2008年12月31日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (10)

前回は、歴史年表からいくつかの出来事を思いつくままに並べて、日米関係が悪化して行き、鳥取の地に骨を埋めるというヘンリー・ベネットの思いを果たすことができなくなった、と書いた。
いよいよ日米開戦となるわけだが、その前に、アメリカで暮らすことになったスタンレーのその後について、急いで振り返ってみたい。

加藤恭子は次のように記している。
 十三歳で本格的にアメリカに住むことになったスタンレーにとっては、生活のレベルの高さは、鳥取のそれと比べると、びっくりするようなものであったにちがいない。しかも、私立学校の生徒たちの多くは、裕福な家庭から来ている。宣教師の質素な家庭、しかも大正時代の日本で育った少年にとって、かなりの違和感があったとしても不思議ではない。
 姉のサラによると、一九二〇年代の鳥取市内では、各戸に電気と水道があった。だが、電気は電灯に使うだけで、ほかの電気用品に使うことはできなかった。電気冷蔵庫などはなかったし、自動車も少なく、人力車を使っていた。暖房はこたつと火鉢にたより(引用者注:昭和10年代でもこの通りであった)、男の子たちは制服を着ていたが女の子たちは着物に袴。女性は着物、成人男子もほとんどが着物に袴だった。それに比べ、一九二〇年代のフィラデルフィアでは、ほとんどの家が自動車、ラジオ、電気冷蔵庫などをもっていたという。
「だからと言って、鳥取での生活が原始的だなどと思ったことは、一度もありません。私たちは、大好きでした」
 とサラはつけ加えるのだ。(pp.78-79)
1929(昭和4)年、スタンレーはオハイオ州オーバリン・カレッジに入学。寄宿舎の食堂で皿洗いのアルバイトをやりながら、1932年に卒業し、その秋、ハーバード大学医学部に入学した。
大学でも、家からの仕送りだけでは学費がまかなえず、大学食堂のウェイターや教授たちの家の暖房係のアルバイトをした。当時は、地下室にある炉で石炭を燃やし家中を暖めていたという。
2年目から、解剖学の教授がスタンレーのために奨学金をとってくれ、勉学に専念できるようになったという。
4年生になり、フェローシップ(大学院学生・研究員に与えられる特別奨学金)をもらえることが分かったので、以前からつきあっていたアリス・ルーサ(Alice Roosa)と結婚することを決意する。
彼女もスタンレーと同じ年にオーバリン・カレッジに入学していたが、専攻がスタンレーは化学、アリスは体育と違っていたので、二人は出会わなかった。3年生になって、二人が心理のコースを受講したことで知り合った。アリスは快活で向上心が強く、優等生だった。
アリスの家は、父方も母方も、曾祖父、祖父、父が医者という医者一家で、アリスも医学部へ進みたかったが、「家庭と医学は両立しない」という父の意見に従って断念したという。カレッジ卒業後、ニューヨーク州の両親の家に帰り、近くのハイスクールの体育教師となった。スタンレーは毎日のように手紙を書き、アリスも返事を出した。
1935(昭和10)年7月に、二人はアリスの父の家で結婚式を挙げた。朝の8時半にスタンレーの父、ヘンリーによって式を挙げ、その後、家族でいっしょに朝食をとるだけの簡単なものであったという。

1936年、スタンレーはハーバード大学医学部を優等で卒業した。
1年間無給のインターンをやり、1937年9月、ボストンへ戻ってハーバード大学医学部のフェロー、1939年からは解剖学の講師となった。

(今回は『S・ベネットの生涯』pp.78-83 による)

2008年12月27日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (9)

ヘンリー・ベネットが日本語を聞き、話すだけでなく古い日本語の文章を読むこともできたことはすでに述べた。妻のアンナも、歴史、宗教、考古学などの読書こそ英語であったが、日本語に堪能であったという。
しかし、子どもたちに対する教育方針は、アメリカ人として育て、帰国後にハンディキャップを持たせないようにしょうというものだった。
米国の通信教育専門の学校から教材を取り寄せ、朝食後からお昼まで、週5日勉強した。
長女のサラは4年まで通信教育で勉強し、神戸の外国人学校、カナディアン・アカデミィの小学校4年へ編入された。ハイスクールまでカナダ式の一貫教育校で、寄宿生50人、通学生150人であったという。サラに1年半遅れて、長男のスタンレーもこの小学校の寄宿生となった。

1917(大正6)年、ベネットの一家は米国へ帰国した。当時、アメリカ人宣教師は、7年外国で勤務すると一年の帰国が認められたという。一家は、母アンナの出身地であるフィラデルフィア市郊外のジャーマンタウンで暮らした。7歳のスタンレーにとっては最初のアメリカ体験だった。彼は姉のサラとともに、母の母校、ジャーマンタウン・フレンズ・スクールに通った。小学校から高校まであるこの学校は創立が1845(弘化2)年の私立学校で、主にクエーカー教徒の子弟のためのものであったが、教育水準が高いことから他宗派の家の子どもたちも通学するようになっていた。元駐日大使で夫人が日本人だったエドウィン・ライシャワーもここの卒業生だという。
1年後、家族は日本へ帰ってくるが、4、5年後母アンナの健康に問題が生じた。1923(大正12)年、アンナは軽井沢で乳癌の手術を受けた。
翌年の夏、一家はジャーマンタウンへ戻った。

1927(昭和2)年ヘンリーは単身日本へ帰り、翌年アンナも下の二人の娘をつれて鳥取へ帰ってきた。カレッジへ通っていたサラとスタンレーはアメリカに残った。この二人が戦前、最後の短い来日をしたのは、1930(昭和5)年の夏、両親の銀婚式を祝うためだった。このとき、一家は野尻、軽井沢、富士山、日光へ行っている。

1934(昭和9)年7月、一時帰国したベネット夫妻は、1936(昭和11)年3月、鳥取へ帰ってきた。子どもたちは全員アメリカに残った。鳥取駅には県知事をはじめ多くの人々が出迎え、ヘンリー・ベネットは次のように挨拶したという。
「鳥取の地へ帰ってまいりました。これからは日米の親善と交流、そして幼児教育とキリスト教の伝道に一生を捧げるとともに、日本と山陰の歴史や文化の研究を続け、愛児フレデリックが眠るこの地に、妻とともに骨を埋めるつもりです。」

しかし、時代はこのヘンリーの言葉の実現を許さなかった。
翌1937年、日中戦争が起こり、翌38年には東京オリンピックの中止、さらに39年、ノモンハン事件、1940年には、日本軍の北印進駐、日独伊三国軍事同盟締結などなど、国際情勢は緊迫し、日米関係も悪化していった。
1939(昭和14)年の春、ベネット家親類縁者のつどいがあり、ヘンリーとアンナは渡米した。どうしても日本へ戻るというヘンリーの身を案じて病気になったアンナを残して、ヘンリーは日本へ発った。
翌1940(昭和15)年の夏、在米の妻を見舞ったヘンリーは、二度と日本へ帰ることはできなかった。
 日本側の資料では、日米関係の悪化に伴い、日本の官憲が圧力をかけたのではないか。申し訳なかった。という雰囲気がにじみ出る。
 だが、サラによると、責任はアメリカ政府にあるという。鳥取へ単身帰ろうとしたヘンリーに対し、アメリカ政府が日本行きを禁止、許可を出さなかったのだという。こうして、約三十六年もの歳月をすごした鳥取との別離を、ヘンリーは余儀なくされたのだ。
 ヘンリーは悲しい報告を鳥取の協会関係者へ書き、家具などは皆で分けてほしいと頼んだ。
(今回は最後の引用部分はもちろん、ほとんど『スタンレー・ベネットの生涯』の中の pp.69-71 からの引用である。)

2008年12月26日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (8)

1915(大正4)年3月8日、ベネット家に悲劇が起こった。
先回、ベネット邸の庭にあった、雨水を溜めておくための「地面に埋められた陶製の茶色の水がめ」のことを記した。
この日、スタンレー、フレデリック、日本人の男の子たち何人かが庭で遊んでいた。誰かがフレディ(フレデリックの愛称)に小さなバケツを渡して水を汲んでくるように言ったらしい。彼は近づいてはいけないと言われていた水がめの蓋をとって水を汲もうとして頭から落ちた。
台所にいた料理人がふと窓の外をのぞいて、水がめから突き出ている二本の脚を見て叫び声を上げた。
父のヘンリーが脚をつかんで引き上げたが、すでにフレディは死んでいた。
「誰が彼に水を汲んでくるように言いつけたのか、穿鑿(センサク)する人はいなかった。」と加藤恭子は書いている。(p.40)
「異人屋敷」へは、日本人信者の女性たちが集まり、小さな白木の棺の底とフレデリックの身体の周囲に詰める白絹の細長いクッションのようなものを縫った。小さな手には、庭から摘んだ白い花束が持たせられた。時折、すすり泣きが洩れた。
 そして野辺の送り。男たちが棺を肩に乗せて運んだ。のぼりを立てた長い行列が棺の前後に続き、丸山へと向かった。(中略)
 この丸山の地は、のちに本格的な教会墓地として整備され、フレデリックの墓もそこへ移された。今日、フレデリックの墓は、鳥取市丸山の教会墓地にある。(中略)
 この墓地は、久松山の山麓北東の方角、八幡池に近く、階段や山道を登っていく鬱蒼とした森の中にある。樹々が影を落としているので、ほとんど日が当たらない。前方には納骨堂、平安霊堂がある。
(『S.ベネットの生涯』pp.41-42)


2008年12月20日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (7)

ヘンリーとアンナの間には5人の子どもが生まれた。
長女、サラ(Sara)1908(明治41)年生。
長男、スタンレー(Stanley)1910(明治43)年生。
次男、フレデリック(Frederick)1912(明治45)年生。
次女、アンナ(Anna)1913(大正2)年生。母と同名なので「ナニー」とニックネームで呼ばれたという。
三女、メアリー(Mary)1916(大正5)年生。

彼らが子ども時代を過ごしたのは、例の「異人屋敷」、私たちが子どもの頃の呼び方では「ベネットさんの家」であった。正確に言えば、鳥取弁で「ベネットさん家(げ)」と呼んでいた、というべきかもしれない。この言い方がどのように、また、いつ頃生まれたのわからない。「鳥取藩を治めていた池田家(いけだ・け)」のような「け」が「げ」となったのかとも思うが分からない。「◇◇ちゃんげの者(もん)」とか「◎◎ちゃんげは、○○ちゃんげの隣」といったように使った。前者は家族を指すとも言えるし、後者は明らかに建物を指している。前者の意味であったものが、後者の意味にも用いられるようになったのかも知れない。

本題に戻ろう。加藤恭子の本に「鳥取の異人屋敷。スタンレーもここで生まれた。(撮影年月日不明)」と注記してベネットさんの家の写真が掲載され、本文に「クローバー敷きの庭に囲まれ、一、二階ともにベランダ風な回廊をめぐらせた白っぽい洋風建築」と書いている(p.38)。
 ガス、電気、水道のまだなかった当時の生活の中で、ベネット家の飲料水は雨水に頼っていた。井戸もあるのだが、畑にまく人糞の肥料が地下水を汚染するので、飲み水としては使えない。屋根のすぐ下に、雨水を受ける大きな木槽があった。その下部には栓があって、それをひねると、地面に埋められた陶製の茶色の水がめに水が落ちた。そこから竹びしゃくで水を汲み上げ、煮立ててから飲むのだった。水がめの上には木の蓋がしてあり、子供たちは近づかないようにと言われていた。(pp.39-40)
私の父は1887(明治17)年12月の生まれだから、ヘンリーより13歳くらい年下だ。ヘンリー夫妻が「異人屋敷」で暮らし始めたときには、18歳前後で、たぶん鳥取にはいなかったと思う。だが、10歳前後の頃に父親が母親と自分を含む三人の子どもを捨てて出奔し、長男であった父が一人、元魚町2丁目にあった伯父の家に預けられた。毎朝天秤棒で桶を担いで袋川で水を汲んでくるのが仕事の一つで、とくに冬はつらかったという。私が子どもの頃、父は鹿野街道筋の内市で商売をしていた。水道はむろんあったが、井戸の水も電気を使ったポンプでじゃんじゃんくみ上げて「湯水の如く」の文字通りに使っていた。父の苦労話を聞くたびに、なぜ井戸水を使わなかったのだろうと思ったが、上に引用した加藤の文章を読んで納得した。(また、脇道にそれてしまったか?)

2008年12月19日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (6)

ヘンリー・ベネットと妻のアンナについて伊谷ます子の語っている内容をご紹介したが、伊谷隆一の文章や加藤恭子の『スタンレー・ベネットの生涯』からもう少し補足しておきたい。
ヘンリー・ベネットがハーバード大学卒業直後、宣教師として日本に派遣され鳥取に単身赴任したのは、1901(明治34)年だった。その後一時帰国してアンナと結婚し、日本に帰ってからアンナの任地だった岡山でしばらく暮らした後、二人で鳥取へ戻ってきたのは、1906年の秋であったことはすでに記した。
この時代を歴史的に見れば、日露戦争(1904ー1905)を挟んでいる。『百傑伝』の中で、伊谷隆一はこう書いている(pp.642-643)。
日露戦争前の排外主義気運勃興のさなかであり、いうまでもなくヤソと知れば露探(引用者注:ロシアのスパイ)と騒ぐ当時の風潮のなかで、彼の鳥取での苦難にみちた伝道がはじめられた。人を訪えば塩がまかれ、自宅には石が飛んだ。山陰を伝道センターと指定したアメリカンボードからの強い援助があったとはいえ、このようななかにある外人宣教師を支えるものは、その伝道に賭ける捨身の決意と、その地にある無名の信徒たちの祈りである。
 ベネットがまず第一に励んだことは日本語の習得であり、日本のくらしを身につけることであった。鳥取弁のまだるこいユーモアを解し、日本語ばかりでなく漢籍をも自由に読み、ミソ汁やタクアンの茶漬けの食事をし、そして正座して人と語ることをいとわなくなる、そのような謙虚な努力とそのくらしが、次第に、信徒たちとの結びつきを強めていった。
正座については先回紹介した伊谷ます子の話にも出てきたが、ヘンリーの長男スタンレーの遊び友達の一人であった尾崎誠太郎も後年こう語っている。(以下は、引用も含め、『スタンレー・ベネットの生涯』pp.48-49 による。)

「日曜学校で畳に座られるとき、ズボンをちょっと持ち上げる。そうすると、ズボンの筋がいつまでもくっきりとついている。私もそのやり方を応用しました。」
この尾崎誠太郎は、京都帝大工学部卒業後、陸軍航空技術学校教官と陸軍航空技術研究所員を兼ねた航空少佐で、戦争中はスタンレーと敵味方に別れることになった人物だが、戦後は国立米子高専と広島電気大学の教授を歴任した。1993(平成5)年9月、加藤恭子が鳥取に取材に来たとき、84歳の彼に会って直接取材している。弟の繁夫は鳥取大学名誉教授で、同級生だった評論家の荒正人は、ヘンリーから洗礼を受けたという。
その尾崎誠太郎が、鳥取一中(現在の鳥取西高)時代に、ヘンリーに向かってこんなことを言ったという。「『クラウン・リーダー』全五巻を英国人で文部省顧問のパルマーが読んだレコードを父が一式買ってくれましてな。私はキングズ・イングリッシュだと威張って、ベネットさんはアメリカ人だから英語は駄目だってなことを言ってしまった。子供というのは、生意気なものです。」そして「お怒りにならなかったのですか?」との問いにこう答えている。
「顔を真っ赤にされましたが、一つも怒られなかった。いや、内心は怒られたでしょう。ハーバード大学を何とか賞をもらって卒業した人に、田舎の中学生が『あんたの発音は悪い』ということを言ったのですから。後からは、冷や汗が出たり、すまんと思ったり…」
このエピソードのあとに、「生意気な子供がかえってかわいいのか、ヘンリーは誠太郎をとてもかわいがったという。」と加藤は書いている。

ヘンリーは、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語にも通じていた。日本語も鳥取弁を含む話し言葉を理解し、使うことができた。
話し言葉だけではない。江戸時代に書かれた鳥取藩の史書を読み、それを英訳しようとさえしていた。
幼稚園の式では、「教育ニ関スル勅語」、いわゆる「教育勅語」をおごそかに朗読したという。

教育勅語といえば、小4のときであったか、これを筆で清書して提出せよという夏休みの宿題があった。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ…」難しい漢字を書きまちがえては書き直し、半紙を何枚も使って、なんとか最後の「御名御璽」までたどりつき、その最後の「璽」を書きそこねて、べそをかいたことがあったっけ。
閑話休題。
ヘンリーは1956(昭和31)年、フィラデルフィアで亡くなった。スタンレーが父の持ち物を整理していると白い絹の布に包まれて桐の箱に入っている教育勅語がトランクの中から出てきたそうだ。「ずいぶんいい言葉で書かれていると思います。あれを父が読んでいたことを、誇りに思っています」と言ったという(加藤本p.222)。

ヘンリーについて、尾崎誠太郎は「怒られた顔を見たことがありませんでしたな。温厚篤実。日本人にもめったにいないような、実直な方でした」と言い、息子のスタンレーは先回紹介したように「聖人のような人でした」と言っている。

2008年12月17日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (5)

ヘンリー・ベネットは、毎日近くの教会へ通っていただけではない。
随想と歌集を合わせた『雁皮の庭』という著書もある、歌人の伊谷ます子は、愛真幼稚園の前身である鳥取幼稚園の第二回卒業生で、鳥取教会へも通った経歴を持つ人だった。その彼女がベネット夫妻について語った言葉が、『近代百年 鳥取県百傑伝』中の伊谷隆一「ベネット」伝中に引用されている。そしてその内容は後の松田章義による「ベネット」伝(『鳥取県 郷土が誇る人物誌』)、加藤恭子の『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』にも、受け継がれている。

伊谷ます子によると、ベネットは自分より遅れて鳥取へやって来たエストラ・コーという女性宣教師と一緒に自転車で伝道範囲の浦富、青谷、八頭まで出掛けたという。鳥取県東部を知っている人であれば、舗装もされていなかった当時の道を、これらの地区へ鳥取市内の中心地から自転車で往復することがどんなにたいへんなことか、よく分かるであろう。
ミス・コーについて伊谷は「鳥取の青年層に伝道し、多数の人を導き、多大なる貢献のあった人」と述べており、加藤恭子は『S・ベネットの生涯』の中(p.47)で「長身のコーは、紺のワンピースがよく似合う清らかな美しさで人々を惹きつけたという」と書いている。ベネット夫妻について伊谷が語っている言葉を二カ所引用しよう。
 当時鳥取教会は畳敷でしたが、(引用者補記:ヘンリー・ベネットは)何時までも正座して信者と語り、上手な日本語で説教もされました。又非常に音楽的才能があり、その低音はきれいで、ヴァイオリンの音色は信者をして容易に恍惚境に入らせる事が出来ました。(引用者注:さきほど述べた自転車による伝道の際にも、いつもヴァイオリンを持っていったという。)賛美歌の四百九十六番「うるわしの白百合」と云うのがお得意で、今でもそのバスが耳によみがえって来る様です。
 非常に日本の歴史を勉強され、特に鳥取の歴史に関心があったようです。
(中略。次の「氏」はヘンリーのこと)当時氏の秘書をしていられた平岡とみ氏は「先生は池田候の日記(引用者注:今後触れるときがくるが『因府年表』のことと思われる)を持っていられ、それを英訳していましたが、毎日どんな難しい漢字をたづねられるかと心配でなりませんでした。」と述懐されている。
 又ある夏、山中湖に家族揃って避暑に行く事になりました。家族は先に汽車で行き、氏は自転車で行く事になりました。然し自転車で漸く山中湖に到着した途端に、鳥取教会の信者の人の昇天をきかされ、たちどころにその足で鳥取に引き返して行ったと云うエピソードもあります。
 夫人は名門の出身であると聞いていました。婦人会を組織し当時としては珍しい西洋料理や菓子、編物を教え育児の相談等をして皆から喜ばれ親しまれていた様です。私は小さい時「雪ヤケ」がひどくて難儀をしていましたが、夫人から頂いた薬、今から思うとメンソレータムではなかったかと思いますけれど、それがよく効いて早く癒った事もありました。又私の姉と兄が相次いで亡くなった時も両親はどれ丈親切に慰められたかと云う事も忘れる事が出来ません。「上村のおばあさん」と云う教会員で、全く身寄りのない老人を最後まで親切に世話をしてお上げになった事も、教会員達の心の中に何時までも灯となって残っています。(中略)夫人は現在も米国にて九十歳の高齢を保ち、帰国後も尚鳥取を忘れず、折にふれて献金など送って来る事があります。(『百傑伝』pp.644-645)
いささか引用が長すぎたかも知れない。しかし、ベネット夫妻の人柄がよく偲ばれるし、伊谷の言葉の中に古い鳥取弁が匂うような箇所がいくつかあって、私には懐かしい。
なお、ベネット夫人のアンナは1973(昭和48)年12月20日に死去した。97歳だった。

1979(昭和54)年、ヘンリーとアンナの長男、スタンレー・ベネットが戦後何度目かの来日の際、「鳥取へ帰ってきた」(彼はいつもこう言ったという)とき、NHK鳥取の「マイク訪問」に出演して板倉正明アナウンサーの質問に「格調高い日本語で答えた」という。このとき、伊谷ます子が同席していた。スタンレー自身が「聖人のような人でした」と言っているヘンリーについて「いつもにこにこしていらしたもので、ちっとも外国の方というような隔てはなかったものです」と語っているそうだ。この放送の4年後の1983年に亡くなった。「この番組の録音テープは、スタンレーの日本語での肉声をとどめる現存テープの数少ないものの一つである」と、加藤恭子は書いている。(『S・ベネットの生涯』pp.50-51)
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2008年12月15日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (4)

1906(明治39)年9月、岡山から鳥取へ戻ってきたベネット夫妻に、話を戻そう。
ふたりが鳥取に「着いてみると、手配しておいた家がまだ整っておらず、十日間は入居できないという。台所で鶏を飼っていたらしく、ひどく汚いうえに、壁塗りも終わっていない。前の住人が皮膚病だったそうで、家中に消毒薬の臭いが立ち込めていたなど、困難な新婚生活の出発のようである。」と、加藤恭子は書いている。(p.46)

これが最初の回で「ベネットさんの家」として紹介した家であろう。当時は「異人屋敷」と呼ばれていたらしい。いつ頃までそう呼ばれていたかわからない。
わたしの小学校時代、ベネット一家はすでに住んではいなかったが、「ベネットさんの家」と呼んでいた。ひと月ばかり前に鳥取西高時代の同期生二十人ばかりが集まったとき、そのことを醇風小学校出身の二、三人に尋ねてみたが、「ベネットさんの家」と異口同音に答えた。
 夫妻が赴任した鳥取教会は、『鳥取教会百年史Ⅰ』(鳥取教会百年史編纂委員会、一九九〇年)によると、創立は明治二十三年(一八九〇年)とある。
 夫妻は協力して種々の事業に従事した。少し前から、前任の宣教師の自宅で行われていた児童保育のプレイ・スクールを拡張して、鳥取幼稚園を創設。これは現在も愛真幼稚園として幼児教育が行われている。また、昭和5年(1930年)には、幼稚園の敷地内に「南窓館」というクリーム色二階建ての洋館を建て、若い人たちの活動の拠点とした。日曜学校のほかにも、家政科、英語科、タイプ科などを作り、文化センターとしての役割も果たした。
 教会関係者が保存している古い写真を見ると、明治四十一年(一九〇八年)の若き日のヘンリーは、秀でた額にがっちりと張った顎の芯の強そうな青年。隣に坐る夫人は、髪を後部でまとめているらしい。立衿の白っぽいロングドレス姿である。(pp.46-47)
わたしの二人の娘も通った愛真幼稚園も、道路を隔ててその前にある鳥取教会も、場所は昔と変わってはいない。「ベネットさんの家」から歩いて15分もかからないくらいの距離だ。
現在の教会は1984(昭和59)年に完成した。「白でアクセントをつけた煉瓦の二階建てで」「三角屋根の頂点に十字架を頂く白と茶色の鐘楼がひと際目立つ」とその印象を加藤恭子は書いている。(p.48)

2008年12月6日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (3)

加藤恭子『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』を読んでみて、流石に『ノンフィクションの書き方』の編著者の作品だと感嘆した。
加藤はこの編著書の中で自分の作品について次のように述べている。
 このスタンレー・ベネットはアメリカ人の解剖学者です。鳥取で生まれ、十三歳でアメリカに渡り、やがて戦争。戦争中はアメリカの海軍士官として日本と戦います。
 ところが、自分が生まれた国である日本と戦うことについて、ひじょうに苦しんだ。そして戦争が終わってからは、日本の解剖学者を自分のところへ次々と呼び寄せて一生懸命に教えたのです。
 彼が亡くなったとき、日本のお弟子さんたちが、先生の伝記を残しておきたいということで、團ジーン先生の伝記(引用者注:『渚の唄―ある女流生物学者の生涯』講談社 1980(昭和55)年を指す)を書いた「あの人」に頼もうということになり、私に依頼がきたのです。(p.116)
加藤は、鳥取、沖縄、アメリカと取材の旅をし、多くの人に会って話を聞き、
スタンレー自身の書いたものはもちろん、英文、和文の文献を数多く集め、さらに地方新聞の記事にまで目を通した。
そしてこれらの作業の中で、スタンレー・ベネットの人物の原点・基調には、
心の故郷鳥取と、幼い時に事故でなくなった弟のフレデリック、そして太平洋戦争の三つがあると考えて、彼の生涯を書き上げている。

先回少し触れたスタンレーの父、ヘンリーについて、加藤は二つの点で2冊の参考文献を挙げている。
・伊谷隆一「H・T・ベネット」(『近代百年鳥取百傑伝』山陰評論社1970年)
・松田章義「ヘンリー・J・ベネット―伝道と幼児教育―」(『郷土が誇る人物誌』鳥取県教育委員会編、第一法規出版 1990年)

前者のタイトルにあるベネットのミドルネームが「T」になっているが、後者の「J」が正しい。
後者は150名の人物を取り上げている。わたしも、この中の2名について執筆しているが、どの人物をだれが執筆したか、明らかにしないことになっていた。この場合は例外的措置だったのであろう。

2008年12月4日木曜日

鳥取を愛したベネット父子(2)

イギリスのジェームズ1世が清教徒を弾圧したため、ピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号で新大陸、北アメリカのプリマスに上陸したのは、1620年だった。高校時代に世界史で習った程度の知識しかないわたしにも、その程度のことは記憶にある。
ベネット家の先祖が英国から新大陸に移住してきたのは1680年頃であったという。「クエーカー教徒だったために迫害された彼らは、本国を離れ、ペンシルヴァニア州西部に、兄弟たちとともに定住した。」と、加藤恭子は記している(p.43)。地震のことを英語でアースクエイク(earthquake)というように、クエーカー(Quaker)とは「ふるえる人」という意味である。
中・高生時代に尊敬というより崇拝していた新渡戸稲造もクエーカー教徒だったし、クエーカーと呼ばれるのは、彼らの祈りがあまりに熱心であるがために身体が震えるので、そう呼ばれるのだ、と新渡戸が述べていた記憶があるが、どの書物で読んだのか定かではない。
ふと思いだしたのでこんなことを書いてしまったが、様々な宗派の違いなどはまったく分からない。わたしの関心はあくまでも、ベネット父子の人柄や行為にある。

ヘンリー・J・ベネット(Henry J. Bennett)は、1875(明治8)年に生まれ、ハーバード大学を卒業後、1901(明治34)年11月に米国伝道会の宣教師として鳥取へ赴任した。
1902年か1903年に短期間の宣教師として岡山に赴任していたアンナ・ジョーンズ(1876年生)と婚約した。YMCAの仕事で神戸に在住していたハーバード大時代の同級生の妻がアンナの親友であったという縁だった。
1905(明治38)年7月、フィラデルフィア郊外にあったアンナの両親の家で、結婚式を挙げた。日本に戻った二人はアンナの赴任地、岡山にしばらく留まり、翌年、1906年9月に二人で鳥取へ帰った。
「ヘンリーと私は、金曜の午後六時半にここ(鳥取)へ着きました。岡山から二日の旅でした…」
 と始まるこの手紙は、結婚後のアンナが夫に伴われ、初めて鳥取市に着いたときのものであろう。岡山から鳥取へ、二日の旅! 今なら、汽車で二時間半の行程である。
ヘンリーとアンナは、人力車二人引で中国山脈を越えた。初めは、智頭[ちず]に木曜の夜に着く予定だったが、車夫の足がのろくて、その手前の小さな旅館で一夜を明かさなければならなくなった。だが、その旅館の娘が洗礼を受けていて、こんな辺鄙な場所に信者が、と驚いてもいる。(pp.45-46)
(注:引用文中の[ ]内のひらがなは原文のルビ)


2008年11月29日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 1

書斎の大掃除がなかなか進まない。11月も半ばになった頃、書棚を整理しながら1冊の本を手にして片付け仕事がストップしてしまった。
加藤恭子・編著『ノンフィクションの書き方 上智大学コミュニティ・カレッジの講義と実習』はまの出版 (1998年4月)

裏表紙の見返しの遊び紙に鉛筆で「bk.19980719」と記入している。あゝ、もう10年も過ぎてしまったのか、と驚いた。
この本を読んでいて、この編著者に『日本を愛した科学者――スタンレー・ベネットの生涯』という著書があることを知ったのであった。

このブログの、映画「姿三四郎」1/2回(本年6月29日)で、台風一過の早朝、雨に濡れた鹿野街道を久松山下の堀端の公園へ向かう少年の姿を小説風に描いてみた。
醇風国民学校(現在、小学校)を過ぎて堀端に出るまでの半ばあたりで、県庁や地裁のある国道29号線が鹿野街道と十文字に交わっている。十文字の縦棒を鹿野街道、横棒を29号線とすると、縦棒の上に久松山があり、十字の右下の角に洋風の建物があった。「べネットさんの家」と呼んでいた。
私たちが小学校に入学したのは1941(昭和16)年で、4月1日をもって、小学校は国民学校初等科となり、この年の12月8日、「大東亜戦争」が始まった。べネットさん一家はすでにアメリカに帰国していたが、私たちはその洋風の家をべネットさんの家と言っていた。

そんなわけで、なぜ、東京生まれで早稲田大学仏文出身の加藤恭子さんがスタンレー・ベネットの生涯を書いたのだろうと思ったし、スタンレー・ベネットとは、どんな人物であったか知りたいと思った。
当時、コンピュータを使っていたら、直ぐに検索で調べたであろうが、その時はいずれ図書館にでも行って調べてみようと思っていた。そして、そのまま忘れてしまっていたのである。

今回はただちに行動した。コンピュータでこの本が県立図書館にあることを確かめ、すぐに行ってこの本を帯出した。そして、一気に読んだ。





2008年11月10日月曜日

甦ったEvernote

ウェッブ上の便利なものの一つとして、EverNote をこのブログでとりあげたのは、今年の6月2日だった。やがてEverNoteは使えなくなり、新しくEvernoteとなった。

しかし、これはごらんのような画面でEverNoteと比べて非常に不満だった。(ここで述べているのはすべてフリー版についてである。)





今回やっとEverNoteのような画面で使えるようになった。これを何のためにどのように使うのか、よく考えて「活用」したいと思う。

そのためにとても参考になる記事があったので、タグの付け方もあわせて学習したいと思う。

2008年11月6日木曜日

このブログのラベルのことなど

アルファーブロガーという言葉がある。日本語圏でのみ通用しているらしいが、多くの読者を集め、したがって、かなりの影響力を持っているブログの書き手を指す言葉らしい。英語圏ではギリシャ語でなく、A-list blogger と呼ぶそうだ。こちらは政治的な影響力を発揮するような者を指すようだ。

そういうサイトをいくつか訪れたこともあるが、お気に入りのサイトやブログは別にあって、それらはFirefoxのScrapBook(最近はGoogle Chromeと、どちらにしようか、迷っている)やGoogleのリーダーに登録したりして、頻繁に訪問している。

こういうブログの持っているテーマは明確で、それぞれのブログの性格、特色がはっきりしている。そういう立派なブログに比べて(というのも、おこがましいが)、このブログの内容はあまりにも雑然としている。そんな[らむぶらー]の欠陥を補ってくれるのが、右のサイドバーにある【ラベル】とその下にある【このブログを検索】です。

【ラベル】書籍で言えば、目次や索引のような働きをする。ある意味ではもっと便利だ。たとえば、一番上の「あの人この人」をクリックすれば、いろいろな人物について書いている29のブログが新しいものから一瞬にして並ぶ。実は、このとき、これらのブログの先頭に写真のような「ボタン」が現れるはずなのだが、なぜか「らんぶらー」ではうまくいかない。
写真は「らむぶらー」と同じテンプレートを使っている「MEMO Blog」という非公開のブログである。サイドバーにラベルを作成したらたちどころに、写真のような「ボタン」が出現した。この下線のある「元に戻る」ボタンをクリックするといつもの順番に並び変わる。
なぜ「らむぶらー」ではだめなのか、分からない。両者のテンプレートを比べて点検したいのだが、プリンターが故障しているのでまだやっていない。
(わたしの視力では画面上ではとてもダメ)いずれにしても、インターネットを使って見ているわけだから、Internet Explorerであれ、Firefoxであれ、ツールバーの左端の[戻る]ボタンをクリックすれば瞬時にもとに戻るわけだから、かまわないのだが…。

【このブログを検索】これについては以前記したことがある。たいへん便利で重宝している。以下に写真を載せておきます。

この検索欄の下の方に、大小の文字がたくさん集まっているところがあります。「タグ クラウド」とも呼ばれている。「タグの雲」ですネ。
タグも先程のラベルと同じで、日本語でいえば「荷札」。文字が大きいほど、その言葉を使っているブログが多いということになる。
これらの文字をクリックすると、これらの文字を含むブログが「らむぶらー」以外のブログも含めて検索できる。
この雲の中の文字(タグ)を【このブログを検索】欄で検索していただいてもいいではないでしょうか。

2008年10月26日日曜日

遙けくも来つるものかな

昨日、[Yobi西暦・和暦のカレンダー]というフリーのソフトをインストールした。特に明治以前の年号を西暦に変換するのに便利だろう、と思ったからだ。[西暦→/←和暦]だけのものくらいに思っていたら、特定の過去から今日、現在までの年数・月数・日数・時間数の秒単位までたちどころに出してくる。そこで自分の誕生日を入れてみた。「74年3ヶ月」くらいは日常会話でもあたりまえだが、  

日数にして、27,138日、時間数では、651,312時間

ということになれば、「遙けくも来つるものかな」の思いを抱きますネ。

一夜明けて、早朝のNHKラジオ第1で例の[当世キーワード」を聞く。今回は珍しくカタカナ語がなくて、すべて漢字。いきなり「痛車」ときた。「イタシャ」と読むそうな。

昔歌ったフォスターの「オールド・ブラック・ジョー」じゃないが、オールドミス(これも古いか?)の意味らしい「晩嬢」――こちらは今朝の放送には出なかった。すでにこのタイトルの本になっているようだが、山本貴代さんの【頭の中をそのまま投影】した手帳の中味を雑誌の写真で拝見していた――この言葉と同様、新しい「漢字語」です。「痛車」の方は文字を見ただけではヨミカタもイミもさっぱりわかりまへん。
さて、その痛車のあとは、宇宙結婚式、勝手(買って、じゃないよ)広告、向老学、新卒紹介事業の4つ。みんなウェブ上で検索すれば出てくるはずだ。昨日は「遙けくも……」の思いを抱いたのだから、向老学だけ、ウェブ上のものをそのまま引用しておきます。
向老学 (こうろうがく) -社会 -2008年10月23日 老人になることを肯定し、受容するための学問。人は誰も年をとり、年齢が上がるにつれて老人となっていくことは否定できないことであり、それを受け入れて「いかに老いるか」を生活者の目で探求していく。名古屋の女性グループ「ウイン女性企画」の高橋ますみが提唱したもの。東京大学大学院教授の上野千鶴子によると「向老学とは生きることそのものを老いに向かうプロセスとしてとらえる」ということであり、老いを迎え入れる学問としている。年をとっても自己主張を行い、自分は能力があり役に立つ人間であると主張する代わりに、たとえ社会的価値がなくとも人間としての尊厳が失われないということを探求するための学問である。 [ 新語探検 著者:亀井肇 / 提供:JapanKnowledge ]
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2008年10月22日水曜日

桜土手でのマナー

最後の1本を取り出して空になったパッケージを捨て、吸い終わったタバコもポイと捨てる。
ベンチの前にあるポイ捨て禁止の文字を見ているはずだが....

こうした他人のポイ捨てタバコを拾って歩いている人もときどき見かける。
本当に、頭が下がる。

2008年10月16日木曜日

「手書き」力

和田茂夫『「手書き」の力』(PHPビジネス新書)を読む。
この本のねらいは、24ページにある次の言葉であろう。
私が言いたいのは、「何でも手書き」にではなく、「何でもデジタル」にすることが本当に賢い選択なのか、ということである。
たしかにデジタルの世界はますます便利になってきている。わたしはいまだに所有していないが、たとえばiPodなども、どこにでも簡単に携帯できるし、楽しいだろうと思う。
しかし、急に何かメモをとろうとしたとき、そくざに文字を書いたり図を描いたりするのに、紙と鉛筆ないしはペンほど、手っ取り早いものはあるまい。
すべて印刷された文章に添えられた手書きの言葉が、あたたかさや、その人に対するなつかしさを感じさせるのも事実だ。
手書きにはたしかに「力」があるのだ。文字にせよ、絵にせよ、まことに下手な〈ごうな〉であるが、そう思う。

書斎の本棚にはこの著者の本が二冊ならんでいる。単行本と新書の違いはあるが、この人の本の作り方は同じだ。
各章は、数節から十二、三節で構成され、各節は2~4ページに収まっているし、図も多く、関連のあるページもレファレンスできるようになっている。たいへん親切で、読みやすい。

この本の第3章3節「どんな状況でもメモがとれる方法」で、マネークリップ型や二つ折タイプのサイフに、5×3カードや名刺サイズのカードとミニボールペンを使う(p.99に図)ことを紹介している。

わたしも、30年くらい前、現職時代に、80㎜×165㎜(一万円札より少し大きめ)の用紙の片面に5㎜方眼と「×××用箋」の文字を入れたカードを印刷屋に頼んでかなりの枚数を作ってもらった。これを札入れの中に入れて携帯した。夏の軽装のときには、マネークリップ型の財布にこのカードだけを二つ折りにしてシャツのポケットに入れていた。(若干残っているので、現在も財布に入れている。)
その後、コレクトが紙幣サイズ(76㎜×164㎜)の「情報カード」を売り出したが、紙質も自家製のものより厚めで、縦長に使用すると、片面にだけ9㎜幅の罫が18行分ある。(現在発売されているかどうか、調べていない。)

和田さんの本については、わたしの所有している3冊をこの記事の最後に挙げておくので、Amazon のサイトで見てください。
あと、手帳や筆記具について4点記しておきます。

1)二つ折り財布に紙幣のようなメモ用紙を入れることについて述べたが、その財布に収納できるペンをウェブ上で見つけた。
Sanpo社のWalkie Pen(¥630)。値段も手頃だし、なかなか格好いい。
(↑下線の言葉をクリックすれば、そのサイトに行きます。以下同じ。)
鳥取の文具店にあればいいが...

2)奥野宣之さんの『情報は1冊のノートにまとめなさい』は相変わらず売れ行き好調のようだ。この本を読んで奥野流に入門した人に朗報です。
Campus のA6ノートを使っている人が多いと思うが、そのコクヨS&Tがやりました。その名もずばり、文庫本ノート。70枚で税込価格が¥283。鳥取と松江の人は加藤紙店で買いましょう。消費税は内税にしてくれるから、¥270だ。
奥野さんといえば、「日経ビジネス アソシエ」9月2日号が特集の[ノート術」のなかで、奥野さんを4ページにわたって紹介していた。パソコンで索引を作っている画面の写真を見ると、このブログの「便利なO'sEditor」(6月1日付)で紹介したO'sEditorの[シンプル]という画面で索引を作っている。ちょっとうれしかった(蛇足ごめん)。

3)わたしが現在使っている、もっとも小さなメモ用具をご紹介しよう。まず、メモ用紙の入れ物は、たぶん、どこの100円ショップでも売っている蝦蟇口(ガマグチ)型の印鑑ケース(だと思う)。サイズは、今使っているのを計ってみると、48㎜×90㎜だ。
中に入れる用紙は25㎜×75㎜の付箋紙を30~40枚。な~んだ、とお思いの方もあろうが、このくらいの付箋紙でも小さな文字だと、結構な字数が書ける。

1カ所だけ手を加えることがある。このガマグチを開けて、どんな紙でもいい、高さは付箋紙の幅よりやや大きめ、横は30~40㎜くらいに切って、片側に糊で貼り付けるだけだ。メモを書いた付箋紙を貼り付けて一時保存するためだ。2枚目以上は、むろん、その上に貼り重ねていけばいい。(上の写真をクリックすれば拡大されます)

ペンはゼブラのペンポッドを使う。キャップの先の金具に小さな金属リングか細い紐でリングを作ったものを付ける。ガマグチにはもちろん開け閉めするための口金(クチガネ)が付いている。ガマグチを開けて、一方のクチガネにペンポッドの金属なり紐のリングをかけて閉めれば両者は合体するわけだ。
もう一つのやりかた。ガマグチの底の左右に穴の開いた金具がある。開け閉めするための大事な金具ではあるが、この近くの革(ではないが、らしきもの)をつまんで引っ張れば簡単にはずれる。数㎜の穴が開くが一向に差し支えない。この穴の開いた金具を利用すれば、ペンポッドをぶらさげることができる。
夏、上着を脱いでシャツのポケットが一つしかないときなど、このミニメモ用具は重宝しますよ。

4)調子に乗ってもう一つ。腰リールを使っている方に、和服用の腰リールの提案をしましょう。
若い方は見たこともないかもしれないが、古道具屋かなんかでキセル(漢字では煙管と書きます)入れとたばこ入れ(刻みたばこを入れた)を見つけたらの話です。キセルを入れた竹筒を腰の帯に差し、たばこ入れはその竹筒にくくりつけてぶら下げた。
もうお分かりでしょう。竹筒にボールペンなどを入れ、たばこ入れにメモ帳や付箋紙を入れる、というわけです。
いっそ、格好いい箸入れ(円筒状でキャップをかぶせるタイプもあるよね)を見つけて、これにメモ帳を入れる布製の小袋などをぶら下げてもいいかも。

2008年10月11日土曜日

鳥取駅前に芝生の広場

先週の土曜日(10月4日)、JR鳥取駅へ通ずる幹線道路のひとつ、「太平線通り」に芝生の広場が誕生した。駅前から民藝館通りまで、4車線の道路の東側2車線に、86メートルにわたっって天然芝が敷かれた。

芝広場は横断歩道によって二分されており、駅側が「パフォーマンス広場」、民芸館通り側が「バザール広場」。この広場に隣接したアーケードに面している日ノ丸印刷ビルが「街かど美術館」。さらに「パフォーマンス広場」の西側の車道を隔てた大丸デパートのテラス下が「カフェ広場」と、全体は4つの部分で構成されている。

「バザール広場」ではさまざまな飲食物が販売される。
「パフォーマンス広場」には、北側の端にミニステージがあって、大道芸やフラメンコ、ハワイアンフラダンスなどのパフォーマンスが行われ、観覧者用の折りたたみ椅子が並べられている。

さらに「カフェ広場」には麒麟獅子と猩々、民藝館通りの曲がり角、ヲサカ文具店前には龍の砂像があって、鳥取駅前の風紋広場に以前から作られていた城の砂像と呼応して〈街なか砂像ギャラリー〉となっている。

今回の〈鳥取駅前・賑わいのまちづくり実証事業〉は国の「地方の元気再生事業」に採択され、約2,600万円の事業費は全額国が負担するという。
2日目の5日・日曜日はあいにくの雨だったが、その後は13日の最終日まで天気は良さそうである。

あとは、あいかわらずの下手な写真でご覧いただきたい。最後の写真以外は初日の4日午後に撮ったものである。
                  ↑ 天然芝を敷いたパフォーマンス広場。

               ↑ 鳥取駅前、風紋広場

                ↑ 風紋広場にある城の砂像

               ↑ ヲサカ文具店前の龍の砂像

                  ↓ 大丸前の麒麟獅子と猩々の砂像
                    (10/7 ケータイで。)



2008年9月28日日曜日

便利なタンブラー

Tumblr. (タンブラー)という、たいへん便利でおもしろいものを見つけたので、ご紹介する。
インターネット上で見つけた興味深い記事や写真などを自分のコンピュータに取り込んだりするのは、だれでも日常的にやっていることだ。そんな作業をいとも簡単にやって、しかもそれをウェブ上に保存できるのだ。さらに、それをミニブログのようにして公開することもできる。
もっと具体的にいうと

1.テキスト:エディタなどで文章を書くように、自分で好きなことを書く。
2.写真:自分の写したものでも、ウェブ上にあるものでもいい。
3. 引用:(あとで具体的に紹介します。)
4.リンク
5.チャット
6.オーディオ
7.ビデオ:「ユウチュウブ」もOK。

ここでは「引用」について、少し具体的に述べる。

いわゆる「コピー&ペースト」でもいいが、上の写真のように、「Share on Tumblr」というボタンを「お気に入り」か、ツールバーに、ドラッグ&ドロップして設定しておく。
コピーしたい範囲を選び、このボタンをクリックすれば、下の写真の画面がポップアップする。
次に、この中の左下にあるボタン「CreateQuote」をクリックすれば、引用しようとしている画面からまったく移動しないで、引用部分をTumblr.に貼り付けることができる。

「らむぶらーの拾いもの」と名づけたTumblr.をつくり、上記1~3をアップしてみた。次のアドレスをクリックしてみてください。今後は、ウェブ上の「いいもの」を拾い集めて、展示したい。
       http://gauna.tumblr.com/

興味のある方は、わたしが参考にした――いや、教えていただいたサイトをふたつ、ご紹介するので直接そちらを訪問してください。
       http://blog.overlasting.net/2007-05-12-2.html

       http://ascii.jp/elem/000/000/027/27335/index-2.html


2008年9月25日木曜日

巨人軍の選手はお気の毒

セリーグの優勝争いが混沌としてきた。阪神フアン(不安?)としては、気が気ではない。
それにしても、テレビはもちろん、ラジオでもほとんどが巨人戦の実況で、阪神がどうなっているのか、途中経過が入るのをいらいらしながら待っている。だから、テレビやラジオなんか見たり聞いたりしないで、もっぱらPCで【阪神タイガース公式サイト】ばかりを5分おきくらいに見ていた。それが最近まで1ヶ月近くもPC故障で不可能になったのだから、つらかった。

亡くなった吉村昭が「家内と野球」という短いエッセイを書いている。言わずもがなだろうが、奥さんとは、作家、津村節子である。

彼女は、長嶋がよく打つ、と聞けば、それならその人につづけて打たせれば、と言ったり、捕手は守っている選手の中で一人だけ反対方向に向いているから敵のチームなのね、と言ったりするほどの野球音痴だった。
 放映されるのは、ほとんど巨人戦で、それに気づいた彼女は、こんなことを口にした。
「巨人は毎晩のように試合をしていて、他のチームはその間、休んでいるのね。巨人の選手は休息もとれず気の毒だわ」
 たしかに、そのように考えるのも無理はない。
「巨人軍のファンが多いので、放映するだけなのだ。他のチームも、それぞれ試合をしている。決して休んでいるわけではない」
 野球をテレビで観ている時、彼女が質問すると、思わず身がまえる。しかし、質問が新鮮で、どのように答えるか、それが楽しい。
(後掲書、pp.80-81)

いい夫婦だったんだなあ。

2008年9月23日火曜日

仙崖和尚曰く

1ヶ月近く、PCをDELLへ修理に出している間に、何年間も手を付けていなかった書斎の大掃除を始めた。年末まで3~4ヶ月かけてやらうという遠大な計画(!?)を立てた大掃除だ。ほぼ毎日、少しずつ、しかし徹底的にやろうというわけだ。
書棚を中心に残っている古い書類や日記類のチェック、雑誌や書籍のチェック――のんびり、ある意味では楽しみながら、やっていこうというわけだ。

そんななかで手にした1冊の本。ちょっと開いた第1章の最初の両ページで、目に飛び込んできた仙崖和尚と北斎の言葉。
六十歳は人生の花
七十歳で迎えがきたら「留守」と言え
八十歳で迎えがきたら「早すぎる」と言え
九十歳で迎えがきたら「急ぐな」と言え

葛飾北斎は七十三歳で「富嶽百景」を描いたとき、その前書きで「九十歳にしての奥意を究め、百歳にして神妙ならん、百有十歳にして一点一画にして生きるが如くならん」と自分の志を語っている。人生において「志を立てるのに遅すぎるということはない」(ボールドウィン)というのは本当だ。
(p.24)

川北義則『逆転の人生法則 目からウロコが落ちる89の視点』PHP1991年6月

2008年9月21日日曜日

ことば拾い:アラカン

8月24日の日曜日の朝、例のNHKラジオ第1の「当世キーワード」を聞いていて、驚いた。「アラカン」という言葉が出てきたからだ。

わたしたちより年齢がかなり上であっても下であっても、「アラカン」と聞けば思いだすのは、そう、「鞍馬天狗」の小父さん、嵐寛壽郎(あらし かんじゅうろう)だろう。ウェブ上にたくさんの記述があるが、ウィキペディア(Wikipedia)にこんな風に書かれている。

1903年12月8日ー1980年。本名、高橋照一。
300本以上の映画に出演した、戦前映画界の大衆のヒーロー。剣劇王阪東妻三郎には三歩下がって道を空けたが時代劇の大剣客スターである。
不世出の天才監督、山中貞雄に活躍の場所を与えた点でも記憶される。通称アラカン。従妹に女優・森光子。

まことに痛快というか、愉快な人物で、
竹中労『鞍馬天狗のおじさんは-聞書アラカン一代』(ちくま文庫)を読むと、アラカンの声が聞こえてくるようだ。この本は『新・代表的日本人』佐高信編著(小学館文庫)も取り上げている。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094033017/qid%3D1018234885

http://www.amazon.co.jp/gp/search?search-type=ss&index=books-jp&keywords=%E5%B5%90%E5%AF%9B%E5%AF%BF%E9%83%8E&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A
ビルマ(現在のミャンマー)にはアラカン州があり、アラカン山脈もあるぞ。第二次世界大戦で、日本軍は東からこの山脈を越えて攻撃し、西からまたこの山脈を越えて敗走した。武器、弾薬も乏しく、飢えと病に悩まされた兵士たちはこの世で地獄を味わう悲惨な歴史を遺している。

さて、今の世に流行するという「アラカン」は、いつか取り上げた「アラフォー」の二番煎じの「アラ還」で、還暦前後の年齢者を言うそうだ。
ばかばかしい。

2008年9月20日土曜日

おわび

去る8月26日の朝、とつぜんコンピュータが故障してしまいました。
今日やっと修理が完了して、使えるようになりました。
一両日の内にブログを再開しますので、よろしくお願い申し上げます。

2008年8月13日水曜日

縦書きで書く・読む

パソコンを使って文章を読み書きするとき、横書きが当たり前になっている。しかし、読む世界では縦書きが依然として圧倒的に多い。新聞、雑誌をはじめ、本屋や図書館にある本はほとんどが縦書きだ。
もちろん、パソコンの世界でも、縦書きの文章を書いたり読んだりできる。ここでは二つのソフトをご紹介する。

パソコンで文章を書くとき、軽快に使えるのはエディタと呼ばれるソフトだ。たくさんのエディタがあるが、ほとんどのソフトが横書き用である。縦書きもできるのは非常に少ない。高機能なものでは〈QX〉などがあるが、これは2,900~3,150円のシェウエアである。今回はフリーウエア(無料)の〈ヴァーティカル・エディタ(Vertical Editor)〉をご紹介しよう。
写真(クリックすれば大きくなります)を見ていただきたい。このブログの6月29日付 映画「姿三四郎」1/2 の最初です。
400字詰め原稿用紙になっているが、むろん、普通の縦書き表示も可能だ。
第1行に注目してください。冒頭の「一九四三(昭和18)年」の部分です。
縦書きの文章のなかで「18」という半角2文字の算用数字が1字として表示されている。これは「縦中横(たてちゅうよこ)」と呼ばれている便利な表記だが、こういうことができる。
今、「縦中横」の読み方を(たてちゅうよこ)と記したが、普通のエディタでは、いわゆる「ルビ」を振ることができないからだ。ルビなら、横書きでは漢字の上に、縦書きでは漢字の右横に、読み方を表記できる。
このエディタではルビを振ることができるのは、ご覧の通りだ。もちろん、この二つのことは最初に名をあげた〈QXエディタ〉などでも可能だ。しかし、ルビにしてもやり方がずっと簡単だし、エディタ上でただちにその結果を目にすることができる。こんなエディタが無料で使えるのだから有難いことだ。

もう一つはリーダー。これもいろいろあるが、無料の〈ブックビュー〉を紹介する。自分の書いた文章でも、コンピュータの中のファイルをまるで本を読んでいるように読むことができる。
写真を拡大してみてください。本を読んでいるような感覚で読むことができます。縦書き、横書き、どちらの様式でも可能だが、やはり縦書きで読みたいですね。ルビの位置が今ひとつの感があるが、まあいいでしょう。左右のページの下にある数字をクリックするとページがめくれる(写真ではダメですが)。



どちらのソフトも、下記のように、ベクター(Vector)で入手できます。

VirticalEditor:http://search.vector.co.jp/search?query=VerticalEditor
ブックビュー:http://search.vector.co.jp/search?query=%83u%83b%83N%83r%83%85%81%5B


2008年8月3日日曜日

残念、鳥取西高

昨日の朝9時半頃、甲子園大会開会式の入場行進で、鳥西チームの選手たちが正面中央を通過する姿をわが家のテレビで見た直後、鳥取駅へ向かった。
駅南で待っていたバスに乗車して10時に、甲子園へ向け出発。
鳥西高生を中心とする学校応援団や関係者を乗せたバス、19台は久松山下、堀端から出発した。われわれ一般人のバスは5台だった。人数にして千人くらいか。むろん、その上に関西地区を中心とする卒業生たちも加わる。

第1試合の駒大岩見沢―下関工の試合が長引いたので、第2試合以降も開始が大幅に遅れた。

同行者の多くは、継続中の第2試合を見るためにフリーの外野席へ入っていった。わたしは、独りで場外にとどまり、球場の周辺やそこを行き来する多くの高校生たちや一般人を観察しながら時を過ごした。

第三試合の鳥西を応援する長い列が1・2号入場門の入り口から消えた後に、
1号門から1塁側アルプススタンドに入った。グラウンドでは、両チームの選手たちがホームプレートをはさんで挨拶を交わすところだった。日は大きく傾き、一塁側スタンドは日陰になっていた。三塁側は日光をいっぱいに受けて、華やかな木更津総合の応援団がスポットライトに照らされているようだった。
アルプススタンドを上下に二分する通路を前にした最前列の端に、学校側のバスで来ていた同期生の中井晋野球部後援会長がいて、隣で応援することにした。

試合の経過については、ここに詳しく記すまでもあるまい。1回の裏に1点を先取されたが、文字通り中盤の5回表に、主将の小幡がレフトにホームランを打ち込み同点とした(これが本大会、第1号であったことは、翌日の新聞で知った)。8回の裏に4点を取られたが、成り行きというものだ。敗れたのは残念だが、いい試合だった。

団体バスの停留所まで、40分余の道を敵味方の応援者が入り乱れて歩いた。「23回も出てる学校に勝ったんだから…」年配の小母さんの声が後ろから聞こえた。横を歩いていた男子生徒に「バスでどのくらいかかるの?」と尋ねたら「7、8時間ですね」という答えだった。

鳥取駅に着いたのは、11時をかなり過ぎていた。いささか疲れた。










2008年8月2日土曜日

いよいよ、今日から甲子園

いよいよ、今日から甲子園で高校野球の熱戦が始まる。
第三試合の鳥取西高対木更津総合にあわせて、午前10時出発の応援バスで甲子園へ向かう。
右のサイドバーにも、応援メッセージを添付した。

2008年7月28日月曜日

ことば拾い:アラフォーの女、他

アラフォーの女
「日経ビジネスオンライン」(NBonline)を講読している。
どうして、ごうなのような無職のじぃじぃ(GG)がそんなものを読んでいるの?――と不審に思う向きもあろうから一言弁明しておくと、結構年寄り向きの記事もあるんです。書評欄もいい。今朝も「毎日1冊!日刊新書レビュー」欄で【みんな、自分の話がしたくてしょうがない~『煩悩の文法』定延利之著(評:三浦天紗子)】という、ちくま新書を紹介していて、面白そうだから、今度本屋で手に取ってみよう、と手帳にメモした。閑話休題。

三日四日前、この「日経ビ―――」で、[白河桃子の「“キャリモテ”の時代」]というシリーズ物をなにげなくのぞいてみて驚いた。アラフォー女性・エコ王子・草食系男子・三高女子……、なんじゃ、こりゃ!?
ようするに、終わりに近づいてきたらしいTBS系のテレビドラマを見ていれば、直ぐに分かる言葉らしい。

ここでは、「アラフォー」という言葉を取り上げてみたい。「アラウンド・フォーティ=around forty」で「40歳くらい」あるいは「40歳前後」くらいの意味に使っているらしい。
なにもカタカナ語を使う必要はない。なによりも省略のやり方が、乱暴で無神経だ。around をアラ(about をアバ)なんて、わかりっこない! さらにかりに数字だと分かっていても、フォーと言えば4しか意味しない。fourteen も forty も意味することはできない。
調子に乗ってアラサーもできてるらしいが、このサーもさぁ、13か、30か、さぁ、わからねぇ。
日本語も省略の「高三女子」や「中一男子」は分かるが「三高女子」は分からない。GGなどは、昔の第三高等学校に男装の女子学生が潜り込んでいたのかとおもったりする。

昨夜、阪神は中日に4-6で敗れたが、夜10時台のNHK総合の〈サンデースポーツ〉が絶好調阪神の下柳、矢野、金本の3選手を特集していた。その中で女性アナが「阪神タイガースのアラフォー・トリオ!」と叫んだ。
これは、まあ、う~ん、許せる!

「購読」と「講読」
前項の最初の一文を見ていただきたい。「講読」という言葉を使っている。国語事典を引けば、「講読」とは「書物を読み、その意味・内容を解説したり、論じたりすること」と書かれている。
「購読」とは「書籍や新聞・雑誌など買って読むこと」である。
GGは、PCを使い始めてから、この「こうどく」という言葉にいつもこまっている。たとえば、次のサイトにこうある。 
 http://homepage2.nifty.com/datey/koudoku.htm

メイルマガジンを講読するって?

最近、本当にあった話を、ちょっとアレンジして書きます。
私が参加しているある会から来たメイル(A)と、それへのわたしの返事(D)のやりとり。

(A)このたび本会では会員にメールマガジンを発行しますので、講読してください。
(D)はい、購読なら有料でしょうから、購読料はいくらでしょうか。
(A)貝ヘンの「購読」ではなく、ゴンベンの「講読」ですから、無料です。
(D)「購読」のお書き間違いと思いましたので、お尋ねしました。失礼をお詫びします。
しかし、「講読」とは、それを読みながら講義をすることですから、そのマガジンは「講読」するほどのレベルの高い内容なのですね。それが無料ならば喜んで配信を受けましょう。
(A)「講読」とは、インタネット慣用語で無料購読のことをいいます。(この文の強調は、引用者)

思うに、英語の 動詞 subscribe 、名詞 subscription に両義があるために、現状のようなことになっているのだろう。
いずれにせよ、購読料なり、有料と明記されていないかぎり、無料であると判断して、必要な記入事項などを書き込み、申し込んでいる。

このブログの右のサイドバーにも「このブログをメール講読する」(今日は、一番上にもってきています)という窓があります。アドレスを記入して[講読する]というボタンをクリックしていただけば「らむぶらー」に新しい記事が出るたびに、あなたのアドレスにそのことをメールでお知らせしてくれます。むろん無料です。解約も簡単にできるはずです。

少し下の[文字拡大ツール]も「中」をクリックすればブログ内の文字が拡大してずっとよみやすくなります。ぜひ活用してください。サイドバーにはお金のかかるものは何もありません。本の購入は別ですが。










2008年7月27日日曜日

今朝の「当世キーワード」から

今朝のNHKラジオ第1の「当世キーワード」から二つ。

【少人数婚】【少人数ウェディング】ともいう。大金を投じて,高級ホテルの宴会場に多数の客を集める披露宴のばかばかしさを反省し、来客の負担をおもんぱかってか、と思ったが、必ずしもそうではないらしい。
レストランを借り切ったり、邸宅風バンケット(晩餐会)だったり、ホテルの特別ルームを使用したり、非日常を楽しむリゾートウェディングや二部制ウェディング等々、招待客の人数は減っても負担は増加する傾向もあるらしい。

【夫婦別寝】これまた【夫婦別床】ともいう。ダブルベッドをシングルに替えることではない。互いに別室で寝ることを指す。
これは合理的だ。互いのイビキや寝言にわずらわされることもなく、ふと目覚めて眠られず、ラジオの「深夜便」を聞こうが、スタンドをつけて読書しようがたがいに迷惑をかけるわけじゃない。
NHKの大河ドラマ「篤姫」が若い女性を中心に大人気で、「家定を死なせないで!」と無理なことを言う者もあるらしい。まあ、大奥なんて、最高の夫婦別寝かも。



2008年7月25日金曜日

相手は決まった、木更津総合だ!

鳥取西高の相手が決まった。今日、東千葉代表となった木更津総合高校だ。東海大望洋を2―0で破って、5年ぶり2回目の夏の甲子園出場だという。明朝の新聞は、23回目出場の古豪対新鋭の対戦などと書くかも知れない。

asahi.com の[高校野球]のサイトによれば、3人の投手がそれぞれ任務を果たし、攻撃面では平均打率3割7分を越える強力打線だという。

鳥西も、小幡、鈴木、壱岐の3投手を擁し、チーム打率は3割6分6厘、1試合平均の得点は8.6点。恐れることはない。堂々と勝負し、初戦を勝利してもらいたい。

鳥西では、今日、全校生徒が参加して野球部の壮行会が行われた。
8月2日は、甲子園で応援するぞ!!






2008年7月23日水曜日

鳥取西高、甲子園へ!

やったぞ、鳥取西高、3年ぶりの快挙!

第90回全国高校野球選手権記念鳥取大会最終日の7月21日、鳥西は鳥取城北を2-1で降して、3年ぶりに23回目の優勝をかちとり、甲子園へ駒を進めることとなった。

今年の県大会は、倉吉市営野球場で4月12日に開幕した。昨年秋の大会では準優勝しながら今春は初戦で敗退して、シードもされなかった鳥西は、14日の1回戦で日野を12対0(5回コールド)、16日の2回戦で米子工を8対0(7回コールド)、17日の準々決勝で境高を8対1(8回コールド)、18日の準決勝では東部地区の4校が残り、春の優勝校、鳥取商に13対6で圧勝した。

雨で一日延びた決勝戦は、今春の選抜で健闘した八頭高を準決勝で5対0で破った鳥取城北との対決となった。エースの木島はすべての相手チームを無得点にシャットアウトしてきていた。
試合は1点を争う投手戦となった。6回の裏1点を先取された鳥西は同点となるスクイズに失敗して得点できないまま、9回の表の最後の攻撃となった。3番鈴木、4番壱岐の連続ヒットで1死1、3塁、一打同点のチャンスにキャプテン小幡の一打は左中間2塁打となり逆転。
今大会全試合に登板した鳥西の鈴木は9回裏の城北の攻撃をぴしゃりと押さえて甲子園への夢を実現させた。

今年の甲子園での全国大会の組み合わせ抽選は日程の関係で各地の決勝戦直後のグラウンドで行われた。
決勝打を打った小幡がキャプテンとして選んだ札は5番だった。相手校は不明であるが、大会初日の第3試合になった(この予定は変更されることもあり得る由)。






2008年7月17日木曜日

ことば拾い:チンプンカンプン

古い手帳を整理していたら、あるページに目が留まった。日付は1995年4月17日である。

場所は市内の弥生町にある〈渚〉というバー。カウンターでひとり飲んでいると、マスターがある植物を目の前において「これ、知っとられるかな?」と、笑いながら言った。
「あゝ、チンプンカンプンだ!」
「そうです。そう言ようりましたなァ。槇(マキ)の実です。」
マスターはわたしより二つ三つ年上だが、同じ世代といっていい。この実を見るのは、この時から数えても半世紀ぶりだった。

当時、醇風国民学校の正門は、鹿野街道に面しており、門を入ると校庭がひろがっていて、校舎は左手にあった。校門からまっすぐ校庭を横切ると校地の境になっている生け垣だった。現在の講堂と玄好町の間にある道路のあたりだ。この生け垣にチンプンカンプンの木が何本も植わっていた。

ひところ、団子三兄弟という歌が流行ったが、倉吉の土産物の打吹団子を知ってる人はそれを思いだして欲しい。ただし、団子の大きさはせいぜい大豆くらいである。団子の色はそれぞれ違っている。
こんなことを書き連ねても読者にチンプンカンプンをイメージしていただけないだろう。写真を見ていただくのが早いことは承知の上で、そうしたのは、わたしの記憶の中ではそうだったからだ。
では写真を見ていただこう。写真のアドレスもご紹介して、御礼を申し上げたい。まずは、打吹団子。
http://www.kouendango.com/history.html
続いて、マキの実の写真2枚。このサイトには9枚の写真があるので、ぜひ訪問して、ご覧下さい。

http://www.hana300.com/inumak1.html

ご覧の通り、「団子」は二つだったのだ。上が実(種)で、下が果托とか果床と呼ばれている部分で、これを食べると甘みがあるという。(食べたことはなかった。)
なぜ記憶のなかでは「団子」は3~4個くらいだったのか。実際のマキの実は二つの色が成長段階で変わるのだそうだ。色が二種類ではなかったので、記憶の中の実の数が増えたのだろう。

最後に、チンプンカンプンについて。チンプンカンプンとは、変換できないが、辞書にはちゃんと出ている。漢字で書くと「珍紛漢紛」、チンプンカン「珍紛漢、珍糞漢、陳奮翰」ともいう。
[儒者の用いた難解な漢語に擬した造語。あるいは外国人の言葉の口まねからともいう]人の話している言葉や内容が全くわからないこと。また、そのさま。例:「きょうの話はとてもむずかしくてチンプンカンだ。」「ロシア語は全くチンプンカンプンだ。」(『大辞林 第二版』より)
〈渚〉のマスターは、亡くなってしまった。
それにしても、昔の小学生はムヅカシイ言葉を知ってたんですねえ。




2008年7月10日木曜日

鳥取のむかしばなし

2008/07/10(木)
梅雨も明けたような天気なので、近くのスーパーで助六寿司の弁当を買って、久松山の二の丸へ行ってみた。かれこれ10年ぶりになろうか。
携帯電話で撮った写真を3枚、お見せする。目が悪い上に、腕も悪いので結果はご覧の通りだが、お許しいただきたい。

【写真1】お堀にかかっている擬宝珠(ぎぼし)橋から見るとたくさんの鯉に驚く。わたしたちが高校生だった頃はまだ堀全体に蓮が植わっていて、野球部の一年生たちは、グラウンドの網のフェンスを越えて堀に落ちたボールを、探して拾い上げるのに苦労していたものだ。現在は、別の場所に野球部専用の練習場ができているから、そんな苦労があったことなど、今の生徒たちはまったく知らないだろう。

【写真2】二の丸から見下ろした鳥取西高の正面玄関。右手の屋根が、体育館、その後方と、左側・正面の二つの高い建物は、鳥取県庁。生徒だった頃、ここへ登って弁当を食べたものだが、その当時はまったく違っていた。正面玄関の位置は同じだが、旧鳥取一中の木造校舎だったし、右手には奉安殿の跡があった。

【写真3】二の丸にある稲荷神社。桂蔵坊という狐がまつられている。桂蔵坊は賢くて、足の速い狐で、鳥取―江戸間を三日三晩で往復して、藩の大切な使いをしていたという。幼稚園の頃、祖母から何度も聞かせてもらった昔話のひとつだった。
県立博物館主催の「鳥取県の民話を聞く会」で、石山易枝さんの語っている動画が見聞できるので、次のアドレスをクリックしてください。鳥取弁もきかれますよ。
http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/156392/keizoubou.asx

ごうなは、ここで一句!!???   遠き日や老いたる祖母の春炬燵

【追記】久しぶりに母校の校舎を眺めて懐旧の情を抱いたのだが、翌11日の新聞で、この日、小幡義之先生が94歳でお亡くなりになったことを知った。かつての同僚であり大先輩だった。今夏も街に流れるであろう「きなんせ節」の作曲者でもあった。ご冥福をお祈りする。







2008年7月9日水曜日

美空ひばりが歌った「一本の鉛筆」

今月1日の朝日新聞に、
響け ひばりの「反戦」 CD化 広島で再発信
の見出しで、署名記事が掲載された。1974年の夏、広島テレビ主催の第1回広島平和音楽祭で、美空ひばりが歌った「一本の鉛筆」という歌のことだ。
最初に歌ってから14年後、死の前年に、ひばりは再び広島でこの歌を歌った。テレビでこの歌を歌っているひばりを見たのは、このとき、1988年の夏、であったと思う。
いい歌だと思った。ひばりにこんな歌があったのか、と驚いた。彼女はこの歌を自分の好きな10曲のなかの一曲に挙げていたという。
今回の記事は、今年3月、奈良岡朋子がテレビでこの詩を朗読したのをきっかけに、この歌が今月末にCD化されることになったことで、書かれている。

このことにふれているブログなど、多いだろうな、とおもいながら、検索してみたら、あるわ、あるわ、今回の朝日の記事のあとでも、ずいぶんある。
ここでは二つのサイトだけをご紹介しておく。

◇朝日新聞の記事(所によっては前日の夕刊)の全文は
http://www.asahi.com/showbiz/music/OSK200806300082.html
◇この歌の歌詞と、楽譜は
http://bunbun.boo.jp/okera/aaoo/ippon_enpitu.htm




2008年7月7日月曜日

ことば拾い:カレセン

いつの頃からか知らないが「カレセンという言葉が流行っているそうな。
ウェブ上にある亀井肇さんの【新語探検】によれば、

漢字で書くと「枯れ専」。50~60歳の「枯れたオジサン」たちに惹かれる30代の女性をさす。いわゆる「ちょいワルオヤジ」ではなく、本当に枯れているオジサンが好きなのである。彼女たちが「枯れた男の魅力」として挙げるのが、「一人の時間をもてあまさない」、「路地裏が似合う」、「ビールは缶より瓶」、「ペットは犬より猫が好き」、「一人でふらりと寄れる行きつけの店がある」、「さりげなく物知り」、「金や女を深追いしない」、「人生を逆算したことがある」、「自分の年齢を受け入れている」などである。若いときは自分の世界に没頭して独身だったのが、老いて輝くのである。出版社のアスペクトは『カレセン』と題した単行本を出している。

ここで紹介されている単行本の広告を下に載せておく。クリックして Amazon へ行き、同じ表紙写真の下の「この本の中味を閲覧する」をクリック、さらに「目次」をクリックすれば、カレセンたちのお気に入りの対象である(or らしい)著名人の名前も出ています。

さて、今日はごうなの誕生日。〈枯れ過ぎたじいじい〉としては、ふてくされて、遊んでみよう。

――ヨ・セ・婆ッ派 作曲「爺専場の在りや?」てぇのはどう?
――そんなもの、ないよ。
――ああ、そう。

カレセン―枯れたおじさん専科
カレセン―枯れたおじさん専科アスペクト

おすすめ平均
starsど真ん中
starsアンチ・アンチエイジング & アンチちょいワル。

Amazonで詳しく見る by G-Tools


ことば拾い:敵性語

新潮社が従来の文庫に加えて、[新潮OH!文庫〕を創刊したのは、2000(平成12)年の10月だった。過日、本棚の整理をしていたら、この文庫の発売に先駆けて作られた文庫版サイズ・44ページの宣伝用パンフレットが出てきた。一斉に発売される50冊が掲載されている。
その中の一冊が、この写真の、現代用語の基礎知識/編『20世紀に生まれたことば』だ。

下の写真ではよく見えないが、表紙写真の左側上に、取り上げられた言葉のごく一部が縦書きされていて、2行目に、40年【敵性語】とある。つまり、1940(昭和15)年に使われはじめた「敵性語」という言葉を取り上げているのだ。

この言葉は現在は死語である。広辞苑にも大辞林にも載っていない。ただ「敵性」という言葉はあって、
「敵国または敵国人である性質。戦争法規の範囲内において、攻撃・破壊・掠奪および捕獲などの加害行為をなし得べき性質。「―国家」(広辞苑)

こんな恐ろしいことが書かれている。つまり「敵性語」とは、攻撃、破壊してもいい、いや、そうすべき「敵性国家の言語」というわけだ。

映画「姿三四郎」のなかでも書いたように、ごうなは1941(昭和16)年に国民学校に入学した。すでに中国と戦争をしていたが、この年、米、英、オランダとの戦争も始めた(この敵国4カ国を指す「ABCD対日包囲陣」という言葉もあったっけ)。
漢字も中国から学んだものだが、これを敵性語・敵性文字だとしたら、新聞も読めなくなるし、教育勅語だって校長先生が「奉読」できないではないか。敵性語とは、カタカナ語を指した。しかし、オランダ語にしても、英語にしても江戸時代からわれわれの「蒙」を啓くためにどんなに役立ってきたことか。それを「敵性語排除」とは、まことに児戯に等しいことだ。

当時、醇風国民学校では、いろいろな式典の他に毎週月曜日に朝礼があって、全職員生徒が講堂に集合し、校長訓話があった。それに加えてレコード鑑賞もあった。
どんな曲を聴いたかまったく記憶がない。ただ、いつも先生方は生徒を横から眺めるように一列横隊に並んでいたのだが、その時間が来ると男性のK先生が一歩前へ出て「おんばんかんしょ―(音盤鑑賞)」と宣告したのをはっきり覚えている。

よく漫才などで、当時の野球は〈セーフ〉を〈よし〉、〈アウト〉を〈ひけ〉などと言ったと笑わせているが、われら「少国民」は野球はやらなかった。だが「敵性語」を完全に排除することができるわけがない。
夏には〈アイスキャンデ―〉をしゃぶり、冬には〈スキー〉をやった。3年生のときには〈グライダ―〉を作ったし、上級生たちは〈プロペラ〉機を作り〈ゴム〉を巻くのに〈ワインダ―〉を使う者もいた。戦争映画だって「加藤隼戦闘隊」は「〈エンジン〉の音ゴウゴウと隼は行く」と歌い、「轟沈」の主題歌には「青い〈バナナ〉も黄色くうれて」とあって、僕らの口は唾でぬれた。
1943(昭和18)年9月10日の鳥取大地震の後では、あちこちで〈ジャッキ〉が活躍したし、たくさんの〈バラック〉が建設された。
戦時中も「敵性語」はしぶとく生きていたのである。

現代に至っては、かつての「敵性語」は百花繚乱。
今日もどこかで〈××× in 鳥取〉が客を招いている。

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2008年7月6日日曜日

ことば拾い:ひるすぎ

NHKラジオ第1で、毎週日曜日の午前5時半すぎに、亀井肇さんの「当世キーワード」という数分間の番組がある。毎回、当世の流行り言葉を五つ六つ紹介、解説する。
6月29日は5回目の日曜日で、亀井さんの番組はなく、NHK現代ことば研究室(正式な名称は失念)の某氏(お名前も失念)が登場。この研究室で、「ひるすぎ」という言葉は具体的に何時頃を指すと思うか、電話で無作為抽出調査した。その結果(これまた、極めておおざっぱに言うと)、高齢者は12時から12時15分くらいまでを指すと答えた。若い年齢層の答えは12時半近くから13時過ぎの間と、かなり時間帯の幅が広がったという。この結果について、報告者は、若年層の答えは学校や会社で実際に昼食をとる時間帯のイメージが強いのではないか、と述べていた。

さて、「ひるすぎ/昼すぎ」を辞書で引くと「正午を少し過ぎた頃」とある。
ところが、「昼」を調べると、「①日の出から日没までの太陽が昇って明るい間、ひるま、日中。②まひる。正午。また、その前後。午時(ひるどき)。③ひるめし、昼食。」とある。
さらに、十二支の「午(うま)」は方角では「南」、時刻では「真昼の12時、あるいは午前11時~午後1時の間」を指す。

だから、年配者の使い方も若年層の使い方も間違いではない。しかし、人によって受け取り方が違うのでは不都合が生じうる。結局、「正午過ぎ」「12時半頃」「1時過ぎ」などとより明確な言い方をするべきか。

さて、今朝は第1日曜日。亀井さんが登場しましたよ。次の五つを紹介。皆さん、いくつ分かりますか?
ファッションセラピー、PTCA、ネリカ米、猫カフェ、脱メタボ体

2008年7月5日土曜日

映画 「姿三四郎」 2/2

先回、映画「姿三四郎」について覚えているのは、それぞれ、最初と最後に近い二つの場面しかない、と書いた。今回、65年ぶりにテレビでこの映画を見たとき、ほとんどの場面を、ああそうだ、こんな場面があったと思い出した。しかし、えっ、こんな画面があったんだ、と驚いた画面もいくつかあった。
出演者について言えば、藤田進(三四郎)と敵対する月形龍之介(檜垣源之助)の二人だけはしっかり覚えていた。
和尚役の高堂国典と柔術師範の志村喬はすぐに分かったが、修道館柔道の師範、矢野正五郎の大河内傳次郎は、時代劇でよく見た彼とは、顔も声も若々しく、「これが大河内傳次郎?」とすぐには分からなかった。
女優は、轟夕起子花井蘭子の二人きりだが、この映画に出演していた記憶は全くなかった。

何度も映画化されている小説に、吉川英治の『宮本武蔵』がある。あれは高2の夏休みだったと思う。市内の映画館で古い『宮本武蔵』映画が何本か立て続けに上映されたのを見に行ったことがある。お通役が轟夕起子と相馬千恵子の2本を見た記憶がある。当時知っていた轟夕起子は、丸顔で太り気味の女優だったから、若いお通の美しさに驚いた。(調べてみると、二人がお通を演じたのは轟が昭和12年、相馬は18年である。)
テレビで見た『姿三四郎』の轟夕起子も若くて、美しかった。

思い出話はこれくらいにしておこう。
佐藤忠男の労作に『日本映画史』全4巻がある。吉川英治の『宮本武蔵』は、戦前から戦後までなんども映画化されているが、佐藤は『宮本武蔵』と『姿三四郎』の類似性をこの中で指摘している。
扱う時代は江戸時代と明治の違いはあっても、「若くて純情で粗野で強すぎて求道的な」三四郎に「精神的な豊かさを与えようとする師の矢野正五郎と寺の和尚は沢庵、三四郎が惚れてしまう試合の相手の柔術家の娘(引用者注:轟夕起子)はお通、そして三四郎の前には対決しなければならない敵の柔術家たちがつぎつぎと現れて決闘に次ぐ決闘になり、その間、三四郎は、たんなる猛者から、ゆとりと内面的な深味のある真の強者へと成長してゆく。」
そしてこの小説(引用者注:富田常雄『姿三四郎』)は、みずみずしい鮮やかな技巧で映画ファンを唸らせる彼の素晴らしいデビュー作となった。一九四三年、すでに戦争は敗色があきらかになっていた頃である。これはしかし、非常に元気のいい映画だった。黒澤明監督は、この映画を、見事なエンターテインメントとしてつくりあげた。その面白さの第一にあげられるのは、何度もある柔道の闘争や試合の場面のアクションである。ひとつひとつの闘争が、それぞれ違った柔道の術で処理される。しかも、それらはすべて、ただむやみに激しく闘うのではない。はじめは静かに向かい合い、気合いを計り、最良のタイミングで行動が始まると、一瞬にして意表をつく激しい動作が生じてヒーローが相手を投げとばす。あるいは、ヒーローが何度投げられても決して転ばず、軽業のように立ち、さいごに鮮やかに相手を投げとばす。静と動、その間合い、その繰り返しのリズム、それらの巧みな演出が、これらの格闘場面にそれぞれに美しいスタイルを与えていた。
この映画の主役に抜擢された藤田進は、がっしりとした体つきに無骨な顔、朴訥な喋り方、野暮ったい動作など、すべての点で、これまでの二枚目の重要な条件だったスマートさとは遠く、コケの一念とでもいう感じで命令されたことを徹底的に忠実にやりとおすような芝居がよく似合う俳優だった。スターになると、つぎつぎと軍人役を与えられ、『加藤隼戦闘隊』(一九四四〉では、豪胆で沈着な戦闘機部隊の隊長を好演した。ときには激しく部下を叱咤するこの隊長が、ときにはまた、ガキ大将ふうの人なつっこい笑顔を見せるあたりが独特の持ち味で、これぞ、どんな無茶な命令にも耐えてニッコリ笑って死んでいける模範的な帝国軍人と思えた。(注1)
注1.佐藤忠男『日本映画史 2 1941-1959』増補版 岩波書店 2006/11/10 pp.63-64

2008年6月29日日曜日

映画「姿三四郎」1/2

1943(昭和18)年の8月も終わる頃、一人の少年が早朝の鹿野街道を歩いていた。1941年の4月に以前の小学校が「国民学校」と改称され、少年がその初等科3年生になった年の夏休みも終わろうとしていた頃で、「大東亜戦争」が始まってから1年9カ月が過ぎようとしていた。
前夜からの雨はあがっていたが、アスファルトで舗装された道はまだ濡れていて黒く光っている。少年は素足で、身につけているのはランニングシャツと短パンだけ。さすがに早朝の空気は冷たかった。普段彼が通っていた醇風国民学校は行程の半ば過ぎにあったが、学校に近づくまでには、体は十分に温まった。
彼が休み中に通っていたのは、久松山下にある公園の砂場の「鍛錬場」。鹿野街道を堀端に出て右折し、たくさんの蓮の花が咲いている堀にかかる大手橋を渡ると右手が鳥取一中のグラウンドで、道を隔てた左手が「鍛錬場」だった。ここで柔道の基本を学ぶのだ。
額の汗をぬぐいながら空を見上げると、昨夜の嵐の名残か、大きな黒雲が久松山の後ろから南東の方向へかなりの早さで流れて行く。少年は3カ月ほど前に見た映画「姿三四郎」の最後の決闘の場面を思い浮かべていた。「よ~し、三四郎のように強くなるぞ」。

映画「姿三四郎」を思い出すたびに、上に書いたような、遠い昔の自分の姿をいつも思い出す。そしてこの映画で思い出すといえば、いつも二つの場面だけであった。
自分の行動を師に叱られた三四郎(藤田進)が、道場となっている寺の庭の小さな池に跳び込み、そのまま池の中で杭につかまって一夜を過ごし、早朝、眼前の小さな一輪の蓮の花が開くのを見て、柔道の神髄に開眼する場面。
もう一つは、最後に、三四郎と月形龍之介演じる柔術家が、強い風の吹く草原のような場所で決闘する場面であった。

今年4月、テレビのBS②で「没後10年 黒澤明特集」の放送が始まった。彼の監督作品全30本の一挙放送だ。そして「姿三四郎」は、5月6日に放映された。この作品の監督が黒澤明であり、しかも彼の第一作目の映画であったこ
とも、初めて知った。この放送を見て、最後の決闘の場面は、わき上がる雲の映像がきわめて印象的であることを知り、「少年」があの日、黒雲の飛ぶのを見て三四郎を思いだしたわけを納得した。

この作品が出来たのが1943年3月であったこともわかったので、鳥取県立図書館でその年の3月以降の日本海新聞を調べたところ、同年5月6日(木)の紙面の広告を確認することができた。それによれば、この「東寶映画異色大作」は5月6日から12日までの一週間「本週は公休なし」で帝國館(戦後の第一映劇)において上映されたことがわかった。

この映画の原作が富田常雄の『姿三四郎』であり、紘道館は講道館、師範の矢野正五郎は嘉納治五郎、三四郎は当時、講道館四天王の一人と言われた西郷四郎であることは、いつしか知るようになっていた。

この小説を読んだことはないが、ブログを書くにあたって、ウェブを検索したところ、このあたりを詳しく書いているサイトがあった。やや古いサイトだがご紹介しておく。
http://www.iscb.net/mikio/9709/25/index.htm

2008年6月8日日曜日

毛利彰イラストレーション

毛利彰さんの絵の展覧会が1日で終わるというので、先月31日、久しぶりに青谷へ行った。

会場である【あおや郷土館】を訪れるのは初めだった。この日は土曜日だったが、高校総体の日で、近くの青谷高からときどき生徒たちの歓声が聞こえてきたが、車もめったに通らず、街路樹の梢からウグイスの鳴き声が聞こえてくるほどのどかであった。



展示されていたのは、学研の「歴史群像シリーズ」の表紙を飾った戦国武将たちの19点のイラストだった。若い頃の油絵などの展示も期待していたので、ちょっとがっかりした。

しかし、郷土館入り口の立て看にも「館蔵資料展 毛利彰 イラストレーション」と書かれており、かつて鳥取西高の玄関に飾られていた油絵などの記憶から自分が勝手に抱いていた期待であった。

この展示は4月1日より始まっていた。彼が亡くなったのは4月9日であったから、生前毛利さん自身が許可したものであったに違いない。

昨日(6月7日)の朝日新聞の【惜別】欄にこう書かれていた。

「芸術という言葉が嫌いだ。銭湯の富士山を立派に描く人を尊敬する。自分の仕事はそういう仕事」と語った。注文を受けて売れる絵を描く。いずれは消える商業イラストをきちんと仕上げる。それを誇る職人だった。


隣の展示室には、「因幡の源左(げんざ)」と呼ばれている妙好人、足利喜三郎(1842~1930)の深い阿弥陀信仰から出た語録を中心にした展示があり、あつい信仰心から出る、その言葉に改めてこころを打たれた。









2008年6月2日月曜日

EverNote

Google に、ノートブックという便利なものがある。名前の通りノートとしてメモや文章をなどを書き込むことができる。

なにより便利なのは、ウェブ上の気に入ったサイトがあれば1回のクリックで全部をノートに取り込むことができる。むろん、必要な部分のみを切り取って取り込むこともできる。取り込んだものも自分の書いた文章も、すべてウェブ上に保存されているから、パソコンにファイルを作ったりして保存したり、バックアップを取ったりする必要もない。

ノートは何冊でも作ることができるし、一冊のノートをいくつものセクションにわけて内容を分類整理することもできる。

ただ、残念なことは、現在、このノートブックはインターネットにつながっていなければ使えないということだ(オフラインで使用できるのもそう遠くないだろうが)。



最近、同じような機能をもっている EverNote という便利なものがあることを知った。機能的にはGoogleノートブックとまったく同じといっていい。ただエヴァノートはオフラインで開いたり、書き込みしたりできるので便利だ。



EverNoteで、できることはたくさんあるが、エディタのように文章やメモを書き込んだり、ウェブ上の必要なページを取り込んだりすることができる。



写真01を見てください(写真はクリックすれば大きくなります)。左側の細長い部分が【カテゴリー】欄で各ページの内容の分類を表示(①とする)し、右側の下の部分が普通のエディタなどの新規作成ページにあたる(②とする)。右側上部が各ページのタイトル(③とする)である。



おもしろいのは、新規作成画面が、ちょうどトイレットペーパーを引き出すように一番下に出てくる。ということは一見、さまざまな内容のペーパーが数珠つながりになって不便のように思えるが、さにあらず。

写真02を見てください。②の上の部分にカーキ色のバーがあって、左に荷札のような絵がありますね。これをクリックすると、タグを付ける画面がポップアップする。タグは既成のものの選択も新規作成もでき、いくつでも付けられる。



その隣の錠の絵をクリックすると開いたり閉まったりする。閉めると保存した内容は変更できないが、空けると文字や図を消したり付け加えたり、いくらでも修正、変更が可能だ。

錠の右隣の×印をクリックするとその画面全体を消す(つまり廃棄する)ことができる。



だからこの巻紙は、①でタグを選択、クリックすれば(タグが複数あればそのどれを選んでクリックしても)、③にそのタグの付いているものの目次(タイトル)一覧が提示され、そこでタイトルをクリックすれば、②に、そのページ全体が表示される。

なお、②の上部のカーキ色のバーの右に□が上下に二つ並んでいるが、下の□をクリックすることによって、画面全体を表示したり折りたたんだりする。



最後に、一番便利な、サイトの記事の取り込みについて付言しておこう。たとえば、ウェッブ上のサイトを見ていてある部分の記事を取り込みたいとか、図や表や写真だけを取り込みたいときは、その部分を選択して右クリックすれば、ポップアップの中に「Add to EverNote 」という項目が出ているからそれをクリックすれば選択した部分だけが取り込まれる。

範囲を指定しないで画面上を右クリックすると、写真03のようなポップアップが出るから、「Yes」ボタンをクリックすればその画面のすべてを取り込んでしまう。

写真03


現在、新しいEvernote(noteのnが小文字)が出ていて、オンラインでエディタが使えたり、オフラインでEverNoteと同じことができるようになっているが、現状のままでいい、と思っている。



2008年6月1日日曜日

便利なO's Editor

いま、ブログの原稿を書いたりするのに重宝しているのが O's Editor だ。

現在 O's Editor2 ver 2.50(Vista対応ベータ版)が入手できる。2,000円のシェアウェアだが、30日間無料試用できる。 http://ospage.jp/



下の写真画面の下部でご覧になるように、9種類の画面で仕事ができる。ここでは、【標準スタイル】【黒板】【読書】の三つのスタイルをご紹介した。

現在、目に優しい【黒板】を愛用している。(下の写真はクリックすれば大きくなります。)