去る9月10日を鳥取市は「防災の日」としている。
71年前、1943(昭和18)年のこの日、午後5時36分57秒、震度6(マグニチュード7・4)の大地震が鳥取を襲った。
当時私が通っていた醇風国民学校では、16名の児童が惨死した。私と同学年(3年生)では、3名の女子が亡くなった。戦争に負けたことも、新制中学校ができて、全員が進学できたことも知らない。わたしも含めて、多くの同期生が80歳をこえて今も生きているのに・・・。
☆参照サイト http://www.nnn.co.jp/news/140911/20140911008.html
2014年9月15日月曜日
2014年8月31日日曜日
幸田文さん
私たちの世代は、戦後の教育改革で、最後の国民学校卒業生となり、受験なしで新制中学の第一期生となった。
3年生の年の12月に、当時本屋に出ていた岩波書店の「露伴全集」の第11巻(少年文学)を購入し、2週間足らずで読了した。
翌1950年4月、初めての受験で鳥取西高の4期生となった。
まもなく露伴の『五重塔』を読んだが、11月に露伴翁の次女、文さんの『こんなこと』、翌年5月に『みそっかす』、8月に『父』を読了した。
紆余曲折を経て、予定通り一年の浪人後、はじめて上京し、早稲田大学の英文に合格し、あこがれの東京生活を始めた。
幸田文さんに会いたいという思いはあったが、尋ねて行く勇気はなかった。
1958年7月10日、夕方6時より、有楽町読売ホールで幸田文全集刊行記念講演会があり、文さんの挨拶、小林秀雄、武田泰淳,有吉佐和子たちの講演と、映画「流れる」の上映があって、なかなかの盛会であった。
二日後の12日の午後、日本橋三越で幸田文さんのサインパーティがあって、発売されたばかりの「幸田文全集 第六巻」(第一回配本)にサインしていただいた。
3年生の年の12月に、当時本屋に出ていた岩波書店の「露伴全集」の第11巻(少年文学)を購入し、2週間足らずで読了した。
翌1950年4月、初めての受験で鳥取西高の4期生となった。
まもなく露伴の『五重塔』を読んだが、11月に露伴翁の次女、文さんの『こんなこと』、翌年5月に『みそっかす』、8月に『父』を読了した。
紆余曲折を経て、予定通り一年の浪人後、はじめて上京し、早稲田大学の英文に合格し、あこがれの東京生活を始めた。
幸田文さんに会いたいという思いはあったが、尋ねて行く勇気はなかった。
1958年7月10日、夕方6時より、有楽町読売ホールで幸田文全集刊行記念講演会があり、文さんの挨拶、小林秀雄、武田泰淳,有吉佐和子たちの講演と、映画「流れる」の上映があって、なかなかの盛会であった。
二日後の12日の午後、日本橋三越で幸田文さんのサインパーティがあって、発売されたばかりの「幸田文全集 第六巻」(第一回配本)にサインしていただいた。
2014年8月30日土曜日
「弁当わすれても、」
20年ばかり昔のことだったろうか、当時、NHK鳥取放送局にいた、ある男性アナウンサーが、雨が続く度ごとに「弁当忘れても、傘忘れるな」をローカルニュースの枕詞のように口にしていた。
この言葉自体は子供の頃から、聞きなれていたが、このアナウンサーがあまりにもたびたび口にするので、「また言っている」と可笑しかった。
ところが、先月、新潮新書の『大切なことは60字で書ける』を読んでいたら、こんな文章に出会った。
雨が多い地域を表現するのに、北陸地方でよくいわれるのが、「弁当忘れても、傘忘れるな」です。(p.61)
それから一月もしないうちに、夕方のローカルテレビで、NHK島根の男性アナウンサーが、この言葉を口にした。驚いて、インターネットで調べてみると、日本海側の多くの県で使われていることがわかった。
あらためて、おのれの無知を恥じたしだい。
この言葉自体は子供の頃から、聞きなれていたが、このアナウンサーがあまりにもたびたび口にするので、「また言っている」と可笑しかった。
ところが、先月、新潮新書の『大切なことは60字で書ける』を読んでいたら、こんな文章に出会った。
雨が多い地域を表現するのに、北陸地方でよくいわれるのが、「弁当忘れても、傘忘れるな」です。(p.61)
それから一月もしないうちに、夕方のローカルテレビで、NHK島根の男性アナウンサーが、この言葉を口にした。驚いて、インターネットで調べてみると、日本海側の多くの県で使われていることがわかった。
あらためて、おのれの無知を恥じたしだい。
2014年8月27日水曜日
「きなんせ」はどこの言葉?
今月の14日と15日、第50回鳥取しゃんしゃん祭が行われた。14日には鳥取市の市街地でメーン行事の一斉傘踊りがあり、過去最多の113連約4200人が金銀の短冊と小鈴で飾った傘を手に若桜街道などのメインストリートを練り歩いた。
傘踊りの人数を競うギネス世界記録へ挑戦し、2011年ルーマニアでの1464人に対し、1688人で記録を更新したという。
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この祭りについて、わたしには一つの不満がある。
2003年の2月に日本海新聞の「私の視点」(現在では「読者のひろば」)に投稿してボツになったものだが、今でも私の意見は変わらない。以下、そのままこのブログに載せる。
鳥取しゃんしゃん祭振興会(事務局・鳥取市観光課内)が、祭の新しい曲を募集している。あの奇妙な言葉「きなんせ」を改めるよい機会だと喜んでいたら、募集要項を見てがっかりした。募集するのは「曲調」で「歌詞はあってもなくても自由ですが必ず『きなんせ』または『しゃんしゃん』のフレーズを入れること」と書かれている。「きなんせ」になんの疑問も持たぬどころか、これを尊重し、「きなんせ」は鳥取の方言で「来てください」という意味である、と注記までしている。
よその家を訪問したとき、鳥取方言では、たとえば「ごめんなんせえ」と挨拶し「おいでなんせえ」と応答する。「ごめんなんせ」「おいでなんせ」なんて、聞いたことがない。「来てください」は、「来んさい(な)」とか「来なんせえ(な)」などという。
松本穣葉子の「囃子」の部分「キナンセ キナンセ 踊りゃんせ/サッテモ ヤレコノ ヨイトコセ」が、このえせ方言「きなんせ」の「せ」音にこだわって作られているのは明白だ。「ヨイトコセ」は、「ええとこ(ろ)ですで」の意もこめているのだろうが、いささか苦しい。しかし、後半は許すとしても、前半の「キナンセ キナンセ 踊りゃんせ」は困る。知らない人は「踊りゃんせ」も鳥取弁と思うにちがいないからだ。
「天神さまの細道じゃ」なくて、若桜街道や智頭街道(キャアドウと言うべきか)で踊りながら「踊りゃんせ」でもあるまい。曲調を変えなくても「きんさい
きんさい 踊りんさい/きんさい音頭で 踊りんさい」とでもすればと思うのだが・・・。
ふるさとの言葉を大切にしない行政に地方文化尊重を口にする資格はない。
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2014年8月25日月曜日
二年間のご無沙汰
長らくこのブログを放置し、申し訳ありません。現在でも、何人かの人たちがこのサイトに立ち寄ってくださっています。ありがたいことです。
去る8月1日の朝日新聞が、昨年の日本人男性の平均寿命が80・21歳になったと報じていましたが、私自身も先月80歳となりました。
今日、このブログを再開しても、この先どこまで生きられるか分かりませんが、1週間に2回程度でも雑感、雑録を記したいと思います。よろしくお願いします。
去る8月1日の朝日新聞が、昨年の日本人男性の平均寿命が80・21歳になったと報じていましたが、私自身も先月80歳となりました。
今日、このブログを再開しても、この先どこまで生きられるか分かりませんが、1週間に2回程度でも雑感、雑録を記したいと思います。よろしくお願いします。
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