2007年3月24日土曜日

腰リール

街でよく見かける風景のひとつ。――いかにもかったるそうに歩いているお兄ちゃん、あるいはお姉ちゃんのお尻を見ると(いや、別に見たいわけじゃない、必然的に目に入ってくるんです)、犬用の鎖かとおもえるような太い鎖がベルトから尻のポケットにかけて、これまたでれっと、というか、だらりというべきか、ぶらさがっている。それも一本じゃなくて、二、三本ぶらさがっているのもある。その先にあるのは、キーの類か、それとも財布か。ウォレット(wallet)型の財布の端がポッケから顔を出しているのもあるぞ。あの手の財布には鎖を付けることはできないだろう。いや、二つ折りだから、鎖をはさみこむことができる。こんど見かけたら、よ~く観察しよう。
いや、失礼しました。枕がでれ、でれ~となが~くなってしまいました。では、本題に。

今はやりのライフ・ハックス(life hacks)の一つとして、「腰リール」というものがある。商品としてはまだ存在していない(と思う)。文房具店へ行けば、腰リールの材料はすべてそろえることができる。
実を言うと、一昨日、鳥取のような田舎町の店で材料がそろうかなあ、と不安をいだきながら若桜街道の加藤紙店へ行ったら、ありましたよ、必要なものはすべて!

昨年の12月か、今年の1月(と思うが)、NHK-TV(総合)の「おはよう日本」の8時前後に放映される「まちかど情報」で(これまた、あったと思うが)、いろいろ検索してみても確認できなかった。とにかくある日の朝のテレビで、「ゲルインクのボールペンが書きやすい」という情報を得て、その日のうちに、加藤紙店へ行き、そんなものがあるかと尋ねたら、若い女性店員がボールペンばかり並んでいる棚の前に連れて行き、両手を左右にいっぱいのばして「ここからここまで、ぜ~んぶ、ゲルインクのボールペンです」と言った。以来、このボールペンを愛用している。むろん、たとえば日本橋の丸善や銀座の伊東屋なんぞの比ではないけれども、わが町の文房具店もがんばっているんだなと……、えっ? 腰リール? 分かってます。

もう一度繰り返しますが、今はやりのものの一つとして、首からぶら下げる名札がある。わたしどもの現役時代に名札といえば、安全ピンで左の胸あたりにつけるもの。中国における文化大革命時代に、批判され、糾弾される者の首からぶらさげられたものの、ミニチュアみたいなものを、「わたしゃ、こういう者でござんす」と首からぶら下げるなんて、と思うが、今や、日本国中、猫も杓子も首からぶら下げている。病院では、ドクターたちがぶらさげているし、患者たちも番号を書いたのをぶら下げているそうな。プライバシー保護とか称して「××番さ~ん」と院内放送で呼び出すらしい。まるで囚人扱いだね。
わが鳥取の街でも、なにかの全国大会とか、ブロックの研究集会とかがあると、この名札を首からさげ、資料などの入った紙袋を持った人たちがぞろぞろ歩道を歩いているのをよく見かける。
そうだ、中学校や高校時代の同期生会をやるときには、安全ピンつきの名札なんぞやめにして、首からぶら下げるやつにしたらいいかも。むろん名前を書いてもいいけど、当時の白黒写真(カラー写真などあるわけがない! それどころか、記念アルバムもないから、おたがいに交換し合った写真)をアルバムからはがすなり複写するなりして、首からぶらさげるというのはどう? 会がおおいに盛り上がると思うけどいかが?
え、腰リール? わかっています。もうその話になっているんです。

この首から下げる名札に、リール付のやつがあることをはじめて知った。名札を下げるのになぜリールが必要なのか、いまだにわたしには理解できないが(非接触式IDカードに使用できると書いてあるから、それを使うのに便利がいいのだろうが、そんなカードは持っていないし、必要もない)、そういうものがあるんです。わが加藤紙店にも、一個だけあった! これが一番高価で、480円。リールのひもの長さは最長約70センチ。
このひもの先についている名札用のケースをはずして、ここに筆記用具をぶらさげる。手帳の代わりにリングのついた、英単語などを書くカードを使う。あとで紹介する本の写真には、名刺版くらいのカードが写っていたが、わたしは、3センチ×7センチ弱のカードの枚数をを半分にして輪ゴムでとめたものにした。
ボールペンは、ゼブラのペンポッドにした。リングのついたキャップに本体を入れて回すとロックされてペンが落ちない。キャップに収納された全体の長さが7.5センチで、カードの長辺とほぼ同じだ。
以上で腰リールがりっぱにできあがった。わたしは、家の鍵も腰リールにとりつけた。これは、文字通り腰につける(ベルトやズボンのベルト通しの部分などに取り付けることができる)。わたしは、父の形見の一つとして木製の髑髏(しゃれこうべ)の根付けをもっているが、これをこのリールに使うことにした。これで、いつでもメモを書き取ることができる。終われば、手を離すとメモもペンも元の腰へ戻る。 
え? そんな面倒なことをしなくても、ポケットや鞄の中に小さな手帳かメモ用紙と、ペンをもっていればいいじゃないか、ですって?
そんなことを言う人は分かっちゃいないんだよなあ。いいアイデアというものは、いつ、どんなところで出てくるか分からないし、生まれてもすぐ、忘却の彼方へと去って二度と戻ってこないことだって、よくあることだ。気候によっては、何も持たず、ポケットもないTシャツだけで散歩することだってあるだろう。
とにかく、いつでも、どこでも、なんでも、メモしてやるぞ、という心意気の象徴でもあるんです、腰リールは。

一昨夜、或る店で腰リールを完成させて、共立女子大の鹿島 茂教授に笑われるかもしれないが(この文意が分からない人は朝日新聞社が発行している「一冊の本」を購読していない人です。むろん購読しておらず、分からなくてもかまいません)酒を飲みながら何度も「ドーダ」「ドーダ」と自慢した。
翌日、飲み屋を出た頃の記憶がまったくなく、代金を支払ったかどうか、その店に電話で問い合わせる有様であった。腰リールをぶらさげても、酒を飲み過ぎてはいけない、という教訓です。

【参考資料】
1.田口 元ほか『ライフハックプレス~デジタル世代の「カイゼン」術~』
2.自己実現寺:「腰リール」のリールはどれにする? - livedoor Blog(ブログ)
 http://mugenmirai.livedoor.biz/archives/50487833.html





2007年3月15日木曜日

ウェブという新世界 3

梅田望夫は、『ウェブ進化論』第五章の「2 ネットで信頼に足る百科事典は作れるか」でウィキペディアを取り上げ、「3 Wisdom of Crowds」の中では、その一つとして、ソーシャル・ブックマークについて述べている。

『ウェブ進化論』を読む以前からウィキペディアの存在は知っていた。しかし、梅田さんの文章を読みながら、ふと、気になる言葉を思い出し、ウィキペディアに当たってみた。それは、「豆腐ちくわ」である。

豆腐ちくわとは、文字通り、豆腐で作った竹輪だ。むろん、豆腐だけで竹輪が作られるわけがない。魚肉のすり身と豆腐を混ぜたもので作るが、あくまでも豆腐の風味を持っていなければいけない。いかなる種類の魚肉とどんな豆腐を、どのような比率で混ぜ合わせるかによって、製品のできに違いが出てくるのは、当然。
今日のような豆腐ちくわを製造しているのは、昔も今も、鳥取市内を中心とする県東部のいわゆる竹輪屋、蒲鉾屋(水産練り製品製造業者というべきか)だけである。

この豆腐ちくわに関する記述をウィキペディアの中に見いだしたとき、ある種の感動を覚えた。しかし、同時に懸念が的中したことでがっかりもした。
全体的にはよく書かれてはいるが、もっとも問題のある記述は次の二カ所だ。
【1】豆腐ちくわを最初に本格的製造したのは、鳥取市の「ち○○商店」である。
【2】最も多く生産している「ち○○商店」では豆腐と魚のすり身を7対3の割合で混ぜ、魚肉は……

【1】については、このように断定的に述べる根拠はなにもない。
【2】については、事実を述べているのであろうが、【1】と併せて、この商店名のみを繰り返しているのは、宣伝臭が強すぎてウィキペディアのもつ意義、意図からみて、いかがなものか、と思う。

この項の〔変更履歴〕を見ると、2006年の2月12日より、何度も加除変更が重ねられ、最新版は2007年2月26日になっている。冒頭に書いたように、気になる言葉を思い出し、ウィキペディアで検索したのは、この項目が最初に書かれてから、一ヶ月ほど経ったときだったことになる。
この豆腐ちくわについての記述は、「ち○○商店」もしくは同店の依頼を受けた者によって書かれたものであることは、容易に推測されよう。わたし自身はそう確信している。

さて、『進化論』のなかで梅田さんはソーシャル・ブックマークについて次のようにのべている。
《対象となる記事に印(ブックマーク)をつけて、簡単なコメントやキーワードを付して「ネットのあちら側」に置くもの。「面白いものを選び、簡単にコメント等を付す」……
それは「個」が自分のために行い「あちら側にオープン」にしておくところがミソだ。》
《……今はまだ「個」の数が少ない上に偏りがあって、ブックマークの分析によってネット「全体」の変化や人気動向を理解できる段階には至っていないが、「個」の数が増えて分布性能が上がるにつれ、そんな「全体」としての価値も高まっていくだろう。》

この言葉の意味するところと違うかも知れないが、ソーシャル・ブックマークの一つであり、梅田さんも関係している「はてなブックマーク」をウィキペディアの豆腐ちくわの項に付し、
〈豆腐ちくわを最初に本格的製造したのは、鳥取市の「ち○○商店」である〉に疑義あり
というコメントを付した。  

「ち○○商店」の社長は、わたしより若い人であるが、鳥取の特産物としての豆腐ちくわの宣伝を、長年にわたり、精力的かつ熱心にやってきている人である。そのための創意、工夫もいろいろやってきている。この点において、他店は熱意も努力も全くと言っていいほどに欠けている。だから、わたしはこの社長に対して敬意をいだいている。
しかし、疑義はたださなければならない。わたしは、この文章を「ごうな」というハンドルネームで書いているが、プロフィールを見ただけでわたしが誰か、社長には分かると思う。このブログではこれ以上言わない。いずれ、何らかの方法で私見を述べたい。

今回は以上のような文章になってしまったが、ウィキペディアを含めて、ウェブという新世界に対するわたしの思いや期待は、先回述べた通りであることに変わりはない。







2007年3月11日日曜日

ウェブという新世界 2

 昨年の3月、梅田望夫の『ウェブ進化論―本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書)を読んだ。第一刷発行が2月10日なのに、もう第五刷になっていた。12月には、梅田望夫と平野啓一郎の対談による『ウェブ人間論』(新潮新書)が上梓された。いずれも広く世に受け入れられているようだから、わたしのような者が、内容をご紹介することもあるまい。

とにかく、ウェブという新世界のすばらしさと、さらなる発展の方向を理解させてもらったと思っている。英国の詩人、キーツ(John Keats.1795―1821)に、ジョージ・チャプマンの英訳によってホーマーの詩を読んだ歓びを、新世界を眺望する思い、と述べた詩があるのを、思い出した。

むろん、ウェブの世界にも悪はある。わたしが始めた、このブログの世界にしても、「ブログ炎上」という言葉が存在することを承知している。 
梅沢は『進化論』のあとがきの中で、常にオプティミズム(楽天主義)を意識してこの本を書いた、と述べている。わたしも、せめてあと10年ほど生きて、「インターネット」「チープ革命」「オープンソース」の三大潮流が相乗効果を起こしながら作り出す「次の10年」をこの目で見たい、と願っている。




2007年3月6日火曜日

ウェブという新世界 1

 コンピュータを購入したのは2003年の暮れも押し詰まった頃だった。
それまでの10年近く、ワープロ専用機(書院)で文章を書いていた。だから、コンピュータになっても、縦書きもできるエディタ、QXにのみ、関心があった。メールだのインターネットなどにはさほど関心がなかった。

QXエディタは多機能である。クリップがどんな働きをするものなのかさえ知らない初心者には、分からないことばかり。途方に暮れる毎日だった。このエディタを使いこなしたい、という願いで、ウェブの世界へ入っていった。そして、その新しい世界はほんとうにすばらしい世界であることを知った。
QXエディタのことを書くつもりはないので、具体的に細かく紹介はしない。このエディタを愛する人々が大勢いて、初心者の質問に懇切、ていねいに答えてくれる。
このエディタを使いやすく、あるいは便利にする機能を付け加えるためのマクロを作っている人が大勢いる。それらのマクロを機能別にグループ化し、使い方を解説している人がいる。

こういうことは、なにもQXエディタに限ったことではない。同じく有償のWZエディタ、フリーの Tera Pad などについても同様である。

さらには、たくさんのフリーソフトや安価なシェアウエアのソフト類がある。この2、3年に、わたしがダウンロードして使ってみたり、現に使用しているものでも、優に100を超えている。
このように大きな恩恵を与えてくれる人々のうちの何人かに、メールで個人的に質問やら、お願いやらをしたことがあるが、みなさんからいただくご返事は、まことに丁寧であり、親切なものであった。
まことに有り難い、うれしい世界ではないか。