2007年9月17日月曜日

米原万里の父 (10)

普通選挙法(納税義務の制限を廃し、25歳以上の男子に選挙権を与える)に先立って、労働・社会運動を取り締まるための治安維持法が公布された翌年の1926(大正15・昭和1)年、17歳の米原昶は鳥取一中を卒業、第一高等学校に入学した。フランス語を第一外国語とする文科丙類(仏法)であった。
鳥取一中時代から柔道をやっていた昶は、一高入学と同時に柔道部に入った。一高生は寮生活をしていたのだが、柔道部員は「南六」と呼ばれた南寮六番室で三年間起居を共にした。寮生活を共にした渡辺博の文章(注1)を引用しながら当時の昶について述べる。
 寮内で彼につけられたあだ名は「梟」、風貌もさること乍ら、いささか夜行性もあり、したたかさを感じさせる事から、実によくつけたと思う。以後三年間の寮生活の間、彼は梟の名で親しまれ、米原と呼ぶのは教官位しか居なかった。(p.69)
私等が柔道部に入って驚いたのは、その稽古の激しさであった。当時の一高の柔道部は対校試合を放棄し、選手制度を廃止して、道場は全寮生に開放されていたのであるが、部員は毎日毎日の道場での稽古に全てを注ぐ、という事で一般寮生の道場利用者とは、はっきり区別されていた。南六での生活は、全て放課後二時間の稽古を中心に考えられていたのである。柔道部の此の様な考え方は、ボート部や野球部の様に、対校試合を目標とし、選手がその部を独占している運動部、及びこれを支持する寮生からは、とかく異端視されがちであったが、彼等が敢えて文句をいわなかったのは、柔道部員の稽古に対する真剣さに、一目置いていたからである。従って柔道部を守り育てて行くには、部員のたゆまぬ努力と自覚とが要求されていた。そんな中で米原は、特に恵まれた体力を持っていたとは思われなかったが、常に私等の中心となり牽引車的な存在として頑張っていた。
然し南六の生活も、稽古以外の時間は全く自由で、稽古に支障を来す様な事でなければ何にも拘束されることは無かった。休日の前夜などは、共に酒好きの米原と私は、共によく飲みに出たものである。(pp.70―71)
三年間の南六の生活も、二学期を終わり正月を迎えると、三年生は稽古から解放される。殆んどが寮を出て、大学に進む準備に専念する。後から考えると、米原はその頃既に党の外郭の運動に或る程度関係していたのではないかと思われる。その頃から彼は、吾々の前から所在をくらます事が多くなったのである。
これより前、吾々が三年になった頃、寮内に各運動部の対校戦廃止の声が高くなり、遂に全校的な廃止運動となった。最終的には、その賛否が生徒大会に問われる事になり、その議長に選ばれたのが米原だった。大会の結果廃止論は否決されたが、彼の議長振りは双方から評判がよかった。私は彼の思想的な転機は此の頃から始まったものと見ている。
二月が終りに近づき卒業試験が始まったが、彼は試験にも姿を見せなかった。愈々これは本物だと思った。私が大学にはいってからは完全に彼との連絡は絶えてしまった。(pp.71―72)

[注1]『回想の米原昶』より。筆者、渡辺博のその当時の肩書きは、ホテル「ホリデイ・イン・東京」社長。

1928(昭和3)年、昶は一高社会科学研究会に加入し、科学的社会主義の学習を始めた。共産党員らの大量検挙、起訴した三・一五事件後は、学内外でビラまきなどの実践活動に参加し、11月、社会科学研究会の執行委員長となった。
1929(昭和4)年、四・一六事件(党の全幹部を逮捕)以後は、日本共産党の活動を援助した。先に引用した渡辺博の文章にあったように、米原昶は卒業試験を受けていなかったのだから、留年を続けていたわけだが、この年10月、学生運動を指導したという理由で退学処分を受けた。
   






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