2007年7月24日火曜日

雑記

きのうは大暑。やはり梅雨明けした。
午後外出すると、これまたやはり、近所の公園で蝉が鳴いていた。
永楽温泉町の〈New Orleans〉という喫茶店のマスター、髭さんは(鼻下に髭を蓄えているので、なじみの女性客はみなそう呼んでいる)久松山(キュウショウザン)の近くに住んでいるのだが「うちの近所では2、3日前から鳴いています」とこともなげに言った。

後で行った〈因幡宿〉でも、この日の話題は、梅雨明けと琴光喜がやっとというか、ついにというか、大関昇進を決めたことであった。

甲子園を目指す鳥取大会(米子市民球場)は、第8日目だったが、優勝候補の一つに挙げられていた、母校の鳥取西高は、倉吉東高に初の延長11回の末、4-5で敗れた。これで残った四強は中部3校、西部1校となった。

昨日はじめて写真をブログに載せたのだが、Picasa のアイコンの横から文字を打っていくと下線がつく。なぜだろう、と思いながら、しょうがないこのままにしておけ、と公開したのだが、ここは写真の説明を記す部分、と後でわかった。
改行すれば、普通の記述になるのですね。毎日が学習です(=^△^=)



2007年7月23日月曜日

はじめての写真

2007年7月19日木曜日

ことば拾い:千人針と15銭

千人針を実際に見聞した人は、ごうなの世代が最後だろう。
銭は「金銭」や「銭湯」ということばの中に生きているが、お金の単位で、1銭=1/100円で、1円は100銭である。週刊朝日編『値段史年表』によれば、大びん1本のビールの小売標準価格は、
昭和22年4月  59円61銭
〃23年9月 162円20銭
〃24年7月 126円50銭
…………………………
昭和62年   310円
といった具合で、実際に1銭玉や5銭玉や10銭玉を見たり使ったりしたのは、やはり戦前生まれの人だろう。
まして「千人針」など、「それって、なに?」ということになるに決まっている。#

昨日の早朝、うとうとしながらラジオ深夜便を聞いていたら、宇田川清江アンカーが大正生まれの女性のお便りを読んだ。その人が5歳くらいの頃、お母さんが出征(=軍隊の一員として戦地に行くこと)する兄のため千人針を作って、10銭玉と5銭玉を縫いつけた。「その理由を母に尋ねたところ、云々」という内容だった。こどもの頃、千人針を女性たちが作っているのを見たことはあったが、お金の話は初耳だったので、ブログに書こうと思った。

書き始めて数行前の # のところまできたとき、ふと、5銭玉なんてあったかなあ、と思った。そこで「5銭玉 10銭玉」で検索してみたところ、数個のサイトが出てきた。
最初の[街のクマさん 炎のダイエット日記]
http://machino-kuma.at.webry.info/200705/article_30.html

を見れば、なぜ兵士たちが10銭玉や5銭玉を身につけて戦地へ行ったか、すぐわかる。
この検索でも千人針を紹介しているサイトがわかるが、「千人針」で検索すると、10個ほど出てくる。なかでも、「第12回戦時生活資料展 千人針」
http://www.nishi.or.jp/~kyodo/tenji/senji/12/sen1.htm
が写真も多くてわかりやすいだろう。
ただ何か丸い物が縫いつけられているのはわかるが、写真が小さくてよくは見えない。現在の5円玉、50円玉と同じで、穴が開いているからしっかり縫いつけることができた。

かつてこの国でも成人男子はみな武器を手に戦場へおもむき、婦女子は、父を夫を息子を孫を兄を弟を、陸や海や空の戦場へと送り出さねばならない時代があった。
10銭は9銭を超え、5銭は4銭を超える――苦戦を超え、死線(死戰)を超えて帰ってきて来てほしい。赤い糸の縫い玉が鋼鉄の玉となって、敵弾を跳ね返して欲しい。
こういう思いを単なる語呂合わせ、地口の類にすぎない、と一笑に付す人もいるだろう。現実としてありえないことを求める愚かでむだな願いだと冷笑する人もいるかもしれない。
しかし「名誉の戦死を」「死んで護国の鬼となれ」「散兵戰の華と散れ」「醜の御楯(しこのみたて)たれ」「撃ちてし止まむ」などなどの言葉や歌やスローガンが氾濫し、挙げ句の果には「一億玉砕」などの狂気の沙汰を指導者たちがわめいていた時代であったことを忘れてはいけない。
語呂合わせであろうと、愚かしい願いであろうと、それは「生きて帰ってきて欲しい」という真実の願い、心底からの願いであった。





2007年7月17日火曜日

ことば拾い:栃麺棒

街に出て、夕刻にちょっといっぱいやっていくか、と赤提灯のある店ののれんをくぐることがある。歳をとってからは、××の会とか◯◯さんと話があるとか、といったようなことではない。ただ、飲みたいのである。
そういうときに、よく行く店の一つは永楽温泉町の〈因幡宿〉だ。
昨年、そろそろ忘年会のシーズンに入る頃であったと思う。店にはいると、板敷きの間のテーブルを囲んでかなりの年配者を含む数人の男性客が飲んでいた。彼らに背を向けて、いつものようにカウンターの端に坐って、これまたいつものように、おでんの豆腐と里芋で芋焼酎の湯割を飲む。
とつぜん、背後の客の一人が言った「いやあ、トチメンボーをふっちゃって…」という言葉が耳に入った。
「トチメンボー?! ずいぶんと、久しぶりに聞いたなあ」と思わずつぶやくと、前に立っていた店のチーフが「何ですか、それって?」と尋ねた。

このことばをはじめて知ったのは、中2か3年のとき、漱石の『吾輩は猫である』を読んだときだ。
越智東風が美学者の迷亭にある西洋料理店につれて行かれたときの話をする。迷亭は、なめくじや蛙はいやだからトチメンボーをくれ、と注文する。ボイ(筆者注:現在はボーイと表記されていますが、漱石の書き方が原音に近いですネ)は、トチメンボーの材料は切らしているのでメンチボーになさったらと勧めるが、迷亭は、いやトチメンボーが食べたいとゆずらない。
むろん、そんな食べ物はないのであって、二人は何も食べずに店を出たあとで、橡面坊をネタに使ったと、迷亭は笑う。(『猫』二)

偶然とはおもしろいというか、摩訶不思議というか、〈因幡宿〉でこのことばを耳にしてひと月もしないうちに、再びこのことばに出会ったのだ。暮れに読んだ鶴見祐輔の『母』の中で。
希臘(ギリシャ)の神話(しんわ)に出てくる半人半羊(はんじんはんよう)の人のように、男性は女性を追うものである。ということを男女生活の基礎(きそ)にしている西洋にいた彼は、ホホホホホと、笑いながら走り降りていった少女の後ろ姿を、そのまま呆然(ぼうぜん)と見送って、髪の毛を両手でむしって、ウーンと目を剥(む)くような栃麺棒(とちめんぼう)ではなかった。(pp.26-27 カッコ内はルビ)

漱石のいう「橡面坊」は鶴見祐輔が書いているように「栃麺棒」とも書き、広辞苑にも載っているが『大言海』が詳しい。こちらは「狼狽坊」と表記し、説明がいささか古めかしいので現代風に書き換えてご紹介しよう。

トチの実を砕きうどん粉を混ぜて栃麺を作るためには、非常に手早く棒を使って延ばさなければ、麺が収縮してしまう。このように手際よく棒を扱うことを「栃麺棒を振る」という。そのあわてふためいた有様を「とちめく」と言い、その名詞形の「とちめき」を擬人化して「とちめき坊」という。その音便〈=発音上の便宜から、もとの音とは違った音に変わる現象)で「とちめんぼう」。「赤き坊」を「赤ん坊」と言うのと同じだ。
事が非常に急がれるので「うろたえ、まどうこと」「あわてること」また「あわてもの」。「夕立にとちめんぼうをふる野かな」という句もある。このめんぼうで打たれることに言寄せ、略して「めんくらう」という。また、この「とち」を上二段活用させて「とちる」「とっちる」という。以上ともに「うろたえあわて、まごつく」という意味である。また、この「とち」を「あわて仕損じる」意味で「どぢを踏む」と濁るのは、いまいましく、憎らしげに言うのである。「踏む」は「あわてている足取り」をいう。また「あわてもの、まぬけもの」の意味に転じて「どぢな奴」などという。―さて、上記の鶴見祐輔の「栃麺棒」はどの用例になるでしょうか?

日本語もなかなか奥が深いですねえ。





2007年7月16日月曜日

ことば拾い:隣の芝生

「他人のものはなんでもよく見えることのたとえ」として「隣の芝生」という言葉が使われるようになったのはいつの頃からであったのだろうか。
手元にある『広辞苑』(Canon WORDTANK搭載)と『大辞林』(第二版机上版)には載っていない。NHKが1976年1月から2月に銀河テレビ小説として放映した橋田壽賀子のドラマ「となりの芝生」以来のことかもしれない。

高校生も使っている『ジーニアス英和辞典』でgrass を引けば、ちゃんと載っている。
The grass is always greener (on the other side of the fence
[hill 〕). 《ことわざ》隣の芝は青い;他人のものは何でもよく見える《◆単にThe ~ is greener. ともいう》

この英語のことわざがいつごろから使われていたのかわからない。

先月のこのブログで取り上げた鶴見祐輔の小説『母』の「序にかえて」と言う文章の中に、こんなことばがある。「他人庭上(たにんていじょう)の花を美くしとする心境(しんきょう)」(p.7 カッコ内はルビ)
これは、おそらく、あの英語のことわざを鶴見が訳したものではあるまいか。この序文には「昭和四年五月十日」の日付がある。当時の日本で、芝生の庭を持った隣家なんてほとんどなかったであろう。「他人庭上の花」と理解しやすいことばに変えたのだと思う。

そう言えば『大辞林』には「隣の花は赤い」が挙げられているが、鶴見訳の現代版かもしれない。
さらに、両国語辞書がともに挙げているのが、「隣の糂汰味噌」(となりのじんだみそ)ということばである。
いかにも古くからのことばのように思われるが、『大言海』で糂汰味噌の項を見ても、そういうことわざ的なことばは取り上げていないから、鶴見の「他人庭上の花」と同工異曲で、あの英文を訳したものかもしれない。
現代風に言えば「隣の味噌はうまい」ということだ。
なお、このブログの冒頭の「他人のものはなんでもよく見えることのたとえ」は、苑・林両辞書共通の説明文である。 







2007年7月8日日曜日

誕生日

今日はごうなの誕生日。この歳になって別に誕生日がうれしいわけでもないけれど、Blog People が誕生日を迎えた者のブログを紹介してくれるそうだから、7月8日がどんな日か、書いてみよう。と言ってはみても、Wikipedia の「今日は何の日?」に出ているようなことを書いてみてもしょうがないし……。

NHKのラジオ深夜便のカレンダーによれば、〈今日の誕生日の花〉はアヤメ科のグラジオラスで、その花言葉は「堅固 用心」。さらにこれにちなむ〈今日の一句〉は、
 グラジオラスゆるるは誰か来るごとし  永田耕一郎

である。この「誰か」は、「だれか、怪しいやつ」と用心すべき者よりも、「もしやあの人では」と、こころときめく「誰か」がふさわしいように思えるがいかが…。

1973(昭和48)年の今日、尾崎翠が市内末広温泉町の鳥取生協病院で亡くなった。75歳だった。
松岡正剛が「面影小学校出身の小野町子(尾崎翠のこと)が奏でるくらくらするような『第七官界彷徨』なんて、とうてい男には書けません」と言っている面影小学校は父親が校長だったとき、翠が通っていた学校だが、今も市内雲山にある。

昨年の今日、ハスキー ヴォイスの米国映画女優、ジューン・アリスン(June Allyson)が亡くなった。
88歳だった。
彼女の映画を最初に見たのは「若草物語」Little Women(1949)で、鳥取西高に入学してまもない、1950(昭和25)年5月7日のことだった。次女役のアリスンが主役で、長女がジャネット・リー、三女がエリザベス・テーラー、四女が名子役マーガレット・オブライエン。映画を見てたちまちアリスンのフアンになった。
9月に入って、英語のクラスがいっしょだったH君と、教科担任の川口勝先生に「なにか英書を読みたいのですが…」とお願いしたところ、3週間後に、研究社版の
Little Women by Louis Mary Alcott
を取り寄せて、与えられた。これが英書らしいものを読んだ最初だった。
その後、アリスンの映画は、ジイムェズ・スチュアートとの三部作のうち、
「甦る熱球」The Stratton Story(1949)
「グレン・ミラー物語」The Glenn Miller Story(1953)
を見た。

さて、今日の鳥取市の天気はどうであろうか。アメダス(所在地:鳥取市吉方 標高:7m)の結果は明朝書き加えることにしよう。

日照時間:2時間40分 降水量:なし 最大風速:5 m/s(13:00)
最高気温:27.6 ℃ 最低気温:19.8 ℃

今夜の月は、下弦である。

【松岡正剛の千夜千冊】
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0424.html 

【ごうなのおすすめ本棚】
 http://booklog.jp/users/gauna57/front/jm=&cate=368425&dm=udu