2007年10月9日火曜日

米原万里の父 (14)

米原昶について、戦後の活動を「米原昶 年譜」により概観する。
敗戦の年11月、16年ぶりに帰郷、12月、日本共産党に入党した。翌年の12月、北田美智子と結婚。
1947(昭和22)年、38歳。4月、第23回衆議院議員選挙に立候補するため公示三日前に急遽帰郷、落選。10月、党の中国地方委員、鳥取県委員長となり、鳥取、島根両県の党活動を指導した。
1949(昭和24)年1月、第24回衆院選に鳥取全県区から再度立候補し、43,654票でトップ当選した。

新制中学の二年生だったごうなは、当時、真空管を使ったラジオ製作に夢中になっていた。そのラジオで捕らえたモスクワ放送の日本語放送が「今回の選挙結果は、鳥取県の人民の勝利である」と伝えていたことを覚えている。一方、大人たちの間で、米原昶の当選は父親、章三翁の陰の力が大きい、と言われていたことも記憶に残っている。

1950(昭和25)年4月に長女万里誕生。いわゆる「レッドパージ」の年である。翌年1月、二女ユリ誕生。
その後の昶の政治的な活動などについては、ここでは書かない。彼の人柄を物語るエピソードや手紙などを紹介するにとどめよう。
 ……父の実家は、鳥取のお金持ちなんです。戦後になって父が地下活動から表へ出てきたとき、祖父がとっても喜んでね。それで板橋に広大な土地と家を買ってくれたそうなんです。ところが父は、それを共産党にカンパしちゃって、次にまた田園調布に家を買ってもらったんだけど、それもカンパ(笑)。けっきょく、大岡山の党員の家の八畳間に間借りしてたんですよ。(『終生ヒトのオスは飼わず』p.188)

つぎの2通の手紙は結婚した年(1946年12月)の3月と4月に北田美智子に宛てたものである。
 共産主義とは何か、きつとあまりくわしくは、御存知ないと思いますけれど、今まで私のお話ししてきたことは、みなそれから出てゐると申してよいと思います。詳しいことは、今後お聞きになれば、今までよりも、もつとあからさまにお話しようと考へてゐます。でも、私にとつては、共産主義とは、人類文化の總計なので、もちろん私が現在、知り盡くすしてゐるものではなく、たえずもとめ、きはめてゆくべきものです。それは一つの科学ですから、私の説明できるのは、單にその方向と考へ方にすぎないともいへるでせう。しかし、人間にとつては、それだけが可能であり、また必要でもあるので、これはぜひ、この次の機会に説明したいと思ひます。(『回想の米原昶』p.81)

なるほど、そだってきた環境や世代には,大分相違があり、考へてきたことも表向きは異つてゐるようです。けれど、わたしの思索は平凡です。わたしは誰にもわかるごくあたりまへのことしか考へられない人間です。(同 p.82)

米原万里は「おやじのせなか」(聞き手・大久保孝子/朝日新聞 2004/02/08)で最後にこう語っている。
 お説教をまったくしない人でしたが、妹が学生運動のリーダーに選ばれそうになったとき、「運動というのは考え抜いて心の底から確信を持ったときにするもので、周囲の空気に乗せられてやってはダメだ」とめずらしく真剣に言いました。父が亡くなってからも正念場に立たされるたびに思い出す言葉です。
米原昶は、1982(昭和57)年5月31日、死去した。73歳だった。
米原家の告別式は6月3日、東京の自宅で、同月12日青山葬儀所で日本共産党葬、7月10日には、鳥取市福祉文化会館で日本共産党鳥取県委員会主催「米原昶氏追悼集会」が行われた。
年譜の最後の記述によれば、「遺骨は、両親の眠る生地・鳥取県智頭町の浄土真宗・光専寺に納められた。」
   


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