2007年6月18日月曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/続・ウェブへ

昨日書いたように『酔醒漫録』というブログは今も続いているが、バックナンバーは去年の7月までになっているので、これから載せる引用文は、昨年6月にコピーしていたものであることをお断りしておく。なお『酔醒漫録』のURLをはっておくので関心をお持ちの方は、どうぞ。
 4月9日(日)ホテルの窓から見える京橋界隈は快晴。桜花の散る風の流れが爽やかでもあった。大阪駅に出て喫茶店で朝食をとりながら読書。大丸に寄って洋菓子をいくつか買い、花売り場でチューリップを中心に春らしい花々をたっぷり注文する。御堂筋線で桃山台。時間があったので駅前花壇の囲い石に座り、舞い散る桜をぼんやりと眺める。タクシーで目的地へ。約束の時間は午後1時。まだ20分あったので訪問宅前の駐車場で待機する。地主だった名家のたたずまいは周囲の家々とは違い、風趣を醸し出している。何をどう聞くべきなのかをしばし思案。午後1時ちょうどにインターフォンを押した。しばらくすると鉄扉が開いた。木村久夫さんの妹さんの孝子さんだ。今日は大正7年4月9日に生まれた久夫さんの誕生日なのだ。存命ならば88歳。その生命が不当にも絶たれたのはいまから60年前の5月23日、シンガポールのチャンギー刑務所でのことである。木村さんは『哲学通論』の余白に記した遺書のなかにこう書いていた。

私の仏前及び墓前には、従来の供花よりも「ダリヤ」や「チューリップ」などの華やかな洋花を供えて下さい。これは私の心を象徴するものであり、死後は殊に華やかに明るくやって行きたいと思います。美味しい洋菓子もどっさり供えて下さい。(中略)そして私一人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ私の誕生日である四月九日を仏前で祝って欲しいと思います。私は死んだ日を忘れていたい。我々の記憶に残るものは、ただ、私の生まれた日だけであって欲しいと思います。

仏前と墓前に洋花を供え、孝子さんのお話を伺う。やはりと納得したこともあれば新しい発見も数々だ。いちばんの問題は「きけ わだつみのこえ」に収録された「遺書」では木村さんの思いの全体像が伝えられていないことである。いつしか午後7時を過ぎていたので、近く再び訪問することにした。午後7時半に辞去しタクシーで新大阪駅。53分の「のぞみ46号」に乗る。缶ビールを飲みながら孝子さんにお借りした鶴見祐輔さんの『成城だより 3 夢を抱いて』(太平洋出版社)を読む。扉には「捧 木村久夫君 ご霊前 昭和二十年二月 著者」と筆で書かれている。「荘厳なる死」という文章は木村さんの恩師である塩尻公明さんが当時『新潮』に書いた「或る遺書について」に触発されたものである。まだ「きけ わだつみのこえ」が出版されていないときに、木村さんの遺書の全容は塩尻さんの文章で知るしかなかったのである。


長い引用になって恐縮だが、木村久夫の遺書についても知って欲しいという思いをもっているからだ。塩尻公明の著作は、1951年に創刊された現代教養文庫(社会思想研究会出版部)に数冊入っており、そのなかに『ある遺書について』も入っている。しかし、わが家の書棚から古い文庫本を探し出すのはきわめて困難な状況にあるので、あきらめている。

すでに述べたように、中学時代に買った『成城だより』は鳥取大火ですべて焼失してしまったので、ネットで検索している。昨年、1,000円程度で一冊出ていたのですぐ発注したが入手できなかった。ところが、どうしたことか、今年になってAmazonの「ユーズド」に数巻出ているが、いずれも一万数千円に値上がりしているではないか。
第1巻が鳥取県立図書館にあり、先月借り出して数十年ぶりに読んだ。きわめて粗悪な用紙に小さな活字で印刷されていて老人の目には非常に読みづらい。B5版二百数十ページの本が、同じくらいのページ数の文庫本より軽い。
第1巻を読んだ直後、第2巻の〈自由への闘ひ〉を或る古書店からリーズナブルな値段で入手でき、いま、机上にある。

さて、引用文の終わり近くにある鶴見祐輔の献本の日付について触れておきたい。
第2巻の中に「ある読者からの手紙」という一文がある。内容の紹介は略させていただくが文末に(一九四八・四・二八午後)とあって、そのあとに次のような付記がある。
この稿を記して後二ケ月、私は新潮六月號に出た『ある遺書について』と題する鹽尻公明氏の文章を見て、ひどく感動した。それはシンガポールで冤罪のため絞首刑に處せられた木村久夫君の獄中の遺書である。これくらい凄惨な犠牲者は、今度の戦争でも少い。そのことは私は成城だよりの後の巻に詳しく記しておいた。(八月十九日記)

この第2巻が発行されたのは昭和23年12月20日である。したがって、第3巻に鶴見俊輔が筆で書いていた献辞の日付は、
昭和二十「四」年二月
の誤りではあるまいか。鶴見自身が誤記したのか、引用者の誤記か、わからないが。

【追記】(6月19日)昨日このブログを公開したあとで、有田芳生さんにメールで献辞の日付の件をお尋ねしたところ、今朝、次のような確認のご返事をいただいた。
直筆コピーを確かめましたところ、鶴見さんは「昭和二十四年二月」と書いています。
「成城だより」第3巻が発売されたのが昭和二十四年一月ですから矛盾はないと思います。
有田さん、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。

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