2007年9月5日水曜日

米原万里の父 (6)

鳥取で家業を継いだ由谷義治の生涯を大急ぎで述べることにしよう。

病(脚気)を得て帰郷した義治は、その年の暮れ、大学を中退して、父が始めていた運送業(由谷運送部)に従事した。
明治が大正となった1912年の5月、父喜八郎が死去した。その前年米原千枝と結婚し、米原章三の義弟となった義治は、代々の家業の呉服店を長姉夫妻に委ね、自らは運送業に専念した。
しかし、時代は義治に家業専一を許さなかった。民間の電気事業をその公共性故に市営にしようという運動が起こり、1918(大正7)年、商工業の青年達を中心に「愛市団」が結成された。翌年5月、義治は彼らに推されて鳥取市会議員に当選、さらに9月県会議員に当選した。
1920年、5月の衆院選に愛市団は義治を立てて金権候補といわれた相手と戦い、善戦した。6月彼らは立憲青年会を組織し、会長に義治を選んだ。彼らの目標は普通選挙の実施、市政刷新、千代川(せんだいがわ)改修だった。
千代川は鳥取県東部の一級河川だが、当時毎年のように氾濫した。大正期に限っても、元年、7年、8年、12年の洪水では、流失・浸水家屋多数、死者まで出る被害があった。
1924(大正13)年、36歳の由谷義治は衆議院議員に初当選した。当選後の特別国会に「千代川改修促進に関する建議案」を提出、改修の急務なることを訴えた。彼の処女演説は議員の間でも好評を博したという。
1926(大正15)11月、総工費566万円の長期継続事業・千代川改修の起工式が行われた。1931(昭和6)年、大きく蛇行する下流の直進化、34(昭和9)年の新袋川の開削と通水によって、ようやく鳥取市民は洪水の恐怖から解放された。その後も改修工事は昭和の終わりまで続く一大事業へと発展した。

彼自身は、その千代川改修の起工式があった年(38歳)、破産に瀕し、財産を整理して東京に移住した。
1928(昭和3)年、議員立候補を断念するが、1930(昭和5)年衆議院議員に2度目の当選、以後1942(昭和17)年まで計6回の当選を果たした。
1946(昭和21)年2月、公職を追放され、翌年2月鳥取電機社長に就任、晩年を郷里鳥取で送った。(由谷運送部は昭和初期に同業者数社が合同して鳥取合同運送株式会社となり、太平洋戦争中に「運送国策」によって、現在の日本通運に吸収合併された。)

1956(昭和31)年、彼は請われて無報酬を条件に鳥取県教育委員に就任した。
この年、愛媛県教育委員会は教育効果の向上と教員の人事管理の適切公正化を理由に、教員に対する勤務評定(勤評)の実施を決めた。翌年、文部省はこれの全国実施を決定し、日本教職員組合(日教組)は激しい反対闘争を展開した。この対立はそのまま各地の教育委員会と教祖との対決となり、鳥取県でも同様であった。5年間の闘争で刑事罰、行政処分を受けた日教組の組合員は、全国で免職70名を含む62,000名にも達した。
1958(昭和33)年5月14日、鳥取県教育委員会は勤評実施の決定を行おうとしていた。勤評は政治が教育に介入し、その中立を犯すものだと考えた彼は、少数意見で否決されることを承知のうえで、採決直前に反対討論に立った。
その討論は序論にはじまり、10項目にわたって勤評の問題点を指摘、批判、結語として自分の論は少数意見と否定されるであろうが「否定されたことに対して、無限の光栄を自負する」と述べた。
この反対討論の全文は「自伝 下巻」pp.370―390 に収録されている。
この日から半年後の10月8日、由谷義治は日赤鳥取病院で亡くなった。七十歳だった。
3日後、鳥取市行徳の常忍寺で告別式が行われた。参列者約500人、遺言に従い献花も弔辞もない式典だったが、導師として参加した東京本涌院日泉師が歎徳文を読み上げた。
そのほぼ全文が「自伝 上巻」の最初に収録されている。由谷の生涯、業績、人となりを伝えた簡潔かつ格調の高い文章である。

1967(昭和42)年9月、鳥取市議会は由谷義治に名誉市民章第3号を議決した。
【参考書目】
竹本節・編『由谷義治自傳』由谷義治自伝刊行会 上巻 1959(昭和34)年9月
下巻       〃    11月
『鳥取県百傑伝』山陰評論社  1970(昭和45)年12月
『鳥取県 郷土が誇る人物誌』鳥取県教育委員会編集・発行 1990(平成2)年3月 
 



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