2007年9月12日水曜日

米原万里の父 (9)

『回想の米原昶』へ米原穣が寄稿した文章のなかから「鳥取一中応援歌に応募一等当選」と題する一文(pp.67―68)を引用する。
 鳥取中学には大正十年から十五年まで在学したわけだが、いわゆる勉強家とか優等生というタイプではなかった。しかし数学は性分に合ったとみえて得意でもあったし相当熱心に取組んでいた。また英語はそれ程とは思わなかったが、エスペラントに興味を持っていて校外の団体で催される講習に参加したりしていた。これも昶伝説の様に言われている一つに中学時代応援歌を作ったという話がある。これも実際その通りで、しかも応募作品の中一等当選の栄を得たものであった。あたかも甲子園球場が竣工した大正十三年、野球では相当有名だった鳥取一中(大正十二年[引用者注:先回記した通り、十一年の誤り]から鳥取中学が改称)が三年連敗し、この年はどうしても勝ち抜きたいと言われた時であった。昶の作った応援歌をその一番だけ紹介すると、
[引用者注:後でご紹介する。]
幸にこの時鳥取一中は甲子園に出場し、[引用者注:その成績は後で詳述する。]
この応援歌の調子でも察せられる通り、旧制高校の寮歌に見られる様ないわば慷慨悲憤調はその頃既に彼が憧憬してやまなかった一高の寮歌の影響によるものと考えられる。
米原穣自身も、同窓会長として祝辞を寄せている『鳥取西高等学校野球部史』によると、日本に野球が伝えられたのは1873(明治6)年、鳥取県については資料の一つとして、1889(明治22)年―大日本帝国憲法発布の年でもある―5月26日千代川原で行われた鳥取県中学生徒の運動会の模様を伝える5月29日付「鳥取新聞第二號」の記事を紹介している。
「當日の來觀者は武井知事以下高等官諸氏並に令婦人其他縣官縣會議員諸有志及び婦人會々員にて皆特別の招待者なり」という一大行事である。プログラムは「障害物飛越の技」に始まって、8番目が「フートボール」、18番目「ベースボール」次いで綱引きで終わっている。
当時のベースボールがどのようなものであったか不明だが、「三角ベースのような素朴な草野球であった」と、明治35年鳥取中学卒業生の一人が回想している。1884(明治17)年生まれのごうなの父も「こどもの頃聖(ひじり)神社の境内で三角ベースをやって遊んだ」と話していた。

先へ急ごう。鳥西高の前身、鳥取中学に野球部ができたのは、明治29年とも言われているが、詳細は不明である。部の創設後、最初の対外試合は明治31年の対鳥取師範戦で、これに大勝したという記録があるそうだ。
1915(大正4)年8月、第1回全国中等学校野球大会が豊中球場で行われた。各府県聯合大会を勝ち抜いた10校が参加した。今日の全国高等学校野球選手権大会まで続く長い歴史の最初のページを飾る写真は、始球式のそれである。
羽織袴姿の村山朝日新聞社長が投球した直後を写したもので、その左に二人おいて直立不動の姿勢で立っているのが鳥取中学の鹿田一郎投手である。ユニホームの胸には、TOTTORI という文字がはっきりと見える。
この第一試合で、山陰地方代表の鳥取中学は山陽地方代表の広島中学を14対7で破り、初戦を飾った。次の大阪奈良和歌山地方代表の和歌山中に7対1で敗れた。  

1924(大正13)年7月31日、東洋一の大球場、甲子園球場が完成した。
大正10年から3年間、島根勢に敗れ続けた鳥取一中は、第10回の記念すべき大会、完成したばかりの甲子園球場での初の大会にぜひとも出場しなければ、と燃えていた。そして、松江で行われた山陰大会で倉吉中学を11対0、松江中学を4対2、島根商業を15対4で降して甲子園出場を決めた。

この年、第九代応援団長に選ばれたのは、小川清であった。小川は戦後新制の鳥取東中、鳥取西中の校長、鳥取市教育委員会教育長などを歴任した人物で『野球部史』にも寄稿しているが、『一河の流れのなかで―わたしの大正・昭和教育史―』という自著もある。
応援団長の小川は、副団長として四人に協力を求めた。その中の一人が米原穣であった。
さて、その穣が「一等になった」と書いていた昶の作った応援歌を含め、全ての当選歌を『一河のながれ』の中で紹介している。
 この時に作った応援歌には、現在まで歌いつがれているものもあるので、ここに紹介しておこう。なお選者をお願いした田中瑞穂先生のご意向で、一等当選歌は該当なしということになった。
◇二等当選歌(四年米原昶君)
(一)覇権流れて西に飛び      (二) 血潮に染めし紅の
沈滞の時幾歳ぞ            応援の旗手に持ちて
嗚呼堅忍の太刀佩きて        振れ一千の健児等よ
強敵倒す時は来ぬ          臥竜の飛躍今なるぞ
ああ肉は鳴り血は躍る        (同前二句繰り返し)
ああ肉は鳴り血は躍る
(三)熱と力の高潮に         (四)さらば歌わん諸共に
行手さえぎる猛者なく         さらば舞わなん諸共に
月桂冠は赫々と            我等の挙ぐる凱歌は
我等が頭上に輝きぬ          天にどよめき地にふるう
(同前)               (同前) 

あと、三等当選歌が一、佳作当選歌が二であった。
この年の成績は、どうであったか。京城中を10対0、同志社中を15対2、宇都宮中を5対4で破り、全国大会三度目の準決勝進出を果たしたが、松本商に3対9で敗れた。小川は『野球部史』へ寄せた「歌いつがれる勝利の歌」と題した一文の中にこう書いている。
 さて私は近頃になって、鳥取西高の応援歌の中に、私の時代に新しく作った歌が二三残っており、中でも勝利のたびに熱唱した、「熱と力の高潮に/行手さえぎる猛者なく」の歌は、六十年を経た現在も「西高祝勝の歌」として、歌いつがれていることを知って感動した。(p.103)

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『鳥取西高等学校野球部史』発行 鳥取西高等学校野球部史編纂委員会
1987(昭和62)年7月20日(非売品)
小川清『一河の流れのなかで―わたしの大正・昭和教育史―』私家版
1984(昭和59)年3月24日



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