2007年5月27日日曜日

茨木のり子 2

2006年12月5日の朝日新聞に、茨木のり子の遺稿を集めて最後の詩集が出版されることを報じた記事が載った。その最後のパラグラフを引用する。

死後、寝室の枕元で小さな木箱が見つかった。何度も触った跡があり、箱には安信さん(茨木の亡夫:引用者注)の戒名と「骨」の文字。中には骨が数かけ入っていたという。

同じような話を思い出した。佐高信『わたしを変えた百冊の本』(講談社文庫)の中にあった、
97『住井すゑと永六輔の人間宣言』住井すゑ・永六輔 光文社
からの孫引きである(pp.348-349)。

 亡夫の犬田卯の遺骨を持っていらっしゃるそうですね、と永が問いかけると、
「これね、遺骨にしてそれを地下へ埋めるということは忍びないですよ。できないですよ。だから書斎の箪笥のいちばんいい場所にあります。もう何十年もたちますけれども、ときどきは骨をかきまわしてやってます」
と住井は笑い、
「ぬかみそじゃないんだから」
と永がまぜっ返すと、
「好きな男の骨なんだもの、ときどきさわって話しかけるっていう意味よ」
と住井は答えている。

朝日新聞が紹介していた茨木の最後の詩集『歳月』は今年二月の命日に花神社より発行された。彼女の甥、宮崎治が書いた「あとかき」にあたる 「Y」の箱 という一文の冒頭を引用する(p.128)。「Y」とは夫のイニシャルである。彼女愛用の無印良品のクラフトボックスに全ての遺稿が入っており、その箱の上にそのイニシャルが小さく書かれていた。

『歳月』は、詩人茨木のり子が最愛の夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。
伯母は夫に先立たれた一九七五年五月以降、三十一年の長い歳月の間に四十篇近い詩を書き溜めていたが、それらの詩は自分が生きている間には公表したくなかったようである。
何故生きている間に新しい詩集として出版しないのか以前尋ねたことがあるが、一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさいのだという答えであった。
そして伯母はその詳細について多くを語ることなく、二〇〇六年二月十七日、突然伯父の元へと旅立ってしまった。

正確に言えば、39篇の詩はすべて夫への挽歌である。昨日のブログの最初にご紹介した詩からは想像できないような、別の激しさをもった熱い思いがあふれている。
最後に、この詩集の中でもっとも短いと言う理由だけで、「占領」という詩をご紹介する。
姿がかき消えたら
それで終わり ピリオド!
とひとびとは思っているらしい
ああおかしい なんという鈍さ

みんなには見えないらしいのです
わたくしのかたわらに あなたがいて
前よりも 烈しく
占領されてしまっているのが


ごうなのおすすめ本棚 1


倚りかからず




歳月







2007年5月26日土曜日

茨木のり子 1

自分で勝手に作った「鬼籍簿」の昨年の部には、数人の命日とメモがある。
その中の一人、山村修(8月14日歿)に続いて今日は,茨木のり子について誌す。
それぞれの土から/陽炎(かげろう)のように/ふっと匂い立った旋律がある/愛されてひとびとに/永くうたいつがれてきた民謡がある/なぜ国歌など/ものものしくうたう必要がありましょう/おおかたは侵略の血でよごれ/腹黒の過去を隠しもちながら/口を拭って起立して/直立不動でうたわなければならないか/聞かなければならないか/私は立たない 坐っています
〈「鄙(ひな)ぶりの唄」の前半〉

もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない/もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない/もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない/もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくはない/ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい/じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ〈「倚りかからず」〉

詩人、茨木のり子は、昨年、2月19日に亡くなった。79歳だった。彼女は、生前に「死亡通知」を書いていた。

このたび私 '06年2月17日クモ膜下出血にて この世におさらばすることになりました。これは生前に書き置くものです。

私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返送の無礼を重ねるだけと存じますので。

「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか…。

深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。

ありがとうございました。

二〇〇六年三月吉日
準備されていた手紙は、死亡の日付と死因が空欄。そこを埋めて郵送してほしい、と以前から甥(おい)の宮崎治さん(42)夫妻は頼まれていた。「身内だけでひっそりと荼毘(だび)にふし、一か月後に手紙を出す。それが伯母の希望でした」。死去がすぐに報道されたため、郵送時期を早めた。[以上、生前の遺書については2006年3月16日付読売新聞に掲載された(小屋敷晶子)の記事による]

2007年5月19日土曜日

ごうなのプロフィール画像

ごうなのプロフィール欄にこの画像を載せようと、これまでいろいろやってみたが、どうしてもうまくいかない。あきらめて、ここにアップした次第。

2月にこのブログを始めたとき、[寄居虫 ごうな ヤドカリ] と説明付きで、これをハンドルネームにしている人がいて、驚いた。ごうなはヤドカリの古語で、カナでは「がうな」と書いた。枕草子の[312]に
……「からい目を見さぶらひて、誰にかはうれへ申し侍らん」とて、泣きぬばかりのけしきにて、「なにごとぞ」と問へば、「あからさまにものにまかりたりしほどに、侍る所の焼け侍りにければ、がうなのやうに、人の家に尻をさし入れてのみさぶらふ。……
とある(岩波文庫版による)のが、もっとも古い例らしい。俳句では春の季語である。

わたしは露伴先生の蝸牛庵に倣って、わが破屋を寄居虫庵と称していたものだから、1994年の春から月に1回程度、70号まで出したミニコミ紙を「寄居虫のつぶやき」 と名付けていた。それで、コンピュータを使うようになってからも、[ごうな]とか[Gauna]などと称しているんです。

こんなことよりも、今回書かねばならないことがある。

1.ここに載せているヤドカリの画像は、どこかのサイトから頂いたものである。2年以上前のことで、どこからいただいたか、記憶がない。自由に使用できるものだったように思っておりますが、そうじゃあないぞ、とご指摘があれば、ただちに善処します。

2.ブログをはじめるとき、どのブログサービスを利用するか、当然決めなくてはいけないわけだが、Gmail を使っていることもあって、Blogger にした。
ただ、Google のさまざまなサービスについての紹介・解説本はたくさんあるが、ブロガーやホームページ用のPage Creator については、詳しい解説をしている書籍やムックはない(と思う)。
クリボウさんのサイトには、最初からいろいろ教えていただいている(老生には難しくて分からないことが多々あるが)。
また、Cameda さんは最近ブロガー利用者のために交流、助け合いの場としてのJapan Blogger Users Group を作ってくださった。
今回のプロフィール欄への画像の取り込みの件についても、老生の質問にお二人がご回答くださったことにあつく御礼申し上げます。

なお、この記事の右側のサイドバーにある【カーソルの動きに反応するネコちゃん(ねこちか2)】は、クリボウさんのサイトからいただいたもの。


★クリボウのBlogger入門→ http://blogger.kuribo.info/





2007年5月10日木曜日

〈狐〉の書評

昨年の日記を紹介する。
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2006/07/10(Mon).
〈Cosmo〉で偶然『〈狐〉が選んだ入門書』を見つけた。「山村 修」という著者名があるではないか。ついに〈狐〉が正体を現したのだ!
2004年1月7日に発行された『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム 狐』の巻末にある植田康夫の「解説」によると、 

1999年5月19日発売(紙面上の日付は翌30日)から2003年7月30日発売(紙面上の日付は翌31日)までの掲載分を時系列で収め、『水曜日は狐の書評』という署名で、ちくま文庫の一冊となった。……(中略)…… 8月以降は、筆者の健康上の理由でコラムは休載となっている。

この「8月以降」が何年なのか、不明だが、たぶん2003年であろう。 
狐こと、山村氏は本書カヴァ―にある略歴によれば、1950年生まれ、慶大仏文卒で、現在は随筆家。なお、本書の発行日は、今日の日付である。
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この人の最初の著書は、
『狐の書評』 本の雑誌社
で所有していたはずだが、いくら書架を探してもみつからない。手元にあるのは、
『野蛮な図書目録』 洋泉社 1996年9月
   『狐の読書快然』  洋泉社 1999年8月
『水曜日は狐の書評』ちくま文庫 2004年1月
の3冊。
日記にも書いているとおり、偶然発行日にでくわした(実際には、その何日か前には、書店に出ていたのであろうが、新聞などの広告も見ておらず、まったくの偶然だった)『〈狐〉が選んだ入門書』に山村修という名前を見たとき、長年あこがれていた人にやっと出会えたという驚きと喜びでいっぱいだった。
この本の「あとがき」にも書かれているが、1981年2月から25年間続いたという書評生活で取り上げた本の数は1000冊に近いのではあるまいか。書評の文章は700~900字くらいだが、どの本も読みたくなる。毎週1回、彼の書評を読むことができる人々がほんとうにうらやましかった。きっと、わたしも毎週とりあげられた本を買って読み、そこそこの読書家になっていたかもしれない。
『水曜日は――』の「まえがき」と、『〈狐〉が選んだ入門書』の「あとがきにかえて」のなかで、
匿名の者は、名前をもたないのだから、まして肉体などはない。これまで、そう思い込んで書いてきた。ところがどうやら悲しくも肉体はあって、それが少しばかり故障を生じ、日刊ゲンダイでの連載は二〇〇三年八月から降板した。いまは狐の巣穴に戻って遊んでいる。

私は――身体的な事情があって、昨日(二〇〇六年三月三十一日)付で早期退職をしたばかりですが――、
と、書いていた村山修は、この年の8月14日、肺ガンで亡くなってしまった。
今年1月、最後の68冊への書評を集めた『書評家〈狐〉の読書遺産』(文春新書)が発刊された。その本のカバーの著者紹介欄に、著書の一つとして挙げられている『禁煙の愉しみ』のタイトルが悲しい。


水曜日は狐の書評 ―日刊ゲンダイ匿名コラム


“狐”が選んだ入門書


書評家〈狐〉の読書遺産

2007年5月6日日曜日

映画「わかれ雲」 6

高校卒業後の話になる。
小学唱歌「ふるさと」についてのブログで書いたように、1953(昭和28)年の春、大学受験に失敗して、京都で浪人生活を送った、と書いた。
関西文理学院という予備校へ通った。下宿は市電の烏丸車庫の裏あたりで、北大路橋に比較的近いところにあった。

翌年の1月、受験に必要だった身体検査を、紫野保健所で受けた。レントゲン撮影の結果、左の胸部に疑わしい〈かげ〉があるとのことだった。そのことを告げた老医師は診断書には「著変なし」と書いておくから受験が終わったら精密検査を受けるようにと言った。温厚な感じの先生はわたしの立場に同情し、細かな点までいろいろ気をくばって注意を与え、かつ激励をしてくれた。

京都では外食生活だった。朝は、マーガリンを付けた食パンと下宿へ配達して貰った牛乳1本。昼と夜の食事のうち、一食は、うどん(当時ラーメンはなかった―あったとしても、その存在は知らなかった)、もう一食は主として烏丸食堂の定食だった。
定食は、丼一杯のご飯、みそ汁、香の物の3点セットで、食券があれば28円、無ければ35円。食券とは、区役所で「主要食糧購入通帳」を作ってもらい、それを使って一ヶ月分の外食券(40食分)を貰うのである。
上に述べた3点セットにプラスできるのが、冷や奴/30円、野菜サラダ、あるいはコロッケ(1個)/35円、ハムエッグ、あるいはビーフカツ/50円。(これらの値段も外食券がある場合)。食費は1日、100円以内でやりくりした。
京都にはじめて出た時の体重は56キロくらいあったが、一ヶ月後には1.5キロくらい減っていた。
こういった食事のことをはじめ、いろいろ考えて予備校もやめ、下宿も引き払って、1月31日に鳥取へ帰った。前年の4月21日以来、夏休み、年末年始の休みを除いて京都では200日ほど暮らしたことになる。

まだ京都にいた11月か12月のことだったと思う。下宿の二階の四畳半の部屋で読書していたとき、あのメロディーが、「わかれ雲」のあの旋律がかすかに聞こえたような気がして窓を開けた。どこかの家のラジオから流れてきたらしい。もうあの映画を見ることができなくても、あの曲はまた聞くことができるかもしれない、と思った。

鳥取へ帰ってすぐ精密検査を受けた。日赤病院の医師の診断は、都会での生活は無理というものであった。家族も少なくとも今後一年は鳥取でのんびり暮らすがいい、という意見だった。
同級生、H君の父上に「大阪に日本で一番の権威である先生がいるからその先生の判断を仰いだら」とすすめられた。等胸大の写真を日赤から借用してお送りした。2月10日に返事があり「無理をしなければどこで学生生活を送っても大丈夫」との判断をいただいた。むろん、こちらの判断に従った。もともと鳥取に近い京都か、大阪で、と言っていた母親を、京都も東京も同じだから、と説得した。幸い、早稲田の英文に合格した。

わたしがはじめて上京した、1954年頃、新宿に〈カチューシャ〉とか〈灯しび〉といった歌声喫茶ができ、ロシア民謡が盛んに歌われはじめた。映画「わかれ雲」の音楽は、ロシア民謡の「ともしび」であった。

川崎弘子は、1976年6月に亡くなった。64歳だった。福田蘭童もあとを追うように、その4ヶ月後に71歳で他界した。

2007年5月5日土曜日

映画「わかれ雲」 5

津村秀夫が「おちぶれ者の女中」の役で「五所的人物の哀愁」を帯びていると述べている川崎弘子にもっとも心を引かれたことは先にも述べた。
2年ほど前に、ウェブで採録したこの映画のストーリーを載せる。当時の「キネマ旬報」に掲載されたものだと思うが、確かなことは分からない。
信州の小さな町へ農村の風俗研究の旅で立ち寄った女子大学生のグループの一人の藤村眞砂子は、そこで突然発病してしまった。旅館山田館の女中おせんのはからいで、診療所の南医師の診察を受け、軽い肺炎だといわれた。眞砂子は一人静養のため山田館に残り、おせいの手厚い看病をうけ間もなく快方にむかった。間もなく東京から母の玉枝がむかえに来た。姉のように若く美しい母であったが、眞砂子は冷く母をさけて、一緒に帰ろうとはしなかった。淋しく帰る玉枝を駅へ送ったおせんは、彼女が眞砂子の義母であることを打明けられ、眞砂子のかたくなな心をときぼくしてやりたいと思うのだった。おせんは愛のない結婚だったが、その夫も、二人の間に出来た子供も失ってしまい世の苦しみを味いつくした女だった。眞砂子はそのおせんに心温いものを感じ、また山の町で献身的に働く南医師の真剣な生活態度を見たり、その医師やおせんと、更に山奥の無医村、長澤部落へ集団検診に同行、その村の分教場で、土地の古い因習と戦いながら幼い者の教育に努力している岡先生の姿を見て、眞砂子は自分一人の利己のなかにとじこもって、周囲の人々、殊に父や母の愛情を傷けていたことのあやまちを悟った。やがて出張の帰途、迎えに立ちよった父と共に、見ちがえるほど明るくなった眞砂子がおせんや南医師に送られて、山の町を立って行ったのだった。
この「おせん」を演じた川崎弘子は、1912(明治45・大正元)年の生まれだから、38~39歳だ。「物静かで心温まる感じ」と日記に記している。
おそらく、女子大生、眞砂子を前にしてだったろうが、おせんが自分の両手を見つめながら、「きれいな手なんて、つまりませんね」と、ぽつんと言った場面を今でも思い出す。

前述したように、この映画を見たのは、1951年12月26日であったが、30日の夜もう一度この映画だけを見に行って、その日の日記に「美しい信濃の景色、美しい人々の心」「何と言っても、おせんが一番良かった」などと書いている。さらに、「週刊朝日」の批評は間違っていない、と書いているが、津村秀夫の批評に一つだけ、不満があった。それは、彼がこの映画の音楽について一言もふれていないことであった。

洋画は別として、当時の日本映画の音楽と言えば、悲しそうな顔の女主人公が小川のほとりなどを独りで歩いていく場面などで、その映画の主題歌がバックに流れる、といったていどのものが多かった。
この映画は違っていた。むろん、主題歌などはない。哀愁を帯びた旋律が終始ハミングコーラスで流れていた。その旋律がいつまでも心に残っていたが、その後、二度と聞くことはなかった。

2007年5月4日金曜日

映画「わかれ雲」 4

津村の批評文について言えば、制作技術上の指摘はよく分からなかったが、中村是好、岡村文子、三津田健らベテランについての言及は理解できたし、行ったことはなかったけれど、「信濃風物詩」という言葉の中身も分かったような気がしていた。しかし、もっとも心に残ったのは「川崎弘子のおちぶれ者の女中自体が五所的人物の哀愁」と津村が述べている、川崎弘子だった。
彼女が美人女優としてもてはやされていたことは知っていたが、出演した映画を見た記憶はない。ただ「人妻椿」で見たことがあったんじゃないかなあと思い、ウェブ上でもいろいろ調べてみたがわからない。

明治時代の夭折した画家、青木繁(1882-1911)は、その代表作「海の幸」(1904)と「大穴牟知命(オホナムチノミコト=大国主命)」(1906)の中に、同じ画塾の学生であった福田たねの顔を描き込んいるといわれている。結婚はしなかった二人の間に生まれた男の子は古事記の山幸彦・海幸彦から幸彦と名付けられた。後の福田蘭童である。尺八の名手、釣りの達人などと呼ばれているが、わたしたちより若い人たちには、“ヒャラーリ、ヒャラリーコ、……”の笛吹童子の方が懐かしかろう。
福田蘭童はプレイボーイとも言われていて、川崎弘子と結婚したときには、いろいろと騒がれたらしい。蘭童の息子が石橋エータローで、はな肇とクレージーキャッツのピアニストとして活躍したが、蘭童の先妻の子である。

2007年5月3日木曜日

映画「わかれ雲」 3

批評家(Q)とは誰であるか?
当時辛口の批評で知られ、このアルファベットの一文字で通用していた津村秀夫である。
らむぶらーの本領を発揮して横道にそれるが、[歴史が眠る多磨霊園]というサイトは、津村家の墓を紹介しながらとんでもない間違いを犯している。
同墓所には信夫の長男で映画評論家の津村秀夫(1907~1985)も眠る。
津村信夫(1909~1944)は、生年を見れば分かるとおり、二つ年上の秀夫の父親なんてことはあり得ない。秀夫の弟である。信夫は立原道造らとともに、「四季」に属していた詩人で、三好達治は、つぎのように述べている。
山深い信州の自然や人間、繁華な都會に住む詩人たち數人の友人、津村君の短い生涯を傾けて愛したものは、その二つの焦點の上に凡そ集約されてゐたであらう。無邪氣な坊ちやん坊ちやんしたその清純な生涯は、それ自身一篇の童心豊かな抒情詩に外ならなかつたかも知れぬ。(p.215)*
さらに言えば、俳優の津村鷹志(本名、秀祐)が 秀夫の長男である(NHKの大河ドラマ「風林火山」に今川家の牧野成勝役で出演)。

* 三好達治『詩を讀む人のために』學生教養新書(至文堂)1952/06/01
現在、岩波文庫で入手可能。

そろそろ本道へもどりましょう。

ごうなのおすすめ本棚 1

詩を読む人のために


2007年5月2日水曜日

映画「わかれ雲」 2

この映画を見た日の日記に、当時の「週刊朝日」に載った批評の全文を書き写している。900字を超えるが、引用する。
スタジオ・8プロダクションの第1回作品。新東宝の芸術祭参加作品だが、独立プロの悲しさに諸事切りつめた無理が目立つ。(例へば殆ど信州ロケで撮りながら、セリフは全部アフレコ、口とセリフが合わない場合多し)そうした技術的方面では東宝の「めし」などに著しく劣る。が、これは四年振りの五所監督作品として珍しいし、また捨てがたい抒情味もある小品である。ラジオ小説から五所、館岡、田中(澄江)が協力脚色し、信州の小淵沢の町のみすぼらしい宿屋、そこに泊まった女子大生、真砂子(沢村契恵子)と村の保健所の青年医師(沼田曜一)の淡い恋を描く。旅で発病した少女は宿の女中(川崎弘子)の看病を受けるが、ヒネクレ娘である。亡き実母を慕い、継母(福田妙子)を嫌う為のヒネクレ根性が医師への思慕と、無医村の実情をを知ることなどで、次第にとけて行く。どうもそのとけ方は、新人沢村の未熟さで思うようにいかず、前半の不自然な硬直ぶりと、後半のハシャギ方の違いがあまりに目立つ。この映画を新宿の映画館まで(見に:引用者補注)行った筆者は、しかし往年の五所監督の秀作『伊豆の踊子』を想起した。ということは、この女学生趣味のセンチメンタルな抒情味に彼の古風さが出ていると同時に、また半面では、彼独特の美しい詩味も発露しているということ。たとへば川崎弘子のおちぶれ者の女中自体が五所的人物の哀愁だが、宿の亭主(中村是好)の描き方など逸品であり、その他女将(岡村文子)と娘(倉田マユミ)や同宿のイカサマな旅廻りの舞踊団の連中を配した安宿風俗が、それ自体信濃風物詩なのである。またセットを使わず、旅宿の内部まで実景を使用したが、その風物詩は三浦光雄の軟調の撮影効果に依ってこそ活きている。戦後は軟調が流行しないが、三浦技師は悪条件にもかゝわらず、よく主題にふさわしい効果をあげた。青年医師を甘ったるく描かなかったのもこの作の長所だが、訪ねて来た父(三津田健)と娘の出会いも淡々として味がある。但し、茂原式のフィルム色調を三ヶ所ばかり採用したのは感服できない。五所監督の再出発を祝福したいし、沢村や沢田(倉田の写し間違いか?:引用者注)の新人たちにも若干の望みを嘱する。(Q)
この批評文を掲載していた「週刊朝日」がいつ発行されたものか分からないが、批評家(Q)が新宿までこの映画を見に行ったと述べているので、インターネットで調べたところ、

新宿昭和館・昭和二十六年 (1951) 上映作品
 11/23(金)~29(木)
 「わかれ雲」沢村契恵子/沼田曜一  監督:五所平之助【当館封切】

という情報がヒットした。おそらく評者は、新宿昭和館でこの期間にこの映画を見たと考えてよかろう。そうだとすれば、11月下旬から12月中旬までの間に発行された「週刊朝日」に掲載されたものと推測できるし、ひと月遅れでこの映画を見た鳥取の高校生が、その日の日記にこの批評文を書き写すことができたわけだ。

2007年5月1日火曜日

映画「わかれ雲」 1

昨年の4月29日、沼田曜一という俳優が亡くなった。朝日新聞の死亡記事によれば、81歳だった。「(19)50年、映画『きけ、わだつみの声』のほか、映画やテレビに脇役として多数出演した」とある。

話はいきなり、わたしの高校時代に飛ぶ。当時、田舎町の中高生にとって映画は最大・最高の娯楽だった。
1951(昭和26)年12月25日、高一第二学期末試験の最終日、下校するとすぐ、当時川端通りにあった洋画上映館の第一映劇へ行った。クリフトン・ウェッブ(Clifton Webb)主演の「我が輩は新入生」‘Mr.Belvedere Goes to College.’(1949年作品)という愉快な喜劇作品。
翌日は昼食を終えるとすぐ、同じ川端通りにあった世界館へ同学年の友人三人と出かけた。そのうちの二人は前日第一映劇でも出会った友人だ。
映画は、大映映画「月から来た男」と新東宝映画「わかれ雲」の二本立て。映画館としては前者がメインであったに違いない。長谷川伸の原作を衣笠貞之助が、脚本・監督、主演は長谷川一夫 、乙羽信子。しかし、日記では、「全くくだらぬ映画」と切り捨てている。
もう一本の映画は、独立プロ(ダクション)の作品を新東宝が配給したもので、主演は沢村契恵子、沼田曜一の若いコンビだった。