2007年9月10日月曜日

米原万里の父 (8)

1921(大正10)年、12歳の米原昶は、鳥取中学(現鳥取西高)に入学した。この翌年6月以降1948(昭和23)年3月末まで、鳥取県立鳥取第一中学校となる。
以下の記述の中で「 」内の文章は【米原昶 年譜】からの引用である。

「中学入学当座は鳥取市内に住んでいた祖母にあずけられ、漢文やソロバンの手ほどきを受けた。まちがえると長きせるでたたかれるなどきびしくしつけられた。」
祖母が鳥取市内のどこに住んでいたのか、わからない。
由谷義治の「自伝 上巻」から引用する。
 この鹿野街道の住居は、すなわち由谷呉服店という商売の場でもあつた。だが呉服商売の方は、義兄(姉聟)にゆずつて、わたしは運送業に専心したので、なにもそうぞうしい『内市』(当時もつとも殷盛をきわめた市内の魚菜市場)に住むこともないと考え、大正六年に西町惣門内に新しい家をたてて、そこへ移りすんだ。
建築費は、たしか八千円くらいだつたとおもうが、当時としては宏壮とはいえないまでも、マア相当な住居だった。木の香のあたらしい新築家屋に、若い夫婦がひとり子を擁してくらす気持も、まんざらではなかつた。(p.53)

「久松山下巍巍(ぎぎ)として甍聳ゆるわが校舎」と校歌にうたわれた鳥取一中の校舎は、鳥取城三の丸跡にあった(現在の鳥取西高も同じ)。引用文の新築家屋の位置を引用者は確認していないが、惣門内というのは薬研堀(やげんぼり・現在の市内では片原通り)から城側の地域をいうのだから、鳥取一中へは、川端四丁目の由谷呉服店からの距離の半分以下、徒歩10分以内の距離であったと思われる。
由谷義治は1920(大正9)年1月長男(9歳)を失っているし、前年より政治活動に相当な時間をとられていたであろう。そういう状態の家に嫁の母親がやってきてなにかと面倒を見る、ということは十分にありえよう。そして、一つ違いの兄弟が相次いで中学生になったのだから、穣、昶も由谷家から通学したと考えていいのではあるまいか。

中学校に入学した昶は「貧しいために成績が優秀でも進学できず農業をするか神戸、大阪へでっち奉公せざるを得ない同級生をみて貧富の矛盾を感じた」という。また当時「進歩的な文化運動の一翼をになっていたエスペラント語の講習を受けた。最年少の受講生」で「講師はのちに労農党から鳥取県で立候補した村上吉蔵」であった。
翌1923(大正12)年4月には「鳥取市で秋田雨雀、有島武郎の文芸講演をきいた。雨雀はエスペラント語の熱心な推進者だった。有島はホイットマンやゴーリキーについて語った。」
このとき、砂丘を訪れた有島が詠んだ歌「浜坂の遠き砂丘の中にして淋しき我をみいでけるかも」の碑が砂丘に建っている。この年6月、有島は鳥取へも同行していた波多野秋子とともにみずから死を選んだ。
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【付記】先回、ご紹介した『郷土出身文学者シリーズ③ 田中寒樓』編集・発行 鳥取県立図書館(2007年3月31日発行)について、昨日、同図書館へ行った際に確認したところ在庫はまだあるということであった。84ページの冊子であるが、写真も多く、年譜、文献案内なども充実している。1部 ¥315 で安い!
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