わが家の近くではここ2、3年、敗戦の日になると聞かれたつくつく法師が一向に鳴かなかった。一昨日、昨日と夜から朝にかけて、激しい雨が降った。気温もどうやら30℃を越えることはないらしい。
正午を過ぎた頃、初めて、つくつく法師が1回だけ鳴いた! 昨夜の月食を犠牲にした甲斐があったというものだ。
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このブログの〈米原万里の父〉の(1)と(2)でご紹介した『回想の米原昶』の中に万里が「お父さん大好き」と題して次の小見出しのついた一文を寄せている。
○太っててキョーサントーなんだから
○妹が電車の中で♪♪民衆の旗 赤旗は……
○創作民話、手品、トランプ、チェス
文末に付された肩書きには(長女、ロシア語教師)とある。小見出しでお分かりのように、その内容は『終生ヒトのオスは飼わず』に収録されている「地下に潜っていた父」(pp.183-185)とほぼ同じだから、引用しない。
米原昶(いたる)は、1909(明治42)年2月7日、鳥取県八頭郡智頭町で生まれた。父章三、母八重の子ども―男8人、女2人のなかの次男であった。
父の米原章三翁は、鳥取県において、巨大な存在であった。いずれ翁について述べることになるかもしれないが、今は、上記万里の本、第二部のなかに「夢を描いて駆け抜けた祖父と父―わが家の百年―」という一文があり(pp.176-182)、二人の写真も掲載されていることを紹介するにとどめる。
長男の穣についは、紹介しようと思い、念のため、ウェブで検索もしてみた。驚いたことに、有田芳生さんのブログ「酔醒漫録」がヒットした。
孝子さんからは久夫さんの遺品をいただいた。旧制高知高校の教授だった米原穣さんのポートレイトだ。カメラ好きの木村さんは気に入った教授の「出張撮影」をしていた。塩尻公明さんや八波直則さんとともに、米原さんも撮影の対象だったのだ。実はこの米原さんとは縁がある。わたしの祖母が再婚した相手が安東太郎で、米原とは親戚だったのだ。米原家は鳥取の財閥で、祖父の親しかったのがのちに共産党の衆議院議員となる米原昶さんだった。作家の米原万里さんの父である。ついでにいえば、万里さんの妹のユリさんは井上ひさしさんの奥様である。その米原昶さんの兄が穣さんで、昭和11年に高知高校に赴任、ドイツ語の教師を昭和18年まで務めた。のちに文部省から経済界に進み、鳥取の「日の丸自動車」の会長となる。木村久夫さんと淡いつながりのあったことに因縁を感じてしまった。嫌いな教授の授業には出ることもしなかった木村さんにとって、「出張撮影」する相手は特別な存在だったようだ。
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