2007年6月17日日曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/ウェブへ

昨年の6月、鶴見祐輔の『成城だより』で検索したら、二つのサイトがヒットした。
一つは、村井仁(敬称略)のサイト(だった、と思う)。今回検索にかけたところ、Not Found と出た。幸いコピーをとっていたので、ご紹介できる。当時の村井の肩書きは「自民党国会議員」であったが、同年8月の長野県知事選挙で田中康夫前知事を破って当選したから、今は「長野県知事」だ。ご紹介するのは、1952(昭和27)年、長野県松本市の旭町中学校を4回生として卒業した村井が、母校のおそらく創立50周年に行った記念講演の記録か、あるいは記念誌に寄稿したものと思われる。
「母校旭町中学校50周年に寄せて--旭町中学校の生徒の皆さんに--」
私が中学生の頃に読んで影響を受けた本に、戦前からの政治家・小説家で戦後厚生大臣にもなった鶴見祐輔先生が追放を受けているときに書いた「成城だより」という本がある。そこに出ているエピソードは印象的である。鶴見祐輔先生は明治の終わりに東大を出た。同級生で公爵の跡取り息子がいたが、この人が二度も外交官試験を受けて、失敗、諦めて貴族院議員になったという話を外国人にしたら信じて貰えなかったという。外国、特に英国では外交は貴族の仕事で、試験の成績の善し悪しで決めるのは理解できないというのである。明治の終わりに東大に学ぶのだからこの公爵氏はもとより大変な秀才だったろうが、それでも当時の外務省は名門の出身だからといって妥協せず、外交官にふさわしいと外務省が判断するそれなりの基準に合致しなければ採用しなかったのだ。もっと言えば日本はコネも権勢も利かない部分が厳然とある社会だったのだ。

二つめは、テレビの「ザ・ワイド」でおなじみの有田芳生(敬称略)の『酔醒漫録』というサイトだ。このサイトは2006年6月30日で閉鎖する(6年間続いたらしいこのブログはにんげん出版で二冊出版され、さらに昨夏、二冊同時に出版された)というこどだった。
ところが、まだ続いている。今夏の参議院選挙の全国区に新党日本の候補者として出馬することになったのが、このサイト継続の理由(のひとつ)と思われる。現在、田中康夫ともいっしょに街宣をやっているらしい。
今回、村井仁と有田芳生のご両人のサイトを取り上げるのが何か因縁話めいているように思われるが、あくまで「鶴見祐輔を尋ねて…」の偶然の結果である。
(以下、明日につづく)

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