2007年9月18日火曜日

米原万里の父 (11)

米原昶の兄、穣の『回想の記』に「愛弟との別れ」と題する一文がある。
 兄弟の中で一番気分の合ったのは次弟の昶であった。……一高二年の夏休みに「兄貴、わしはとうとう決心したんだ。誰にもまだ言ってもらっては困るんだが、すべてをなげうって共産主義運動に専念する決心をした!」と言う驚くべき告白であった。私は彼との約束を守って一高を放校になるまで父母にさえ言わなかった。(p.150)
「米原昶年譜」によると、ひとつ年上の穣はすでに六高在学中であったが、前年の夏休みに二人が帰郷したとき、英文の『共産党宣言』を昶にみせている。
『由谷義治自伝 上巻』には、次のような文章がある。
 森元(引用者注:麻布の森元町)時代には大事な思い出がある。アレは昭和三、四年頃になるだろうか、米原昶君が当時一高の寮生で時々遊びに来た。昶君はその頃から既に共産党に入党しておるかの疑いもあり、国許の御両親も心を痛めていた時代である。この昶君の思想関係につき、わたしがオセッカイを出したのである。昶君を転向せしめる目的の下に、森元の借家の二階でその昶君を対手に議論した。議論の内容は例によって記憶せぬが、とも角共産主義は現実不可能だという理屈を主張した訳である。往年の社会主義青年たるわたしが、その社会主義を裏切る議論をやるのだから、何だか割り切れぬものがあつた訳ではあるが、しかし議論をやつている時は一生懸命である。ところが当の昶君は泰然たるものである、今頃そんな議論が通るものかという態度である。わたしに一理屈陳述さして置いて、彼は冷然として言い切つた。曰く『叔父さん、そんな経済論は世界戦争の前の議論ですよ!』なつておらんという訳である。
こゝでいう『世界戦争』というのは勿論第一次世界大戦を指すのである。そんな大戦以前の古くさい理屈で、共産主義を批判するなんて、僭越極まるという量見である。この一セリフでわたしは、ダアとなつてしまつた。この対決は見事に敗けたと痛感した。若いものゝ真剣な勉強に頭を下げた次第であつた。
昶君はこの頃を最後として、モウ東京には居なかつた。そして彼の二十年(引用者注:正確には十六年)に亘る潜行忍苦の党運動が始つた訳であるが、この問答以来わたしは矢張彼に敬意を払わねばならなかつた。(pp.180-181)
もう一度「年譜」の記述を引用する。
一九二九年(昭和四年)二十歳 十月、学生運動を指導したという理由で退学処分を受けた。父、鳥取より上京、下宿先の叔父由谷義治宅で(引用者注:1928年の正月以降南寮を出て由谷の家に身を寄せたのかも知れないが、推測の域を出ない。)プロレタリア解放運動から身を引いて、フランスへ留学しないかと説得された。が、すでに日本共産党の旗の下で、人民解放運動の戦列に参加する決意を固めていた。それを知った父は一晩中泣いていた。

昶は6歳の時(1914年)中耳炎にかかった。父の章三は、京大病院和辻耳鼻咽喉科主任教授のもとにいた鳥取県出身の脇田助手を智頭町の自宅に招き手術を受けさせた。その後も、父は昶を京都へ連れて行き何日間か滞在して治療を受けさせ、完治させている。(そのときの自宅での記念写真と穣の文章が『回想の米原昶』のp.6とp.66にある。)
このことも、さきほど記した「フランス留学」の説得も、生家が裕福であったから、と言ってしまえばそれまでだが、親の深い愛情に思いをいたしたい。

以下は冒頭の『回想の記』からの引用文の続きである。
彼と別れたのは忘れもしない昭和五年七月二十一日、信州へ旅立つ私を上野の駅に送ってくれた時で、それ以来終戦の年の九月まで苦しい地下生活をつづけたわけだ。「家のこと親のことすべてまかしたぞ!」という言葉が今も尚消えうせない気持ちがするのである。(pp.150―151)

  




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