2007年6月15日金曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/小説『母』

映画そのものはもう見ることはできない。小説を図書館などで見れば、あのカーライルの言葉がどこかにあるかもしれない。
そう考えて、とりあえずネットで検索してみた。
あった! 講談社学術文庫で入手可能であることがわかった。どうしてこの小説が「学術文庫」なの? と首をかしげたが、とにかく手に入りました。

あった! あった! ありましたよ、「母としての日本婦人(序にかえて)」の中に。
いっさいの偉大なるものは、悲しみと苦しみとのうちから生まれた。……長き夜を泣き明かしたるものにあらずんば、いまだ共に人生を語るに足らず、とカーライルの言ったように、何らかの苦悩を経験したものでなくては、貴き何物をも所有していないのだ。(同書 p.9)
本書の出版は、1987年9月である。娘の鶴見和子鶴見俊輔は弟)がこの版にまえがきを寄せていて、次のようなことがわかる。

◇この小説は、講談社の初代社長野間清治の要請により、雑誌「婦人倶楽部」に1927(昭和2)年5月号から2年間連載され、完結と同時に同社から出版された。
◇1931年には著者自ら英訳して、ニューヨークのレイ・D・ヘンケル社より出版された。
◇戦前戦後を通じて三度映画化され、新派の舞台でも上演された。
◇戦後、太平洋出版社から復刻版、角川書店から文庫版が出版された。
◇今回の出版は澤地久枝『ひたむきに生きる』(講談社現代新書)のなかで、「さいしょに出会った本」として、この小説に若い世代の立場から新しい光をあててくれたことがきっかけとなった。

それで、この文庫本の解説として澤地は「『教養』の普遍性」と題する一文を寄せている。一カ所だけ引用する。
知識を求めていた人たちは、ここである安らぎを得、気持ちのよい刺激をあたえられたのではないかと想像する。名もない、学問や教養には無縁の人々が、熱っぽい視線で『母』を読む。一冊の通俗性のある小説本としてではなく、教養書として――。
そこに、『母』の役割と、昭和の日本人の姿が見えるとわたしは感じている。
この澤地の言葉が、この小説をうまく紹介していると思う。先日、米原万里の男女共同参画的便器をご紹介したが、「男女共同参画社会」の実現を熱っぽく説く女性も、すでにこの小説に登場しているのだ。




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