになったと思いましたが、幸い中学生の数学の教師だということが重視されて、徴用解除になりホッとしたことも、思い出の一つです。
一九四五年になって空襲がはじまってくると、育英社も継続できなくなって休業し、私の妹も又当時彼を同居させて貰っていた私の友人畑山昇麓君も郷里に疎開したので、我々は再び同居して自炊生活をはじめました。空襲がはげしくなってきましたが、彼は空襲の翌日には必ず自転車で、焼死体のゴロゴロいている焼け跡を見て廻り、空襲の惨禍を調べて歩いていました。
八月十五日の敗戦を告げるラジオは、彼と二人で京王線の北野の駅で聞きました。感無量でした。
十月十日の政治犯釈放の日には、皆集まって彼のために乾杯しました。これからは晴れて政治活動に没頭できるであろう彼の前途を祝し、心から喜び合いました。
そして彼は代々木に党の本部ができるとすぐ本部に出頭し、戦線に復帰しました。又彼は一九二九年地下にもぐって以来十六年間音信不通だった郷里の家に、連絡の手紙を出しました。父君が我々の住む世田谷の家にあらわれたのは、十月半ば過ぎのことだったと思います。(pp.74―76)
この育英社を始めた年、後に昶と結婚した北田美智子が女子学生のアルバイトとしてやってきた。敗戦の年の12月、昶は代々木の日本共産党本部で入党、赤旗編集局に所属し、記者として働き始めた。翌1946年12月二人は結婚した。昶は37歳だった。
妻の美智子も『回想の米原昶』に寄稿しているがそのなかに次のような文章がある。
 戦後、池田さんの弟さんから聞いた話では、米軍の空襲で、育英社の近くでもたくさんの焼死者が出たとき、米原は、焦土のうえにつっぷして、「自分たちの力が足りなかった」と号泣したという。その気持ちが分かるような気がする。(一部ゴチックにしたのは、引用者。p.80)
ごうなは、この話を万里が「文春」かなんかの雑誌に書いていたのを読んだ記憶があるがさだかではない。ただ、米原昶という人物をもっともよくあらわしている感動せずにはいられない話だと思っている。

 




2007年9月18日火曜日

米原万里の父 (11)

米原昶の兄、穣の『回想の記』に「愛弟との別れ」と題する一文がある。
 兄弟の中で一番気分の合ったのは次弟の昶であった。……一高二年の夏休みに「兄貴、わしはとうとう決心したんだ。誰にもまだ言ってもらっては困るんだが、すべてをなげうって共産主義運動に専念する決心をした!」と言う驚くべき告白であった。私は彼との約束を守って一高を放校になるまで父母にさえ言わなかった。(p.150)
「米原昶年譜」によると、ひとつ年上の穣はすでに六高在学中であったが、前年の夏休みに二人が帰郷したとき、英文の『共産党宣言』を昶にみせている。
『由谷義治自伝 上巻』には、次のような文章がある。
 森元(引用者注:麻布の森元町)時代には大事な思い出がある。アレは昭和三、四年頃になるだろうか、米原昶君が当時一高の寮生で時々遊びに来た。昶君はその頃から既に共産党に入党しておるかの疑いもあり、国許の御両親も心を痛めていた時代である。この昶君の思想関係につき、わたしがオセッカイを出したのである。昶君を転向せしめる目的の下に、森元の借家の二階でその昶君を対手に議論した。議論の内容は例によって記憶せぬが、とも角共産主義は現実不可能だという理屈を主張した訳である。往年の社会主義青年たるわたしが、その社会主義を裏切る議論をやるのだから、何だか割り切れぬものがあつた訳ではあるが、しかし議論をやつている時は一生懸命である。ところが当の昶君は泰然たるものである、今頃そんな議論が通るものかという態度である。わたしに一理屈陳述さして置いて、彼は冷然として言い切つた。曰く『叔父さん、そんな経済論は世界戦争の前の議論ですよ!』なつておらんという訳である。
こゝでいう『世界戦争』というのは勿論第一次世界大戦を指すのである。そんな大戦以前の古くさい理屈で、共産主義を批判するなんて、僭越極まるという量見である。この一セリフでわたしは、ダアとなつてしまつた。この対決は見事に敗けたと痛感した。若いものゝ真剣な勉強に頭を下げた次第であつた。
昶君はこの頃を最後として、モウ東京には居なかつた。そして彼の二十年(引用者注:正確には十六年)に亘る潜行忍苦の党運動が始つた訳であるが、この問答以来わたしは矢張彼に敬意を払わねばならなかつた。(pp.180-181)
もう一度「年譜」の記述を引用する。
一九二九年(昭和四年)二十歳 十月、学生運動を指導したという理由で退学処分を受けた。父、鳥取より上京、下宿先の叔父由谷義治宅で(引用者注:1928年の正月以降南寮を出て由谷の家に身を寄せたのかも知れないが、推測の域を出ない。)プロレタリア解放運動から身を引いて、フランスへ留学しないかと説得された。が、すでに日本共産党の旗の下で、人民解放運動の戦列に参加する決意を固めていた。それを知った父は一晩中泣いていた。

昶は6歳の時(1914年)中耳炎にかかった。父の章三は、京大病院和辻耳鼻咽喉科主任教授のもとにいた鳥取県出身の脇田助手を智頭町の自宅に招き手術を受けさせた。その後も、父は昶を京都へ連れて行き何日間か滞在して治療を受けさせ、完治させている。(そのときの自宅での記念写真と穣の文章が『回想の米原昶』のp.6とp.66にある。)
このことも、さきほど記した「フランス留学」の説得も、生家が裕福であったから、と言ってしまえばそれまでだが、親の深い愛情に思いをいたしたい。

以下は冒頭の『回想の記』からの引用文の続きである。
彼と別れたのは忘れもしない昭和五年七月二十一日、信州へ旅立つ私を上野の駅に送ってくれた時で、それ以来終戦の年の九月まで苦しい地下生活をつづけたわけだ。「家のこと親のことすべてまかしたぞ!」という言葉が今も尚消えうせない気持ちがするのである。(pp.150―151)

  




2007年9月17日月曜日

米原万里の父 (10)

普通選挙法(納税義務の制限を廃し、25歳以上の男子に選挙権を与える)に先立って、労働・社会運動を取り締まるための治安維持法が公布された翌年の1926(大正15・昭和1)年、17歳の米原昶は鳥取一中を卒業、第一高等学校に入学した。フランス語を第一外国語とする文科丙類(仏法)であった。
鳥取一中時代から柔道をやっていた昶は、一高入学と同時に柔道部に入った。一高生は寮生活をしていたのだが、柔道部員は「南六」と呼ばれた南寮六番室で三年間起居を共にした。寮生活を共にした渡辺博の文章(注1)を引用しながら当時の昶について述べる。
 寮内で彼につけられたあだ名は「梟」、風貌もさること乍ら、いささか夜行性もあり、したたかさを感じさせる事から、実によくつけたと思う。以後三年間の寮生活の間、彼は梟の名で親しまれ、米原と呼ぶのは教官位しか居なかった。(p.69)
私等が柔道部に入って驚いたのは、その稽古の激しさであった。当時の一高の柔道部は対校試合を放棄し、選手制度を廃止して、道場は全寮生に開放されていたのであるが、部員は毎日毎日の道場での稽古に全てを注ぐ、という事で一般寮生の道場利用者とは、はっきり区別されていた。南六での生活は、全て放課後二時間の稽古を中心に考えられていたのである。柔道部の此の様な考え方は、ボート部や野球部の様に、対校試合を目標とし、選手がその部を独占している運動部、及びこれを支持する寮生からは、とかく異端視されがちであったが、彼等が敢えて文句をいわなかったのは、柔道部員の稽古に対する真剣さに、一目置いていたからである。従って柔道部を守り育てて行くには、部員のたゆまぬ努力と自覚とが要求されていた。そんな中で米原は、特に恵まれた体力を持っていたとは思われなかったが、常に私等の中心となり牽引車的な存在として頑張っていた。
然し南六の生活も、稽古以外の時間は全く自由で、稽古に支障を来す様な事でなければ何にも拘束されることは無かった。休日の前夜などは、共に酒好きの米原と私は、共によく飲みに出たものである。(pp.70―71)
三年間の南六の生活も、二学期を終わり正月を迎えると、三年生は稽古から解放される。殆んどが寮を出て、大学に進む準備に専念する。後から考えると、米原はその頃既に党の外郭の運動に或る程度関係していたのではないかと思われる。その頃から彼は、吾々の前から所在をくらます事が多くなったのである。
これより前、吾々が三年になった頃、寮内に各運動部の対校戦廃止の声が高くなり、遂に全校的な廃止運動となった。最終的には、その賛否が生徒大会に問われる事になり、その議長に選ばれたのが米原だった。大会の結果廃止論は否決されたが、彼の議長振りは双方から評判がよかった。私は彼の思想的な転機は此の頃から始まったものと見ている。
二月が終りに近づき卒業試験が始まったが、彼は試験にも姿を見せなかった。愈々これは本物だと思った。私が大学にはいってからは完全に彼との連絡は絶えてしまった。(pp.71―72)

[注1]『回想の米原昶』より。筆者、渡辺博のその当時の肩書きは、ホテル「ホリデイ・イン・東京」社長。

1928(昭和3)年、昶は一高社会科学研究会に加入し、科学的社会主義の学習を始めた。共産党員らの大量検挙、起訴した三・一五事件後は、学内外でビラまきなどの実践活動に参加し、11月、社会科学研究会の執行委員長となった。
1929(昭和4)年、四・一六事件(党の全幹部を逮捕)以後は、日本共産党の活動を援助した。先に引用した渡辺博の文章にあったように、米原昶は卒業試験を受けていなかったのだから、留年を続けていたわけだが、この年10月、学生運動を指導したという理由で退学処分を受けた。
   






2007年9月12日水曜日

米原万里の父 (9)

『回想の米原昶』へ米原穣が寄稿した文章のなかから「鳥取一中応援歌に応募一等当選」と題する一文(pp.67―68)を引用する。
 鳥取中学には大正十年から十五年まで在学したわけだが、いわゆる勉強家とか優等生というタイプではなかった。しかし数学は性分に合ったとみえて得意でもあったし相当熱心に取組んでいた。また英語はそれ程とは思わなかったが、エスペラントに興味を持っていて校外の団体で催される講習に参加したりしていた。これも昶伝説の様に言われている一つに中学時代応援歌を作ったという話がある。これも実際その通りで、しかも応募作品の中一等当選の栄を得たものであった。あたかも甲子園球場が竣工した大正十三年、野球では相当有名だった鳥取一中(大正十二年[引用者注:先回記した通り、十一年の誤り]から鳥取中学が改称)が三年連敗し、この年はどうしても勝ち抜きたいと言われた時であった。昶の作った応援歌をその一番だけ紹介すると、
[引用者注:後でご紹介する。]
幸にこの時鳥取一中は甲子園に出場し、[引用者注:その成績は後で詳述する。]
この応援歌の調子でも察せられる通り、旧制高校の寮歌に見られる様ないわば慷慨悲憤調はその頃既に彼が憧憬してやまなかった一高の寮歌の影響によるものと考えられる。
米原穣自身も、同窓会長として祝辞を寄せている『鳥取西高等学校野球部史』によると、日本に野球が伝えられたのは1873(明治6)年、鳥取県については資料の一つとして、1889(明治22)年―大日本帝国憲法発布の年でもある―5月26日千代川原で行われた鳥取県中学生徒の運動会の模様を伝える5月29日付「鳥取新聞第二號」の記事を紹介している。
「當日の來觀者は武井知事以下高等官諸氏並に令婦人其他縣官縣會議員諸有志及び婦人會々員にて皆特別の招待者なり」という一大行事である。プログラムは「障害物飛越の技」に始まって、8番目が「フートボール」、18番目「ベースボール」次いで綱引きで終わっている。
当時のベースボールがどのようなものであったか不明だが、「三角ベースのような素朴な草野球であった」と、明治35年鳥取中学卒業生の一人が回想している。1884(明治17)年生まれのごうなの父も「こどもの頃聖(ひじり)神社の境内で三角ベースをやって遊んだ」と話していた。

先へ急ごう。鳥西高の前身、鳥取中学に野球部ができたのは、明治29年とも言われているが、詳細は不明である。部の創設後、最初の対外試合は明治31年の対鳥取師範戦で、これに大勝したという記録があるそうだ。
1915(大正4)年8月、第1回全国中等学校野球大会が豊中球場で行われた。各府県聯合大会を勝ち抜いた10校が参加した。今日の全国高等学校野球選手権大会まで続く長い歴史の最初のページを飾る写真は、始球式のそれである。
羽織袴姿の村山朝日新聞社長が投球した直後を写したもので、その左に二人おいて直立不動の姿勢で立っているのが鳥取中学の鹿田一郎投手である。ユニホームの胸には、TOTTORI という文字がはっきりと見える。
この第一試合で、山陰地方代表の鳥取中学は山陽地方代表の広島中学を14対7で破り、初戦を飾った。次の大阪奈良和歌山地方代表の和歌山中に7対1で敗れた。  

1924(大正13)年7月31日、東洋一の大球場、甲子園球場が完成した。
大正10年から3年間、島根勢に敗れ続けた鳥取一中は、第10回の記念すべき大会、完成したばかりの甲子園球場での初の大会にぜひとも出場しなければ、と燃えていた。そして、松江で行われた山陰大会で倉吉中学を11対0、松江中学を4対2、島根商業を15対4で降して甲子園出場を決めた。

この年、第九代応援団長に選ばれたのは、小川清であった。小川は戦後新制の鳥取東中、鳥取西中の校長、鳥取市教育委員会教育長などを歴任した人物で『野球部史』にも寄稿しているが、『一河の流れのなかで―わたしの大正・昭和教育史―』という自著もある。
応援団長の小川は、副団長として四人に協力を求めた。その中の一人が米原穣であった。
さて、その穣が「一等になった」と書いていた昶の作った応援歌を含め、全ての当選歌を『一河のながれ』の中で紹介している。
 この時に作った応援歌には、現在まで歌いつがれているものもあるので、ここに紹介しておこう。なお選者をお願いした田中瑞穂先生のご意向で、一等当選歌は該当なしということになった。
◇二等当選歌(四年米原昶君)
(一)覇権流れて西に飛び      (二) 血潮に染めし紅の
沈滞の時幾歳ぞ            応援の旗手に持ちて
嗚呼堅忍の太刀佩きて        振れ一千の健児等よ
強敵倒す時は来ぬ          臥竜の飛躍今なるぞ
ああ肉は鳴り血は躍る        (同前二句繰り返し)
ああ肉は鳴り血は躍る
(三)熱と力の高潮に         (四)さらば歌わん諸共に
行手さえぎる猛者なく         さらば舞わなん諸共に
月桂冠は赫々と            我等の挙ぐる凱歌は
我等が頭上に輝きぬ          天にどよめき地にふるう
(同前)               (同前) 

あと、三等当選歌が一、佳作当選歌が二であった。
この年の成績は、どうであったか。京城中を10対0、同志社中を15対2、宇都宮中を5対4で破り、全国大会三度目の準決勝進出を果たしたが、松本商に3対9で敗れた。小川は『野球部史』へ寄せた「歌いつがれる勝利の歌」と題した一文の中にこう書いている。
 さて私は近頃になって、鳥取西高の応援歌の中に、私の時代に新しく作った歌が二三残っており、中でも勝利のたびに熱唱した、「熱と力の高潮に/行手さえぎる猛者なく」の歌は、六十年を経た現在も「西高祝勝の歌」として、歌いつがれていることを知って感動した。(p.103)

―――――――――――――――――――――――――――――
『鳥取西高等学校野球部史』発行 鳥取西高等学校野球部史編纂委員会
1987(昭和62)年7月20日(非売品)
小川清『一河の流れのなかで―わたしの大正・昭和教育史―』私家版
1984(昭和59)年3月24日



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2007年9月10日月曜日

米原万里の父 (8)

1921(大正10)年、12歳の米原昶は、鳥取中学(現鳥取西高)に入学した。この翌年6月以降1948(昭和23)年3月末まで、鳥取県立鳥取第一中学校となる。
以下の記述の中で「 」内の文章は【米原昶 年譜】からの引用である。

「中学入学当座は鳥取市内に住んでいた祖母にあずけられ、漢文やソロバンの手ほどきを受けた。まちがえると長きせるでたたかれるなどきびしくしつけられた。」
祖母が鳥取市内のどこに住んでいたのか、わからない。
由谷義治の「自伝 上巻」から引用する。
 この鹿野街道の住居は、すなわち由谷呉服店という商売の場でもあつた。だが呉服商売の方は、義兄(姉聟)にゆずつて、わたしは運送業に専心したので、なにもそうぞうしい『内市』(当時もつとも殷盛をきわめた市内の魚菜市場)に住むこともないと考え、大正六年に西町惣門内に新しい家をたてて、そこへ移りすんだ。
建築費は、たしか八千円くらいだつたとおもうが、当時としては宏壮とはいえないまでも、マア相当な住居だった。木の香のあたらしい新築家屋に、若い夫婦がひとり子を擁してくらす気持も、まんざらではなかつた。(p.53)

「久松山下巍巍(ぎぎ)として甍聳ゆるわが校舎」と校歌にうたわれた鳥取一中の校舎は、鳥取城三の丸跡にあった(現在の鳥取西高も同じ)。引用文の新築家屋の位置を引用者は確認していないが、惣門内というのは薬研堀(やげんぼり・現在の市内では片原通り)から城側の地域をいうのだから、鳥取一中へは、川端四丁目の由谷呉服店からの距離の半分以下、徒歩10分以内の距離であったと思われる。
由谷義治は1920(大正9)年1月長男(9歳)を失っているし、前年より政治活動に相当な時間をとられていたであろう。そういう状態の家に嫁の母親がやってきてなにかと面倒を見る、ということは十分にありえよう。そして、一つ違いの兄弟が相次いで中学生になったのだから、穣、昶も由谷家から通学したと考えていいのではあるまいか。

中学校に入学した昶は「貧しいために成績が優秀でも進学できず農業をするか神戸、大阪へでっち奉公せざるを得ない同級生をみて貧富の矛盾を感じた」という。また当時「進歩的な文化運動の一翼をになっていたエスペラント語の講習を受けた。最年少の受講生」で「講師はのちに労農党から鳥取県で立候補した村上吉蔵」であった。
翌1923(大正12)年4月には「鳥取市で秋田雨雀、有島武郎の文芸講演をきいた。雨雀はエスペラント語の熱心な推進者だった。有島はホイットマンやゴーリキーについて語った。」
このとき、砂丘を訪れた有島が詠んだ歌「浜坂の遠き砂丘の中にして淋しき我をみいでけるかも」の碑が砂丘に建っている。この年6月、有島は鳥取へも同行していた波多野秋子とともにみずから死を選んだ。
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【付記】先回、ご紹介した『郷土出身文学者シリーズ③ 田中寒樓』編集・発行 鳥取県立図書館(2007年3月31日発行)について、昨日、同図書館へ行った際に確認したところ在庫はまだあるということであった。84ページの冊子であるが、写真も多く、年譜、文献案内なども充実している。1部 ¥315 で安い!
TEL:0857-26-8155
ホームページ:http://www.library.pref.tottori.jp/

   






2007年9月6日木曜日

米原万里の父 (7)

米原万里の父、昶(いたる)は、1909(明治42)年2月7日、米原家の二男として生まれた。
すでにご紹介した『回想の米原昶』の「年譜」によると「小学生の頃、母の女学校時代の教科書を使ってひとり数学の勉強をたのしみ、中学に入る前に代数、幾何の問題を解いた。数学者か物理学者になることが夢だった」という。
長男の米原穣も、この本に昶のエピソードをいくつか寄稿している。「小学校長から褒美にもらった銀時計」と題するエピソードを引用する。
 小学校時分から相撲は好きであったし、実際にもかなり強かった。中学に入ってから自然柔道に熱心になった。
小学校の時校長にほめられて銀時計を頂いたという話がその頃伝説のように伝えられて、私にも後年幼い弟妹達から度々質問があった。これは実際にあったことで私はその時計を見たこともあるし、本人からそのいきさつを聞いたこともある。私は中学に進んでいたから多分彼が小学六年生の時であったろう。その頃小学校では毎朝授業に先立って朝礼の行事が行われ校長の短い講話があった。ある時校長が話の末に「今日のこの事柄をどう考えたらよいと思うか?」と児童一同にたずねられた時、昶は早速「それこそ校長がよく申される小の虫を殺して大の虫を生かすことです。」と返答したそうで、それを聞くと校長は「その通りだ、よく答えた。」と言って身につけていた懐中時計を褒美として渡され、あっとばかりに全児童が驚いたということらしい。この校長は田中國三郎という方で寒楼と号し、若い時から正岡子規に認められ、尾崎放哉と共に因幡出身の俳人として特にこの地方の人々にはその風変わりな一生を今なお嘆賞されている。(pp.66―67)

【補注】田中寒樓は尾崎放哉ほどには知られていないかもしれない。このブログのテーマから離れるが、鳥取県立図書館が『郷土文学者シリーズ③ 田中寒樓』を本年5月発行したことと、寒楼と妙好人因幡の源左(いなばのげんざ)と民芸運動の創始者・柳宗悦(やなぎむねよし)の3人について述べている「とっとり豆知識」というサイトのアドレスをご紹介しておこう。
http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/topics/468_2.htm
 




2007年9月5日水曜日

米原万里の父 (6)

鳥取で家業を継いだ由谷義治の生涯を大急ぎで述べることにしよう。

病(脚気)を得て帰郷した義治は、その年の暮れ、大学を中退して、父が始めていた運送業(由谷運送部)に従事した。
明治が大正となった1912年の5月、父喜八郎が死去した。その前年米原千枝と結婚し、米原章三の義弟となった義治は、代々の家業の呉服店を長姉夫妻に委ね、自らは運送業に専念した。
しかし、時代は義治に家業専一を許さなかった。民間の電気事業をその公共性故に市営にしようという運動が起こり、1918(大正7)年、商工業の青年達を中心に「愛市団」が結成された。翌年5月、義治は彼らに推されて鳥取市会議員に当選、さらに9月県会議員に当選した。
1920年、5月の衆院選に愛市団は義治を立てて金権候補といわれた相手と戦い、善戦した。6月彼らは立憲青年会を組織し、会長に義治を選んだ。彼らの目標は普通選挙の実施、市政刷新、千代川(せんだいがわ)改修だった。
千代川は鳥取県東部の一級河川だが、当時毎年のように氾濫した。大正期に限っても、元年、7年、8年、12年の洪水では、流失・浸水家屋多数、死者まで出る被害があった。
1924(大正13)年、36歳の由谷義治は衆議院議員に初当選した。当選後の特別国会に「千代川改修促進に関する建議案」を提出、改修の急務なることを訴えた。彼の処女演説は議員の間でも好評を博したという。
1926(大正15)11月、総工費566万円の長期継続事業・千代川改修の起工式が行われた。1931(昭和6)年、大きく蛇行する下流の直進化、34(昭和9)年の新袋川の開削と通水によって、ようやく鳥取市民は洪水の恐怖から解放された。その後も改修工事は昭和の終わりまで続く一大事業へと発展した。

彼自身は、その千代川改修の起工式があった年(38歳)、破産に瀕し、財産を整理して東京に移住した。
1928(昭和3)年、議員立候補を断念するが、1930(昭和5)年衆議院議員に2度目の当選、以後1942(昭和17)年まで計6回の当選を果たした。
1946(昭和21)年2月、公職を追放され、翌年2月鳥取電機社長に就任、晩年を郷里鳥取で送った。(由谷運送部は昭和初期に同業者数社が合同して鳥取合同運送株式会社となり、太平洋戦争中に「運送国策」によって、現在の日本通運に吸収合併された。)

1956(昭和31)年、彼は請われて無報酬を条件に鳥取県教育委員に就任した。
この年、愛媛県教育委員会は教育効果の向上と教員の人事管理の適切公正化を理由に、教員に対する勤務評定(勤評)の実施を決めた。翌年、文部省はこれの全国実施を決定し、日本教職員組合(日教組)は激しい反対闘争を展開した。この対立はそのまま各地の教育委員会と教祖との対決となり、鳥取県でも同様であった。5年間の闘争で刑事罰、行政処分を受けた日教組の組合員は、全国で免職70名を含む62,000名にも達した。
1958(昭和33)年5月14日、鳥取県教育委員会は勤評実施の決定を行おうとしていた。勤評は政治が教育に介入し、その中立を犯すものだと考えた彼は、少数意見で否決されることを承知のうえで、採決直前に反対討論に立った。
その討論は序論にはじまり、10項目にわたって勤評の問題点を指摘、批判、結語として自分の論は少数意見と否定されるであろうが「否定されたことに対して、無限の光栄を自負する」と述べた。
この反対討論の全文は「自伝 下巻」pp.370―390 に収録されている。
この日から半年後の10月8日、由谷義治は日赤鳥取病院で亡くなった。七十歳だった。
3日後、鳥取市行徳の常忍寺で告別式が行われた。参列者約500人、遺言に従い献花も弔辞もない式典だったが、導師として参加した東京本涌院日泉師が歎徳文を読み上げた。
そのほぼ全文が「自伝 上巻」の最初に収録されている。由谷の生涯、業績、人となりを伝えた簡潔かつ格調の高い文章である。

1967(昭和42)年9月、鳥取市議会は由谷義治に名誉市民章第3号を議決した。
【参考書目】
竹本節・編『由谷義治自傳』由谷義治自伝刊行会 上巻 1959(昭和34)年9月
下巻       〃    11月
『鳥取県百傑伝』山陰評論社  1970(昭和45)年12月
『鳥取県 郷土が誇る人物誌』鳥取県教育委員会編集・発行 1990(平成2)年3月 
 



2007年9月1日土曜日

米原万里の父 (5)

由谷義治は、1907(明治40)年鳥取中学を卒業した。友人たちが次々に上京してゆくのを見て彼も上京を望んだが、父は「商人の子にこれ以上の学問は不用」と言ってなかなか承知しなかった。彼は四男として生まれたのだが、3人の兄はみな夭折したのである。それでも、やっと許しが出て、早稲田大学商学部に入学した。親孝行の気分も手伝って商学部を選んだ、と「自伝」のなかで述べている。
その「自伝」に戻ろう。
 ……例の平民社だが、毎水曜日の晩には、社会主義の研究会があった。神田三崎町に片山潜氏の事務所があり、二階建の小さい木造洋館であつた。その二階六畳二間ぐらいの部屋が会場であつた。五郎兵衛町の下宿から、これに出席するのが、わたしのなによりの希望でもあり、期待でもあつた。研究会には、片山潜、幸徳秋水堺利彦、木下尚江、安部磯雄、白柳秀湖その他の人々が出席した。わたしは無名の一書生だから、片隅に坐り、たゞ黙つて諸氏の名論卓説を拝聴するばかりだつた。研究会とはいうものの、どちらかといえば漫談会、放談会にちかかつた。
いわく、「最近ドイツからとどいた新聞には、これこれ、しかじかのことが書いてある」
いわく、「マルクスの大著に資本論というのがある。たれかこれを翻訳するものはあるまいか」など、など。(p.27)

しかし、彼の東京での大学生活は長くは続かなかった。この年の秋、病を得て帰郷し、そのまま退学して家業を継ぐこととなった。
3年後の1910年、いわゆる「大逆事件」という社会主義者弾圧事件が起こり、幸徳秋水ら24名を死刑(内12名は無期に減刑)とした。鳥取にいた由谷もブラックリストに載っていて、県の警察部長のもとへ出頭させられ、所有していた社会主義関係のすべての書籍や新聞雑誌を没収されたという。
由谷は、科学的社会主義を説く堺利彦らより、「むしろ感情的直接行動論を唱える幸徳秋水の影響を、より多く受けたものといつてよい」と述べている(p.31)。
青年時代に愛読したという幸徳秋水の『社会主義神髄』について述べている文章を引用して、若き由谷義治のご紹介を終わりとしたい。
 この本のなかで、かれは世の中の経済発展の法則をのべているが、たとえば、ローマ時代の奴隷制度をとりあげて、ローマは奴隷の犠牲において繁栄したが、やがてその奴隷制度のゆえに崩壊したと説明し、「花を催すの雨は、是れ花を散ずるの雨たらざるをえざりき」と書いている。
「花を催すの雨」と「花を散ずるの雨」――おそらくは、中国のふるい漢詩の一節を引用したものかとおもうが、このような名句が当時の少年由谷義治を、どんなに感銘させたことか、今なお記憶に明らかなものがある。要するに幸徳の文章は、少年期から青年期にかけてのわたしに、漢籍の教養を身につけさせてくれたのであつた。爾来、春風秋雨五十余年、わたしは地下の彼に対して何時までも感謝するものである。(p.33)






2007年8月30日木曜日

米原万里の父 (4)

学生時代の米原昶にとって親しい存在は兄の穣のほかにもう一人いた。それは由谷義治(ゆたに・よしはる)である。父、章三の義弟で、穣、昶にとっては叔父にあたる。米原章三は1883(明治16)年11月、由谷義治は1888(明治21)年3月の生まれである。
『回想の米原昶』の年譜(鶴岡征雄・編)は由谷について「橋浦泰雄などとともに鳥取県における大正デモクラシーの草わけ的存在だった。この叔父に可愛いがられた。専制主義への反撥は叔父の影響によるものかもしれない。」と記している。

由谷義治は前述の年、鳥取市川端4丁目、由谷呉服店の長男に生まれた。生家は現在も同じ場所にある。1902(明治35)年、鳥取中学(現在の鳥取西高)に入学。翌年、幸徳秋水、堺利彦らが平民社を設立、「平民新聞」を創刊した。由谷は『自伝』(注1)にこう書いている。
 わたしは明治三十五年に入学し、仝四十年に卒業したのだが、明治三十七,八年には、あの日露戦争があつて、国をあげて、好戦的な国民感情がみなぎつていた。そのころ因伯時報(いまの日本海新聞の前身)の書評欄に、大要つぎのような意味の平民新聞批評がのつた。
「ロシア討つべしという怒濤のような風潮のなかで、ひとり平民新聞のみは、平和を呼号し、非戦論をとなえている。
吾人は、平民新聞が力説するところの思想に、いささかも組するものでない。しかしながら、何ものをもおそれず、その所信をつらぬき、堂々の非戦論を展開する、その不屈の論旨は、まさに一読驚嘆に値する。」
文章の一字一句は、勿論いまはおぼえてはいないが、以上のような要旨が、明治調の文章で、書かれてあつたものだ。(pp.23―24)
この一部5銭の週刊新聞を読みたくなった由谷少年は、店の売上金を少しずつくすねて購読した。「書いてあることの大部分は、チンプンカンプンで、よくわかつたとはいえない」が「その論調の新鮮さや、その文章の悲壮さは、いたく少年のこころを刺激」した。さらに続けてこう述べている。
 この平民新聞に、日本で始めて、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」が訳載されたことをおぼえている。ブルジョアジーという語は、「紳士閥」と訳されていたし、プロレタリアートの訳語は、たしか「平民」だつたとおもう。自慢してよいかどうかわからないが、鳥取県で共産党宣言をはじめて読んだのは、おそらくはわたしだつたのかもしれない。
その後平民新聞は、当局の圧迫で、廃刊になつたが、廃刊号は、前面あかい活字ですられていたので、いまでもつよく印象にのこつている。廃刊のことばとして「人黙しなば、石叫ぶべし」という名文句があつた。刀折れ、矢つきて人が沈黙すると、心なき石が人にかわつて真実をさけぶだろうという、悲痛そのもののことばであつた。(p.25)
ここで私事をふくめて書いておくと、5月4日のブログ〈映画「わかれ雲」6〉の中で述べた、ごうなの胸のレントゲン写真を大阪の医大の先生に送って下さった同級生H君の父上は、由谷義治の従弟であり、この当時、鳥取中学の二級下で、由谷家に下宿していたのである。そして、Hさんの同級生に、前掲の米原昶年譜からの引用文中の橋浦泰雄の弟、時雄らもいて、「かれらも段々に平民新聞の熱心な読者になつ」ていったのである。(p.26)
由谷が鳥取中学時代に「因伯時報」に投書した一文が『自伝』の中(p.35)に採録されている。
「あゝ社会主義! 天来の福音か、地妖の魔語か、それを以て直ちに国賊なりと罵り排斥する愛国者諸君等は、社会主義の神髄を知って、しかく罵り排斥するものか? われは怪しむ、君らは食わずぎらいの徒のみと! 一片の卑見を捨てゝ、寛大的度胸をもつて社会主義の神髄を会得せよ。さらば君らは直ちにかかつてわが社会主義に来らん。これ百鬼夜行的大飢饉道に転々煩悶し、苦悩せる人の子をパラダイスに導く天来の福音なればなり。あゝ満天下の志士諸君、乞う来たれ、来たってわが社会主義の神髄に到達せよ。さらば諸君、すみやかにそれを謳歌し賛美すべけん。」
ペンネームは「羊我生」を使った。「義治」の義の字を上下に二分したものだ。
また、ここで私事をふくめて書いておくと、1894年創刊の「因伯時報」とともに後の「日本海新聞」に発展した「山陰隔日新報」を1883年に創刊したのは、ごうなの大伯父である。
(注1)竹本 節・編『由谷義治自伝 上巻』1959年9月1日発行
発行所:由谷義治自伝刊行会
  



2007年8月29日水曜日

米原万里の父 (3)

暑かった。立秋どころか処暑を過ぎても連日30℃を越す猛暑が続いた。
わが家の近くではここ2、3年、敗戦の日になると聞かれたつくつく法師が一向に鳴かなかった。一昨日、昨日と夜から朝にかけて、激しい雨が降った。気温もどうやら30℃を越えることはないらしい。
正午を過ぎた頃、初めて、つくつく法師が1回だけ鳴いた! 昨夜の月食を犠牲にした甲斐があったというものだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
このブログの〈米原万里の父〉の(1)と(2)でご紹介した『回想の米原昶』の中に万里が「お父さん大好き」と題して次の小見出しのついた一文を寄せている。
○太っててキョーサントーなんだから
○妹が電車の中で♪♪民衆の旗 赤旗は……
○創作民話、手品、トランプ、チェス
文末に付された肩書きには(長女、ロシア語教師)とある。小見出しでお分かりのように、その内容は『終生ヒトのオスは飼わず』に収録されている「地下に潜っていた父」(pp.183-185)とほぼ同じだから、引用しない。

米原昶(いたる)は、1909(明治42)年2月7日、鳥取県八頭郡智頭町で生まれた。父章三、母八重の子ども―男8人、女2人のなかの次男であった。
父の米原章三翁は、鳥取県において、巨大な存在であった。いずれ翁について述べることになるかもしれないが、今は、上記万里の本、第二部のなかに「夢を描いて駆け抜けた祖父と父―わが家の百年―」という一文があり(pp.176-182)、二人の写真も掲載されていることを紹介するにとどめる。

長男の穣についは、紹介しようと思い、念のため、ウェブで検索もしてみた。驚いたことに、有田芳生さんのブログ「酔醒漫録」がヒットした。
 孝子さんからは久夫さんの遺品をいただいた。旧制高知高校の教授だった米原穣さんのポートレイトだ。カメラ好きの木村さんは気に入った教授の「出張撮影」をしていた。塩尻公明さんや八波直則さんとともに、米原さんも撮影の対象だったのだ。実はこの米原さんとは縁がある。わたしの祖母が再婚した相手が安東太郎で、米原とは親戚だったのだ。米原家は鳥取の財閥で、祖父の親しかったのがのちに共産党の衆議院議員となる米原昶さんだった。作家の米原万里さんの父である。ついでにいえば、万里さんの妹のユリさんは井上ひさしさんの奥様である。その米原昶さんの兄が穣さんで、昭和11年に高知高校に赴任、ドイツ語の教師を昭和18年まで務めた。のちに文部省から経済界に進み、鳥取の「日の丸自動車」の会長となる。木村久夫さんと淡いつながりのあったことに因縁を感じてしまった。嫌いな教授の授業には出ることもしなかった木村さんにとって、「出張撮影」する相手は特別な存在だったようだ。
 http://www.web-arita.com/sui064b.html

このブログの日付は2006(と思われる)年4月23日である。引用文冒頭の「孝子さん」は、木村久夫が、兄の自分が戦争犯罪者の汚名のもとに刑死することが縁談の支障になりはしないか、と心配していた妹のことである。

その後、県立図書館で手にした米原穣の著書(注1)の中でも「忘れ難い生徒たち」と題する次の一文を確認した。
 高知高校の卒業生は第一回生が大正十五年春卒業であるから、昭和の年度と卒業の年次が一致するので覚え易い。……異色の一人木村久夫君は十七回生であるが、これは尊敬する同僚の教授であった故塩尻公明氏が名随筆「或る遺書について」で紹介されて有名になった。つまり木村君は南方に出征し、カーニコバル島で終戦直後検挙され、シンガポールの刑場で誠に正々堂々たる刑死をとげた経緯を紹介されたものであった。戦場に倒れた数多い教え児達の事を思うと今でも涙をさそわれる。(pp.165-166)

(注1)米原穣『回想の記』佳友クラブ発行 1988(昭和65)年1月25日




ごうなのおすすめ本棚 1


終生ヒトのオスは飼わず

2007年8月14日火曜日

ことば拾い:「隣の芝生」/補遺

朝日新聞社のPR誌「一冊の本」に毎号広告が出ていて、そのなかに外山滋比古の推薦文が載っている
戸田 豊編著『現代英語ことわざ辞典 A Dictionary of Modern English Proverbs』リーベル出版(2003/05/18)
を一度手に取ってみたいと思っていた。

過日、図書館へ行った折りに、この辞書で、このブログで取り上げた
The grass is always greener on the other side of the fence.
を調べてみた。いろいろなヴァリエーションはもちろんあり、五つの【類形】が紹介されているが、この英文が現在基本であるらしい。二つの点について前回の補遺としておこう。
【参考】ローマの詩人オウイデイウス(Ovid,43B.C.―A.D.17?)の『愛の技術』に同じ考えを表す次の言葉がある。
Fertilior seges est alienis semper in agris, vicinumque pecus grandius uber habet.                                  〈Ars Amatoria,Ⅰ.l.349〉
(他人の畑の穀物は、つねに自分のよりは豊に見えるものである。また隣家の家畜はより大きな乳房を持っている[多産である]。――樋口勝彦訳)
日本語の【類諺】として、「隣の糂汰味噌 」のほかに「隣の糠味噌」、「隣の花は赤い」のほかに「隣の牡丹餅はうまい[大きく見える]」/「隣の飯はうまい」/「隣の物は粥でもうまい」/「よその花は赤い」を挙げている。

2007年8月13日月曜日

ことば拾い:シイラの先走り

夏になると、シイラという魚を思い出す。あの精悍な面構えと、体長が1~2メートルもある大型魚で、濃い緑色の身体が金色に輝いたりもする。そんな姿が、子供心にも印象的だったのであろう。

高級魚ではないから、竹輪、蒲鉾のような水産練り製品にも使われるようであるが、わが家では使用しなかったように思う。ただ、シーズンになると、1尾か2尾大きな奴が届けられて、刺身をはじめ、いろいろ調理して食していた。
ごうなは、こどもの頃より、魚を見たり、釣ったりするのは大好きだったが、口にするのは嫌いで、刺身も、煮魚もまったく食べなかった。したがって、シイラの味も今もって知らないのである。

そんな者がなぜシイラの話をするのか。それは、シイラを思い出すたびに、「シイラの先走り」という言葉も思い出すからだ。なにか、出しゃばったようなことをするな、といった意味で使われていたように思うが、なぜシイラなのか分からなかった。

シイラの習性と関係があるに違いないと思って、ネットで調べてみたが、
浮遊物に集まる、という習性から日本では「水死体を食う」として忌み嫌う地方がある。そのため「死人旗」(しびとばた)などという別名で呼ぶ地域もある。もっとも人間に限らず動物の遺骸が浮遊している場合、それを食べに来ない魚類の方が珍しい。
浮いた流木や海草やゴミといった障害物に生息する小魚などは容赦なく食い尽くし、共食いもするほどで、さらに引きが強烈で、その獰猛な性格により世界的にもゲームフィッシングの好ターゲットとなっている。夏から初秋にかけてが釣り期で、特にルアーアングラーにとっては夏の風物詩的なものになっている。(注1)
なぜ「シイラの先走り」なのか、いっこうに分からない。

忘れもしない、今年の6月20日の午前3時頃の「ラジオ深夜便」で須磨佳津江アンカーが2週間前に読んだ投書に対する投書を読んでいた。その中で、「シイ〔 〕の先走り」と言ったように聞いた。〔 〕のなかの音はラではなくナであったようだった。寝ぼけ眼で起き出して、広辞苑を引いてみた。
 しいな【粃・秕】シヒナ   殻ばかりで実のない籾(もみ)。また、果実の実らないでしなびたもの。しいなし、しいなせ、しいら、しいだ。
「しいら」も良かったわけだ。しかし、魚のシイラではない。
県立図書館へ行って、何冊かの辞書にあってみた。
秕者(しいらもの)の先走り(久留米)  未熟な者ほど先走りして、役にも立たないのに騒ぎ立てる。▽粃=中国地方から北九州にかけて、実の入らない米麦をいう。しいなの方言。【類】しいな〈しいら〉穂の先走り/しいな者の先走り/しいら子先立ち(壱岐)/名のない星は宵から出る    (注2)
ウエブには魚のシイラについてこんな記述もあった。
●漢字「粃」。粃は身のないイネの籾。シイラの皮が硬く、身が薄いことからきたという。(『新釈 魚名考』栄川省造 青銅企画出版) (注3)
こうしてみると、ごうなが「シイラの先走り」として記憶していたこともいい加減なことでもなかったわけだ。

(注1)ウィキペディア
(注2)鈴木棠三『新編 故事ことわざ辞典』創拓社 1992年8月1日発行
(注3)市場魚貝類図鑑
http://www.zukan-bouz.com/suzuki3/sonota/sira.html

最後に、ウェブ検索でヒットした一文をご紹介しておきたい。中神 勝(なかがみ・まさる。京都ノートルダム女子大学 人間文化学部 生活福祉文化学科教授 、 名誉教授)という方の「子ども」と題した一文の一部である。
4、しいなの先ばしり
私は虚弱児の観察のなかで乳児期において歩行器の使用が多く見受けられたことに驚いた。乳児時に歩行器を使わず、充分ハイハイをさせてから歩かせることの重要さを力説したい。どの子も同じ道すじを通って発達する。たとえば首がすわる→寝返りをする→お座りをする→一人歩きをするというふうである。歩けるようになってから首がすわるなどということは決してない。ハイハイは二足歩行の生活を健康に過ごしていくための第一歩であり、歩く動作の基本となる。力いっぱい、這う生活をさせることが大切である。東北のある地方では
子どもの満1歳のお誕生日に搗いた餅を背中に背負わせて祝うという。子どもは餅の重みで歩きにくく、否応なしにハイハイをすることになる。充分にハイハイをしてから歩いて欲しいという願いであろう。また、稲はあまりに成長が早いと実のない“しいな”が多くなり、“しいなの先走り”と言われたりする。やたらとスピードを期待する現代に考えてみたい問題である。

http://hojin.notredame.ac.jp/kikanshi/prism/02/02pdf/_04.pdf









2007年8月8日水曜日

はじめての発芽米

わが家の日常的な昼食の写真である。

しかし、今日の昼食は、ご飯だけがいつもと違う。

白米―いわゆる銀しゃりを食べることはめったにない。少なくとも押し麦が入っている。

最近では、雑穀を混ぜることが多い。

今日の主食は発芽玄米、ファンケルの発芽米だ。



今は夏休み。給食がないので、中1と小5の孫が週に3日か4日、昼食、夕食を食べにやってくる。そのうえ、イタリアで暮らしている娘と孫(小5)も来ている。孫は3人とも男の子。この子たちにも発芽米を食べさせてみることにした。孫は三人とも男の子。妻は、白米に混ぜて、と言ったが、発芽米だけにしてもらった。



「わー、なに、このご飯?!」これが孫たちの第一声だった。

「よーく噛んでごらん。甘みが出てくるから。」

「ほんとだ!」

とくに、鳥取にいる下の孫は、おおいに気に入ったらしい。



白米もおいしいが、それだけ食べているのは愚かなことだと思っている。トレーサビリティも確認できるし、これからは発芽米を白米に混ぜてでもいいから、食べたいと思う。むろん、孫たちにも食べさせてやりたい。



2007年8月7日火曜日

米原万里の父 (2)

『回想の米原昶』の中に、父、米原昶が二人の娘たちに送った一通の手紙が掲載されている。母、美智子の注記とあわせて全文をご紹介する。これ以上なにも言わなくても、昶がどんな父親であったかよく分かる。1959年12月から彼は家族とともにチェコスロバキアに駐在、日本共産党の代表としてプラハの『平和と社会主義の諸問題』という雑誌の編集局に勤務していた。この手紙を書いたときの昶は52歳。
この手紙は、プラハに滞在中、夏休みで、ピオニールキャンプに行っていた子どもたちに宛てたもの。
まりが十一歳でむこうの小学校の三年生、ゆりが八歳で、二年生のときのものです。どうにか向こうの言葉に慣れて来た子どもたちが、今度は日本語を忘れないように、という配慮がにじんでいます。文中「クロヂーヌ」とあるのは同じ編集局に勤めているフランス人の娘さんの名前です。
私はルーマニア婦人組織の大会に招待された婦団連代表の石井あや子さんの通訳によばれ、大会が終わっても地方都市の見学で、プラハに帰るのがおくれていたものです。(米原美智子)


まりさま ゆりさま

1961年7がつ2にち
プラーハ  いたる

にちようび(7がつ1にち)にゆけるかとおもっていたら、ゆけなくなったので、にもつをとどけることにしました。
クロヂーヌにも、よそのおばさんにたのまれたのでにもつをとどけます。
おかあさん(みちこ)はまだルーマニアからかえってきていません。よほどルーマニアがきにいって、プラーハにかえるのがいやになったらしい。
けれどでんぽうによると、あすのかようび(7がつ3にち)にはかえってくるでしょう。かえってきたら、おみやげはつぎのにちようび(7がつ8にち)にもってゆくかもしれません。
だけどまたつぎのにちようびもだめになるかもしれないね。
ところで、おとうさん(いたる)はようじができて、すいようび(7がつ4にち)にモスクワにゆきます。どのくらいようじがあるかわからぬので、いつモスクワからプラーハにかえってくるかいまのところわかりません。
にもつのなかにはつぎのものがはいっています。
①せんたくしたしゃつなど。(このまえおとうさんがプラーハにもってかえったものをぜんぶせんたくしていれておきました。)
②つめきり。(まりがかばんのなかにいれたままわすれていたのです。)
③みずむしのくすり。(まりにたのまれた。)
④オレンジ2ふくろ。(これがおとうさんのおみやげ。)
⑤えはがき。(まりもゆりももっとてがみをかきなさい。だから、これをいれたのです。)
⑥まりのしゃしんきときょりをはかるどうぐとひかりのつよさをはかるどうぐ。(まりのしゃしんきはおとうさんがすっかりなおして、あたらしいフィルムもいれてあります。このフィルムは36まいもとれますから、かえるまでじゅうぶんでしょう。ひかりのつよさをはかるどうぐはおとうさんがドイツからかってきたたいせつなものです。これをかすからしゃしんのせんせいにこのしゃしんきのつかいかたをよくならって、よいしゃしんをうつしてください。)
⑦ゆりのしゃしんきとそのフィルム。(ゆりのしゃしんきもおくります。まりにならってじょうずにうつしてごらん。)

では、さようなら。
おとうさんはモスクワからみやげをかってきますよ。

2007年8月6日月曜日

米原万里の父 (1)

先月、米原万里の父、米原昶(よねはら・いたる)について調べるため、県立図書館へ行った。
1997年に日外アソシエーツが発刊した『近代日本社会運動史人物大事典』にあたってみたい、と思っていたのだが、本県にはなかった。索引を含め5巻からなる大部なものなのだが、中国地方では山口、広島、岡山の県立図書館しか所蔵していない。図書館の資料係は、『回想の米原昶』という書籍が2階の郷土資料の中にあることを教えてくれた。

8月1日、再び図書館へ出かけて件の書を手にした。
タイトルは『回想の米原昶/遺稿 アルバム 追悼エッセイ 年譜』、企画・発行は「回想の米原昶」刊行委員会。発行日は1982年12月1日。因みに、昶が亡くなったのは同年の5月31日で、73歳だった。
144ページの小冊子ではあるが、巻末4ページの年譜も含めて、良くできている本だ。

とにかく、この本にめぐりあえたことはなによりの幸運であり、収穫であった。

2007年7月24日火曜日

雑記

きのうは大暑。やはり梅雨明けした。
午後外出すると、これまたやはり、近所の公園で蝉が鳴いていた。
永楽温泉町の〈New Orleans〉という喫茶店のマスター、髭さんは(鼻下に髭を蓄えているので、なじみの女性客はみなそう呼んでいる)久松山(キュウショウザン)の近くに住んでいるのだが「うちの近所では2、3日前から鳴いています」とこともなげに言った。

後で行った〈因幡宿〉でも、この日の話題は、梅雨明けと琴光喜がやっとというか、ついにというか、大関昇進を決めたことであった。

甲子園を目指す鳥取大会(米子市民球場)は、第8日目だったが、優勝候補の一つに挙げられていた、母校の鳥取西高は、倉吉東高に初の延長11回の末、4-5で敗れた。これで残った四強は中部3校、西部1校となった。

昨日はじめて写真をブログに載せたのだが、Picasa のアイコンの横から文字を打っていくと下線がつく。なぜだろう、と思いながら、しょうがないこのままにしておけ、と公開したのだが、ここは写真の説明を記す部分、と後でわかった。
改行すれば、普通の記述になるのですね。毎日が学習です(=^△^=)



2007年7月19日木曜日

ことば拾い:千人針と15銭

千人針を実際に見聞した人は、ごうなの世代が最後だろう。
銭は「金銭」や「銭湯」ということばの中に生きているが、お金の単位で、1銭=1/100円で、1円は100銭である。週刊朝日編『値段史年表』によれば、大びん1本のビールの小売標準価格は、
昭和22年4月  59円61銭
〃23年9月 162円20銭
〃24年7月 126円50銭
…………………………
昭和62年   310円
といった具合で、実際に1銭玉や5銭玉や10銭玉を見たり使ったりしたのは、やはり戦前生まれの人だろう。
まして「千人針」など、「それって、なに?」ということになるに決まっている。#

昨日の早朝、うとうとしながらラジオ深夜便を聞いていたら、宇田川清江アンカーが大正生まれの女性のお便りを読んだ。その人が5歳くらいの頃、お母さんが出征(=軍隊の一員として戦地に行くこと)する兄のため千人針を作って、10銭玉と5銭玉を縫いつけた。「その理由を母に尋ねたところ、云々」という内容だった。こどもの頃、千人針を女性たちが作っているのを見たことはあったが、お金の話は初耳だったので、ブログに書こうと思った。

書き始めて数行前の # のところまできたとき、ふと、5銭玉なんてあったかなあ、と思った。そこで「5銭玉 10銭玉」で検索してみたところ、数個のサイトが出てきた。
最初の[街のクマさん 炎のダイエット日記]
http://machino-kuma.at.webry.info/200705/article_30.html

を見れば、なぜ兵士たちが10銭玉や5銭玉を身につけて戦地へ行ったか、すぐわかる。
この検索でも千人針を紹介しているサイトがわかるが、「千人針」で検索すると、10個ほど出てくる。なかでも、「第12回戦時生活資料展 千人針」
http://www.nishi.or.jp/~kyodo/tenji/senji/12/sen1.htm
が写真も多くてわかりやすいだろう。
ただ何か丸い物が縫いつけられているのはわかるが、写真が小さくてよくは見えない。現在の5円玉、50円玉と同じで、穴が開いているからしっかり縫いつけることができた。

かつてこの国でも成人男子はみな武器を手に戦場へおもむき、婦女子は、父を夫を息子を孫を兄を弟を、陸や海や空の戦場へと送り出さねばならない時代があった。
10銭は9銭を超え、5銭は4銭を超える――苦戦を超え、死線(死戰)を超えて帰ってきて来てほしい。赤い糸の縫い玉が鋼鉄の玉となって、敵弾を跳ね返して欲しい。
こういう思いを単なる語呂合わせ、地口の類にすぎない、と一笑に付す人もいるだろう。現実としてありえないことを求める愚かでむだな願いだと冷笑する人もいるかもしれない。
しかし「名誉の戦死を」「死んで護国の鬼となれ」「散兵戰の華と散れ」「醜の御楯(しこのみたて)たれ」「撃ちてし止まむ」などなどの言葉や歌やスローガンが氾濫し、挙げ句の果には「一億玉砕」などの狂気の沙汰を指導者たちがわめいていた時代であったことを忘れてはいけない。
語呂合わせであろうと、愚かしい願いであろうと、それは「生きて帰ってきて欲しい」という真実の願い、心底からの願いであった。





2007年7月17日火曜日

ことば拾い:栃麺棒

街に出て、夕刻にちょっといっぱいやっていくか、と赤提灯のある店ののれんをくぐることがある。歳をとってからは、××の会とか◯◯さんと話があるとか、といったようなことではない。ただ、飲みたいのである。
そういうときに、よく行く店の一つは永楽温泉町の〈因幡宿〉だ。
昨年、そろそろ忘年会のシーズンに入る頃であったと思う。店にはいると、板敷きの間のテーブルを囲んでかなりの年配者を含む数人の男性客が飲んでいた。彼らに背を向けて、いつものようにカウンターの端に坐って、これまたいつものように、おでんの豆腐と里芋で芋焼酎の湯割を飲む。
とつぜん、背後の客の一人が言った「いやあ、トチメンボーをふっちゃって…」という言葉が耳に入った。
「トチメンボー?! ずいぶんと、久しぶりに聞いたなあ」と思わずつぶやくと、前に立っていた店のチーフが「何ですか、それって?」と尋ねた。

このことばをはじめて知ったのは、中2か3年のとき、漱石の『吾輩は猫である』を読んだときだ。
越智東風が美学者の迷亭にある西洋料理店につれて行かれたときの話をする。迷亭は、なめくじや蛙はいやだからトチメンボーをくれ、と注文する。ボイ(筆者注:現在はボーイと表記されていますが、漱石の書き方が原音に近いですネ)は、トチメンボーの材料は切らしているのでメンチボーになさったらと勧めるが、迷亭は、いやトチメンボーが食べたいとゆずらない。
むろん、そんな食べ物はないのであって、二人は何も食べずに店を出たあとで、橡面坊をネタに使ったと、迷亭は笑う。(『猫』二)

偶然とはおもしろいというか、摩訶不思議というか、〈因幡宿〉でこのことばを耳にしてひと月もしないうちに、再びこのことばに出会ったのだ。暮れに読んだ鶴見祐輔の『母』の中で。
希臘(ギリシャ)の神話(しんわ)に出てくる半人半羊(はんじんはんよう)の人のように、男性は女性を追うものである。ということを男女生活の基礎(きそ)にしている西洋にいた彼は、ホホホホホと、笑いながら走り降りていった少女の後ろ姿を、そのまま呆然(ぼうぜん)と見送って、髪の毛を両手でむしって、ウーンと目を剥(む)くような栃麺棒(とちめんぼう)ではなかった。(pp.26-27 カッコ内はルビ)

漱石のいう「橡面坊」は鶴見祐輔が書いているように「栃麺棒」とも書き、広辞苑にも載っているが『大言海』が詳しい。こちらは「狼狽坊」と表記し、説明がいささか古めかしいので現代風に書き換えてご紹介しよう。

トチの実を砕きうどん粉を混ぜて栃麺を作るためには、非常に手早く棒を使って延ばさなければ、麺が収縮してしまう。このように手際よく棒を扱うことを「栃麺棒を振る」という。そのあわてふためいた有様を「とちめく」と言い、その名詞形の「とちめき」を擬人化して「とちめき坊」という。その音便〈=発音上の便宜から、もとの音とは違った音に変わる現象)で「とちめんぼう」。「赤き坊」を「赤ん坊」と言うのと同じだ。
事が非常に急がれるので「うろたえ、まどうこと」「あわてること」また「あわてもの」。「夕立にとちめんぼうをふる野かな」という句もある。このめんぼうで打たれることに言寄せ、略して「めんくらう」という。また、この「とち」を上二段活用させて「とちる」「とっちる」という。以上ともに「うろたえあわて、まごつく」という意味である。また、この「とち」を「あわて仕損じる」意味で「どぢを踏む」と濁るのは、いまいましく、憎らしげに言うのである。「踏む」は「あわてている足取り」をいう。また「あわてもの、まぬけもの」の意味に転じて「どぢな奴」などという。―さて、上記の鶴見祐輔の「栃麺棒」はどの用例になるでしょうか?

日本語もなかなか奥が深いですねえ。





2007年7月16日月曜日

ことば拾い:隣の芝生

「他人のものはなんでもよく見えることのたとえ」として「隣の芝生」という言葉が使われるようになったのはいつの頃からであったのだろうか。
手元にある『広辞苑』(Canon WORDTANK搭載)と『大辞林』(第二版机上版)には載っていない。NHKが1976年1月から2月に銀河テレビ小説として放映した橋田壽賀子のドラマ「となりの芝生」以来のことかもしれない。

高校生も使っている『ジーニアス英和辞典』でgrass を引けば、ちゃんと載っている。
The grass is always greener (on the other side of the fence
[hill 〕). 《ことわざ》隣の芝は青い;他人のものは何でもよく見える《◆単にThe ~ is greener. ともいう》

この英語のことわざがいつごろから使われていたのかわからない。

先月のこのブログで取り上げた鶴見祐輔の小説『母』の「序にかえて」と言う文章の中に、こんなことばがある。「他人庭上(たにんていじょう)の花を美くしとする心境(しんきょう)」(p.7 カッコ内はルビ)
これは、おそらく、あの英語のことわざを鶴見が訳したものではあるまいか。この序文には「昭和四年五月十日」の日付がある。当時の日本で、芝生の庭を持った隣家なんてほとんどなかったであろう。「他人庭上の花」と理解しやすいことばに変えたのだと思う。

そう言えば『大辞林』には「隣の花は赤い」が挙げられているが、鶴見訳の現代版かもしれない。
さらに、両国語辞書がともに挙げているのが、「隣の糂汰味噌」(となりのじんだみそ)ということばである。
いかにも古くからのことばのように思われるが、『大言海』で糂汰味噌の項を見ても、そういうことわざ的なことばは取り上げていないから、鶴見の「他人庭上の花」と同工異曲で、あの英文を訳したものかもしれない。
現代風に言えば「隣の味噌はうまい」ということだ。
なお、このブログの冒頭の「他人のものはなんでもよく見えることのたとえ」は、苑・林両辞書共通の説明文である。 







2007年7月8日日曜日

誕生日

今日はごうなの誕生日。この歳になって別に誕生日がうれしいわけでもないけれど、Blog People が誕生日を迎えた者のブログを紹介してくれるそうだから、7月8日がどんな日か、書いてみよう。と言ってはみても、Wikipedia の「今日は何の日?」に出ているようなことを書いてみてもしょうがないし……。

NHKのラジオ深夜便のカレンダーによれば、〈今日の誕生日の花〉はアヤメ科のグラジオラスで、その花言葉は「堅固 用心」。さらにこれにちなむ〈今日の一句〉は、
 グラジオラスゆるるは誰か来るごとし  永田耕一郎

である。この「誰か」は、「だれか、怪しいやつ」と用心すべき者よりも、「もしやあの人では」と、こころときめく「誰か」がふさわしいように思えるがいかが…。

1973(昭和48)年の今日、尾崎翠が市内末広温泉町の鳥取生協病院で亡くなった。75歳だった。
松岡正剛が「面影小学校出身の小野町子(尾崎翠のこと)が奏でるくらくらするような『第七官界彷徨』なんて、とうてい男には書けません」と言っている面影小学校は父親が校長だったとき、翠が通っていた学校だが、今も市内雲山にある。

昨年の今日、ハスキー ヴォイスの米国映画女優、ジューン・アリスン(June Allyson)が亡くなった。
88歳だった。
彼女の映画を最初に見たのは「若草物語」Little Women(1949)で、鳥取西高に入学してまもない、1950(昭和25)年5月7日のことだった。次女役のアリスンが主役で、長女がジャネット・リー、三女がエリザベス・テーラー、四女が名子役マーガレット・オブライエン。映画を見てたちまちアリスンのフアンになった。
9月に入って、英語のクラスがいっしょだったH君と、教科担任の川口勝先生に「なにか英書を読みたいのですが…」とお願いしたところ、3週間後に、研究社版の
Little Women by Louis Mary Alcott
を取り寄せて、与えられた。これが英書らしいものを読んだ最初だった。
その後、アリスンの映画は、ジイムェズ・スチュアートとの三部作のうち、
「甦る熱球」The Stratton Story(1949)
「グレン・ミラー物語」The Glenn Miller Story(1953)
を見た。

さて、今日の鳥取市の天気はどうであろうか。アメダス(所在地:鳥取市吉方 標高:7m)の結果は明朝書き加えることにしよう。

日照時間:2時間40分 降水量:なし 最大風速:5 m/s(13:00)
最高気温:27.6 ℃ 最低気温:19.8 ℃

今夜の月は、下弦である。

【松岡正剛の千夜千冊】
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0424.html 

【ごうなのおすすめ本棚】
 http://booklog.jp/users/gauna57/front/jm=&cate=368425&dm=udu
















2007年6月21日木曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/『プルターク英雄伝』

鶴見祐輔は、戦前、小説ばかりでなく伝記も多く著している。手元にある『成城だより』第2巻の巻末を見ると、太平洋出版社は〔鶴見祐輔先生伝記選]と銘打って、
『英雄天才史傳 バイロン』上・下
『英雄天才史傳 ヂスレリー』上・下
『後藤新平傳 帝都復興篇』
『プルターク英雄傳』(近刊)
の4点を挙げている。これらはいずれも戦前の作品の復刻版である。
後藤新平の伝記は、現在、 鶴見祐輔【著】、一海知義【校訂】『決定版 正伝・後藤新平 後藤新平の全仕事』全8巻が藤原書店より出版されている。
因みに、「大風呂敷」などとあだ名された後藤新平は鶴見祐輔の岳父である。

これらの作品の中で『プルターク英雄伝』だけは、むろん翻訳本である。英訳本からの重訳だが、名訳と高く評価されている。残念ながら、現在では入手することは困難である。唯一、入手可能な一冊版を後でご紹介しておく。

谷沢永一はこの訳業を高く評価し、機会あるごとに推奨してきた。
しかし、昨年来、鶴見祐輔を尋ねてウェブの世界を探索して、すばらしいサイトに出会うことができた。
このサイトの管理人は、花房友一という方で、「1955(昭和30)年、兵庫県生まれ。東京大学西洋古典学課修士修了。元翻訳業」の由。アドレスは、

http://www.geocities.jp/hgonzaemon/index.html

である。ここには有益なものが数多くあるが、先ず「鶴見訳で読むとおもしろいプルターク英雄伝」を読んでごらんになるといいでしょう。さらに伝記そのものをお読みになる方には、「鶴見訳プルターク英雄伝の難読漢字集」「鶴見訳英雄伝正誤表(推定)」がきっとお役に立つことでしょう。
高校生が、ごうなのブログを訪ねてくることはあるまいが、高校生にもひじょうに有益なサイトだ。

ごうなのおすすめ本棚 1


プルターク英雄伝






2007年6月18日月曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/続・ウェブへ

昨日書いたように『酔醒漫録』というブログは今も続いているが、バックナンバーは去年の7月までになっているので、これから載せる引用文は、昨年6月にコピーしていたものであることをお断りしておく。なお『酔醒漫録』のURLをはっておくので関心をお持ちの方は、どうぞ。
 4月9日(日)ホテルの窓から見える京橋界隈は快晴。桜花の散る風の流れが爽やかでもあった。大阪駅に出て喫茶店で朝食をとりながら読書。大丸に寄って洋菓子をいくつか買い、花売り場でチューリップを中心に春らしい花々をたっぷり注文する。御堂筋線で桃山台。時間があったので駅前花壇の囲い石に座り、舞い散る桜をぼんやりと眺める。タクシーで目的地へ。約束の時間は午後1時。まだ20分あったので訪問宅前の駐車場で待機する。地主だった名家のたたずまいは周囲の家々とは違い、風趣を醸し出している。何をどう聞くべきなのかをしばし思案。午後1時ちょうどにインターフォンを押した。しばらくすると鉄扉が開いた。木村久夫さんの妹さんの孝子さんだ。今日は大正7年4月9日に生まれた久夫さんの誕生日なのだ。存命ならば88歳。その生命が不当にも絶たれたのはいまから60年前の5月23日、シンガポールのチャンギー刑務所でのことである。木村さんは『哲学通論』の余白に記した遺書のなかにこう書いていた。

私の仏前及び墓前には、従来の供花よりも「ダリヤ」や「チューリップ」などの華やかな洋花を供えて下さい。これは私の心を象徴するものであり、死後は殊に華やかに明るくやって行きたいと思います。美味しい洋菓子もどっさり供えて下さい。(中略)そして私一人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ私の誕生日である四月九日を仏前で祝って欲しいと思います。私は死んだ日を忘れていたい。我々の記憶に残るものは、ただ、私の生まれた日だけであって欲しいと思います。

仏前と墓前に洋花を供え、孝子さんのお話を伺う。やはりと納得したこともあれば新しい発見も数々だ。いちばんの問題は「きけ わだつみのこえ」に収録された「遺書」では木村さんの思いの全体像が伝えられていないことである。いつしか午後7時を過ぎていたので、近く再び訪問することにした。午後7時半に辞去しタクシーで新大阪駅。53分の「のぞみ46号」に乗る。缶ビールを飲みながら孝子さんにお借りした鶴見祐輔さんの『成城だより 3 夢を抱いて』(太平洋出版社)を読む。扉には「捧 木村久夫君 ご霊前 昭和二十年二月 著者」と筆で書かれている。「荘厳なる死」という文章は木村さんの恩師である塩尻公明さんが当時『新潮』に書いた「或る遺書について」に触発されたものである。まだ「きけ わだつみのこえ」が出版されていないときに、木村さんの遺書の全容は塩尻さんの文章で知るしかなかったのである。


長い引用になって恐縮だが、木村久夫の遺書についても知って欲しいという思いをもっているからだ。塩尻公明の著作は、1951年に創刊された現代教養文庫(社会思想研究会出版部)に数冊入っており、そのなかに『ある遺書について』も入っている。しかし、わが家の書棚から古い文庫本を探し出すのはきわめて困難な状況にあるので、あきらめている。

すでに述べたように、中学時代に買った『成城だより』は鳥取大火ですべて焼失してしまったので、ネットで検索している。昨年、1,000円程度で一冊出ていたのですぐ発注したが入手できなかった。ところが、どうしたことか、今年になってAmazonの「ユーズド」に数巻出ているが、いずれも一万数千円に値上がりしているではないか。
第1巻が鳥取県立図書館にあり、先月借り出して数十年ぶりに読んだ。きわめて粗悪な用紙に小さな活字で印刷されていて老人の目には非常に読みづらい。B5版二百数十ページの本が、同じくらいのページ数の文庫本より軽い。
第1巻を読んだ直後、第2巻の〈自由への闘ひ〉を或る古書店からリーズナブルな値段で入手でき、いま、机上にある。

さて、引用文の終わり近くにある鶴見祐輔の献本の日付について触れておきたい。
第2巻の中に「ある読者からの手紙」という一文がある。内容の紹介は略させていただくが文末に(一九四八・四・二八午後)とあって、そのあとに次のような付記がある。
この稿を記して後二ケ月、私は新潮六月號に出た『ある遺書について』と題する鹽尻公明氏の文章を見て、ひどく感動した。それはシンガポールで冤罪のため絞首刑に處せられた木村久夫君の獄中の遺書である。これくらい凄惨な犠牲者は、今度の戦争でも少い。そのことは私は成城だよりの後の巻に詳しく記しておいた。(八月十九日記)

この第2巻が発行されたのは昭和23年12月20日である。したがって、第3巻に鶴見俊輔が筆で書いていた献辞の日付は、
昭和二十「四」年二月
の誤りではあるまいか。鶴見自身が誤記したのか、引用者の誤記か、わからないが。

【追記】(6月19日)昨日このブログを公開したあとで、有田芳生さんにメールで献辞の日付の件をお尋ねしたところ、今朝、次のような確認のご返事をいただいた。
直筆コピーを確かめましたところ、鶴見さんは「昭和二十四年二月」と書いています。
「成城だより」第3巻が発売されたのが昭和二十四年一月ですから矛盾はないと思います。
有田さん、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。

2007年6月17日日曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/ウェブへ

昨年の6月、鶴見祐輔の『成城だより』で検索したら、二つのサイトがヒットした。
一つは、村井仁(敬称略)のサイト(だった、と思う)。今回検索にかけたところ、Not Found と出た。幸いコピーをとっていたので、ご紹介できる。当時の村井の肩書きは「自民党国会議員」であったが、同年8月の長野県知事選挙で田中康夫前知事を破って当選したから、今は「長野県知事」だ。ご紹介するのは、1952(昭和27)年、長野県松本市の旭町中学校を4回生として卒業した村井が、母校のおそらく創立50周年に行った記念講演の記録か、あるいは記念誌に寄稿したものと思われる。
「母校旭町中学校50周年に寄せて--旭町中学校の生徒の皆さんに--」
私が中学生の頃に読んで影響を受けた本に、戦前からの政治家・小説家で戦後厚生大臣にもなった鶴見祐輔先生が追放を受けているときに書いた「成城だより」という本がある。そこに出ているエピソードは印象的である。鶴見祐輔先生は明治の終わりに東大を出た。同級生で公爵の跡取り息子がいたが、この人が二度も外交官試験を受けて、失敗、諦めて貴族院議員になったという話を外国人にしたら信じて貰えなかったという。外国、特に英国では外交は貴族の仕事で、試験の成績の善し悪しで決めるのは理解できないというのである。明治の終わりに東大に学ぶのだからこの公爵氏はもとより大変な秀才だったろうが、それでも当時の外務省は名門の出身だからといって妥協せず、外交官にふさわしいと外務省が判断するそれなりの基準に合致しなければ採用しなかったのだ。もっと言えば日本はコネも権勢も利かない部分が厳然とある社会だったのだ。

二つめは、テレビの「ザ・ワイド」でおなじみの有田芳生(敬称略)の『酔醒漫録』というサイトだ。このサイトは2006年6月30日で閉鎖する(6年間続いたらしいこのブログはにんげん出版で二冊出版され、さらに昨夏、二冊同時に出版された)というこどだった。
ところが、まだ続いている。今夏の参議院選挙の全国区に新党日本の候補者として出馬することになったのが、このサイト継続の理由(のひとつ)と思われる。現在、田中康夫ともいっしょに街宣をやっているらしい。
今回、村井仁と有田芳生のご両人のサイトを取り上げるのが何か因縁話めいているように思われるが、あくまで「鶴見祐輔を尋ねて…」の偶然の結果である。
(以下、明日につづく)

2007年6月16日土曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/『成城だより』

1949(昭和24)年10月1日の日記によれば、一週間ほど前に太平洋出版社へ送金していた『成城だより』の[第五巻 永遠の師〕と〔第六巻 筆は剣よりも強し〕を入手し、早速前者を100ページほど読んでいる。
翌日には、246ページまで読了、後者を80ページ読んでいる。5日には、240ページまで読了。気に入って、第一巻から第四巻まで発注している。
それらがいつ届いたか、記録していないが、
第一巻 冬来たりなば 10月23日読了。
第二巻 自由への闘ひ 10月26日読了。
第三巻 夢を抱いて  10月28日読了。
第四巻 文明の行くえ 10月29日読了。さらに、翌1950年、〔第七巻 感激の生活〕を1月3日読了。

中学3年の夏から、毎日日記をつけるようになったが、高校入学までの間に、新渡戸稲造『修養』を毎日のように筆写し、『世渡りの道』や『自警録』を読み、『内村鑑三 思想選書』を何冊か、尾崎行雄の著作、漱石、露伴の小説なども読んでいるから、かなり精力的に読書している。

さて、『成城だより』は何巻まで発行されたか、〔第八巻 自由と秩序〕が出版されていることはわかっているが、この巻は購入の記録もない。高校入学後かもしれないと思い、日記に当たってみた。どうやら、『成城だより』を購読したのは第七巻までであったらしい。新しい高校生活を始めて読書するゆとりもなかったのだろう。日記の記述は日々の授業についての記述ばかりといっていい。

ただ一つ、大きな記憶違いをしていたことに気付かされた。
はじめての中間考査の最終日である6月12日の午後、映画『母』を見て、感激したという記述があったのだ。
14日のブログで書いた、この映画の字幕であのカーライルの言葉を覚えた、というのは間違いだったことになる。映画の終わりにこの言葉を見た記憶は間違いないとおもう(小説の序文に引用されていることからしても)。そうだとすれば、
『成城だより』のいずれかの巻で、著者はこの言葉を再び記述していた→自己紹介の時引用した→映画でこの言葉を再確認した
ということではなかったか、と思う。
この推測を今確かめることはできない。所有していた『成城だより』は1952年の鳥取大火ですべて焼失してしまったから。

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修養







2007年6月15日金曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/小説『母』

映画そのものはもう見ることはできない。小説を図書館などで見れば、あのカーライルの言葉がどこかにあるかもしれない。
そう考えて、とりあえずネットで検索してみた。
あった! 講談社学術文庫で入手可能であることがわかった。どうしてこの小説が「学術文庫」なの? と首をかしげたが、とにかく手に入りました。

あった! あった! ありましたよ、「母としての日本婦人(序にかえて)」の中に。
いっさいの偉大なるものは、悲しみと苦しみとのうちから生まれた。……長き夜を泣き明かしたるものにあらずんば、いまだ共に人生を語るに足らず、とカーライルの言ったように、何らかの苦悩を経験したものでなくては、貴き何物をも所有していないのだ。(同書 p.9)
本書の出版は、1987年9月である。娘の鶴見和子鶴見俊輔は弟)がこの版にまえがきを寄せていて、次のようなことがわかる。

◇この小説は、講談社の初代社長野間清治の要請により、雑誌「婦人倶楽部」に1927(昭和2)年5月号から2年間連載され、完結と同時に同社から出版された。
◇1931年には著者自ら英訳して、ニューヨークのレイ・D・ヘンケル社より出版された。
◇戦前戦後を通じて三度映画化され、新派の舞台でも上演された。
◇戦後、太平洋出版社から復刻版、角川書店から文庫版が出版された。
◇今回の出版は澤地久枝『ひたむきに生きる』(講談社現代新書)のなかで、「さいしょに出会った本」として、この小説に若い世代の立場から新しい光をあててくれたことがきっかけとなった。

それで、この文庫本の解説として澤地は「『教養』の普遍性」と題する一文を寄せている。一カ所だけ引用する。
知識を求めていた人たちは、ここである安らぎを得、気持ちのよい刺激をあたえられたのではないかと想像する。名もない、学問や教養には無縁の人々が、熱っぽい視線で『母』を読む。一冊の通俗性のある小説本としてではなく、教養書として――。
そこに、『母』の役割と、昭和の日本人の姿が見えるとわたしは感じている。
この澤地の言葉が、この小説をうまく紹介していると思う。先日、米原万里の男女共同参画的便器をご紹介したが、「男女共同参画社会」の実現を熱っぽく説く女性も、すでにこの小説に登場しているのだ。




2007年6月14日木曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/映画『母』

あれは還暦同窓会(正確に言えば、高校時代の同期生会)でのことであったから、今から十二三年前のことだ。市内湖山で開業医をしているN君に会った。高校卒業以来だから、40年(以上)ぶりになる。彼とは出身中学が異なっていたから、鳥取西高ではじめて出会い、1年生で同じクラスになった。
最初のホームルームで、全員が自己紹介をした。
N君はその時のことを覚えていて、そっくり繰り返した。

自分の姓名を言ったあとで、「ぼくは内市の蒲鉾屋の息子である。カーライル曰く、長き夜を泣き明かしたるものにあらずんば、いまだ共に人生を語るに足らず。以上」

ずいぶんとキザなことを言ったものだが、「変わった奴だなあ、と思い、いまでもその言葉を覚えている」とN君は言った。

当時、カーライルの著書をむろん読んでいたわけではない。ただ、そのころ、新渡戸稲造を崇拝していて、彼の愛読書のひとつが、カーライルの『衣裳哲学』であったことくらいは知っていた。
中学時代に、鶴見祐輔原作の映画『母』を見て、その映画の終わりにこのカーライルの言葉が大きく字幕に現れたのを見た記憶がある。

ネットで検索することを覚えてから、いろいろ古いことを調べることができるようになった。映画『母』は、最初、1929(昭和4)年に松竹が作っていて、高峰秀子が5歳の女の子の役で、審査を通って出演したことなどを知った。
これ以外では、1950(昭和25)年に同じく松竹で水谷八重子等が出演して作られていることがわかった。おそらくこの映画を見たのであろう。ただ、この年は毎日日記を記しているが1月ー4月の間にこの映画の記録がない。前年だったのかもしれない。映画のどの場面も記憶にないが、当時流行った三益愛子主演の母物映画とは違うという印象をもったことを覚えている。

2007年6月13日水曜日

打ちのめされるようなすごい本 2

この本のあとがきは、井上ひさしが「[解説]思索の火花を散らして」と題して記している。その中で彼はこう述べている。
大事なのは、彼女の文章が、いつも前のめりに驀進(ばくしん)しながら堅固で濃密なことだ。別にいえば、文章の一行一行が、箴言(しんげん)的に、格言的に、屹立している。そこで私たちは気楽にめくって、気に入ったところを読めばいい。そのときの気分によって、一行一行が励ましの特効薬になり、慰めの妙薬になり、なによりも思索の糸口になる。 

その通りなのだが、取り上げられている二百数十冊への書評を最初から通読してみれば、米原万里が、その晩年を何とどのように闘い、どのような思いを抱いて生きてきたのかが見えるように思われる。

先に紹介した『発明マニア』に付された「小さい頃から発明好き」と題した、こども時代の万里についての一文を寄せている井上ユリは、万里の実妹で、井上ひさしの奥さんである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――  
〈米原万里の最初にして最後の小説〉

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オリガ・モリソヴナの反語法



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2007年6月8日金曜日

打ちのめされるようなすごい本 1

2005年9月29日、NHK-TVの「生活ほっとモーニング」は、9月11日に
熊本県上天草市で開催された〈食育・健康フェア〉を放映した。
米原万里は、〈健康エッセー〉で「わたしの健康法」と題して短い講演をした。卵巣ガンの摘出手術を受けたが、1年4ヵ月で再発。食生活をはじめ生活習慣を変え、その成果で10キロ以上やせ、身体も快調になったと語っていた。しかし、その言葉通り少しほっそりした彼女の映像が最後になってしまった。翌年の5月25日、死去した。56歳だった。

『打ちのめされるようなすごい本』は、彼女の書評の集大成である。pp.300~315の「癌治療本を我が身を以て検証」は、さまざまな体験本を読みまくり、さまざまの治療法にトライした記録である。

冒頭に紹介したテレビを見たあと、新潟で安保徹さんに直接お会いして、のんびりと治療してくれれば、と願っていたが、闘う米原万里には、できないことだったのだろう。

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打ちのめされるようなすごい本

2007年6月7日木曜日

発明マニア/米原万里

昨年五月米原万里が亡くなる直前まで、二年半にわたって「サンデー毎日」に掲載された全てを集めたもの。本書の帯の惹句に言う。
「米原万里的、ワンダーランド。/絶筆の連載/究極の温暖化対策から日本人男性の誇りと自信向上計画、イビキ防止器具まで―/この世の、あらゆる難問を解決する119の発明」

すべての発明には、新井八代のイラストがついている。イラストの署名はローマ字でARAIYAYOとある。ARAI/YAYOと読まないで、ARA/IYAYOと読むのでしょうね。むろん、万里ちゃん本人だ。
さて、119もの発明のなかで、どれをご紹介するべきか、迷うけれども、二つの理由で、「2 男女共同参画的便器」をとりあげることにする。

第一は、わが家のかみさんが、便所の掃除をするたびに、こうのたもうからである。「おじいさんが、しつこく言うものだから男性用便器を置いてしまい、トイレが狭くなってしまって……」

本書のこの項の冒頭に紹介されている男性二人の言葉を引用する。

1.「その遠慮会釈のない激辛な論評ゆえにあちこちで恐れられ煙たがられているジャーナリストの日垣隆さん」(と、あの万里ちゃんが書いている):
日本の家庭における父権、夫権の失墜は、西洋式便器の普及にともないアサガオ(=男性専用の小便用便器)が一般家庭から駆逐されたのと軌を一にしている。

2.某テレビ局のTプロデューサー:
そうなんですよねえ、用を足すたびに便座を上げるのが面倒だからさぼると、便座にしぶきがかかって、後で、『いやだ、パパ、汚~い』とか、『もーあなた、何度言ったら分かるの! ちゃんときれいにふいといて下さい』とか嫌みや非難に耐えなくてはならなくなる。辛いですよねえ、肩身が狭いですよねえ。

ごうな曰く「闘いなくして、父権、夫権の確立なし!」

次いで、ソ連邦時代、某テレビ局の三人の男性に通訳として同行した万里さんのソ連での経験談が綴られている。話をはしょって言えば、会議の後、同行「三」人で男性用トイレへ入ったところ、便器の位置が高すぎて、足の短い彼らは機銃掃射をすることあたわず、やむなく大便用の個室に入って用をすませた。
そこで、万里さんは昇降式の男子用便器の発明に取り組むが、女性と同じ姿勢で小の方もすます男性が増えてきているようなのでこの発明を断念するというお話。「それよりも何よりもアサガオが家庭どころか日本国内から姿を消す日も近いのではないか、と敬愛してやまない日垣隆さんに同情を禁じ得ない今日この頃である。」と結んでいる。
なお、わが家の男性用便器はアサガオ型ではなく、縦長型で前面は尿と流れる水が溢れない程度の高さであるから、孫たちはよちよち歩きができるようになった頃から堂々と男らしく用をすますことができたのである。

えッ、なに? 「男女共同参画的便器」を取り上げた二番目の理由ですか?そうそう、忘れていました。わが家の便器自慢の話じゃなかった。 

もうだいぶ以前のことで、どこで見たのか忘れてしまったが、便器の上方にこんな張り紙があった。 

朝顔のそとにもらすな竿の露

なかなかいいじゃありませんか。もうこんな張り紙も不用になったんですかねえ。


ごうなのおすすめ本棚 1


発明マニア


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