2007年9月1日土曜日

米原万里の父 (5)

由谷義治は、1907(明治40)年鳥取中学を卒業した。友人たちが次々に上京してゆくのを見て彼も上京を望んだが、父は「商人の子にこれ以上の学問は不用」と言ってなかなか承知しなかった。彼は四男として生まれたのだが、3人の兄はみな夭折したのである。それでも、やっと許しが出て、早稲田大学商学部に入学した。親孝行の気分も手伝って商学部を選んだ、と「自伝」のなかで述べている。
その「自伝」に戻ろう。
 ……例の平民社だが、毎水曜日の晩には、社会主義の研究会があった。神田三崎町に片山潜氏の事務所があり、二階建の小さい木造洋館であつた。その二階六畳二間ぐらいの部屋が会場であつた。五郎兵衛町の下宿から、これに出席するのが、わたしのなによりの希望でもあり、期待でもあつた。研究会には、片山潜、幸徳秋水堺利彦、木下尚江、安部磯雄、白柳秀湖その他の人々が出席した。わたしは無名の一書生だから、片隅に坐り、たゞ黙つて諸氏の名論卓説を拝聴するばかりだつた。研究会とはいうものの、どちらかといえば漫談会、放談会にちかかつた。
いわく、「最近ドイツからとどいた新聞には、これこれ、しかじかのことが書いてある」
いわく、「マルクスの大著に資本論というのがある。たれかこれを翻訳するものはあるまいか」など、など。(p.27)

しかし、彼の東京での大学生活は長くは続かなかった。この年の秋、病を得て帰郷し、そのまま退学して家業を継ぐこととなった。
3年後の1910年、いわゆる「大逆事件」という社会主義者弾圧事件が起こり、幸徳秋水ら24名を死刑(内12名は無期に減刑)とした。鳥取にいた由谷もブラックリストに載っていて、県の警察部長のもとへ出頭させられ、所有していた社会主義関係のすべての書籍や新聞雑誌を没収されたという。
由谷は、科学的社会主義を説く堺利彦らより、「むしろ感情的直接行動論を唱える幸徳秋水の影響を、より多く受けたものといつてよい」と述べている(p.31)。
青年時代に愛読したという幸徳秋水の『社会主義神髄』について述べている文章を引用して、若き由谷義治のご紹介を終わりとしたい。
 この本のなかで、かれは世の中の経済発展の法則をのべているが、たとえば、ローマ時代の奴隷制度をとりあげて、ローマは奴隷の犠牲において繁栄したが、やがてその奴隷制度のゆえに崩壊したと説明し、「花を催すの雨は、是れ花を散ずるの雨たらざるをえざりき」と書いている。
「花を催すの雨」と「花を散ずるの雨」――おそらくは、中国のふるい漢詩の一節を引用したものかとおもうが、このような名句が当時の少年由谷義治を、どんなに感銘させたことか、今なお記憶に明らかなものがある。要するに幸徳の文章は、少年期から青年期にかけてのわたしに、漢籍の教養を身につけさせてくれたのであつた。爾来、春風秋雨五十余年、わたしは地下の彼に対して何時までも感謝するものである。(p.33)






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