2009年1月23日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (13)

1939年、スタンレーはハーバード大学医学部の講師となった。2年前には長女イーデスが、この年には次女アンナが、生まれた。
1940年の夏、父ヘンリーが母アンナの病気見舞いに一時帰国したが、日米関係悪化のため米政府は来日の許可を出さず、36年あまりの歳月を過ごした鳥取の地に戻ることはできなかったことは前にも述べた。みずからも愛児の眠る鳥取の地に骨を埋めたいという夢を断たれたヘンリーは、ハーバード大学で日本語を教えたり、政府の翻訳の仕事をしたという。
ヘンリー夫妻はボストン郊外に家を買い、スタンレーの一家もアパートからこの家へ移った。1942年3月には長男のヘンリーが生まれた。長男は祖父の、次女は祖母の名をもらったわけだ。その前年、一家は1941(昭和16)年12月7日(日本時間8日)を迎えることになる。

この日、スタンレーとアリス夫婦は、フィラデルフィア郊外にあるスタンレーの妹、メアリーの家を訪問していた。
スタンレーとメアリーの夫は川へカヌー漕ぎに出掛け、女性たちだけが居間のラジオでシンフォニーに耳を傾けていた。突然音楽が中断され、「真珠湾攻撃」の臨時緊急ニュースが流れ、メアリーもアリスも言葉が出ないほどの衝撃を受けた。
戻ってきた男性たちにニュースを伝えると、スタンレーは一瞬呆然と立ちすくんでいたという。(『S・ベネットの生涯』p.88による)

日本軍による「奇襲」というべき攻撃に対して、アメリカ国民の反応はどうであったか。まさに「激昂」というべきものであった。加藤恭子は次のように記している。
 日本も、反英米宣伝を自国民に対してした。
 しかし、欧米を畏敬する土壌のあった日本での、とってつけたような「鬼畜米英」と、もともと〝黄色人種〟に対する人種的差別の根強かったアメリカの対日侮蔑観とは、比べものにはならない。アメリカ人にとってドイツ人は、恐ろしいけれど人間だったのに対し、日本人は〝人間以下〟とみなされていた。
 アメリカでの反日宣伝がいかに激しいものであったかは、今日では明らかになっている。当時の代表的な週刊誌、月刊誌も〝ニップ〟、〝ジャップ〟を日常的に用いた。
(『S・ベネットの生涯』p.89)
そして、加藤は、ジョン・W・ダワーの『人種偏見』(注1)から引用し、さらに『戦場から送り続けた手紙』の解説的文章の中では、ヨゼフ・ロゲンドルフの『和魂・洋魂』(注2)から引用して、彼らは日本における原始的なプロパガンダとは違って、日本人は「人間以下」「血の染みこんだ獣」「カーキ色の猿」等々のイメージを定着させていったと述べている。

開戦の時、私は小学校一年生だった。あれは鳥取大震災の前であったから、二年生か、三年生の一学期の頃であったと思う。恥ずかしい思い出がある。講談社の絵本『リンカーン』を、アメリカ人だからと、家の前の空き地で焼き捨ててしまった。そのことを得意になって父に話したところ、本は焼き捨てたりするものではないと、叱られた。
まあ、こんな愚行は一笑に付してもらうとして、ベネット家ではどうであったであろうか。再び『S・ベネットの生涯』から引用する。スタンレーの妹のメアリーは言う。
「友だちが日本人の悪口を言うたびに、私は叫んだのです。『私に彼らの悪口を言わないで!どんなに誠実な人たちか、教えてあげるわ!』そして、いつも一つの例をあげました」
 鳥取でのことだった。日本人の老医師に、ヘンリーがお金を貸したことがあった。老医師は一生懸命に返却しようとしたのだが、できなかった。彼の父は、池田藩(引用者注:鳥取藩か池田家が正しい。この場合は後者)の家臣だった人で、姫の着物を一着、主君から拝領していた。その家宝を、老医師はヘンリーに「これで代わりに」と持って来たというのである。
「こういう人たちなんだから!」とメアリーは叫んだという。
「決して決して、日本人の悪口を聞きたくはなかったのです」
 スタンレーもまた、複雑な感情に苦しんでいたにちがいない。周囲の誰かが〝ジャップ〟と言うと、
「〝ジャパニーズ〟と言いなさい」
 と厳しい表情で注意したという。(pp.90-91)
注1:ジョン・W・ダワー、猿谷要監修『人種偏見』TBSブリタニカ (1987年)
注2:ヨゼフ・ロゲンドルフ、聞き手加藤恭子『和魂・洋魂―ドイツ人神父の日本考察』講談社(1979年)


2009年1月15日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (12)

春の芽吹きを紹介したブログをアップしたら、また雪が毎日降り始めた。
10日には鳥取市内で早朝の積雪が28センチになったし、昨日の朝も午前9時現在25センチであった。しかし、桜の花の芽は、じっと耐えているのであろう。
  ―――☆―――☆―――☆―――☆―――☆―――☆―――
先回はスタンレーの心の中に残っていた少年時代の鳥取をご紹介したが、今回は、鳥取の人たちの心に残っている少年、スタンレーの姿をみ見ることにしょう。
以前ご紹介した歌人の伊谷ます子が語るところによれば、
幼い日に遊んだ鳥取をなつかしがり「鰈はえーカナ」等と、その頃の魚売りの小母さんの口真似を覚えている程のユーモアが(一部省略)あります。進駐軍が鳥取に来ている頃、若い米兵が街を歩いていると、ベネット氏の近所に住んでいた八百屋のお婆さんが立ち止まって「アリャーリャー、スタンデーさんが大きゅうなって」とさも懐かしそうにしばらくその後姿を眺めていました。外人と云えば皆ベネットさんに見えたのでしょう。
(『鳥取県百傑伝』p.645)
わたしがこどものころでも、賀露のあたりからやって来た小母さんたちが、「カレー(=鰈)はええかなー」とか「今どれの(=取れたばかりの、新鮮な)カレーは、いらんかなー」と、リヤカーや自転車の荷台に積んだ魚類を行商していたものだ。
これも蛇足だが、境内から早稲田の大隈講堂を望むことのできた赤城神社のそばに下宿していた頃(昭和30年前後)、「アサリ、シジミよ~」という売り声をよく聞いたものであった。

以前取り上げた1979年のNHK鳥取放送局での「マイク訪問」という番組で、伊谷ます子が「とってもきれいな坊ちゃんでね。お行儀がよかった」と言ったのを受けてスタンレーは、「私はいくらでもいたずらをしました」と述べている。
加藤恭子が鳥取へ取材に来たときに、尾崎誠太郎から直接聞いたと思われる、こんな話もある。
日曜学校で一緒だった尾崎誠太郎とスタンレーは、お祈りの間も、よくお互いの頭をつっつき合った。片方がちょっとかまって押すと、もう一方は相手の頭をちょっとたたく。ヘンリーは、教壇の上から、そんな二人をじっと見ていたそうである。(いずれも、『S.ベネットの生涯』p.57)

【付記】これまでなんどか引用文献から発言を紹介させていただいた伊谷ます子さんは、1983(昭和58)年死去。1900年前後のお生まれで、行年82~83歳であった。なお、子どもさんのうち、三女は鳥取西高時代の同期生である。

2009年1月8日木曜日

春の芽吹き

今日はベネットさんの話はお休みにします。
今年も元日は久しぶりに雪となり、鳥取市内でも積雪が十数センチとなった。三日以降は晴れ間もあったが雨が降ったり、曇ったり。二日間で積雪はすっかり消えてしまった。
今日は久しぶりの好天で、桜土手へ出掛けてみた。まだ寒々とした景色ですが、次の写真をクリックし、拡大してご覧下さい。



こんなにも桜の花の芽が出ています。

まさに春の芽吹きです!

2009年1月6日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (11)

13歳の時、日本を離れて米国へ帰ったスタンレーが、ハーバード大学医学部を優秀な成績で卒業し、医学の道を歩み始めたこと、さらに、アリスという女性と結婚し、独立した生活を始めたことについて、第10回で述べた。
そのスタンレーの心に残っていた日本、生まれ育った鳥取とは、どんな姿をしていたのであろうか。
加藤恭子の『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』にある多くの参考文献の中にスタンレー自身が寄稿した“MY MEMORIES IN TOTTORI”という一文がある(『鳥大メディカル』第4巻、25~27ページ、1965年2月)。
その内容の一部は加藤の著書の中でも使われているが、ぜひ全文を読んでみたいと思った。鳥取大学教育学部教授を退官された岡村俊明先生には、ある会を通じて面識を得ており、何かとお世話になっているものだから、この件についてお願いした。早速、コピーをお送りいただいた。昨年の12月上旬のことである。以下全文をご紹介する。

鳥取の思い出     H. スタンレー・ベネット

 私の父、ヘンリー・ジェームズ・ベネットはハーバード大学を卒業後、明治34年に鳥取へやって来て、大東亜戦争勃発の直前まで宣教師として鳥取で暮らした。私たちが住んでいたのは、鹿野街道と当時は東町といわれていた、現在の西町との角にあった大きな家で、久松山下のお堀から1ブロックばかり離れた所にあった。当時は、久松山(注1)を「お城山」あるいは「ひさまつやま」と言っていた。
 父は鳥取で40年あまり暮らした。父母の間には5人の子どもが日本で生まれた。この5人のうち、弟と私の二人は鳥取で生まれた。私が生まれたのは明治34年で、ちょうど、山陰線が鳥取駅まで開通した年に当たる。この線の開通以前、父は車(人力車)で中国山脈を越えたものだった。たびたび汽車で山陽線の上郡まで出て、そこから車で二日がかりで山越えをしたものであった。父によると、明治34年にはじてこの旅をしたとき、2台の人力車と荷物を運ぶ1台の荷車の代金は1円75銭であったという。
 父は長年鳥取商業学校(注2)で、また何年か鳥取中学(注3)で教鞭をとった。私のこども時代の遊び相手や友人たちはみな日本人だった。特にこども時代の友達として思いだすのは、現在米子高専教授の尾崎氏である。また仲の良かった友達の一人として思い出すのは鈴木さんで、お父さんは鳥取刑務所の所長だった。私には3人の姉妹がいたが、彼女たちにもこの町に多くの友達がいた。弟のフレデリックは、3歳か4歳(注4)のとき、雨水を溜めるために屋外に埋めてあった小さな壺の中に落ちて溺死した。この出来事は50年以上も昔のことだ。墓は摩尼寺へ通じる道の近くにある丸山墓地にある。
 鳥取での少年時代についてはたくさんのことを憶えている。大雪の降った冬も何年かあった。家の屋根に積もった雪がとても重くなって、男たちを傭って雪下ろしをしてもらわなければならないことが何度もあった。こどもの頃鳥取の周辺のいろんなところへ行った。湖山池に行って、美しい湖上でボート(モーターボートではない)に乗ったこともなんどかある。日本海の海岸沿いにある有名な白兎神社を訪れたこともあった。鳥取砂丘へは何度も行って、すり鉢の斜面でよく遊んだ。砂丘へ行く道は袋川と山々の間にあって、当時、十六本松を過ぎたあたりに柳茶屋という、とてもすてきな茶店があった。私たちはいつもそこに立ち寄って、お茶を飲んだりすてきなおばあさんと話したりした。それからすり鉢へ行ってこどもたちは砂の上で遊び、父と母は木陰に腰を下ろして松籟に耳を傾けていたものだった。サンドイッチの弁当を食べた後、海岸へ降りていって、きれいな貝殻を拾ったりした。その頃鳥取砂丘は有名ではなく、静かなところで、観光客はいなかった。たいてい砂丘にいるのは私たちだけであった。ときどき、漁船が海に出ているのを見かけたけれども。ふつう、漁師たちは千代川の河口の向こう側の賀露にいたから、砂丘自体はひとけのない場所であった。ずっと最近になって、砂丘を訪れたことがある。砂丘が国立公園になって、ときどき観光客で混雑したり、らくだに乗って砂丘を進むことが出来ることを知った。私は、昔の砂丘の方が好きだ。(注4)
 こどもの頃、両親は私をよく、鳥取城に住んでいた大名、池田家の墓地へ連れて行った。それぞれの墓にあった大きな石の亀とその上の高い石塔をよく憶えている。大火と地震で市の大部分が破壊される前の鳥取を私はよく知っている。私がこどもの頃には、侍たちの古い屋敷の多くが残っていた。また、お殿様のことや彼らに治められていた古い時代のことをなつかしそうに、うれしそうに語るお年寄りたちが町には大勢いた。またこどもの頃には、古いお城の石垣の上に大砲があった。この大砲は毎日正午きっかりに鳴らされた。それは大きな音で、みんながびっくりしたり、時計を合わせたりした。わが家はたびたび鳥取からほかの町へ旅行した。もちろん汽車で行くのは京都や大阪が多かったが、米子や松江へ行くこともあった。鳥取に近い、浜坂や浦富の村はとくによくおぼえている。夏になると休日にしょっちゅう出掛けて行ったからだ。そこの海岸へ泳ぎに行ったものだった。その当時、浦富や浜坂の海岸へ泳ぎに行く人はほとんどいなかった。ほとんどいつも私たちだけだった。現在、これらの海岸が夏の午後たいへん混雑していることを私は承知している。こども時代、鳥取には大学はなかったが、高等農林学校が鳥取にできたときのことは憶えている。1965年の夏に鳥取を訪れたとき、湖山池の近くが発掘されているのをみた。鳥取大学の新しいキャンパスの工事が始まっていたのだ。学校の建設作業が進行しているのを見てとてもうれしかった。
 米子にある鳥取大学の医学部を私は二度訪ねたことがあり、教授のなかに多くの友人がいる。鳥大医学部の学生に講義をしたこともある。そこに建設されていた新しい立派な建物を見て、非常にうれしく思ってもいる。また、すばらしい教授たちや彼らの多くのすぐれた研究成果を見て喜んでもいる。これらの研究成果の中には合衆国でよく知られているものもある。私自身の蔵書の中には多くの鳥大教授の発表のリプリントがある。
 こどもの頃、一度、父と一緒に大山登山に出掛けたことがある。鳥取市から朝早い列車に乗って、大山口で下車した。当時、バスや自動車はなかったので、大山へ向かって歩き始めた。大山寺まで行って少し山を登り始めたが、
夕方近くになっていて、幼い私は、足も小さい。それで、鳥取市へ向かう遅い時刻の列車に乗るためには、引き返さなければならなかった。1965年の夏、妻といっしょに米子を訪れたとき、鳥取大学の親切な教授方にご一緒していただき、夫婦して大山の頂上まで非常に快適な登山をする恩恵を受けた。大山寺までは立派な新しい道路を車で行くことができた。そこからは、道はときどき険しかったが、私のような老人にも困難過ぎるというほどではなかった。残念ながら、山頂では雲が多く、よい眺望は得られなかった。下山後、大山寺のすばらしい神社と寺を見て回った。妻と私は大いにこの登山を楽しんだ。とくに、鳥取大学のご親切な教授方とご一緒だったおかげであった。
 私は、日米医学協力委員会と国際電子顕微鏡学会に出席するため、1966年の夏にもう一度訪日の予定です。来年の夏妻と一緒に日本へ来たら、再び鳥取大学を訪れたいと思います。
 皆さんのご多幸を祈ります。
       
                                      H.Stanley Bennett

(注1)現在、キュウショウ「ザ」ンと呼んでいるが、スタンレーはキュウショウ「サ」ンと呼んでいる。
(注2)現在の鳥取商高。現在の鳥取市立北中学校の場所にあった。
(注3)現在の鳥取西高。
(注4)正確に言えば3歳10ヶ月。
(注5)現在は砂丘トンネルを抜けて多鯰ヶ池[たねがいけ]のある東側から砂丘へ行くのが普通になったが、この道路がなかった頃は浜坂の方から砂丘へ入った。有島武郎が「浜坂の遠き砂丘」と歌った所以[ゆえん]である。こちらから砂丘にはいると、すり鉢がある。文字通り巨大な擂り鉢形の大きな穴が開いている。子どもたちにとって格好の遊び場で、底まで駆け下りたり、雪が降るとスキーで滑り降りたりしたものだ。

,ベネット父子