2007年8月30日木曜日

米原万里の父 (4)

学生時代の米原昶にとって親しい存在は兄の穣のほかにもう一人いた。それは由谷義治(ゆたに・よしはる)である。父、章三の義弟で、穣、昶にとっては叔父にあたる。米原章三は1883(明治16)年11月、由谷義治は1888(明治21)年3月の生まれである。
『回想の米原昶』の年譜(鶴岡征雄・編)は由谷について「橋浦泰雄などとともに鳥取県における大正デモクラシーの草わけ的存在だった。この叔父に可愛いがられた。専制主義への反撥は叔父の影響によるものかもしれない。」と記している。

由谷義治は前述の年、鳥取市川端4丁目、由谷呉服店の長男に生まれた。生家は現在も同じ場所にある。1902(明治35)年、鳥取中学(現在の鳥取西高)に入学。翌年、幸徳秋水、堺利彦らが平民社を設立、「平民新聞」を創刊した。由谷は『自伝』(注1)にこう書いている。
 わたしは明治三十五年に入学し、仝四十年に卒業したのだが、明治三十七,八年には、あの日露戦争があつて、国をあげて、好戦的な国民感情がみなぎつていた。そのころ因伯時報(いまの日本海新聞の前身)の書評欄に、大要つぎのような意味の平民新聞批評がのつた。
「ロシア討つべしという怒濤のような風潮のなかで、ひとり平民新聞のみは、平和を呼号し、非戦論をとなえている。
吾人は、平民新聞が力説するところの思想に、いささかも組するものでない。しかしながら、何ものをもおそれず、その所信をつらぬき、堂々の非戦論を展開する、その不屈の論旨は、まさに一読驚嘆に値する。」
文章の一字一句は、勿論いまはおぼえてはいないが、以上のような要旨が、明治調の文章で、書かれてあつたものだ。(pp.23―24)
この一部5銭の週刊新聞を読みたくなった由谷少年は、店の売上金を少しずつくすねて購読した。「書いてあることの大部分は、チンプンカンプンで、よくわかつたとはいえない」が「その論調の新鮮さや、その文章の悲壮さは、いたく少年のこころを刺激」した。さらに続けてこう述べている。
 この平民新聞に、日本で始めて、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」が訳載されたことをおぼえている。ブルジョアジーという語は、「紳士閥」と訳されていたし、プロレタリアートの訳語は、たしか「平民」だつたとおもう。自慢してよいかどうかわからないが、鳥取県で共産党宣言をはじめて読んだのは、おそらくはわたしだつたのかもしれない。
その後平民新聞は、当局の圧迫で、廃刊になつたが、廃刊号は、前面あかい活字ですられていたので、いまでもつよく印象にのこつている。廃刊のことばとして「人黙しなば、石叫ぶべし」という名文句があつた。刀折れ、矢つきて人が沈黙すると、心なき石が人にかわつて真実をさけぶだろうという、悲痛そのもののことばであつた。(p.25)
ここで私事をふくめて書いておくと、5月4日のブログ〈映画「わかれ雲」6〉の中で述べた、ごうなの胸のレントゲン写真を大阪の医大の先生に送って下さった同級生H君の父上は、由谷義治の従弟であり、この当時、鳥取中学の二級下で、由谷家に下宿していたのである。そして、Hさんの同級生に、前掲の米原昶年譜からの引用文中の橋浦泰雄の弟、時雄らもいて、「かれらも段々に平民新聞の熱心な読者になつ」ていったのである。(p.26)
由谷が鳥取中学時代に「因伯時報」に投書した一文が『自伝』の中(p.35)に採録されている。
「あゝ社会主義! 天来の福音か、地妖の魔語か、それを以て直ちに国賊なりと罵り排斥する愛国者諸君等は、社会主義の神髄を知って、しかく罵り排斥するものか? われは怪しむ、君らは食わずぎらいの徒のみと! 一片の卑見を捨てゝ、寛大的度胸をもつて社会主義の神髄を会得せよ。さらば君らは直ちにかかつてわが社会主義に来らん。これ百鬼夜行的大飢饉道に転々煩悶し、苦悩せる人の子をパラダイスに導く天来の福音なればなり。あゝ満天下の志士諸君、乞う来たれ、来たってわが社会主義の神髄に到達せよ。さらば諸君、すみやかにそれを謳歌し賛美すべけん。」
ペンネームは「羊我生」を使った。「義治」の義の字を上下に二分したものだ。
また、ここで私事をふくめて書いておくと、1894年創刊の「因伯時報」とともに後の「日本海新聞」に発展した「山陰隔日新報」を1883年に創刊したのは、ごうなの大伯父である。
(注1)竹本 節・編『由谷義治自伝 上巻』1959年9月1日発行
発行所:由谷義治自伝刊行会
  



2007年8月29日水曜日

米原万里の父 (3)

暑かった。立秋どころか処暑を過ぎても連日30℃を越す猛暑が続いた。
わが家の近くではここ2、3年、敗戦の日になると聞かれたつくつく法師が一向に鳴かなかった。一昨日、昨日と夜から朝にかけて、激しい雨が降った。気温もどうやら30℃を越えることはないらしい。
正午を過ぎた頃、初めて、つくつく法師が1回だけ鳴いた! 昨夜の月食を犠牲にした甲斐があったというものだ。
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このブログの〈米原万里の父〉の(1)と(2)でご紹介した『回想の米原昶』の中に万里が「お父さん大好き」と題して次の小見出しのついた一文を寄せている。
○太っててキョーサントーなんだから
○妹が電車の中で♪♪民衆の旗 赤旗は……
○創作民話、手品、トランプ、チェス
文末に付された肩書きには(長女、ロシア語教師)とある。小見出しでお分かりのように、その内容は『終生ヒトのオスは飼わず』に収録されている「地下に潜っていた父」(pp.183-185)とほぼ同じだから、引用しない。

米原昶(いたる)は、1909(明治42)年2月7日、鳥取県八頭郡智頭町で生まれた。父章三、母八重の子ども―男8人、女2人のなかの次男であった。
父の米原章三翁は、鳥取県において、巨大な存在であった。いずれ翁について述べることになるかもしれないが、今は、上記万里の本、第二部のなかに「夢を描いて駆け抜けた祖父と父―わが家の百年―」という一文があり(pp.176-182)、二人の写真も掲載されていることを紹介するにとどめる。

長男の穣についは、紹介しようと思い、念のため、ウェブで検索もしてみた。驚いたことに、有田芳生さんのブログ「酔醒漫録」がヒットした。
 孝子さんからは久夫さんの遺品をいただいた。旧制高知高校の教授だった米原穣さんのポートレイトだ。カメラ好きの木村さんは気に入った教授の「出張撮影」をしていた。塩尻公明さんや八波直則さんとともに、米原さんも撮影の対象だったのだ。実はこの米原さんとは縁がある。わたしの祖母が再婚した相手が安東太郎で、米原とは親戚だったのだ。米原家は鳥取の財閥で、祖父の親しかったのがのちに共産党の衆議院議員となる米原昶さんだった。作家の米原万里さんの父である。ついでにいえば、万里さんの妹のユリさんは井上ひさしさんの奥様である。その米原昶さんの兄が穣さんで、昭和11年に高知高校に赴任、ドイツ語の教師を昭和18年まで務めた。のちに文部省から経済界に進み、鳥取の「日の丸自動車」の会長となる。木村久夫さんと淡いつながりのあったことに因縁を感じてしまった。嫌いな教授の授業には出ることもしなかった木村さんにとって、「出張撮影」する相手は特別な存在だったようだ。
 http://www.web-arita.com/sui064b.html

このブログの日付は2006(と思われる)年4月23日である。引用文冒頭の「孝子さん」は、木村久夫が、兄の自分が戦争犯罪者の汚名のもとに刑死することが縁談の支障になりはしないか、と心配していた妹のことである。

その後、県立図書館で手にした米原穣の著書(注1)の中でも「忘れ難い生徒たち」と題する次の一文を確認した。
 高知高校の卒業生は第一回生が大正十五年春卒業であるから、昭和の年度と卒業の年次が一致するので覚え易い。……異色の一人木村久夫君は十七回生であるが、これは尊敬する同僚の教授であった故塩尻公明氏が名随筆「或る遺書について」で紹介されて有名になった。つまり木村君は南方に出征し、カーニコバル島で終戦直後検挙され、シンガポールの刑場で誠に正々堂々たる刑死をとげた経緯を紹介されたものであった。戦場に倒れた数多い教え児達の事を思うと今でも涙をさそわれる。(pp.165-166)

(注1)米原穣『回想の記』佳友クラブ発行 1988(昭和65)年1月25日




ごうなのおすすめ本棚 1


終生ヒトのオスは飼わず

2007年8月14日火曜日

ことば拾い:「隣の芝生」/補遺

朝日新聞社のPR誌「一冊の本」に毎号広告が出ていて、そのなかに外山滋比古の推薦文が載っている
戸田 豊編著『現代英語ことわざ辞典 A Dictionary of Modern English Proverbs』リーベル出版(2003/05/18)
を一度手に取ってみたいと思っていた。

過日、図書館へ行った折りに、この辞書で、このブログで取り上げた
The grass is always greener on the other side of the fence.
を調べてみた。いろいろなヴァリエーションはもちろんあり、五つの【類形】が紹介されているが、この英文が現在基本であるらしい。二つの点について前回の補遺としておこう。
【参考】ローマの詩人オウイデイウス(Ovid,43B.C.―A.D.17?)の『愛の技術』に同じ考えを表す次の言葉がある。
Fertilior seges est alienis semper in agris, vicinumque pecus grandius uber habet.                                  〈Ars Amatoria,Ⅰ.l.349〉
(他人の畑の穀物は、つねに自分のよりは豊に見えるものである。また隣家の家畜はより大きな乳房を持っている[多産である]。――樋口勝彦訳)
日本語の【類諺】として、「隣の糂汰味噌 」のほかに「隣の糠味噌」、「隣の花は赤い」のほかに「隣の牡丹餅はうまい[大きく見える]」/「隣の飯はうまい」/「隣の物は粥でもうまい」/「よその花は赤い」を挙げている。

2007年8月13日月曜日

ことば拾い:シイラの先走り

夏になると、シイラという魚を思い出す。あの精悍な面構えと、体長が1~2メートルもある大型魚で、濃い緑色の身体が金色に輝いたりもする。そんな姿が、子供心にも印象的だったのであろう。

高級魚ではないから、竹輪、蒲鉾のような水産練り製品にも使われるようであるが、わが家では使用しなかったように思う。ただ、シーズンになると、1尾か2尾大きな奴が届けられて、刺身をはじめ、いろいろ調理して食していた。
ごうなは、こどもの頃より、魚を見たり、釣ったりするのは大好きだったが、口にするのは嫌いで、刺身も、煮魚もまったく食べなかった。したがって、シイラの味も今もって知らないのである。

そんな者がなぜシイラの話をするのか。それは、シイラを思い出すたびに、「シイラの先走り」という言葉も思い出すからだ。なにか、出しゃばったようなことをするな、といった意味で使われていたように思うが、なぜシイラなのか分からなかった。

シイラの習性と関係があるに違いないと思って、ネットで調べてみたが、
浮遊物に集まる、という習性から日本では「水死体を食う」として忌み嫌う地方がある。そのため「死人旗」(しびとばた)などという別名で呼ぶ地域もある。もっとも人間に限らず動物の遺骸が浮遊している場合、それを食べに来ない魚類の方が珍しい。
浮いた流木や海草やゴミといった障害物に生息する小魚などは容赦なく食い尽くし、共食いもするほどで、さらに引きが強烈で、その獰猛な性格により世界的にもゲームフィッシングの好ターゲットとなっている。夏から初秋にかけてが釣り期で、特にルアーアングラーにとっては夏の風物詩的なものになっている。(注1)
なぜ「シイラの先走り」なのか、いっこうに分からない。

忘れもしない、今年の6月20日の午前3時頃の「ラジオ深夜便」で須磨佳津江アンカーが2週間前に読んだ投書に対する投書を読んでいた。その中で、「シイ〔 〕の先走り」と言ったように聞いた。〔 〕のなかの音はラではなくナであったようだった。寝ぼけ眼で起き出して、広辞苑を引いてみた。
 しいな【粃・秕】シヒナ   殻ばかりで実のない籾(もみ)。また、果実の実らないでしなびたもの。しいなし、しいなせ、しいら、しいだ。
「しいら」も良かったわけだ。しかし、魚のシイラではない。
県立図書館へ行って、何冊かの辞書にあってみた。
秕者(しいらもの)の先走り(久留米)  未熟な者ほど先走りして、役にも立たないのに騒ぎ立てる。▽粃=中国地方から北九州にかけて、実の入らない米麦をいう。しいなの方言。【類】しいな〈しいら〉穂の先走り/しいな者の先走り/しいら子先立ち(壱岐)/名のない星は宵から出る    (注2)
ウエブには魚のシイラについてこんな記述もあった。
●漢字「粃」。粃は身のないイネの籾。シイラの皮が硬く、身が薄いことからきたという。(『新釈 魚名考』栄川省造 青銅企画出版) (注3)
こうしてみると、ごうなが「シイラの先走り」として記憶していたこともいい加減なことでもなかったわけだ。

(注1)ウィキペディア
(注2)鈴木棠三『新編 故事ことわざ辞典』創拓社 1992年8月1日発行
(注3)市場魚貝類図鑑
http://www.zukan-bouz.com/suzuki3/sonota/sira.html

最後に、ウェブ検索でヒットした一文をご紹介しておきたい。中神 勝(なかがみ・まさる。京都ノートルダム女子大学 人間文化学部 生活福祉文化学科教授 、 名誉教授)という方の「子ども」と題した一文の一部である。
4、しいなの先ばしり
私は虚弱児の観察のなかで乳児期において歩行器の使用が多く見受けられたことに驚いた。乳児時に歩行器を使わず、充分ハイハイをさせてから歩かせることの重要さを力説したい。どの子も同じ道すじを通って発達する。たとえば首がすわる→寝返りをする→お座りをする→一人歩きをするというふうである。歩けるようになってから首がすわるなどということは決してない。ハイハイは二足歩行の生活を健康に過ごしていくための第一歩であり、歩く動作の基本となる。力いっぱい、這う生活をさせることが大切である。東北のある地方では
子どもの満1歳のお誕生日に搗いた餅を背中に背負わせて祝うという。子どもは餅の重みで歩きにくく、否応なしにハイハイをすることになる。充分にハイハイをしてから歩いて欲しいという願いであろう。また、稲はあまりに成長が早いと実のない“しいな”が多くなり、“しいなの先走り”と言われたりする。やたらとスピードを期待する現代に考えてみたい問題である。

http://hojin.notredame.ac.jp/kikanshi/prism/02/02pdf/_04.pdf









2007年8月8日水曜日

はじめての発芽米

わが家の日常的な昼食の写真である。

しかし、今日の昼食は、ご飯だけがいつもと違う。

白米―いわゆる銀しゃりを食べることはめったにない。少なくとも押し麦が入っている。

最近では、雑穀を混ぜることが多い。

今日の主食は発芽玄米、ファンケルの発芽米だ。



今は夏休み。給食がないので、中1と小5の孫が週に3日か4日、昼食、夕食を食べにやってくる。そのうえ、イタリアで暮らしている娘と孫(小5)も来ている。孫は3人とも男の子。この子たちにも発芽米を食べさせてみることにした。孫は三人とも男の子。妻は、白米に混ぜて、と言ったが、発芽米だけにしてもらった。



「わー、なに、このご飯?!」これが孫たちの第一声だった。

「よーく噛んでごらん。甘みが出てくるから。」

「ほんとだ!」

とくに、鳥取にいる下の孫は、おおいに気に入ったらしい。



白米もおいしいが、それだけ食べているのは愚かなことだと思っている。トレーサビリティも確認できるし、これからは発芽米を白米に混ぜてでもいいから、食べたいと思う。むろん、孫たちにも食べさせてやりたい。



2007年8月7日火曜日

米原万里の父 (2)

『回想の米原昶』の中に、父、米原昶が二人の娘たちに送った一通の手紙が掲載されている。母、美智子の注記とあわせて全文をご紹介する。これ以上なにも言わなくても、昶がどんな父親であったかよく分かる。1959年12月から彼は家族とともにチェコスロバキアに駐在、日本共産党の代表としてプラハの『平和と社会主義の諸問題』という雑誌の編集局に勤務していた。この手紙を書いたときの昶は52歳。
この手紙は、プラハに滞在中、夏休みで、ピオニールキャンプに行っていた子どもたちに宛てたもの。
まりが十一歳でむこうの小学校の三年生、ゆりが八歳で、二年生のときのものです。どうにか向こうの言葉に慣れて来た子どもたちが、今度は日本語を忘れないように、という配慮がにじんでいます。文中「クロヂーヌ」とあるのは同じ編集局に勤めているフランス人の娘さんの名前です。
私はルーマニア婦人組織の大会に招待された婦団連代表の石井あや子さんの通訳によばれ、大会が終わっても地方都市の見学で、プラハに帰るのがおくれていたものです。(米原美智子)


まりさま ゆりさま

1961年7がつ2にち
プラーハ  いたる

にちようび(7がつ1にち)にゆけるかとおもっていたら、ゆけなくなったので、にもつをとどけることにしました。
クロヂーヌにも、よそのおばさんにたのまれたのでにもつをとどけます。
おかあさん(みちこ)はまだルーマニアからかえってきていません。よほどルーマニアがきにいって、プラーハにかえるのがいやになったらしい。
けれどでんぽうによると、あすのかようび(7がつ3にち)にはかえってくるでしょう。かえってきたら、おみやげはつぎのにちようび(7がつ8にち)にもってゆくかもしれません。
だけどまたつぎのにちようびもだめになるかもしれないね。
ところで、おとうさん(いたる)はようじができて、すいようび(7がつ4にち)にモスクワにゆきます。どのくらいようじがあるかわからぬので、いつモスクワからプラーハにかえってくるかいまのところわかりません。
にもつのなかにはつぎのものがはいっています。
①せんたくしたしゃつなど。(このまえおとうさんがプラーハにもってかえったものをぜんぶせんたくしていれておきました。)
②つめきり。(まりがかばんのなかにいれたままわすれていたのです。)
③みずむしのくすり。(まりにたのまれた。)
④オレンジ2ふくろ。(これがおとうさんのおみやげ。)
⑤えはがき。(まりもゆりももっとてがみをかきなさい。だから、これをいれたのです。)
⑥まりのしゃしんきときょりをはかるどうぐとひかりのつよさをはかるどうぐ。(まりのしゃしんきはおとうさんがすっかりなおして、あたらしいフィルムもいれてあります。このフィルムは36まいもとれますから、かえるまでじゅうぶんでしょう。ひかりのつよさをはかるどうぐはおとうさんがドイツからかってきたたいせつなものです。これをかすからしゃしんのせんせいにこのしゃしんきのつかいかたをよくならって、よいしゃしんをうつしてください。)
⑦ゆりのしゃしんきとそのフィルム。(ゆりのしゃしんきもおくります。まりにならってじょうずにうつしてごらん。)

では、さようなら。
おとうさんはモスクワからみやげをかってきますよ。

2007年8月6日月曜日

米原万里の父 (1)

先月、米原万里の父、米原昶(よねはら・いたる)について調べるため、県立図書館へ行った。
1997年に日外アソシエーツが発刊した『近代日本社会運動史人物大事典』にあたってみたい、と思っていたのだが、本県にはなかった。索引を含め5巻からなる大部なものなのだが、中国地方では山口、広島、岡山の県立図書館しか所蔵していない。図書館の資料係は、『回想の米原昶』という書籍が2階の郷土資料の中にあることを教えてくれた。

8月1日、再び図書館へ出かけて件の書を手にした。
タイトルは『回想の米原昶/遺稿 アルバム 追悼エッセイ 年譜』、企画・発行は「回想の米原昶」刊行委員会。発行日は1982年12月1日。因みに、昶が亡くなったのは同年の5月31日で、73歳だった。
144ページの小冊子ではあるが、巻末4ページの年譜も含めて、良くできている本だ。

とにかく、この本にめぐりあえたことはなによりの幸運であり、収穫であった。