2008年12月31日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (10)

前回は、歴史年表からいくつかの出来事を思いつくままに並べて、日米関係が悪化して行き、鳥取の地に骨を埋めるというヘンリー・ベネットの思いを果たすことができなくなった、と書いた。
いよいよ日米開戦となるわけだが、その前に、アメリカで暮らすことになったスタンレーのその後について、急いで振り返ってみたい。

加藤恭子は次のように記している。
 十三歳で本格的にアメリカに住むことになったスタンレーにとっては、生活のレベルの高さは、鳥取のそれと比べると、びっくりするようなものであったにちがいない。しかも、私立学校の生徒たちの多くは、裕福な家庭から来ている。宣教師の質素な家庭、しかも大正時代の日本で育った少年にとって、かなりの違和感があったとしても不思議ではない。
 姉のサラによると、一九二〇年代の鳥取市内では、各戸に電気と水道があった。だが、電気は電灯に使うだけで、ほかの電気用品に使うことはできなかった。電気冷蔵庫などはなかったし、自動車も少なく、人力車を使っていた。暖房はこたつと火鉢にたより(引用者注:昭和10年代でもこの通りであった)、男の子たちは制服を着ていたが女の子たちは着物に袴。女性は着物、成人男子もほとんどが着物に袴だった。それに比べ、一九二〇年代のフィラデルフィアでは、ほとんどの家が自動車、ラジオ、電気冷蔵庫などをもっていたという。
「だからと言って、鳥取での生活が原始的だなどと思ったことは、一度もありません。私たちは、大好きでした」
 とサラはつけ加えるのだ。(pp.78-79)
1929(昭和4)年、スタンレーはオハイオ州オーバリン・カレッジに入学。寄宿舎の食堂で皿洗いのアルバイトをやりながら、1932年に卒業し、その秋、ハーバード大学医学部に入学した。
大学でも、家からの仕送りだけでは学費がまかなえず、大学食堂のウェイターや教授たちの家の暖房係のアルバイトをした。当時は、地下室にある炉で石炭を燃やし家中を暖めていたという。
2年目から、解剖学の教授がスタンレーのために奨学金をとってくれ、勉学に専念できるようになったという。
4年生になり、フェローシップ(大学院学生・研究員に与えられる特別奨学金)をもらえることが分かったので、以前からつきあっていたアリス・ルーサ(Alice Roosa)と結婚することを決意する。
彼女もスタンレーと同じ年にオーバリン・カレッジに入学していたが、専攻がスタンレーは化学、アリスは体育と違っていたので、二人は出会わなかった。3年生になって、二人が心理のコースを受講したことで知り合った。アリスは快活で向上心が強く、優等生だった。
アリスの家は、父方も母方も、曾祖父、祖父、父が医者という医者一家で、アリスも医学部へ進みたかったが、「家庭と医学は両立しない」という父の意見に従って断念したという。カレッジ卒業後、ニューヨーク州の両親の家に帰り、近くのハイスクールの体育教師となった。スタンレーは毎日のように手紙を書き、アリスも返事を出した。
1935(昭和10)年7月に、二人はアリスの父の家で結婚式を挙げた。朝の8時半にスタンレーの父、ヘンリーによって式を挙げ、その後、家族でいっしょに朝食をとるだけの簡単なものであったという。

1936年、スタンレーはハーバード大学医学部を優等で卒業した。
1年間無給のインターンをやり、1937年9月、ボストンへ戻ってハーバード大学医学部のフェロー、1939年からは解剖学の講師となった。

(今回は『S・ベネットの生涯』pp.78-83 による)

2008年12月27日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (9)

ヘンリー・ベネットが日本語を聞き、話すだけでなく古い日本語の文章を読むこともできたことはすでに述べた。妻のアンナも、歴史、宗教、考古学などの読書こそ英語であったが、日本語に堪能であったという。
しかし、子どもたちに対する教育方針は、アメリカ人として育て、帰国後にハンディキャップを持たせないようにしょうというものだった。
米国の通信教育専門の学校から教材を取り寄せ、朝食後からお昼まで、週5日勉強した。
長女のサラは4年まで通信教育で勉強し、神戸の外国人学校、カナディアン・アカデミィの小学校4年へ編入された。ハイスクールまでカナダ式の一貫教育校で、寄宿生50人、通学生150人であったという。サラに1年半遅れて、長男のスタンレーもこの小学校の寄宿生となった。

1917(大正6)年、ベネットの一家は米国へ帰国した。当時、アメリカ人宣教師は、7年外国で勤務すると一年の帰国が認められたという。一家は、母アンナの出身地であるフィラデルフィア市郊外のジャーマンタウンで暮らした。7歳のスタンレーにとっては最初のアメリカ体験だった。彼は姉のサラとともに、母の母校、ジャーマンタウン・フレンズ・スクールに通った。小学校から高校まであるこの学校は創立が1845(弘化2)年の私立学校で、主にクエーカー教徒の子弟のためのものであったが、教育水準が高いことから他宗派の家の子どもたちも通学するようになっていた。元駐日大使で夫人が日本人だったエドウィン・ライシャワーもここの卒業生だという。
1年後、家族は日本へ帰ってくるが、4、5年後母アンナの健康に問題が生じた。1923(大正12)年、アンナは軽井沢で乳癌の手術を受けた。
翌年の夏、一家はジャーマンタウンへ戻った。

1927(昭和2)年ヘンリーは単身日本へ帰り、翌年アンナも下の二人の娘をつれて鳥取へ帰ってきた。カレッジへ通っていたサラとスタンレーはアメリカに残った。この二人が戦前、最後の短い来日をしたのは、1930(昭和5)年の夏、両親の銀婚式を祝うためだった。このとき、一家は野尻、軽井沢、富士山、日光へ行っている。

1934(昭和9)年7月、一時帰国したベネット夫妻は、1936(昭和11)年3月、鳥取へ帰ってきた。子どもたちは全員アメリカに残った。鳥取駅には県知事をはじめ多くの人々が出迎え、ヘンリー・ベネットは次のように挨拶したという。
「鳥取の地へ帰ってまいりました。これからは日米の親善と交流、そして幼児教育とキリスト教の伝道に一生を捧げるとともに、日本と山陰の歴史や文化の研究を続け、愛児フレデリックが眠るこの地に、妻とともに骨を埋めるつもりです。」

しかし、時代はこのヘンリーの言葉の実現を許さなかった。
翌1937年、日中戦争が起こり、翌38年には東京オリンピックの中止、さらに39年、ノモンハン事件、1940年には、日本軍の北印進駐、日独伊三国軍事同盟締結などなど、国際情勢は緊迫し、日米関係も悪化していった。
1939(昭和14)年の春、ベネット家親類縁者のつどいがあり、ヘンリーとアンナは渡米した。どうしても日本へ戻るというヘンリーの身を案じて病気になったアンナを残して、ヘンリーは日本へ発った。
翌1940(昭和15)年の夏、在米の妻を見舞ったヘンリーは、二度と日本へ帰ることはできなかった。
 日本側の資料では、日米関係の悪化に伴い、日本の官憲が圧力をかけたのではないか。申し訳なかった。という雰囲気がにじみ出る。
 だが、サラによると、責任はアメリカ政府にあるという。鳥取へ単身帰ろうとしたヘンリーに対し、アメリカ政府が日本行きを禁止、許可を出さなかったのだという。こうして、約三十六年もの歳月をすごした鳥取との別離を、ヘンリーは余儀なくされたのだ。
 ヘンリーは悲しい報告を鳥取の協会関係者へ書き、家具などは皆で分けてほしいと頼んだ。
(今回は最後の引用部分はもちろん、ほとんど『スタンレー・ベネットの生涯』の中の pp.69-71 からの引用である。)

2008年12月26日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (8)

1915(大正4)年3月8日、ベネット家に悲劇が起こった。
先回、ベネット邸の庭にあった、雨水を溜めておくための「地面に埋められた陶製の茶色の水がめ」のことを記した。
この日、スタンレー、フレデリック、日本人の男の子たち何人かが庭で遊んでいた。誰かがフレディ(フレデリックの愛称)に小さなバケツを渡して水を汲んでくるように言ったらしい。彼は近づいてはいけないと言われていた水がめの蓋をとって水を汲もうとして頭から落ちた。
台所にいた料理人がふと窓の外をのぞいて、水がめから突き出ている二本の脚を見て叫び声を上げた。
父のヘンリーが脚をつかんで引き上げたが、すでにフレディは死んでいた。
「誰が彼に水を汲んでくるように言いつけたのか、穿鑿(センサク)する人はいなかった。」と加藤恭子は書いている。(p.40)
「異人屋敷」へは、日本人信者の女性たちが集まり、小さな白木の棺の底とフレデリックの身体の周囲に詰める白絹の細長いクッションのようなものを縫った。小さな手には、庭から摘んだ白い花束が持たせられた。時折、すすり泣きが洩れた。
 そして野辺の送り。男たちが棺を肩に乗せて運んだ。のぼりを立てた長い行列が棺の前後に続き、丸山へと向かった。(中略)
 この丸山の地は、のちに本格的な教会墓地として整備され、フレデリックの墓もそこへ移された。今日、フレデリックの墓は、鳥取市丸山の教会墓地にある。(中略)
 この墓地は、久松山の山麓北東の方角、八幡池に近く、階段や山道を登っていく鬱蒼とした森の中にある。樹々が影を落としているので、ほとんど日が当たらない。前方には納骨堂、平安霊堂がある。
(『S.ベネットの生涯』pp.41-42)


2008年12月20日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (7)

ヘンリーとアンナの間には5人の子どもが生まれた。
長女、サラ(Sara)1908(明治41)年生。
長男、スタンレー(Stanley)1910(明治43)年生。
次男、フレデリック(Frederick)1912(明治45)年生。
次女、アンナ(Anna)1913(大正2)年生。母と同名なので「ナニー」とニックネームで呼ばれたという。
三女、メアリー(Mary)1916(大正5)年生。

彼らが子ども時代を過ごしたのは、例の「異人屋敷」、私たちが子どもの頃の呼び方では「ベネットさんの家」であった。正確に言えば、鳥取弁で「ベネットさん家(げ)」と呼んでいた、というべきかもしれない。この言い方がどのように、また、いつ頃生まれたのわからない。「鳥取藩を治めていた池田家(いけだ・け)」のような「け」が「げ」となったのかとも思うが分からない。「◇◇ちゃんげの者(もん)」とか「◎◎ちゃんげは、○○ちゃんげの隣」といったように使った。前者は家族を指すとも言えるし、後者は明らかに建物を指している。前者の意味であったものが、後者の意味にも用いられるようになったのかも知れない。

本題に戻ろう。加藤恭子の本に「鳥取の異人屋敷。スタンレーもここで生まれた。(撮影年月日不明)」と注記してベネットさんの家の写真が掲載され、本文に「クローバー敷きの庭に囲まれ、一、二階ともにベランダ風な回廊をめぐらせた白っぽい洋風建築」と書いている(p.38)。
 ガス、電気、水道のまだなかった当時の生活の中で、ベネット家の飲料水は雨水に頼っていた。井戸もあるのだが、畑にまく人糞の肥料が地下水を汚染するので、飲み水としては使えない。屋根のすぐ下に、雨水を受ける大きな木槽があった。その下部には栓があって、それをひねると、地面に埋められた陶製の茶色の水がめに水が落ちた。そこから竹びしゃくで水を汲み上げ、煮立ててから飲むのだった。水がめの上には木の蓋がしてあり、子供たちは近づかないようにと言われていた。(pp.39-40)
私の父は1887(明治17)年12月の生まれだから、ヘンリーより13歳くらい年下だ。ヘンリー夫妻が「異人屋敷」で暮らし始めたときには、18歳前後で、たぶん鳥取にはいなかったと思う。だが、10歳前後の頃に父親が母親と自分を含む三人の子どもを捨てて出奔し、長男であった父が一人、元魚町2丁目にあった伯父の家に預けられた。毎朝天秤棒で桶を担いで袋川で水を汲んでくるのが仕事の一つで、とくに冬はつらかったという。私が子どもの頃、父は鹿野街道筋の内市で商売をしていた。水道はむろんあったが、井戸の水も電気を使ったポンプでじゃんじゃんくみ上げて「湯水の如く」の文字通りに使っていた。父の苦労話を聞くたびに、なぜ井戸水を使わなかったのだろうと思ったが、上に引用した加藤の文章を読んで納得した。(また、脇道にそれてしまったか?)

2008年12月19日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (6)

ヘンリー・ベネットと妻のアンナについて伊谷ます子の語っている内容をご紹介したが、伊谷隆一の文章や加藤恭子の『スタンレー・ベネットの生涯』からもう少し補足しておきたい。
ヘンリー・ベネットがハーバード大学卒業直後、宣教師として日本に派遣され鳥取に単身赴任したのは、1901(明治34)年だった。その後一時帰国してアンナと結婚し、日本に帰ってからアンナの任地だった岡山でしばらく暮らした後、二人で鳥取へ戻ってきたのは、1906年の秋であったことはすでに記した。
この時代を歴史的に見れば、日露戦争(1904ー1905)を挟んでいる。『百傑伝』の中で、伊谷隆一はこう書いている(pp.642-643)。
日露戦争前の排外主義気運勃興のさなかであり、いうまでもなくヤソと知れば露探(引用者注:ロシアのスパイ)と騒ぐ当時の風潮のなかで、彼の鳥取での苦難にみちた伝道がはじめられた。人を訪えば塩がまかれ、自宅には石が飛んだ。山陰を伝道センターと指定したアメリカンボードからの強い援助があったとはいえ、このようななかにある外人宣教師を支えるものは、その伝道に賭ける捨身の決意と、その地にある無名の信徒たちの祈りである。
 ベネットがまず第一に励んだことは日本語の習得であり、日本のくらしを身につけることであった。鳥取弁のまだるこいユーモアを解し、日本語ばかりでなく漢籍をも自由に読み、ミソ汁やタクアンの茶漬けの食事をし、そして正座して人と語ることをいとわなくなる、そのような謙虚な努力とそのくらしが、次第に、信徒たちとの結びつきを強めていった。
正座については先回紹介した伊谷ます子の話にも出てきたが、ヘンリーの長男スタンレーの遊び友達の一人であった尾崎誠太郎も後年こう語っている。(以下は、引用も含め、『スタンレー・ベネットの生涯』pp.48-49 による。)

「日曜学校で畳に座られるとき、ズボンをちょっと持ち上げる。そうすると、ズボンの筋がいつまでもくっきりとついている。私もそのやり方を応用しました。」
この尾崎誠太郎は、京都帝大工学部卒業後、陸軍航空技術学校教官と陸軍航空技術研究所員を兼ねた航空少佐で、戦争中はスタンレーと敵味方に別れることになった人物だが、戦後は国立米子高専と広島電気大学の教授を歴任した。1993(平成5)年9月、加藤恭子が鳥取に取材に来たとき、84歳の彼に会って直接取材している。弟の繁夫は鳥取大学名誉教授で、同級生だった評論家の荒正人は、ヘンリーから洗礼を受けたという。
その尾崎誠太郎が、鳥取一中(現在の鳥取西高)時代に、ヘンリーに向かってこんなことを言ったという。「『クラウン・リーダー』全五巻を英国人で文部省顧問のパルマーが読んだレコードを父が一式買ってくれましてな。私はキングズ・イングリッシュだと威張って、ベネットさんはアメリカ人だから英語は駄目だってなことを言ってしまった。子供というのは、生意気なものです。」そして「お怒りにならなかったのですか?」との問いにこう答えている。
「顔を真っ赤にされましたが、一つも怒られなかった。いや、内心は怒られたでしょう。ハーバード大学を何とか賞をもらって卒業した人に、田舎の中学生が『あんたの発音は悪い』ということを言ったのですから。後からは、冷や汗が出たり、すまんと思ったり…」
このエピソードのあとに、「生意気な子供がかえってかわいいのか、ヘンリーは誠太郎をとてもかわいがったという。」と加藤は書いている。

ヘンリーは、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語にも通じていた。日本語も鳥取弁を含む話し言葉を理解し、使うことができた。
話し言葉だけではない。江戸時代に書かれた鳥取藩の史書を読み、それを英訳しようとさえしていた。
幼稚園の式では、「教育ニ関スル勅語」、いわゆる「教育勅語」をおごそかに朗読したという。

教育勅語といえば、小4のときであったか、これを筆で清書して提出せよという夏休みの宿題があった。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ…」難しい漢字を書きまちがえては書き直し、半紙を何枚も使って、なんとか最後の「御名御璽」までたどりつき、その最後の「璽」を書きそこねて、べそをかいたことがあったっけ。
閑話休題。
ヘンリーは1956(昭和31)年、フィラデルフィアで亡くなった。スタンレーが父の持ち物を整理していると白い絹の布に包まれて桐の箱に入っている教育勅語がトランクの中から出てきたそうだ。「ずいぶんいい言葉で書かれていると思います。あれを父が読んでいたことを、誇りに思っています」と言ったという(加藤本p.222)。

ヘンリーについて、尾崎誠太郎は「怒られた顔を見たことがありませんでしたな。温厚篤実。日本人にもめったにいないような、実直な方でした」と言い、息子のスタンレーは先回紹介したように「聖人のような人でした」と言っている。

2008年12月17日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (5)

ヘンリー・ベネットは、毎日近くの教会へ通っていただけではない。
随想と歌集を合わせた『雁皮の庭』という著書もある、歌人の伊谷ます子は、愛真幼稚園の前身である鳥取幼稚園の第二回卒業生で、鳥取教会へも通った経歴を持つ人だった。その彼女がベネット夫妻について語った言葉が、『近代百年 鳥取県百傑伝』中の伊谷隆一「ベネット」伝中に引用されている。そしてその内容は後の松田章義による「ベネット」伝(『鳥取県 郷土が誇る人物誌』)、加藤恭子の『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』にも、受け継がれている。

伊谷ます子によると、ベネットは自分より遅れて鳥取へやって来たエストラ・コーという女性宣教師と一緒に自転車で伝道範囲の浦富、青谷、八頭まで出掛けたという。鳥取県東部を知っている人であれば、舗装もされていなかった当時の道を、これらの地区へ鳥取市内の中心地から自転車で往復することがどんなにたいへんなことか、よく分かるであろう。
ミス・コーについて伊谷は「鳥取の青年層に伝道し、多数の人を導き、多大なる貢献のあった人」と述べており、加藤恭子は『S・ベネットの生涯』の中(p.47)で「長身のコーは、紺のワンピースがよく似合う清らかな美しさで人々を惹きつけたという」と書いている。ベネット夫妻について伊谷が語っている言葉を二カ所引用しよう。
 当時鳥取教会は畳敷でしたが、(引用者補記:ヘンリー・ベネットは)何時までも正座して信者と語り、上手な日本語で説教もされました。又非常に音楽的才能があり、その低音はきれいで、ヴァイオリンの音色は信者をして容易に恍惚境に入らせる事が出来ました。(引用者注:さきほど述べた自転車による伝道の際にも、いつもヴァイオリンを持っていったという。)賛美歌の四百九十六番「うるわしの白百合」と云うのがお得意で、今でもそのバスが耳によみがえって来る様です。
 非常に日本の歴史を勉強され、特に鳥取の歴史に関心があったようです。
(中略。次の「氏」はヘンリーのこと)当時氏の秘書をしていられた平岡とみ氏は「先生は池田候の日記(引用者注:今後触れるときがくるが『因府年表』のことと思われる)を持っていられ、それを英訳していましたが、毎日どんな難しい漢字をたづねられるかと心配でなりませんでした。」と述懐されている。
 又ある夏、山中湖に家族揃って避暑に行く事になりました。家族は先に汽車で行き、氏は自転車で行く事になりました。然し自転車で漸く山中湖に到着した途端に、鳥取教会の信者の人の昇天をきかされ、たちどころにその足で鳥取に引き返して行ったと云うエピソードもあります。
 夫人は名門の出身であると聞いていました。婦人会を組織し当時としては珍しい西洋料理や菓子、編物を教え育児の相談等をして皆から喜ばれ親しまれていた様です。私は小さい時「雪ヤケ」がひどくて難儀をしていましたが、夫人から頂いた薬、今から思うとメンソレータムではなかったかと思いますけれど、それがよく効いて早く癒った事もありました。又私の姉と兄が相次いで亡くなった時も両親はどれ丈親切に慰められたかと云う事も忘れる事が出来ません。「上村のおばあさん」と云う教会員で、全く身寄りのない老人を最後まで親切に世話をしてお上げになった事も、教会員達の心の中に何時までも灯となって残っています。(中略)夫人は現在も米国にて九十歳の高齢を保ち、帰国後も尚鳥取を忘れず、折にふれて献金など送って来る事があります。(『百傑伝』pp.644-645)
いささか引用が長すぎたかも知れない。しかし、ベネット夫妻の人柄がよく偲ばれるし、伊谷の言葉の中に古い鳥取弁が匂うような箇所がいくつかあって、私には懐かしい。
なお、ベネット夫人のアンナは1973(昭和48)年12月20日に死去した。97歳だった。

1979(昭和54)年、ヘンリーとアンナの長男、スタンレー・ベネットが戦後何度目かの来日の際、「鳥取へ帰ってきた」(彼はいつもこう言ったという)とき、NHK鳥取の「マイク訪問」に出演して板倉正明アナウンサーの質問に「格調高い日本語で答えた」という。このとき、伊谷ます子が同席していた。スタンレー自身が「聖人のような人でした」と言っているヘンリーについて「いつもにこにこしていらしたもので、ちっとも外国の方というような隔てはなかったものです」と語っているそうだ。この放送の4年後の1983年に亡くなった。「この番組の録音テープは、スタンレーの日本語での肉声をとどめる現存テープの数少ないものの一つである」と、加藤恭子は書いている。(『S・ベネットの生涯』pp.50-51)
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2008年12月15日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (4)

1906(明治39)年9月、岡山から鳥取へ戻ってきたベネット夫妻に、話を戻そう。
ふたりが鳥取に「着いてみると、手配しておいた家がまだ整っておらず、十日間は入居できないという。台所で鶏を飼っていたらしく、ひどく汚いうえに、壁塗りも終わっていない。前の住人が皮膚病だったそうで、家中に消毒薬の臭いが立ち込めていたなど、困難な新婚生活の出発のようである。」と、加藤恭子は書いている。(p.46)

これが最初の回で「ベネットさんの家」として紹介した家であろう。当時は「異人屋敷」と呼ばれていたらしい。いつ頃までそう呼ばれていたかわからない。
わたしの小学校時代、ベネット一家はすでに住んではいなかったが、「ベネットさんの家」と呼んでいた。ひと月ばかり前に鳥取西高時代の同期生二十人ばかりが集まったとき、そのことを醇風小学校出身の二、三人に尋ねてみたが、「ベネットさんの家」と異口同音に答えた。
 夫妻が赴任した鳥取教会は、『鳥取教会百年史Ⅰ』(鳥取教会百年史編纂委員会、一九九〇年)によると、創立は明治二十三年(一八九〇年)とある。
 夫妻は協力して種々の事業に従事した。少し前から、前任の宣教師の自宅で行われていた児童保育のプレイ・スクールを拡張して、鳥取幼稚園を創設。これは現在も愛真幼稚園として幼児教育が行われている。また、昭和5年(1930年)には、幼稚園の敷地内に「南窓館」というクリーム色二階建ての洋館を建て、若い人たちの活動の拠点とした。日曜学校のほかにも、家政科、英語科、タイプ科などを作り、文化センターとしての役割も果たした。
 教会関係者が保存している古い写真を見ると、明治四十一年(一九〇八年)の若き日のヘンリーは、秀でた額にがっちりと張った顎の芯の強そうな青年。隣に坐る夫人は、髪を後部でまとめているらしい。立衿の白っぽいロングドレス姿である。(pp.46-47)
わたしの二人の娘も通った愛真幼稚園も、道路を隔ててその前にある鳥取教会も、場所は昔と変わってはいない。「ベネットさんの家」から歩いて15分もかからないくらいの距離だ。
現在の教会は1984(昭和59)年に完成した。「白でアクセントをつけた煉瓦の二階建てで」「三角屋根の頂点に十字架を頂く白と茶色の鐘楼がひと際目立つ」とその印象を加藤恭子は書いている。(p.48)

2008年12月6日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (3)

加藤恭子『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』を読んでみて、流石に『ノンフィクションの書き方』の編著者の作品だと感嘆した。
加藤はこの編著書の中で自分の作品について次のように述べている。
 このスタンレー・ベネットはアメリカ人の解剖学者です。鳥取で生まれ、十三歳でアメリカに渡り、やがて戦争。戦争中はアメリカの海軍士官として日本と戦います。
 ところが、自分が生まれた国である日本と戦うことについて、ひじょうに苦しんだ。そして戦争が終わってからは、日本の解剖学者を自分のところへ次々と呼び寄せて一生懸命に教えたのです。
 彼が亡くなったとき、日本のお弟子さんたちが、先生の伝記を残しておきたいということで、團ジーン先生の伝記(引用者注:『渚の唄―ある女流生物学者の生涯』講談社 1980(昭和55)年を指す)を書いた「あの人」に頼もうということになり、私に依頼がきたのです。(p.116)
加藤は、鳥取、沖縄、アメリカと取材の旅をし、多くの人に会って話を聞き、
スタンレー自身の書いたものはもちろん、英文、和文の文献を数多く集め、さらに地方新聞の記事にまで目を通した。
そしてこれらの作業の中で、スタンレー・ベネットの人物の原点・基調には、
心の故郷鳥取と、幼い時に事故でなくなった弟のフレデリック、そして太平洋戦争の三つがあると考えて、彼の生涯を書き上げている。

先回少し触れたスタンレーの父、ヘンリーについて、加藤は二つの点で2冊の参考文献を挙げている。
・伊谷隆一「H・T・ベネット」(『近代百年鳥取百傑伝』山陰評論社1970年)
・松田章義「ヘンリー・J・ベネット―伝道と幼児教育―」(『郷土が誇る人物誌』鳥取県教育委員会編、第一法規出版 1990年)

前者のタイトルにあるベネットのミドルネームが「T」になっているが、後者の「J」が正しい。
後者は150名の人物を取り上げている。わたしも、この中の2名について執筆しているが、どの人物をだれが執筆したか、明らかにしないことになっていた。この場合は例外的措置だったのであろう。

2008年12月4日木曜日

鳥取を愛したベネット父子(2)

イギリスのジェームズ1世が清教徒を弾圧したため、ピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号で新大陸、北アメリカのプリマスに上陸したのは、1620年だった。高校時代に世界史で習った程度の知識しかないわたしにも、その程度のことは記憶にある。
ベネット家の先祖が英国から新大陸に移住してきたのは1680年頃であったという。「クエーカー教徒だったために迫害された彼らは、本国を離れ、ペンシルヴァニア州西部に、兄弟たちとともに定住した。」と、加藤恭子は記している(p.43)。地震のことを英語でアースクエイク(earthquake)というように、クエーカー(Quaker)とは「ふるえる人」という意味である。
中・高生時代に尊敬というより崇拝していた新渡戸稲造もクエーカー教徒だったし、クエーカーと呼ばれるのは、彼らの祈りがあまりに熱心であるがために身体が震えるので、そう呼ばれるのだ、と新渡戸が述べていた記憶があるが、どの書物で読んだのか定かではない。
ふと思いだしたのでこんなことを書いてしまったが、様々な宗派の違いなどはまったく分からない。わたしの関心はあくまでも、ベネット父子の人柄や行為にある。

ヘンリー・J・ベネット(Henry J. Bennett)は、1875(明治8)年に生まれ、ハーバード大学を卒業後、1901(明治34)年11月に米国伝道会の宣教師として鳥取へ赴任した。
1902年か1903年に短期間の宣教師として岡山に赴任していたアンナ・ジョーンズ(1876年生)と婚約した。YMCAの仕事で神戸に在住していたハーバード大時代の同級生の妻がアンナの親友であったという縁だった。
1905(明治38)年7月、フィラデルフィア郊外にあったアンナの両親の家で、結婚式を挙げた。日本に戻った二人はアンナの赴任地、岡山にしばらく留まり、翌年、1906年9月に二人で鳥取へ帰った。
「ヘンリーと私は、金曜の午後六時半にここ(鳥取)へ着きました。岡山から二日の旅でした…」
 と始まるこの手紙は、結婚後のアンナが夫に伴われ、初めて鳥取市に着いたときのものであろう。岡山から鳥取へ、二日の旅! 今なら、汽車で二時間半の行程である。
ヘンリーとアンナは、人力車二人引で中国山脈を越えた。初めは、智頭[ちず]に木曜の夜に着く予定だったが、車夫の足がのろくて、その手前の小さな旅館で一夜を明かさなければならなくなった。だが、その旅館の娘が洗礼を受けていて、こんな辺鄙な場所に信者が、と驚いてもいる。(pp.45-46)
(注:引用文中の[ ]内のひらがなは原文のルビ)