2008年7月28日月曜日

ことば拾い:アラフォーの女、他

アラフォーの女
「日経ビジネスオンライン」(NBonline)を講読している。
どうして、ごうなのような無職のじぃじぃ(GG)がそんなものを読んでいるの?――と不審に思う向きもあろうから一言弁明しておくと、結構年寄り向きの記事もあるんです。書評欄もいい。今朝も「毎日1冊!日刊新書レビュー」欄で【みんな、自分の話がしたくてしょうがない~『煩悩の文法』定延利之著(評:三浦天紗子)】という、ちくま新書を紹介していて、面白そうだから、今度本屋で手に取ってみよう、と手帳にメモした。閑話休題。

三日四日前、この「日経ビ―――」で、[白河桃子の「“キャリモテ”の時代」]というシリーズ物をなにげなくのぞいてみて驚いた。アラフォー女性・エコ王子・草食系男子・三高女子……、なんじゃ、こりゃ!?
ようするに、終わりに近づいてきたらしいTBS系のテレビドラマを見ていれば、直ぐに分かる言葉らしい。

ここでは、「アラフォー」という言葉を取り上げてみたい。「アラウンド・フォーティ=around forty」で「40歳くらい」あるいは「40歳前後」くらいの意味に使っているらしい。
なにもカタカナ語を使う必要はない。なによりも省略のやり方が、乱暴で無神経だ。around をアラ(about をアバ)なんて、わかりっこない! さらにかりに数字だと分かっていても、フォーと言えば4しか意味しない。fourteen も forty も意味することはできない。
調子に乗ってアラサーもできてるらしいが、このサーもさぁ、13か、30か、さぁ、わからねぇ。
日本語も省略の「高三女子」や「中一男子」は分かるが「三高女子」は分からない。GGなどは、昔の第三高等学校に男装の女子学生が潜り込んでいたのかとおもったりする。

昨夜、阪神は中日に4-6で敗れたが、夜10時台のNHK総合の〈サンデースポーツ〉が絶好調阪神の下柳、矢野、金本の3選手を特集していた。その中で女性アナが「阪神タイガースのアラフォー・トリオ!」と叫んだ。
これは、まあ、う~ん、許せる!

「購読」と「講読」
前項の最初の一文を見ていただきたい。「講読」という言葉を使っている。国語事典を引けば、「講読」とは「書物を読み、その意味・内容を解説したり、論じたりすること」と書かれている。
「購読」とは「書籍や新聞・雑誌など買って読むこと」である。
GGは、PCを使い始めてから、この「こうどく」という言葉にいつもこまっている。たとえば、次のサイトにこうある。 
 http://homepage2.nifty.com/datey/koudoku.htm

メイルマガジンを講読するって?

最近、本当にあった話を、ちょっとアレンジして書きます。
私が参加しているある会から来たメイル(A)と、それへのわたしの返事(D)のやりとり。

(A)このたび本会では会員にメールマガジンを発行しますので、講読してください。
(D)はい、購読なら有料でしょうから、購読料はいくらでしょうか。
(A)貝ヘンの「購読」ではなく、ゴンベンの「講読」ですから、無料です。
(D)「購読」のお書き間違いと思いましたので、お尋ねしました。失礼をお詫びします。
しかし、「講読」とは、それを読みながら講義をすることですから、そのマガジンは「講読」するほどのレベルの高い内容なのですね。それが無料ならば喜んで配信を受けましょう。
(A)「講読」とは、インタネット慣用語で無料購読のことをいいます。(この文の強調は、引用者)

思うに、英語の 動詞 subscribe 、名詞 subscription に両義があるために、現状のようなことになっているのだろう。
いずれにせよ、購読料なり、有料と明記されていないかぎり、無料であると判断して、必要な記入事項などを書き込み、申し込んでいる。

このブログの右のサイドバーにも「このブログをメール講読する」(今日は、一番上にもってきています)という窓があります。アドレスを記入して[講読する]というボタンをクリックしていただけば「らむぶらー」に新しい記事が出るたびに、あなたのアドレスにそのことをメールでお知らせしてくれます。むろん無料です。解約も簡単にできるはずです。

少し下の[文字拡大ツール]も「中」をクリックすればブログ内の文字が拡大してずっとよみやすくなります。ぜひ活用してください。サイドバーにはお金のかかるものは何もありません。本の購入は別ですが。










2008年7月27日日曜日

今朝の「当世キーワード」から

今朝のNHKラジオ第1の「当世キーワード」から二つ。

【少人数婚】【少人数ウェディング】ともいう。大金を投じて,高級ホテルの宴会場に多数の客を集める披露宴のばかばかしさを反省し、来客の負担をおもんぱかってか、と思ったが、必ずしもそうではないらしい。
レストランを借り切ったり、邸宅風バンケット(晩餐会)だったり、ホテルの特別ルームを使用したり、非日常を楽しむリゾートウェディングや二部制ウェディング等々、招待客の人数は減っても負担は増加する傾向もあるらしい。

【夫婦別寝】これまた【夫婦別床】ともいう。ダブルベッドをシングルに替えることではない。互いに別室で寝ることを指す。
これは合理的だ。互いのイビキや寝言にわずらわされることもなく、ふと目覚めて眠られず、ラジオの「深夜便」を聞こうが、スタンドをつけて読書しようがたがいに迷惑をかけるわけじゃない。
NHKの大河ドラマ「篤姫」が若い女性を中心に大人気で、「家定を死なせないで!」と無理なことを言う者もあるらしい。まあ、大奥なんて、最高の夫婦別寝かも。



2008年7月25日金曜日

相手は決まった、木更津総合だ!

鳥取西高の相手が決まった。今日、東千葉代表となった木更津総合高校だ。東海大望洋を2―0で破って、5年ぶり2回目の夏の甲子園出場だという。明朝の新聞は、23回目出場の古豪対新鋭の対戦などと書くかも知れない。

asahi.com の[高校野球]のサイトによれば、3人の投手がそれぞれ任務を果たし、攻撃面では平均打率3割7分を越える強力打線だという。

鳥西も、小幡、鈴木、壱岐の3投手を擁し、チーム打率は3割6分6厘、1試合平均の得点は8.6点。恐れることはない。堂々と勝負し、初戦を勝利してもらいたい。

鳥西では、今日、全校生徒が参加して野球部の壮行会が行われた。
8月2日は、甲子園で応援するぞ!!






2008年7月23日水曜日

鳥取西高、甲子園へ!

やったぞ、鳥取西高、3年ぶりの快挙!

第90回全国高校野球選手権記念鳥取大会最終日の7月21日、鳥西は鳥取城北を2-1で降して、3年ぶりに23回目の優勝をかちとり、甲子園へ駒を進めることとなった。

今年の県大会は、倉吉市営野球場で4月12日に開幕した。昨年秋の大会では準優勝しながら今春は初戦で敗退して、シードもされなかった鳥西は、14日の1回戦で日野を12対0(5回コールド)、16日の2回戦で米子工を8対0(7回コールド)、17日の準々決勝で境高を8対1(8回コールド)、18日の準決勝では東部地区の4校が残り、春の優勝校、鳥取商に13対6で圧勝した。

雨で一日延びた決勝戦は、今春の選抜で健闘した八頭高を準決勝で5対0で破った鳥取城北との対決となった。エースの木島はすべての相手チームを無得点にシャットアウトしてきていた。
試合は1点を争う投手戦となった。6回の裏1点を先取された鳥西は同点となるスクイズに失敗して得点できないまま、9回の表の最後の攻撃となった。3番鈴木、4番壱岐の連続ヒットで1死1、3塁、一打同点のチャンスにキャプテン小幡の一打は左中間2塁打となり逆転。
今大会全試合に登板した鳥西の鈴木は9回裏の城北の攻撃をぴしゃりと押さえて甲子園への夢を実現させた。

今年の甲子園での全国大会の組み合わせ抽選は日程の関係で各地の決勝戦直後のグラウンドで行われた。
決勝打を打った小幡がキャプテンとして選んだ札は5番だった。相手校は不明であるが、大会初日の第3試合になった(この予定は変更されることもあり得る由)。






2008年7月17日木曜日

ことば拾い:チンプンカンプン

古い手帳を整理していたら、あるページに目が留まった。日付は1995年4月17日である。

場所は市内の弥生町にある〈渚〉というバー。カウンターでひとり飲んでいると、マスターがある植物を目の前において「これ、知っとられるかな?」と、笑いながら言った。
「あゝ、チンプンカンプンだ!」
「そうです。そう言ようりましたなァ。槇(マキ)の実です。」
マスターはわたしより二つ三つ年上だが、同じ世代といっていい。この実を見るのは、この時から数えても半世紀ぶりだった。

当時、醇風国民学校の正門は、鹿野街道に面しており、門を入ると校庭がひろがっていて、校舎は左手にあった。校門からまっすぐ校庭を横切ると校地の境になっている生け垣だった。現在の講堂と玄好町の間にある道路のあたりだ。この生け垣にチンプンカンプンの木が何本も植わっていた。

ひところ、団子三兄弟という歌が流行ったが、倉吉の土産物の打吹団子を知ってる人はそれを思いだして欲しい。ただし、団子の大きさはせいぜい大豆くらいである。団子の色はそれぞれ違っている。
こんなことを書き連ねても読者にチンプンカンプンをイメージしていただけないだろう。写真を見ていただくのが早いことは承知の上で、そうしたのは、わたしの記憶の中ではそうだったからだ。
では写真を見ていただこう。写真のアドレスもご紹介して、御礼を申し上げたい。まずは、打吹団子。
http://www.kouendango.com/history.html
続いて、マキの実の写真2枚。このサイトには9枚の写真があるので、ぜひ訪問して、ご覧下さい。

http://www.hana300.com/inumak1.html

ご覧の通り、「団子」は二つだったのだ。上が実(種)で、下が果托とか果床と呼ばれている部分で、これを食べると甘みがあるという。(食べたことはなかった。)
なぜ記憶のなかでは「団子」は3~4個くらいだったのか。実際のマキの実は二つの色が成長段階で変わるのだそうだ。色が二種類ではなかったので、記憶の中の実の数が増えたのだろう。

最後に、チンプンカンプンについて。チンプンカンプンとは、変換できないが、辞書にはちゃんと出ている。漢字で書くと「珍紛漢紛」、チンプンカン「珍紛漢、珍糞漢、陳奮翰」ともいう。
[儒者の用いた難解な漢語に擬した造語。あるいは外国人の言葉の口まねからともいう]人の話している言葉や内容が全くわからないこと。また、そのさま。例:「きょうの話はとてもむずかしくてチンプンカンだ。」「ロシア語は全くチンプンカンプンだ。」(『大辞林 第二版』より)
〈渚〉のマスターは、亡くなってしまった。
それにしても、昔の小学生はムヅカシイ言葉を知ってたんですねえ。




2008年7月10日木曜日

鳥取のむかしばなし

2008/07/10(木)
梅雨も明けたような天気なので、近くのスーパーで助六寿司の弁当を買って、久松山の二の丸へ行ってみた。かれこれ10年ぶりになろうか。
携帯電話で撮った写真を3枚、お見せする。目が悪い上に、腕も悪いので結果はご覧の通りだが、お許しいただきたい。

【写真1】お堀にかかっている擬宝珠(ぎぼし)橋から見るとたくさんの鯉に驚く。わたしたちが高校生だった頃はまだ堀全体に蓮が植わっていて、野球部の一年生たちは、グラウンドの網のフェンスを越えて堀に落ちたボールを、探して拾い上げるのに苦労していたものだ。現在は、別の場所に野球部専用の練習場ができているから、そんな苦労があったことなど、今の生徒たちはまったく知らないだろう。

【写真2】二の丸から見下ろした鳥取西高の正面玄関。右手の屋根が、体育館、その後方と、左側・正面の二つの高い建物は、鳥取県庁。生徒だった頃、ここへ登って弁当を食べたものだが、その当時はまったく違っていた。正面玄関の位置は同じだが、旧鳥取一中の木造校舎だったし、右手には奉安殿の跡があった。

【写真3】二の丸にある稲荷神社。桂蔵坊という狐がまつられている。桂蔵坊は賢くて、足の速い狐で、鳥取―江戸間を三日三晩で往復して、藩の大切な使いをしていたという。幼稚園の頃、祖母から何度も聞かせてもらった昔話のひとつだった。
県立博物館主催の「鳥取県の民話を聞く会」で、石山易枝さんの語っている動画が見聞できるので、次のアドレスをクリックしてください。鳥取弁もきかれますよ。
http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/156392/keizoubou.asx

ごうなは、ここで一句!!???   遠き日や老いたる祖母の春炬燵

【追記】久しぶりに母校の校舎を眺めて懐旧の情を抱いたのだが、翌11日の新聞で、この日、小幡義之先生が94歳でお亡くなりになったことを知った。かつての同僚であり大先輩だった。今夏も街に流れるであろう「きなんせ節」の作曲者でもあった。ご冥福をお祈りする。







2008年7月9日水曜日

美空ひばりが歌った「一本の鉛筆」

今月1日の朝日新聞に、
響け ひばりの「反戦」 CD化 広島で再発信
の見出しで、署名記事が掲載された。1974年の夏、広島テレビ主催の第1回広島平和音楽祭で、美空ひばりが歌った「一本の鉛筆」という歌のことだ。
最初に歌ってから14年後、死の前年に、ひばりは再び広島でこの歌を歌った。テレビでこの歌を歌っているひばりを見たのは、このとき、1988年の夏、であったと思う。
いい歌だと思った。ひばりにこんな歌があったのか、と驚いた。彼女はこの歌を自分の好きな10曲のなかの一曲に挙げていたという。
今回の記事は、今年3月、奈良岡朋子がテレビでこの詩を朗読したのをきっかけに、この歌が今月末にCD化されることになったことで、書かれている。

このことにふれているブログなど、多いだろうな、とおもいながら、検索してみたら、あるわ、あるわ、今回の朝日の記事のあとでも、ずいぶんある。
ここでは二つのサイトだけをご紹介しておく。

◇朝日新聞の記事(所によっては前日の夕刊)の全文は
http://www.asahi.com/showbiz/music/OSK200806300082.html
◇この歌の歌詞と、楽譜は
http://bunbun.boo.jp/okera/aaoo/ippon_enpitu.htm




2008年7月7日月曜日

ことば拾い:カレセン

いつの頃からか知らないが「カレセンという言葉が流行っているそうな。
ウェブ上にある亀井肇さんの【新語探検】によれば、

漢字で書くと「枯れ専」。50~60歳の「枯れたオジサン」たちに惹かれる30代の女性をさす。いわゆる「ちょいワルオヤジ」ではなく、本当に枯れているオジサンが好きなのである。彼女たちが「枯れた男の魅力」として挙げるのが、「一人の時間をもてあまさない」、「路地裏が似合う」、「ビールは缶より瓶」、「ペットは犬より猫が好き」、「一人でふらりと寄れる行きつけの店がある」、「さりげなく物知り」、「金や女を深追いしない」、「人生を逆算したことがある」、「自分の年齢を受け入れている」などである。若いときは自分の世界に没頭して独身だったのが、老いて輝くのである。出版社のアスペクトは『カレセン』と題した単行本を出している。

ここで紹介されている単行本の広告を下に載せておく。クリックして Amazon へ行き、同じ表紙写真の下の「この本の中味を閲覧する」をクリック、さらに「目次」をクリックすれば、カレセンたちのお気に入りの対象である(or らしい)著名人の名前も出ています。

さて、今日はごうなの誕生日。〈枯れ過ぎたじいじい〉としては、ふてくされて、遊んでみよう。

――ヨ・セ・婆ッ派 作曲「爺専場の在りや?」てぇのはどう?
――そんなもの、ないよ。
――ああ、そう。

カレセン―枯れたおじさん専科
カレセン―枯れたおじさん専科アスペクト

おすすめ平均
starsど真ん中
starsアンチ・アンチエイジング & アンチちょいワル。

Amazonで詳しく見る by G-Tools


ことば拾い:敵性語

新潮社が従来の文庫に加えて、[新潮OH!文庫〕を創刊したのは、2000(平成12)年の10月だった。過日、本棚の整理をしていたら、この文庫の発売に先駆けて作られた文庫版サイズ・44ページの宣伝用パンフレットが出てきた。一斉に発売される50冊が掲載されている。
その中の一冊が、この写真の、現代用語の基礎知識/編『20世紀に生まれたことば』だ。

下の写真ではよく見えないが、表紙写真の左側上に、取り上げられた言葉のごく一部が縦書きされていて、2行目に、40年【敵性語】とある。つまり、1940(昭和15)年に使われはじめた「敵性語」という言葉を取り上げているのだ。

この言葉は現在は死語である。広辞苑にも大辞林にも載っていない。ただ「敵性」という言葉はあって、
「敵国または敵国人である性質。戦争法規の範囲内において、攻撃・破壊・掠奪および捕獲などの加害行為をなし得べき性質。「―国家」(広辞苑)

こんな恐ろしいことが書かれている。つまり「敵性語」とは、攻撃、破壊してもいい、いや、そうすべき「敵性国家の言語」というわけだ。

映画「姿三四郎」のなかでも書いたように、ごうなは1941(昭和16)年に国民学校に入学した。すでに中国と戦争をしていたが、この年、米、英、オランダとの戦争も始めた(この敵国4カ国を指す「ABCD対日包囲陣」という言葉もあったっけ)。
漢字も中国から学んだものだが、これを敵性語・敵性文字だとしたら、新聞も読めなくなるし、教育勅語だって校長先生が「奉読」できないではないか。敵性語とは、カタカナ語を指した。しかし、オランダ語にしても、英語にしても江戸時代からわれわれの「蒙」を啓くためにどんなに役立ってきたことか。それを「敵性語排除」とは、まことに児戯に等しいことだ。

当時、醇風国民学校では、いろいろな式典の他に毎週月曜日に朝礼があって、全職員生徒が講堂に集合し、校長訓話があった。それに加えてレコード鑑賞もあった。
どんな曲を聴いたかまったく記憶がない。ただ、いつも先生方は生徒を横から眺めるように一列横隊に並んでいたのだが、その時間が来ると男性のK先生が一歩前へ出て「おんばんかんしょ―(音盤鑑賞)」と宣告したのをはっきり覚えている。

よく漫才などで、当時の野球は〈セーフ〉を〈よし〉、〈アウト〉を〈ひけ〉などと言ったと笑わせているが、われら「少国民」は野球はやらなかった。だが「敵性語」を完全に排除することができるわけがない。
夏には〈アイスキャンデ―〉をしゃぶり、冬には〈スキー〉をやった。3年生のときには〈グライダ―〉を作ったし、上級生たちは〈プロペラ〉機を作り〈ゴム〉を巻くのに〈ワインダ―〉を使う者もいた。戦争映画だって「加藤隼戦闘隊」は「〈エンジン〉の音ゴウゴウと隼は行く」と歌い、「轟沈」の主題歌には「青い〈バナナ〉も黄色くうれて」とあって、僕らの口は唾でぬれた。
1943(昭和18)年9月10日の鳥取大地震の後では、あちこちで〈ジャッキ〉が活躍したし、たくさんの〈バラック〉が建設された。
戦時中も「敵性語」はしぶとく生きていたのである。

現代に至っては、かつての「敵性語」は百花繚乱。
今日もどこかで〈××× in 鳥取〉が客を招いている。

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2008年7月6日日曜日

ことば拾い:ひるすぎ

NHKラジオ第1で、毎週日曜日の午前5時半すぎに、亀井肇さんの「当世キーワード」という数分間の番組がある。毎回、当世の流行り言葉を五つ六つ紹介、解説する。
6月29日は5回目の日曜日で、亀井さんの番組はなく、NHK現代ことば研究室(正式な名称は失念)の某氏(お名前も失念)が登場。この研究室で、「ひるすぎ」という言葉は具体的に何時頃を指すと思うか、電話で無作為抽出調査した。その結果(これまた、極めておおざっぱに言うと)、高齢者は12時から12時15分くらいまでを指すと答えた。若い年齢層の答えは12時半近くから13時過ぎの間と、かなり時間帯の幅が広がったという。この結果について、報告者は、若年層の答えは学校や会社で実際に昼食をとる時間帯のイメージが強いのではないか、と述べていた。

さて、「ひるすぎ/昼すぎ」を辞書で引くと「正午を少し過ぎた頃」とある。
ところが、「昼」を調べると、「①日の出から日没までの太陽が昇って明るい間、ひるま、日中。②まひる。正午。また、その前後。午時(ひるどき)。③ひるめし、昼食。」とある。
さらに、十二支の「午(うま)」は方角では「南」、時刻では「真昼の12時、あるいは午前11時~午後1時の間」を指す。

だから、年配者の使い方も若年層の使い方も間違いではない。しかし、人によって受け取り方が違うのでは不都合が生じうる。結局、「正午過ぎ」「12時半頃」「1時過ぎ」などとより明確な言い方をするべきか。

さて、今朝は第1日曜日。亀井さんが登場しましたよ。次の五つを紹介。皆さん、いくつ分かりますか?
ファッションセラピー、PTCA、ネリカ米、猫カフェ、脱メタボ体

2008年7月5日土曜日

映画 「姿三四郎」 2/2

先回、映画「姿三四郎」について覚えているのは、それぞれ、最初と最後に近い二つの場面しかない、と書いた。今回、65年ぶりにテレビでこの映画を見たとき、ほとんどの場面を、ああそうだ、こんな場面があったと思い出した。しかし、えっ、こんな画面があったんだ、と驚いた画面もいくつかあった。
出演者について言えば、藤田進(三四郎)と敵対する月形龍之介(檜垣源之助)の二人だけはしっかり覚えていた。
和尚役の高堂国典と柔術師範の志村喬はすぐに分かったが、修道館柔道の師範、矢野正五郎の大河内傳次郎は、時代劇でよく見た彼とは、顔も声も若々しく、「これが大河内傳次郎?」とすぐには分からなかった。
女優は、轟夕起子花井蘭子の二人きりだが、この映画に出演していた記憶は全くなかった。

何度も映画化されている小説に、吉川英治の『宮本武蔵』がある。あれは高2の夏休みだったと思う。市内の映画館で古い『宮本武蔵』映画が何本か立て続けに上映されたのを見に行ったことがある。お通役が轟夕起子と相馬千恵子の2本を見た記憶がある。当時知っていた轟夕起子は、丸顔で太り気味の女優だったから、若いお通の美しさに驚いた。(調べてみると、二人がお通を演じたのは轟が昭和12年、相馬は18年である。)
テレビで見た『姿三四郎』の轟夕起子も若くて、美しかった。

思い出話はこれくらいにしておこう。
佐藤忠男の労作に『日本映画史』全4巻がある。吉川英治の『宮本武蔵』は、戦前から戦後までなんども映画化されているが、佐藤は『宮本武蔵』と『姿三四郎』の類似性をこの中で指摘している。
扱う時代は江戸時代と明治の違いはあっても、「若くて純情で粗野で強すぎて求道的な」三四郎に「精神的な豊かさを与えようとする師の矢野正五郎と寺の和尚は沢庵、三四郎が惚れてしまう試合の相手の柔術家の娘(引用者注:轟夕起子)はお通、そして三四郎の前には対決しなければならない敵の柔術家たちがつぎつぎと現れて決闘に次ぐ決闘になり、その間、三四郎は、たんなる猛者から、ゆとりと内面的な深味のある真の強者へと成長してゆく。」
そしてこの小説(引用者注:富田常雄『姿三四郎』)は、みずみずしい鮮やかな技巧で映画ファンを唸らせる彼の素晴らしいデビュー作となった。一九四三年、すでに戦争は敗色があきらかになっていた頃である。これはしかし、非常に元気のいい映画だった。黒澤明監督は、この映画を、見事なエンターテインメントとしてつくりあげた。その面白さの第一にあげられるのは、何度もある柔道の闘争や試合の場面のアクションである。ひとつひとつの闘争が、それぞれ違った柔道の術で処理される。しかも、それらはすべて、ただむやみに激しく闘うのではない。はじめは静かに向かい合い、気合いを計り、最良のタイミングで行動が始まると、一瞬にして意表をつく激しい動作が生じてヒーローが相手を投げとばす。あるいは、ヒーローが何度投げられても決して転ばず、軽業のように立ち、さいごに鮮やかに相手を投げとばす。静と動、その間合い、その繰り返しのリズム、それらの巧みな演出が、これらの格闘場面にそれぞれに美しいスタイルを与えていた。
この映画の主役に抜擢された藤田進は、がっしりとした体つきに無骨な顔、朴訥な喋り方、野暮ったい動作など、すべての点で、これまでの二枚目の重要な条件だったスマートさとは遠く、コケの一念とでもいう感じで命令されたことを徹底的に忠実にやりとおすような芝居がよく似合う俳優だった。スターになると、つぎつぎと軍人役を与えられ、『加藤隼戦闘隊』(一九四四〉では、豪胆で沈着な戦闘機部隊の隊長を好演した。ときには激しく部下を叱咤するこの隊長が、ときにはまた、ガキ大将ふうの人なつっこい笑顔を見せるあたりが独特の持ち味で、これぞ、どんな無茶な命令にも耐えてニッコリ笑って死んでいける模範的な帝国軍人と思えた。(注1)
注1.佐藤忠男『日本映画史 2 1941-1959』増補版 岩波書店 2006/11/10 pp.63-64