2007年9月6日木曜日

米原万里の父 (7)

米原万里の父、昶(いたる)は、1909(明治42)年2月7日、米原家の二男として生まれた。
すでにご紹介した『回想の米原昶』の「年譜」によると「小学生の頃、母の女学校時代の教科書を使ってひとり数学の勉強をたのしみ、中学に入る前に代数、幾何の問題を解いた。数学者か物理学者になることが夢だった」という。
長男の米原穣も、この本に昶のエピソードをいくつか寄稿している。「小学校長から褒美にもらった銀時計」と題するエピソードを引用する。
 小学校時分から相撲は好きであったし、実際にもかなり強かった。中学に入ってから自然柔道に熱心になった。
小学校の時校長にほめられて銀時計を頂いたという話がその頃伝説のように伝えられて、私にも後年幼い弟妹達から度々質問があった。これは実際にあったことで私はその時計を見たこともあるし、本人からそのいきさつを聞いたこともある。私は中学に進んでいたから多分彼が小学六年生の時であったろう。その頃小学校では毎朝授業に先立って朝礼の行事が行われ校長の短い講話があった。ある時校長が話の末に「今日のこの事柄をどう考えたらよいと思うか?」と児童一同にたずねられた時、昶は早速「それこそ校長がよく申される小の虫を殺して大の虫を生かすことです。」と返答したそうで、それを聞くと校長は「その通りだ、よく答えた。」と言って身につけていた懐中時計を褒美として渡され、あっとばかりに全児童が驚いたということらしい。この校長は田中國三郎という方で寒楼と号し、若い時から正岡子規に認められ、尾崎放哉と共に因幡出身の俳人として特にこの地方の人々にはその風変わりな一生を今なお嘆賞されている。(pp.66―67)

【補注】田中寒樓は尾崎放哉ほどには知られていないかもしれない。このブログのテーマから離れるが、鳥取県立図書館が『郷土文学者シリーズ③ 田中寒樓』を本年5月発行したことと、寒楼と妙好人因幡の源左(いなばのげんざ)と民芸運動の創始者・柳宗悦(やなぎむねよし)の3人について述べている「とっとり豆知識」というサイトのアドレスをご紹介しておこう。
http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/topics/468_2.htm
 




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