2007年7月17日火曜日

ことば拾い:栃麺棒

街に出て、夕刻にちょっといっぱいやっていくか、と赤提灯のある店ののれんをくぐることがある。歳をとってからは、××の会とか◯◯さんと話があるとか、といったようなことではない。ただ、飲みたいのである。
そういうときに、よく行く店の一つは永楽温泉町の〈因幡宿〉だ。
昨年、そろそろ忘年会のシーズンに入る頃であったと思う。店にはいると、板敷きの間のテーブルを囲んでかなりの年配者を含む数人の男性客が飲んでいた。彼らに背を向けて、いつものようにカウンターの端に坐って、これまたいつものように、おでんの豆腐と里芋で芋焼酎の湯割を飲む。
とつぜん、背後の客の一人が言った「いやあ、トチメンボーをふっちゃって…」という言葉が耳に入った。
「トチメンボー?! ずいぶんと、久しぶりに聞いたなあ」と思わずつぶやくと、前に立っていた店のチーフが「何ですか、それって?」と尋ねた。

このことばをはじめて知ったのは、中2か3年のとき、漱石の『吾輩は猫である』を読んだときだ。
越智東風が美学者の迷亭にある西洋料理店につれて行かれたときの話をする。迷亭は、なめくじや蛙はいやだからトチメンボーをくれ、と注文する。ボイ(筆者注:現在はボーイと表記されていますが、漱石の書き方が原音に近いですネ)は、トチメンボーの材料は切らしているのでメンチボーになさったらと勧めるが、迷亭は、いやトチメンボーが食べたいとゆずらない。
むろん、そんな食べ物はないのであって、二人は何も食べずに店を出たあとで、橡面坊をネタに使ったと、迷亭は笑う。(『猫』二)

偶然とはおもしろいというか、摩訶不思議というか、〈因幡宿〉でこのことばを耳にしてひと月もしないうちに、再びこのことばに出会ったのだ。暮れに読んだ鶴見祐輔の『母』の中で。
希臘(ギリシャ)の神話(しんわ)に出てくる半人半羊(はんじんはんよう)の人のように、男性は女性を追うものである。ということを男女生活の基礎(きそ)にしている西洋にいた彼は、ホホホホホと、笑いながら走り降りていった少女の後ろ姿を、そのまま呆然(ぼうぜん)と見送って、髪の毛を両手でむしって、ウーンと目を剥(む)くような栃麺棒(とちめんぼう)ではなかった。(pp.26-27 カッコ内はルビ)

漱石のいう「橡面坊」は鶴見祐輔が書いているように「栃麺棒」とも書き、広辞苑にも載っているが『大言海』が詳しい。こちらは「狼狽坊」と表記し、説明がいささか古めかしいので現代風に書き換えてご紹介しよう。

トチの実を砕きうどん粉を混ぜて栃麺を作るためには、非常に手早く棒を使って延ばさなければ、麺が収縮してしまう。このように手際よく棒を扱うことを「栃麺棒を振る」という。そのあわてふためいた有様を「とちめく」と言い、その名詞形の「とちめき」を擬人化して「とちめき坊」という。その音便〈=発音上の便宜から、もとの音とは違った音に変わる現象)で「とちめんぼう」。「赤き坊」を「赤ん坊」と言うのと同じだ。
事が非常に急がれるので「うろたえ、まどうこと」「あわてること」また「あわてもの」。「夕立にとちめんぼうをふる野かな」という句もある。このめんぼうで打たれることに言寄せ、略して「めんくらう」という。また、この「とち」を上二段活用させて「とちる」「とっちる」という。以上ともに「うろたえあわて、まごつく」という意味である。また、この「とち」を「あわて仕損じる」意味で「どぢを踏む」と濁るのは、いまいましく、憎らしげに言うのである。「踏む」は「あわてている足取り」をいう。また「あわてもの、まぬけもの」の意味に転じて「どぢな奴」などという。―さて、上記の鶴見祐輔の「栃麺棒」はどの用例になるでしょうか?

日本語もなかなか奥が深いですねえ。





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