2009年12月31日木曜日

サヨナラ、2009年

今年もいよいよ暮れていく。
「昭和十六年十二月八日」は、今日で終えることができたけれど、「鳥取を愛したベネット父子」は未完のままである。新年の1月中には終えたいと思う。

今夜は、NHKテレビで恒例の「紅白歌合戦」があるけれど(もう60回にもなるんだね)、
中島みゆきの「重き荷を負いて」でもPCで聞くとしょう。
足元の石くれをよけるのが精一杯
道を選ぶ余裕もなく 自分を選ぶ余裕もなく
目にしみる汗の粒をぬぐうのが精一杯
風を聴く余裕もなく 人を聴く余裕もなく
まだ空は見えないか まだ星は見えないか
ふり仰ぎ ふり仰ぎ そのつど転けながら
重き荷を負いて 坂道を登りゆく者ひとつ
重き荷も坂も 他人には何ひとつ見えはしない
まだ空は見えないか まだ星は見えないか
這いあがれ這いあがれと 自分を呼びながら 呼びながら
【映像】↓
【歌詞】↓

そうだ、大川栄策の「昭和浪漫~第2章~」もまた聞いてみよう。

では、よいお年を!!

昭和十六年十二月八日⑦最終回

なぜ横山艇についての報告が見あたらないのか?
なぜ今回発見された横山艇は、三つに分断されているのか、なぜそれぞれの部分にチェインやワイヤーが乱雑に巻き付けられていたのか? 

今回の調査に同行した軍事評論家のパークス・スティーベンスンさんは米海軍が戦争中に引き上げ、切断して捨てたのだと、推定した。
開戦直後、米国では、なぜ日本軍の真珠湾攻撃を許したのか、議会を中心に、調査や検討が行われていた。そういう最中に横山艇は発見されたのではないか? 米軍艦艇による敵潜水艦発見の通信が米海軍司令部に無視されたこともあった。追求を免れるための隠蔽だったのではないか、という。日本が軍神として騒いでいても、われわれにとっては何でもないのだということを示すためだったかもしれない、ともいう。

徹底的に分解調査された酒巻艇は、復元されて米国中を巡回した。戦意高揚のために利用されたのだ。ルーズベルト大統領も「見物」し、六千万ドル以上の戦時国債を売ったという。
一方日本では、捕虜になった酒巻少尉を消し去り「九軍神」を作った。軍部のなかには酒巻が自殺することを望む者もいたという。事実、彼自身二回自殺に失敗している。酒巻は米国で得た情報を手紙で遺族に知らせたりもしている。
(『九軍神は語らず』の巻末にある《主要参考文献》の中に『捕虜第一号』新潮社 1949、『俘虜生活四ヶ年の回顧』東京講演会 1947 があげられているが、いずれも未読である。)

米国においても、日本においても、彼らはプロパガンダに利用されたのだ。
日本では、軍人、学者、小説家、が競うように「九軍神」を讃える文章を書き、歌人、俳人、詩人たちも讃歌をつくった。
かつて、個人紙に今回と同じテーマをとりあげた。そのとき引用した文章を今回も引用しておきたい。幸田露伴の孫、青木玉の『小石川の家』からの引用である。
 …どんなに 祖父が怒っても戦争は拡大し、中国各地に兵は進められて行った。親類の甥達は召集を受け、近所で毎日のように御用聞きに来ていた魚屋の息子も炭屋の跡取りも佐倉の連隊へ集められ外地へ行く先も知らされず送り出されて行った。
祖父は自身老いて力なく、国を守るべき息子はとうに先立っている。たまらなかったに違いない。古書を扱っていた人に中国の雲南の地図を取り寄せさせて、新聞やラジオのニュースを聞いて、どこへ兵士が派遣されたか自分も地図の上で道を辿った。この地方はどんな気候で地形はどうなっている。今の季節はどんな風が吹き、雨はどんな降り方をするか、炎熱酷暑、洪水泥濘、ろくな食べ物もなく、風土病に冒されれば全滅の憂き目に逢う。軍を預かる者は何を考えているのだ。古くからこの地であった戦さに、かくも無謀な兵の進め方をした者は無い、と怒りと悲しみで活火山のようになった。遂に真珠湾攻撃の特攻隊、人間魚雷、病んで仰臥したまゝ白髪も、白くなった鬚も震えて、
「ああ若い者がなあ、若い者が」
と号泣し 、私は居たたまれず部屋から飛び出してしまった。(pp.124-125)
露伴翁こそ、あの時代にあって、まともな精神を持ち続けた稀有な人物の一人であったと思う。

最後の特殊潜航艇の艇長となった植田一雄さんは、言った。「十名の若者たちは、わずか一ヶ月足らずの訓練を受けて出陣したのだ。不運にも戦果をあげることはできながったが、それはそれでいいではないか。軍神になぞしなくてもいい。任務を果たすべく、努力を尽くしたんだ。」
植田さんと同じように訓練を受けて出陣した4000名の若者たちが命を捨てた。

68年の歳月が流れた今も、真珠湾沖合い6キロ、水深400メートルの海底に放置されたままの横山艇。植田さんはいう。「あの司令塔に乗っておられたことは、間違いないですからねえ。」

別れるときがきた。植田さんは、遺族や戦友から預かった写真を調査艇の丸窓にかざしながら、呼びかける。「みなさん、お元気で、おふたりによろしくとおっしゃていました。横山さーん、上田さーん、安らかにお休みください……」






2009年12月30日水曜日

昭和十六年十二月八日⑥

5隻の特殊潜航艇のうちい4隻については確認できているのだから、今回発見されたのは、当然、横山艇である。これまで引用してきた『九軍神は語らず』のなかでも、横山艇が開戦日の午後10時41分に「トラトラトラ」を打電したとき、その艇は確かに、「真珠湾内に在ったが、爆雷に悩まされ、二本の魚雷は、すでに発射されていた。死場所を求めて…湾内を三日間さまよったあげく、壮烈な最期を遂げた。」と、牛島秀彦は書いているだけである。

横山艇の母潜水艦、伊十六潜(艦長、山田薫中佐 http://74.125.153.132/search?=cache:DxFqjklK4pQJ:www2.ocn.ne.jp/~srekishi/sensuikantyou.html+%E4%BC%8A%EF%BC%91%EF%BC%96%E5%8F%B7%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%E3%80%80%E8%89%A6%E9%95%B7%E3%80%80%E5%B1%B1%E7%94%B0%E8%96%AB&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp)の電信兵だった岡山在住の出羽吉次さん(90歳)が、このテレビで次のように証言した。

横山さんとは階級は違うが、同い年で、潜水艇の建設段階からいっしょに仕事をした。横山艇が母潜を離れるとき、自分が最後に電話で話をした。元気で帰って来て下さいと言ったら、母潜に戻って「送り狼」
を連れてくるようなことはしない。こちらは二人ですむ。親艦の100人を助けるためにも、絶対に帰ってこない、と答えたという。
出羽さんは、その日ずっと横山艇に波長を合わせて待機していた。夜、10時41分、突然、「キラ」と一回だけ受信した。出羽さんは、日誌に、「キラ」(「トラ」)完受ス、と記入し、その旨通信長に報告して判断をまかせた、という。

映画の題名にもなってみなさんがご承知のように「トラトラトラ」は、「ワレ奇襲ニ成功セリ」の暗号電文でった。モールス信号ではトラは「・・―・・/・・・」だ。キラは「―・―・・/・・・」。つまり、トとキのちがいは、最初の「・」と「―」の1音の違いだ。
いずれにせよ、このキラを大本営はアリゾナ撃沈と結びつけ「九軍神」をでっち上げたのだ。

牛島秀彦も、アリゾナ撃沈は、時間的にも、特殊潜行艇によるものではないことを、ハッキリ言っているが、牛島の死の9年後に、出版された自叙伝のなかで、真珠湾攻撃の総指揮官だった淵田美津雄は次のように書いている。
 私が、十二月二十六日(引用者注:昭和十六年)拝謁で上京していたとき、大本営の潜水艦主務参謀の有泉龍之介中佐が、私のところへやって来て、「淵田中佐、アリゾナの撃沈を特別攻撃隊の戦果に呉れないか」と、もちかけたのである。私は苦笑した。
「別に功名争いするわけではないし、特殊潜航艇は特攻だから、その功績を大々的に吹聴してあげたいのはやまやまだけれどね、アリゾナは無理だよ。それはね、アリゾナはフォード島東側の繋留柱にかかっていたのだが、その外側にヴェスタルという工作艦が横付けしていたので、アリゾナには魚雷は利かなかったのだよ。従って特殊潜航艇の魚雷による轟沈などと発表したのでは、あとあと世界の物笑いになるよ」
 有泉中佐…は憤然として出て行ってしまった。(注1)
今回の調査の際、特別の許可を得て、二人の潜水夫が沈んでいるアリゾナの側面を調べたが、魚雷の当たった痕跡は発見できなかった。
また、横山艇についての記録はアメリカ側には全くない、というか残されていなかった。次回、最終回で述べたい。

注1 中田整一編/解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』
  講談社 2007年12月8日発行 p.140
  テレビでは、淵田の自筆原稿を紹介していた。




2009年12月24日木曜日

昭和十六年十二月八日⑤

第②回の冒頭に書いたように、今月6日の夜、NHKスペシャルがアメリカ公共放送WGBHとの国際共同制作「真珠湾の謎~悲劇の特殊潜行艇」を放映した。

17年前、ハワイ大学の海洋調査船が真珠湾沖合6キロで、偶然、日本海軍の特殊潜行艇の残骸を発見した。今年3月、日米の共同調査団がこれを調査することになった。使用された深海調査艇は、水深2000メートルまで10時間潜水可能で、水圧に耐えるカメラも装備していた。
搭乗できるのは三人で、日本人は植田一雄さん(83歳)が参加した。

真珠湾攻撃から2年後の1943年12月8日に封切りされた松竹映画「海軍」は、真っ先に真珠湾へ突入した横山正治少佐(軍神となって二階級特進)をモデルとしたもので、大本営海軍報道部が企画したものであるが、植田さんは、この映画を見て感激し、16歳で海軍兵学校に入学した。
特殊潜航艇は改良され、5人乗りの「蛟龍(こうりゅう)」となり、植田さんは艇長となって、特攻訓練を受けたが、戦後は、海上自衛隊を経て退役した。

深海調査艇は、水深380メートルのところで特殊潜航艇らしきものを発見、植田さんは、8の字のネット・カッターを確認して、日本海軍の特殊潜航艇だと断定した。さらに二本の魚雷は発射されており、これこそが横山艇に間違いないと言った。

もう一度、開戦時の真珠湾に戻る。
真珠湾からはるかに離れた裏オアフのベローズ・ビーチ沖合いのサンゴ礁に座礁した酒巻艇は、翌朝発見され、米軍によって分解され徹底的に調査、研究された。

水上機母艦カーチスと応急出動艦モナハンに魚雷を発射した岩佐艇は、その2隻によって撃沈され。2週間後引き上げられたが、損傷があまりにも大きかったので、「葬送の儀式を行ったうえ、…乗員二名の遺体を収めたまま当時建築中の潜水艦基地の基礎固めに用いられた。」「1947(昭和22)年3月、ハワイの米軍当局は、遺品として、真珠湾底の泥にまみれた海軍大尉の袖章を日本に送還、遺族(特別攻撃隊隊員中、大尉は岩佐直治隊長のみ)に送付された。」(『九軍神は語らず』 p.78&79)

前回、X-1艇とした特殊潜航艇は、「1960(昭和35)年6月13日、真珠湾湾口からダイヤモンド・ヘッドへ向かって、1.8キロ、深さ23メートルの海底から引き揚げられた。」「牡蠣(かき)が艇全体に付着して、艇番号もわからず、司令塔に砲弾痕…電池室付近に爆雷攻撃を受けた痕跡があるほか、艇体の破損は少なかった。/二本の魚雷は装着されたままで、未発射。その火薬は、約十九年間も海底にありながら、有効だった。/衝撃的なことは、艇内に、二名の乗組員の遺骨、遺歯がなかったことだ。遺留されたものは、作業衣一着、靴一足、一升瓶一本のみで、艇内は整理されていた。/…米海軍当局は、『搭乗員は沈没と同時に艇外に脱出、逃亡したものと推測される』とした。」(同上書 pp.73-74)
さらに、「司令塔ハッチの掛金が内側からはずされている」という米側の報告と、万一の場合には浮上上陸して敵陣に切り込むために、携行する日本刀と拳銃も艇内になかったことから、牛島秀彦はこう推測している。「搭乗員二名は、艇を浮上させ、司令塔ハッチを開いて、斬込みを敢行せんがために、海上に脱出した。」さらに、「真珠湾湾口からわずか一・八キロ。この海域は、裏オアフの海上とは違って波浪も穏やかで、人喰い鮫もめったに出ない。/また脱出したと見られる時刻には、未だ日本機による空爆も始まっておらず、海は、“平穏で、すばらしいハワイの海”なはずである。/…たかだか一・八キロの沖合いから陸地めざして泳ぎつくことは、『帝国海軍の遠泳の訓練』に比べれば、全く文字どおり屁の河童(ヘのカッパ)ではないか。/…オアフ島で、日本海軍軍人による斬込事件はない。/事実は小説より奇なり―。『九軍神』中二名(もしくは一名)が、脱出に成功をなし、ずうっとハワイの人となって生きつづけている可能性はある。」(同上書 pp.74-75)

日本軍の空爆の始まる前、6時45分にウォードが撃沈したX-1艇は無人だったことになる。このX-1艇は、1961(昭和36)年夏、日本に返還され、原形に復元されて、海上自衛隊第一術科学校教育参考館に安置されている。(同上書 p.73)

開戦当日の朝、巡洋艦セントルイスを湾口で魚雷攻撃したX-2艇は、魚雷を危うくかわしたセントルイスによって撃沈された。この艇は2002年に引き上げられている。

したがって、今回発見された特殊潜航艇は、横山艇ということになる。

2009年12月15日火曜日

昭和十六年十二月八日④

時計を逆戻りさせて、4隻の伊号潜水艦が真珠湾湾口に逆扇形に並んでいたところへ戻ろう。(以下「0012」のように、4桁数字で表示しているのは、現地時間で「午前零時12分」をいう。)
もう一つ付記しておく。これから書く内容は、ほとんどすべて、牛島秀彦の『九軍神は語らず』(講談社文庫)によっている。その親版は、1976年11月に講談社より刊行されている。これは、たいへんな労作で、今回のテレビ番組もこの本によるところが少なくないだろうと、思っている。

12月7日、5隻の母潜水艦から5隻の特殊潜航艇(甲標的)が真珠湾内に向かって発進した。
0042、横山艇。0116、岩佐艇、0215、古野艇。0257、広尾艇。0333、酒巻艇。
湾口は潜水艦の進入を防ぐための防潜網が下ろされていて、米軍の艦船が出入するたびに上げ下げされていた。そのため、潜航艇の前面には8字型のフェンス・カッターが取りつけられていた。彼らは、湾内侵入に成功しても、0800に始まる日本空軍の爆撃が終了するまでは海底で待機し、その後、残存している敵艦船に2本しかない魚雷を発射することになっていた。

0342、湾口付近で作業中の米掃海艇の1隻が、外方3.2キロの海面に小型潜航艇の潜望鏡を発見、付近を哨戒中の駆逐艦ウォードに発光信号。同艦は30分間付近の海上を捜索したが何も発見できなかった。潜望鏡発見の時刻、状況からして、横山艇であったと思われる。
0500直前に掃海艇を入港させるため、防潜網が開かれ横山艇が侵入したと考えられる。

0633、哨戒からもどる途中の偵察機がまたもや国籍不明の小型潜航艇を発見、位置を明確にするため発煙弾二個を投下した。その艇は工作船アンタレスの後ろをぴったりとつけて、湾内に侵入しようとしていた。
駆逐艦ウォードが現場に急行、0645、その艇に90メートルの至近距離から発砲、第2弾目を司令塔に命中させ、さらに爆雷攻撃を加えて沈没させた。
アメリカ海軍は、0756に開始された日本機による奇襲より1時間早く、日本海軍の秘密兵器を撃沈した。(ここでは、この艇をX-1艇としておく。)

0730、日本軍機の空爆開始直前に、駆逐艦ウォードの音波探知機が、新たな挙動不審の潜航艇をとらえた。ウォードは激しい爆雷攻撃を浴びせ、潜航艇はかなりのダメージを受け、多量の油を漏らしながらも追跡を逃れて、湾口攻撃を断念、空爆を避けて湾外へ脱出をはかる米艦をねらった。
1000頃、湾口に姿を現した巡洋艦セントルイスに魚雷二本を発射したが、危うくかわされて、魚雷は水道入口のサンゴ礁にあたって爆発した。
魚雷を二本発射すると、潜航艇の艇首は急に軽くなって海面に跳ね上がり、司令塔までが海上に浮上する。今度はセントルイスが司令塔を砲撃し、ルード船長はこれを撃沈したと、判断した。この撃沈された艇をX-2とする。

0835、応急出動艦モナハンは、日本軍機の空爆中であったが、湾内を航行中、信号兵が、水上機母艦カーチスが「敵潜水艦発見」の信号をあげていると艦橋に報告した。カーチスは日本機の急降下爆撃を受け、甲板上は火の海になっていた。まさか、と思っていたモナハンの艦長に「あの海面に見えるものは何でしょう」と艦橋にいた部下が言った。「どうやら敵潜水艦のようだ」という艦長の言葉が終わらぬうちに、その敵艦がカーチスめがけて魚雷を発射した。至近距離過ぎて魚雷は命中せず、パールシティのドックに命中した。モナハンの艦長はフルスピードを命じ、この潜航艇めがけて突進した。今度はモナハンめがけて魚雷が発射されたが、これもはずれてフォード島の海岸で爆発した。
その間、カーチスは、飛び出すように浮上した潜航艇の司令塔に射撃を浴びせ、艇長を即死させた。フルスピードで進んできたモナハンは潜航艇に激突し、その上を乗り越えた。さらに爆雷攻撃を加え、潜航艇の前部を吹っ飛ばした。無残な姿で撃沈されたのは、岩佐艇であった。

最後に母艦を離れた(0333)酒巻艇は、ジャイロ・コンパスの故障のために出動が遅れていた。そして、無謀にも故障が治らないまま発進したのである。そして0817、真珠湾口水道の東側のサンゴ礁に座礁して、米駆逐艦ヘルムに発見され砲撃を受けた。後進を繰り返しやっと離礁し、砲弾にも当たらず、再び潜航したが、座礁を繰り返し、魚雷発射装置の故障、圧搾空気やバッテリーのガス漏れなどで、艇内の気圧が上昇し、二人の疲労困憊はその極に達していた。真珠湾からはるかに離れた裏オアフのベローズ・ビーチ沖合いのサンゴ礁に座礁したとき、電池が放電しきって進むことができなくなった。上陸を決意した二人は、艇を残し、陸に向かって泳ぎ始めた。酒巻少尉は浜辺に人事不省で倒れているところを、日系二世のデイヴィド・M・阿久井軍曹に捕らえられ、この戦争の捕虜第1号になった。稲垣二曹は、極度の疲労で溺死したか、当時よく出没していた人食い鮫にやられたらしいという。

2009年12月14日月曜日

昭和十六年十二月八日③

ちょっとわき道にそれるが、今回のブログ記事を書くのにモタモタしていたら、昨13日の朝日新聞の【昭和史再訪】が12月8日の太平洋戦争開戦を取りあげて、(ハワイ=石川雅彦)がこんなことを書いていた。

……敗戦による国の崩壊へと突き進む起点が「真珠湾」だった。
 日本からはるか6千キロ。現在でもジェット機で7時間かかる。真珠湾をながめ、私は「よく、まあ、 こ んなところまで」と無謀さにあきれる。
 日本海軍は空母6隻に最新鋭の零戦を載せてハワイに向かった。だがそれは、真珠湾以降を 考えない日本海軍の「総力戦」だった。

引用した部分のなかでも、とくに零戦で真珠湾攻撃をしたなんて、ウソを書いてはいけない。

真珠湾攻撃総隊長であった淵田美津雄の自叙伝(注2)から引用しておく。
 オアフ島に向かう第一波空中攻撃隊の進撃隊形は、私の総指揮官機が先頭に立って、その直後に、私が直率する水平爆撃隊四十九機が続いている。右側に五百米離れて、…雷撃隊四十機…。左側には…降下爆撃隊五十一機…。そして…制空隊四十三機の零戦が、これら編隊軍の上空を警戒援護しながら、随伴しているのであった。(p.110)
二波にわたって発進した飛行機は、360機であった。

注2.編/解説 中田整一『淵田美津雄自叙伝』講談社 2007年12月8日

2009年12月12日土曜日

昭和十六年十二月八日②

去る6日(日)のNHKスペシャルで、「真珠湾の謎―悲劇の特殊潜航艇」が放映された。

1941年11月18日午後8時、大型巡洋潜水艦丙型の伊号潜水艦の4隻が、広島県倉橋島からハワイ真珠湾へ向かって出港した。各艦は特殊潜航艇を搭載していた。もう1隻は搭載する潜航艇の転輪羅針儀(ジャイロ・コンパス)が故障のため、翌19日午前2時16分出港した。
艦名・艦長:特殊潜航艇指揮官・同付は下記の通り。

伊22・揚田清猪中佐:岩佐直治大尉・佐々木直吉一曹
伊16・山田 薫中佐:横山正治中尉・上田 定(かみた・さだむ)二曹
伊18・大谷清教中佐:古野繁実中尉・横山薫範(しげのり)二曹
伊20・山田 隆中佐:広尾 彰少尉・片山義雄二曹
伊24・花房博志中佐:酒巻和男少尉・稲垣 清二曹

特殊潜航艇の10名の出身県は、岩佐大尉・群馬、横山中尉・鹿児島、古野中尉・福岡、広尾少尉・佐賀、酒巻少尉・徳島。佐々木一曹・島根、上田二曹・広島、横山二曹・鳥取、片山二曹・岡山、稲垣二曹・三重。(なお、母艦、伊16号の山田薫艦長も鳥取県出身である。)

士官の最年長は岩佐大尉の27歳、最年少は広尾少尉の22歳で、いずれも江田島の海軍兵学校出身
、艇付の最年長、最年少は佐々木一曹の28歳、片山二曹の24歳だ。

後で改めて紹介するが、『九軍神は語らず』の著者、牛島秀彦は「選別された十名は、いずれも申し合わせたように、…地方出身者であり、都会出身者は、一人もいない。」「彼等の大半は、農家出身で、子だくさんのなかで育ち、貧しく、寡黙で、剛毅木訥型だ。」と述べている。(23ー24ページ)

広島の倉橋島から出航した各潜水艦は、昼間は潜行、夜間は水上航行でハワイを目指した。開戦二日前の12月6日の日没までに、真珠湾湾口から185キロ圏に到達し、夜間に浮上して最後の特殊潜航艇発進準備を完了した。開戦前夜、5隻の母潜水艦は湾口を包むように逆扇型の隊形に並んでいていた。湾口までの距離は10~23キロであった。

2009年12月10日木曜日

昭和十六年十二月八日①

12月8日。「天声人語」は次のように結ばれていた。
▼今日が何の日か知らない若い世代が、ずいぶん増えていると聞く。わが身も含めて4人に3人が戦後生まれになった今、風化はいっそう容赦ない。伝える言葉に力を宿らせたいと、かつて破滅への道を踏み出した日米開戦の日に思う。
翌9日の「朝日川柳」にはこんな句が採られている。
   語りたい八日聞く人誰もいず

天声人語子に励まされ、この川柳に苦笑いしながら、このブログ記事を書く。

昭和16年12月8日(以下日時は東京時間)、午前7時、ラジオは臨時ニュースを伝えた。「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前六時発表―帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」のアナウンスが二度繰り返された。この日は月曜日であったから、醇風国民学校でも宮代校長が朝礼の壇上で開戦を告げ、少国民としての心構えを訓示したはずである。
「はずである」と書いたのは、ラジオの臨時ニュースも校長訓話もまったく記憶にないからだ。

当時の校長訓話がどのようなものであったか、兵庫県の加古川国民学校の「式日訓話記録」から冒頭部分を引用してみよう。12月11日に行われた「対米英戦争宣戦の大詔奉読式訓話」である。
何時になったらば、アメリカ、イギリスに対する宣戦の大詔を拝する事が出来るのかと、我々一億の国民は、実に待ちに待って今日に至りましたが、勿体無くも去る八日、アメリカ合衆国及イギリスに対し、宣戦の大詔を御煥発になりました。
我々国民として、感激此の上もない次第であると存じます。恐らく皆さんや私共が一生を通じて、こうした大詔を拝する事は、これが最後であろうと思います。私はこれで大詔を拝する事は三回目であります。日清日露両戦争と、此の度の対米英戦争と三回であります。
一昨日に、即ち十二月八日、午前十一時三十分、ラジオを通じて、宣戦の大詔が御煥発になった事を知って、只それだけの事を皆さんにお知らせしました。続いて十一時四十五分、宣戦の大詔の奉読あり、東條首相の「宣戦の大詔を拝して」と題する涙のこぼれる様なお話があったのでありました。
幸に十時頃にサイレン吹鳴禁止の命令(引用者注:空襲警報などをサイレンで知らせるため、学校の授業の開始、終了などをサイレンで知らせることを禁止したと思われる。)があったのと同時に、校長室のラジオをかけておいて、仕事をしていたので、この事が一早く知る事が出来、皆さんにお知らせもし、詔書の拝読や、首相のお話も、校内放声装置のお蔭で、聞く事が出来ました事は、他の学校でも数多く無い事でしょう。
……国力からいっても、軍備からいっても、経済力からいっても、世界一々々々と自分から誇っているし、又実力も持っているアメリカ合衆国並に地球上太陽の没する事のないという、広い領地を持つイギリスが、この太平洋方面の作戦の大事な基地にしている、アメリカのハワイや、ミッドウエイや、ウエイク、フィリッピン、又イギリスの香港、マレー、シンガポール等を電光石火の如く、八日午前三時を期して、米英両国の軍隊が立上がるひまもない程に爆撃し、又軍艦を轟沈する等、陸海軍の手ぎわのよさ、このニュースを聞いた皆さんの嬉しさ、私共の感激は死んでも忘れる事は出来ないと思います。(後略)注1.pp.270-271
長い引用になってしまったが、これで全体のざっと三分の一である。なお、原文は旧仮名遣いになっているが、現代仮名遣いに改めた。(続く)

注1.『加古川市史料2 加古川小学校式日訓話記録』加古川市史編さん室
   平成5年3月31日

2009年12月6日日曜日

当世ーワード(2009年12月①)

12月第1週の、当世キーワード(NHKラジオ第1・亀井肇)は、次の六つ。
青いバラ・邸宅カフェ・コンビニ用書籍・記憶の銀行・横手焼きそば・目的別積立預金。このなかから三つをご紹介しよう。

◆邸宅カフェ
ヨーロッパの豪華な邸宅を模したカフェのこと。邸内には特別注文のアンティーク風の家具が並んでいて、お客さんは一階の入口付近でお菓子とドリンクを購入して、好みの席まで運んでいって、気ままに自由にくつろぐことができる。神戸市に本社のある洋菓子メーカーが今年5月神戸市に開いたもので、コンセプトはリカルディーナという架空の王女さまが住んでいるヨーロッパ地中海沿いに建てられた邸宅としている。休日には兵庫県外からの客も訪れて、行列ができる賑わいを見せているという。

ネットで調べてみると「メニューは700~800円のドリンク類と、300~500円の約15種類あるケーキ。売れ筋はドリンクが付いたケーキセット」だそうな。

◆コンビニ用書籍
コンビニ大手の三社が出版取次大手の会社と組んで、販売する書籍。複数の出版社をまたいで、背表紙のデザインを統一してお客さんの目を引くようにしている。現在のところ中堅出版社の7社が参加を表明している。出版社はある作家の作品を先ずハードカバーの単行本で売り出して、一定期間経った後に文庫本として売り出すのが一般的なのだが、それをさらにコンビニ用書籍として売り出し、一作品あたりの収益を拡大しようとしている。分野としては、ビジネス、自己啓発、雑学、健康、ファッションなどを想定している。

◆記憶の銀行
イタリヤ北部の都市、トリノの若者四人が立ち上げたNPOのメモロというところが運営するオンラインのアーカイブ。イタリヤの高齢者が体験した第二次世界大戦中のファシズムとレジスタンス、その後の復興、繁栄などを貴重な財産として後世に残すために、ビデオカメラなどに収めて記録に残す運動。核家族化が進む中で、高齢者が体験したことを子どもたちに語り継ぐことで、家族のあり方を再構築したいという思いもあるようだ。

各国にも広がっているようだ。本家と日本の場合とアドレスは、下記をどうぞ。
   http://www.memoro.org/it/
   http://www.memoro.org/jp-jp/index.php

2009年12月4日金曜日

Google日本語入力が公開された!

これまで日本語入力にATOK17を使っていたのだが、新しいATOkの無料のトライアルを使ってみた。期限が切れて元に戻してから、調子が悪くて困っていた。
ところが、今月に入ってから「Google日本語入力」が使えるようになったことを知り、早速インストールした。むろんフリーだし、なかなかいい。こちらに切り替えることにした。こちらからインストールできます。

いろいろ説明しているサイトはたくさんあるが(親切な人が大勢いらっしゃるんですねえ)、下記のサイトが詳しいです。

2009年12月3日木曜日

ことば巡り③

「ことば巡り」も3日目になったので、今日でおしまいにする。

11月29日のNHKラジオ第1。5時台のおしまいは「音に会いたい」。過ぎ去った遠い昔にしばし戻ってみたいというリスナーたちのリクエストに応えて、さまざまな「昔懐かしい音」を聞かせてくれる。この日、二番目のリクエストは、静岡県のT.M.さん(79歳)から届いた点字の手紙。

小4の頃、ラジオから「紀元は二千六百年」という歌が連日のように流れてくる。昭和十五年、1940年は皇紀二千六百年[引用者注:つまり、天皇の御代になってから2600年目の目出度い年]に当たり、日本中が祝賀ムードに包まれていた。「金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて いまこそ祝へ[祝え]この朝(あした) 紀元は二千六百年 あゝ 一億の胸はなる 」
ところが、戦局の悪化とともに、ひどいインフレに見舞われた庶民のあいだに、替え歌が生まれ、またたくまに広がった。
「あの替え歌をもう一度聞いてみたいものです。」

「金鵄」上がって15銭
栄えある「光」30銭
今こそ来たる この値上げ
紀元は二千六百年
ああ1億の民は泣く

「金鵄」上がって15銭
栄えある「光」30銭
いちばん高い「鵬翼」(ほうよく)が
苦くて辛くて50銭
ああ1億のカネは減る

わたしも、この歌をリクエストされた方の四つ年下。この年、幼稚園の最上級生だったが、久松山下の堀端を行進する提灯行列の記憶が残っている。翌年、発足した国民学校入学後、この奉祝歌も替え歌も歌っていた。

金鵄(きんし)というのは金色のトビのことで、「神武天皇東征」のとき、天皇の持つ弓の先に止まって、その光り輝く金色が賊軍の目をくらませて、勝利に導いた。金鵄勲章はご存じでしょ?
「金鵄」「光」「鵬翼」はすべて当時売られていたタバコの名前。
この奉祝歌と替え歌の詳しい記事が、下記のアドレスにあります。

歌で思い出した。[深夜便のうた」というのがあって、毎回放送される。10月頃から放送されている「昭和浪漫~第2章~」が気に入っている。作詞・作曲:オオガタミズオ、歌:大川栄策。
 
風に追われるように街を歩いてる
痩(や)せた野良犬も見かけなくなった
路地の屋台で聴いた ギター流し歌
そんな風情もまた 消えて行(ゆ)くのですか
小さな手をつないで 夕焼けこやけの道を
歌って帰った昭和は風の中

裸電球点(とも)した小さな駅から
夢を枕にして あの日 町を出た
あれから幾年月 時は流れたけど
あの日の夢はまだ列車の棚の上
貧しかったけれどみんな元気だった
笑顔と一緒に昭和は夢の中

振り向けば人生の旅は半ば過ぎて
歩いて来た道に悔いはないけれど
これからが青春です もうひと花咲かせましょう
思い出つまった昭和は夢の中
昭和は夢の中

今まで好きでもなかったが、この大川栄策はいいと思う。

YouTubeがありましたよ。興味のある方はどうぞ。

ひと頃よく言われた「明治は遠くなりにけり」というフレーズがあったけれど、昭和に郷愁を覚えるのは、やはり、年取ったんですねえ…。
やがて、午前6時。お母さん方が起き出してきて、ラジオを聞きながら休日の朝の食事の準備に取り掛かるのでしょう。
「映画って、ほんとにいいですね」というキャッチフレーズを使った映画評論家がいたが、ラジオって、ほんとにいいですね。

2009年12月2日水曜日

ことば巡り②

前夜の11時のニュースの後から始まる【ラジオ深夜便】は午前5時に終わり、5分間程度のニュースが終わると、現役のアナウンサーが担当する【ラジオあさいちばん】が始まる。土日はそれぞれ【ラジオ】が【土曜】【日曜】に変わる。土日の担当は、佐塚元章・鈴木有才子の両アナである。

一昨日は今月5回目の日曜日だったので、亀井肇さんの「当世キーワード」の放送はなく、NHK放送文化研究所の田中浩史主任研究員が「美化語」について話した。美化語(びかご)とは、「お話」や「ご本」のように言葉の頭に「お」や「ご」つけた言葉をいう。
田中研究員が佐塚アナに、今年の初めに実施した調査と同じ言葉を示して、美化語を使うかどうかを尋ねる。

1.ビール →「これは、ビールですよ」
2.酢   →「お酢ですね」
3.正月  →「お正月ですね」
4.みかん →「これは、みかん」
5.台所  →「そのままですね」
6.鍋   →「男性の友達と鍋料理を食べるときは、『なべ、いこう』なんて言うが、娘には『今夜は、おと うさん、お鍋がいいな』などという」
7.カネ  →「どちらかといえば、お金がおおいですね。」
8.ソース →「これは、ソース」
9.酒   →「お酒ですね」
10.天気 →「これも使い分けていますね。相手や場所によって使い分け ているんですね」

田中さんによると、今年の調査では、「お正月」「お金」「お酒」は、7~8割の人がおかしくないと言っている。逆に、余り使わない、放送にはふさわしくないと言っているのは、「おビール」「おソース」「おみかん」「お台所」で、前の三つの言葉を支持したのは、それぞれ3%、5%、7%。
判断の分かれたもの、「迷った」というのは、酢、天気、鍋で、いずれも付ける、付けないが半々くらい、年代、性別、どんなグループの中で話しているか、などで異なるという結果であった。
もともと、「お」のつくのは一般に「お宮」「お寺」「お城」のように尊敬の対象になっていたものにつけた。
室町時代になって、女房言葉で、「でんがく」を「おでん」と、ていねいに、上品にいうようになったと言われている。
近代になると、幼稚園言葉というか、幼児向けの言葉で、
 おはな、お絵かき、お机
料理で
 お大根、お紅茶
といったものが加わって、今の言葉になったといわれている。やはり今でも、女性の方が美化語を多く使うことがハッキリ出ている、という。

13年前の1996年にも同様の調査をしているが、それに比べると、男性の美化語の使い方がこの間に急激に増えてきているそうだ。(たとえば、「お正月」は、51%→今回80%)
これからも、時代とか環境とか人間関係で、増えたり減ったりするかもしれない。日本語の中でも、揺れ続けているものの一つといえるかもしれない。

佐塚アナ「たいへん興味深い『お』話、ありがとうございました」w。

2009年12月1日火曜日

ことば巡り①

先月のブログは「当世キーワード」だけになってしまったが、11月29日は、5回目の日曜日だったので、亀井肇さんの「当世キーワード」の放送はなかった。しかし、「ことば巡り」と題して、言葉のあれこれを取りあげてみたい。

わたしのような年寄り―老人、(前期・後期)高齢者、じいさん・ばあさん、おいぼれ…)は、夜、床につくのが早い―その結果、目覚めるのが早いので、多くの者が【ラジオ深夜便】の愛聴者になってしまう。おッと、「愛聴者」と書いてしまったが、あってもいいと思うこの言葉は、一般には使用されていないようだ。
似たような言葉を並べてみよう。(○は、使用できる/×はできない)
  
  ○読み取る       ○聞(聴)き取る
  ×読取者         ○聴取者
  ○愛読する       ○愛聴する
  ○愛読書        ○愛聴盤(レコード)
  ○愛読者        ×愛聴者
         ○視聴者
         ×愛視聴者

いま一つ「聴取」という言葉があって、意味は次の二つ。
①事情や状況などをききとること。
②ラジオなどをきくこと。

①から、検察官や司法警察職員が作成する「聴取書」ができ、②から「聴取率」という言葉ができている。テレビの場合は「視聴率」となる。

テレビでは「視聴者のみなさん」と呼びかけ、ラジオでは「リスナーのみなさん」とアンカーがおっしゃる。

政府の行政刷新会議は昨日、国の事業見直しに関する国民の意見を来年1月から募集すると発表した。鳩山首相の名前にちなんだ hatomimi.com を立ち上げて意見を募るという。

「馬耳東風」あらため「鳩耳東風」にならねばいいが…。

とにもかくにも、いろいろと、ややこしいことではある。(つづく)