2007年9月21日金曜日

米原万里の父 (12)

米原昶の16年間の地下生活は「年譜」を見ても、かなり具体的なことが分かる。
1930(昭和5)年、日本繊維労働組合の会員となり、翻訳のアルバイトや家庭教師をしながら、偽名を使い偽名を使い、住所を転々と変えながら労働運動を行った。
翌年の夏には、拷問で重体となった同志に付添い札幌の知人を訪れたが、引き取りを拒絶され、その同志の看病をしながら小樽の鉄工所で仕上げ工として働いた。北海道に1年半滞在した後、1932年12月帰京。以来、石川島造船所の下請けで肉体労働をしたりしながら、身辺に危険が迫ると群馬、福島、また東京へと転々と移り住んだ。
1939(昭和14)年、30歳で、東京・中野区の育英社で中学生を対象にした数学の通信教育の指導に当たるようになって、やっと生活が落ち着いた。『回想の米原昶』に、「育英社時代 一九三九年から敗戦まで」と題した池田平吾(引用者注:出版当時、トーイツ株式会社会長)の寄稿がある。

当時の彼は地下にもぐったままだったので、名前は勿論偽名で、「弘世哲夫」と名のっていました。本名を知っていたのは義兄(引用者注:矢崎秀雄。昶の一高時代の同級生で、親友。昶はずっと矢崎とだけは連絡を保っていたという。)夫婦と私との三人だけだったとおもいます。
育英社での彼の仕事は数学のテキスト、問題、模範解答の作成及び添削員(主としてアルバイトの大学生)の指導即ち数学の先生の仕事でした。彼の純粋素朴誠実な人柄は集まってくる添削員の大学生達の信頼を得、仕事を離れて話しにやってくる者が多かったことも思い出のひとつです。……
育英社も一九四二年頃までは会員も少なく、自炊して食っていくのがやっとでしたが、一九四三年頃から会員もふえて生活も楽になって行きました。当時の育英社は、会員向けの機関誌にも戦争については一切ふれず、社の内部には戦争の匂いは少しもありませんでした。結局育英社は、反戦、反ファッショの少数の仲間の小さな隠れ家で、皆がより集まって力づけ合いながら、嵐の吹き終わるのを待っていたと言えるでしょう。ただしかし彼はこんな時節に何らの政治活動、反戦運動もせずに暮らしているのが非常に辛いらしく、或る時彼から「僕は今むしろ刑務所に入っていたい。」と言われたことがあります。随分悩んでいたに違いありません。
一九四四年に彼に徴用令が来たことがあります。勿論偽名のまま本籍もでたらめで住民登録をしていたのですが、徴用になると戸籍謄本を提出しなければならなくなるので、困ったことになったと思いましたが、幸い中学生の数学の教師だということが重視されて、徴用解除になりホッとしたことも、思い出の一つです。
一九四五年になって空襲がはじまってくると、育英社も継続できなくなって休業し、私の妹も又当時彼を同居させて貰っていた私の友人畑山昇麓君も郷里に疎開したので、我々は再び同居して自炊生活をはじめました。空襲がはげしくなってきましたが、彼は空襲の翌日には必ず自転車で、焼死体のゴロゴロいている焼け跡を見て廻り、空襲の惨禍を調べて歩いていました。
八月十五日の敗戦を告げるラジオは、彼と二人で京王線の北野の駅で聞きました。感無量でした。
十月十日の政治犯釈放の日には、皆集まって彼のために乾杯しました。これからは晴れて政治活動に没頭できるであろう彼の前途を祝し、心から喜び合いました。
そして彼は代々木に党の本部ができるとすぐ本部に出頭し、戦線に復帰しました。又彼は一九二九年地下にもぐって以来十六年間音信不通だった郷里の家に、連絡の手紙を出しました。父君が我々の住む世田谷の家にあらわれたのは、十月半ば過ぎのことだったと思います。(pp.74―76)
この育英社を始めた年、後に昶と結婚した北田美智子が女子学生のアルバイトとしてやってきた。敗戦の年の12月、昶は代々木の日本共産党本部で入党、赤旗編集局に所属し、記者として働き始めた。翌1946年12月二人は結婚した。昶は37歳だった。
妻の美智子も『回想の米原昶』に寄稿しているがそのなかに次のような文章がある。
 戦後、池田さんの弟さんから聞いた話では、米軍の空襲で、育英社の近くでもたくさんの焼死者が出たとき、米原は、焦土のうえにつっぷして、「自分たちの力が足りなかった」と号泣したという。その気持ちが分かるような気がする。(一部ゴチックにしたのは、引用者。p.80)
ごうなは、この話を万里が「文春」かなんかの雑誌に書いていたのを読んだ記憶があるがさだかではない。ただ、米原昶という人物をもっともよくあらわしている感動せずにはいられない話だと思っている。

 




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