2009年12月31日木曜日

サヨナラ、2009年

今年もいよいよ暮れていく。
「昭和十六年十二月八日」は、今日で終えることができたけれど、「鳥取を愛したベネット父子」は未完のままである。新年の1月中には終えたいと思う。

今夜は、NHKテレビで恒例の「紅白歌合戦」があるけれど(もう60回にもなるんだね)、
中島みゆきの「重き荷を負いて」でもPCで聞くとしょう。
足元の石くれをよけるのが精一杯
道を選ぶ余裕もなく 自分を選ぶ余裕もなく
目にしみる汗の粒をぬぐうのが精一杯
風を聴く余裕もなく 人を聴く余裕もなく
まだ空は見えないか まだ星は見えないか
ふり仰ぎ ふり仰ぎ そのつど転けながら
重き荷を負いて 坂道を登りゆく者ひとつ
重き荷も坂も 他人には何ひとつ見えはしない
まだ空は見えないか まだ星は見えないか
這いあがれ這いあがれと 自分を呼びながら 呼びながら
【映像】↓
【歌詞】↓

そうだ、大川栄策の「昭和浪漫~第2章~」もまた聞いてみよう。

では、よいお年を!!

昭和十六年十二月八日⑦最終回

なぜ横山艇についての報告が見あたらないのか?
なぜ今回発見された横山艇は、三つに分断されているのか、なぜそれぞれの部分にチェインやワイヤーが乱雑に巻き付けられていたのか? 

今回の調査に同行した軍事評論家のパークス・スティーベンスンさんは米海軍が戦争中に引き上げ、切断して捨てたのだと、推定した。
開戦直後、米国では、なぜ日本軍の真珠湾攻撃を許したのか、議会を中心に、調査や検討が行われていた。そういう最中に横山艇は発見されたのではないか? 米軍艦艇による敵潜水艦発見の通信が米海軍司令部に無視されたこともあった。追求を免れるための隠蔽だったのではないか、という。日本が軍神として騒いでいても、われわれにとっては何でもないのだということを示すためだったかもしれない、ともいう。

徹底的に分解調査された酒巻艇は、復元されて米国中を巡回した。戦意高揚のために利用されたのだ。ルーズベルト大統領も「見物」し、六千万ドル以上の戦時国債を売ったという。
一方日本では、捕虜になった酒巻少尉を消し去り「九軍神」を作った。軍部のなかには酒巻が自殺することを望む者もいたという。事実、彼自身二回自殺に失敗している。酒巻は米国で得た情報を手紙で遺族に知らせたりもしている。
(『九軍神は語らず』の巻末にある《主要参考文献》の中に『捕虜第一号』新潮社 1949、『俘虜生活四ヶ年の回顧』東京講演会 1947 があげられているが、いずれも未読である。)

米国においても、日本においても、彼らはプロパガンダに利用されたのだ。
日本では、軍人、学者、小説家、が競うように「九軍神」を讃える文章を書き、歌人、俳人、詩人たちも讃歌をつくった。
かつて、個人紙に今回と同じテーマをとりあげた。そのとき引用した文章を今回も引用しておきたい。幸田露伴の孫、青木玉の『小石川の家』からの引用である。
 …どんなに 祖父が怒っても戦争は拡大し、中国各地に兵は進められて行った。親類の甥達は召集を受け、近所で毎日のように御用聞きに来ていた魚屋の息子も炭屋の跡取りも佐倉の連隊へ集められ外地へ行く先も知らされず送り出されて行った。
祖父は自身老いて力なく、国を守るべき息子はとうに先立っている。たまらなかったに違いない。古書を扱っていた人に中国の雲南の地図を取り寄せさせて、新聞やラジオのニュースを聞いて、どこへ兵士が派遣されたか自分も地図の上で道を辿った。この地方はどんな気候で地形はどうなっている。今の季節はどんな風が吹き、雨はどんな降り方をするか、炎熱酷暑、洪水泥濘、ろくな食べ物もなく、風土病に冒されれば全滅の憂き目に逢う。軍を預かる者は何を考えているのだ。古くからこの地であった戦さに、かくも無謀な兵の進め方をした者は無い、と怒りと悲しみで活火山のようになった。遂に真珠湾攻撃の特攻隊、人間魚雷、病んで仰臥したまゝ白髪も、白くなった鬚も震えて、
「ああ若い者がなあ、若い者が」
と号泣し 、私は居たたまれず部屋から飛び出してしまった。(pp.124-125)
露伴翁こそ、あの時代にあって、まともな精神を持ち続けた稀有な人物の一人であったと思う。

最後の特殊潜航艇の艇長となった植田一雄さんは、言った。「十名の若者たちは、わずか一ヶ月足らずの訓練を受けて出陣したのだ。不運にも戦果をあげることはできながったが、それはそれでいいではないか。軍神になぞしなくてもいい。任務を果たすべく、努力を尽くしたんだ。」
植田さんと同じように訓練を受けて出陣した4000名の若者たちが命を捨てた。

68年の歳月が流れた今も、真珠湾沖合い6キロ、水深400メートルの海底に放置されたままの横山艇。植田さんはいう。「あの司令塔に乗っておられたことは、間違いないですからねえ。」

別れるときがきた。植田さんは、遺族や戦友から預かった写真を調査艇の丸窓にかざしながら、呼びかける。「みなさん、お元気で、おふたりによろしくとおっしゃていました。横山さーん、上田さーん、安らかにお休みください……」






2009年12月30日水曜日

昭和十六年十二月八日⑥

5隻の特殊潜航艇のうちい4隻については確認できているのだから、今回発見されたのは、当然、横山艇である。これまで引用してきた『九軍神は語らず』のなかでも、横山艇が開戦日の午後10時41分に「トラトラトラ」を打電したとき、その艇は確かに、「真珠湾内に在ったが、爆雷に悩まされ、二本の魚雷は、すでに発射されていた。死場所を求めて…湾内を三日間さまよったあげく、壮烈な最期を遂げた。」と、牛島秀彦は書いているだけである。

横山艇の母潜水艦、伊十六潜(艦長、山田薫中佐 http://74.125.153.132/search?=cache:DxFqjklK4pQJ:www2.ocn.ne.jp/~srekishi/sensuikantyou.html+%E4%BC%8A%EF%BC%91%EF%BC%96%E5%8F%B7%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%E3%80%80%E8%89%A6%E9%95%B7%E3%80%80%E5%B1%B1%E7%94%B0%E8%96%AB&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp)の電信兵だった岡山在住の出羽吉次さん(90歳)が、このテレビで次のように証言した。

横山さんとは階級は違うが、同い年で、潜水艇の建設段階からいっしょに仕事をした。横山艇が母潜を離れるとき、自分が最後に電話で話をした。元気で帰って来て下さいと言ったら、母潜に戻って「送り狼」
を連れてくるようなことはしない。こちらは二人ですむ。親艦の100人を助けるためにも、絶対に帰ってこない、と答えたという。
出羽さんは、その日ずっと横山艇に波長を合わせて待機していた。夜、10時41分、突然、「キラ」と一回だけ受信した。出羽さんは、日誌に、「キラ」(「トラ」)完受ス、と記入し、その旨通信長に報告して判断をまかせた、という。

映画の題名にもなってみなさんがご承知のように「トラトラトラ」は、「ワレ奇襲ニ成功セリ」の暗号電文でった。モールス信号ではトラは「・・―・・/・・・」だ。キラは「―・―・・/・・・」。つまり、トとキのちがいは、最初の「・」と「―」の1音の違いだ。
いずれにせよ、このキラを大本営はアリゾナ撃沈と結びつけ「九軍神」をでっち上げたのだ。

牛島秀彦も、アリゾナ撃沈は、時間的にも、特殊潜行艇によるものではないことを、ハッキリ言っているが、牛島の死の9年後に、出版された自叙伝のなかで、真珠湾攻撃の総指揮官だった淵田美津雄は次のように書いている。
 私が、十二月二十六日(引用者注:昭和十六年)拝謁で上京していたとき、大本営の潜水艦主務参謀の有泉龍之介中佐が、私のところへやって来て、「淵田中佐、アリゾナの撃沈を特別攻撃隊の戦果に呉れないか」と、もちかけたのである。私は苦笑した。
「別に功名争いするわけではないし、特殊潜航艇は特攻だから、その功績を大々的に吹聴してあげたいのはやまやまだけれどね、アリゾナは無理だよ。それはね、アリゾナはフォード島東側の繋留柱にかかっていたのだが、その外側にヴェスタルという工作艦が横付けしていたので、アリゾナには魚雷は利かなかったのだよ。従って特殊潜航艇の魚雷による轟沈などと発表したのでは、あとあと世界の物笑いになるよ」
 有泉中佐…は憤然として出て行ってしまった。(注1)
今回の調査の際、特別の許可を得て、二人の潜水夫が沈んでいるアリゾナの側面を調べたが、魚雷の当たった痕跡は発見できなかった。
また、横山艇についての記録はアメリカ側には全くない、というか残されていなかった。次回、最終回で述べたい。

注1 中田整一編/解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』
  講談社 2007年12月8日発行 p.140
  テレビでは、淵田の自筆原稿を紹介していた。




2009年12月24日木曜日

昭和十六年十二月八日⑤

第②回の冒頭に書いたように、今月6日の夜、NHKスペシャルがアメリカ公共放送WGBHとの国際共同制作「真珠湾の謎~悲劇の特殊潜行艇」を放映した。

17年前、ハワイ大学の海洋調査船が真珠湾沖合6キロで、偶然、日本海軍の特殊潜行艇の残骸を発見した。今年3月、日米の共同調査団がこれを調査することになった。使用された深海調査艇は、水深2000メートルまで10時間潜水可能で、水圧に耐えるカメラも装備していた。
搭乗できるのは三人で、日本人は植田一雄さん(83歳)が参加した。

真珠湾攻撃から2年後の1943年12月8日に封切りされた松竹映画「海軍」は、真っ先に真珠湾へ突入した横山正治少佐(軍神となって二階級特進)をモデルとしたもので、大本営海軍報道部が企画したものであるが、植田さんは、この映画を見て感激し、16歳で海軍兵学校に入学した。
特殊潜航艇は改良され、5人乗りの「蛟龍(こうりゅう)」となり、植田さんは艇長となって、特攻訓練を受けたが、戦後は、海上自衛隊を経て退役した。

深海調査艇は、水深380メートルのところで特殊潜航艇らしきものを発見、植田さんは、8の字のネット・カッターを確認して、日本海軍の特殊潜航艇だと断定した。さらに二本の魚雷は発射されており、これこそが横山艇に間違いないと言った。

もう一度、開戦時の真珠湾に戻る。
真珠湾からはるかに離れた裏オアフのベローズ・ビーチ沖合いのサンゴ礁に座礁した酒巻艇は、翌朝発見され、米軍によって分解され徹底的に調査、研究された。

水上機母艦カーチスと応急出動艦モナハンに魚雷を発射した岩佐艇は、その2隻によって撃沈され。2週間後引き上げられたが、損傷があまりにも大きかったので、「葬送の儀式を行ったうえ、…乗員二名の遺体を収めたまま当時建築中の潜水艦基地の基礎固めに用いられた。」「1947(昭和22)年3月、ハワイの米軍当局は、遺品として、真珠湾底の泥にまみれた海軍大尉の袖章を日本に送還、遺族(特別攻撃隊隊員中、大尉は岩佐直治隊長のみ)に送付された。」(『九軍神は語らず』 p.78&79)

前回、X-1艇とした特殊潜航艇は、「1960(昭和35)年6月13日、真珠湾湾口からダイヤモンド・ヘッドへ向かって、1.8キロ、深さ23メートルの海底から引き揚げられた。」「牡蠣(かき)が艇全体に付着して、艇番号もわからず、司令塔に砲弾痕…電池室付近に爆雷攻撃を受けた痕跡があるほか、艇体の破損は少なかった。/二本の魚雷は装着されたままで、未発射。その火薬は、約十九年間も海底にありながら、有効だった。/衝撃的なことは、艇内に、二名の乗組員の遺骨、遺歯がなかったことだ。遺留されたものは、作業衣一着、靴一足、一升瓶一本のみで、艇内は整理されていた。/…米海軍当局は、『搭乗員は沈没と同時に艇外に脱出、逃亡したものと推測される』とした。」(同上書 pp.73-74)
さらに、「司令塔ハッチの掛金が内側からはずされている」という米側の報告と、万一の場合には浮上上陸して敵陣に切り込むために、携行する日本刀と拳銃も艇内になかったことから、牛島秀彦はこう推測している。「搭乗員二名は、艇を浮上させ、司令塔ハッチを開いて、斬込みを敢行せんがために、海上に脱出した。」さらに、「真珠湾湾口からわずか一・八キロ。この海域は、裏オアフの海上とは違って波浪も穏やかで、人喰い鮫もめったに出ない。/また脱出したと見られる時刻には、未だ日本機による空爆も始まっておらず、海は、“平穏で、すばらしいハワイの海”なはずである。/…たかだか一・八キロの沖合いから陸地めざして泳ぎつくことは、『帝国海軍の遠泳の訓練』に比べれば、全く文字どおり屁の河童(ヘのカッパ)ではないか。/…オアフ島で、日本海軍軍人による斬込事件はない。/事実は小説より奇なり―。『九軍神』中二名(もしくは一名)が、脱出に成功をなし、ずうっとハワイの人となって生きつづけている可能性はある。」(同上書 pp.74-75)

日本軍の空爆の始まる前、6時45分にウォードが撃沈したX-1艇は無人だったことになる。このX-1艇は、1961(昭和36)年夏、日本に返還され、原形に復元されて、海上自衛隊第一術科学校教育参考館に安置されている。(同上書 p.73)

開戦当日の朝、巡洋艦セントルイスを湾口で魚雷攻撃したX-2艇は、魚雷を危うくかわしたセントルイスによって撃沈された。この艇は2002年に引き上げられている。

したがって、今回発見された特殊潜航艇は、横山艇ということになる。

2009年12月15日火曜日

昭和十六年十二月八日④

時計を逆戻りさせて、4隻の伊号潜水艦が真珠湾湾口に逆扇形に並んでいたところへ戻ろう。(以下「0012」のように、4桁数字で表示しているのは、現地時間で「午前零時12分」をいう。)
もう一つ付記しておく。これから書く内容は、ほとんどすべて、牛島秀彦の『九軍神は語らず』(講談社文庫)によっている。その親版は、1976年11月に講談社より刊行されている。これは、たいへんな労作で、今回のテレビ番組もこの本によるところが少なくないだろうと、思っている。

12月7日、5隻の母潜水艦から5隻の特殊潜航艇(甲標的)が真珠湾内に向かって発進した。
0042、横山艇。0116、岩佐艇、0215、古野艇。0257、広尾艇。0333、酒巻艇。
湾口は潜水艦の進入を防ぐための防潜網が下ろされていて、米軍の艦船が出入するたびに上げ下げされていた。そのため、潜航艇の前面には8字型のフェンス・カッターが取りつけられていた。彼らは、湾内侵入に成功しても、0800に始まる日本空軍の爆撃が終了するまでは海底で待機し、その後、残存している敵艦船に2本しかない魚雷を発射することになっていた。

0342、湾口付近で作業中の米掃海艇の1隻が、外方3.2キロの海面に小型潜航艇の潜望鏡を発見、付近を哨戒中の駆逐艦ウォードに発光信号。同艦は30分間付近の海上を捜索したが何も発見できなかった。潜望鏡発見の時刻、状況からして、横山艇であったと思われる。
0500直前に掃海艇を入港させるため、防潜網が開かれ横山艇が侵入したと考えられる。

0633、哨戒からもどる途中の偵察機がまたもや国籍不明の小型潜航艇を発見、位置を明確にするため発煙弾二個を投下した。その艇は工作船アンタレスの後ろをぴったりとつけて、湾内に侵入しようとしていた。
駆逐艦ウォードが現場に急行、0645、その艇に90メートルの至近距離から発砲、第2弾目を司令塔に命中させ、さらに爆雷攻撃を加えて沈没させた。
アメリカ海軍は、0756に開始された日本機による奇襲より1時間早く、日本海軍の秘密兵器を撃沈した。(ここでは、この艇をX-1艇としておく。)

0730、日本軍機の空爆開始直前に、駆逐艦ウォードの音波探知機が、新たな挙動不審の潜航艇をとらえた。ウォードは激しい爆雷攻撃を浴びせ、潜航艇はかなりのダメージを受け、多量の油を漏らしながらも追跡を逃れて、湾口攻撃を断念、空爆を避けて湾外へ脱出をはかる米艦をねらった。
1000頃、湾口に姿を現した巡洋艦セントルイスに魚雷二本を発射したが、危うくかわされて、魚雷は水道入口のサンゴ礁にあたって爆発した。
魚雷を二本発射すると、潜航艇の艇首は急に軽くなって海面に跳ね上がり、司令塔までが海上に浮上する。今度はセントルイスが司令塔を砲撃し、ルード船長はこれを撃沈したと、判断した。この撃沈された艇をX-2とする。

0835、応急出動艦モナハンは、日本軍機の空爆中であったが、湾内を航行中、信号兵が、水上機母艦カーチスが「敵潜水艦発見」の信号をあげていると艦橋に報告した。カーチスは日本機の急降下爆撃を受け、甲板上は火の海になっていた。まさか、と思っていたモナハンの艦長に「あの海面に見えるものは何でしょう」と艦橋にいた部下が言った。「どうやら敵潜水艦のようだ」という艦長の言葉が終わらぬうちに、その敵艦がカーチスめがけて魚雷を発射した。至近距離過ぎて魚雷は命中せず、パールシティのドックに命中した。モナハンの艦長はフルスピードを命じ、この潜航艇めがけて突進した。今度はモナハンめがけて魚雷が発射されたが、これもはずれてフォード島の海岸で爆発した。
その間、カーチスは、飛び出すように浮上した潜航艇の司令塔に射撃を浴びせ、艇長を即死させた。フルスピードで進んできたモナハンは潜航艇に激突し、その上を乗り越えた。さらに爆雷攻撃を加え、潜航艇の前部を吹っ飛ばした。無残な姿で撃沈されたのは、岩佐艇であった。

最後に母艦を離れた(0333)酒巻艇は、ジャイロ・コンパスの故障のために出動が遅れていた。そして、無謀にも故障が治らないまま発進したのである。そして0817、真珠湾口水道の東側のサンゴ礁に座礁して、米駆逐艦ヘルムに発見され砲撃を受けた。後進を繰り返しやっと離礁し、砲弾にも当たらず、再び潜航したが、座礁を繰り返し、魚雷発射装置の故障、圧搾空気やバッテリーのガス漏れなどで、艇内の気圧が上昇し、二人の疲労困憊はその極に達していた。真珠湾からはるかに離れた裏オアフのベローズ・ビーチ沖合いのサンゴ礁に座礁したとき、電池が放電しきって進むことができなくなった。上陸を決意した二人は、艇を残し、陸に向かって泳ぎ始めた。酒巻少尉は浜辺に人事不省で倒れているところを、日系二世のデイヴィド・M・阿久井軍曹に捕らえられ、この戦争の捕虜第1号になった。稲垣二曹は、極度の疲労で溺死したか、当時よく出没していた人食い鮫にやられたらしいという。

2009年12月14日月曜日

昭和十六年十二月八日③

ちょっとわき道にそれるが、今回のブログ記事を書くのにモタモタしていたら、昨13日の朝日新聞の【昭和史再訪】が12月8日の太平洋戦争開戦を取りあげて、(ハワイ=石川雅彦)がこんなことを書いていた。

……敗戦による国の崩壊へと突き進む起点が「真珠湾」だった。
 日本からはるか6千キロ。現在でもジェット機で7時間かかる。真珠湾をながめ、私は「よく、まあ、 こ んなところまで」と無謀さにあきれる。
 日本海軍は空母6隻に最新鋭の零戦を載せてハワイに向かった。だがそれは、真珠湾以降を 考えない日本海軍の「総力戦」だった。

引用した部分のなかでも、とくに零戦で真珠湾攻撃をしたなんて、ウソを書いてはいけない。

真珠湾攻撃総隊長であった淵田美津雄の自叙伝(注2)から引用しておく。
 オアフ島に向かう第一波空中攻撃隊の進撃隊形は、私の総指揮官機が先頭に立って、その直後に、私が直率する水平爆撃隊四十九機が続いている。右側に五百米離れて、…雷撃隊四十機…。左側には…降下爆撃隊五十一機…。そして…制空隊四十三機の零戦が、これら編隊軍の上空を警戒援護しながら、随伴しているのであった。(p.110)
二波にわたって発進した飛行機は、360機であった。

注2.編/解説 中田整一『淵田美津雄自叙伝』講談社 2007年12月8日

2009年12月12日土曜日

昭和十六年十二月八日②

去る6日(日)のNHKスペシャルで、「真珠湾の謎―悲劇の特殊潜航艇」が放映された。

1941年11月18日午後8時、大型巡洋潜水艦丙型の伊号潜水艦の4隻が、広島県倉橋島からハワイ真珠湾へ向かって出港した。各艦は特殊潜航艇を搭載していた。もう1隻は搭載する潜航艇の転輪羅針儀(ジャイロ・コンパス)が故障のため、翌19日午前2時16分出港した。
艦名・艦長:特殊潜航艇指揮官・同付は下記の通り。

伊22・揚田清猪中佐:岩佐直治大尉・佐々木直吉一曹
伊16・山田 薫中佐:横山正治中尉・上田 定(かみた・さだむ)二曹
伊18・大谷清教中佐:古野繁実中尉・横山薫範(しげのり)二曹
伊20・山田 隆中佐:広尾 彰少尉・片山義雄二曹
伊24・花房博志中佐:酒巻和男少尉・稲垣 清二曹

特殊潜航艇の10名の出身県は、岩佐大尉・群馬、横山中尉・鹿児島、古野中尉・福岡、広尾少尉・佐賀、酒巻少尉・徳島。佐々木一曹・島根、上田二曹・広島、横山二曹・鳥取、片山二曹・岡山、稲垣二曹・三重。(なお、母艦、伊16号の山田薫艦長も鳥取県出身である。)

士官の最年長は岩佐大尉の27歳、最年少は広尾少尉の22歳で、いずれも江田島の海軍兵学校出身
、艇付の最年長、最年少は佐々木一曹の28歳、片山二曹の24歳だ。

後で改めて紹介するが、『九軍神は語らず』の著者、牛島秀彦は「選別された十名は、いずれも申し合わせたように、…地方出身者であり、都会出身者は、一人もいない。」「彼等の大半は、農家出身で、子だくさんのなかで育ち、貧しく、寡黙で、剛毅木訥型だ。」と述べている。(23ー24ページ)

広島の倉橋島から出航した各潜水艦は、昼間は潜行、夜間は水上航行でハワイを目指した。開戦二日前の12月6日の日没までに、真珠湾湾口から185キロ圏に到達し、夜間に浮上して最後の特殊潜航艇発進準備を完了した。開戦前夜、5隻の母潜水艦は湾口を包むように逆扇型の隊形に並んでいていた。湾口までの距離は10~23キロであった。

2009年12月10日木曜日

昭和十六年十二月八日①

12月8日。「天声人語」は次のように結ばれていた。
▼今日が何の日か知らない若い世代が、ずいぶん増えていると聞く。わが身も含めて4人に3人が戦後生まれになった今、風化はいっそう容赦ない。伝える言葉に力を宿らせたいと、かつて破滅への道を踏み出した日米開戦の日に思う。
翌9日の「朝日川柳」にはこんな句が採られている。
   語りたい八日聞く人誰もいず

天声人語子に励まされ、この川柳に苦笑いしながら、このブログ記事を書く。

昭和16年12月8日(以下日時は東京時間)、午前7時、ラジオは臨時ニュースを伝えた。「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前六時発表―帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」のアナウンスが二度繰り返された。この日は月曜日であったから、醇風国民学校でも宮代校長が朝礼の壇上で開戦を告げ、少国民としての心構えを訓示したはずである。
「はずである」と書いたのは、ラジオの臨時ニュースも校長訓話もまったく記憶にないからだ。

当時の校長訓話がどのようなものであったか、兵庫県の加古川国民学校の「式日訓話記録」から冒頭部分を引用してみよう。12月11日に行われた「対米英戦争宣戦の大詔奉読式訓話」である。
何時になったらば、アメリカ、イギリスに対する宣戦の大詔を拝する事が出来るのかと、我々一億の国民は、実に待ちに待って今日に至りましたが、勿体無くも去る八日、アメリカ合衆国及イギリスに対し、宣戦の大詔を御煥発になりました。
我々国民として、感激此の上もない次第であると存じます。恐らく皆さんや私共が一生を通じて、こうした大詔を拝する事は、これが最後であろうと思います。私はこれで大詔を拝する事は三回目であります。日清日露両戦争と、此の度の対米英戦争と三回であります。
一昨日に、即ち十二月八日、午前十一時三十分、ラジオを通じて、宣戦の大詔が御煥発になった事を知って、只それだけの事を皆さんにお知らせしました。続いて十一時四十五分、宣戦の大詔の奉読あり、東條首相の「宣戦の大詔を拝して」と題する涙のこぼれる様なお話があったのでありました。
幸に十時頃にサイレン吹鳴禁止の命令(引用者注:空襲警報などをサイレンで知らせるため、学校の授業の開始、終了などをサイレンで知らせることを禁止したと思われる。)があったのと同時に、校長室のラジオをかけておいて、仕事をしていたので、この事が一早く知る事が出来、皆さんにお知らせもし、詔書の拝読や、首相のお話も、校内放声装置のお蔭で、聞く事が出来ました事は、他の学校でも数多く無い事でしょう。
……国力からいっても、軍備からいっても、経済力からいっても、世界一々々々と自分から誇っているし、又実力も持っているアメリカ合衆国並に地球上太陽の没する事のないという、広い領地を持つイギリスが、この太平洋方面の作戦の大事な基地にしている、アメリカのハワイや、ミッドウエイや、ウエイク、フィリッピン、又イギリスの香港、マレー、シンガポール等を電光石火の如く、八日午前三時を期して、米英両国の軍隊が立上がるひまもない程に爆撃し、又軍艦を轟沈する等、陸海軍の手ぎわのよさ、このニュースを聞いた皆さんの嬉しさ、私共の感激は死んでも忘れる事は出来ないと思います。(後略)注1.pp.270-271
長い引用になってしまったが、これで全体のざっと三分の一である。なお、原文は旧仮名遣いになっているが、現代仮名遣いに改めた。(続く)

注1.『加古川市史料2 加古川小学校式日訓話記録』加古川市史編さん室
   平成5年3月31日

2009年12月6日日曜日

当世ーワード(2009年12月①)

12月第1週の、当世キーワード(NHKラジオ第1・亀井肇)は、次の六つ。
青いバラ・邸宅カフェ・コンビニ用書籍・記憶の銀行・横手焼きそば・目的別積立預金。このなかから三つをご紹介しよう。

◆邸宅カフェ
ヨーロッパの豪華な邸宅を模したカフェのこと。邸内には特別注文のアンティーク風の家具が並んでいて、お客さんは一階の入口付近でお菓子とドリンクを購入して、好みの席まで運んでいって、気ままに自由にくつろぐことができる。神戸市に本社のある洋菓子メーカーが今年5月神戸市に開いたもので、コンセプトはリカルディーナという架空の王女さまが住んでいるヨーロッパ地中海沿いに建てられた邸宅としている。休日には兵庫県外からの客も訪れて、行列ができる賑わいを見せているという。

ネットで調べてみると「メニューは700~800円のドリンク類と、300~500円の約15種類あるケーキ。売れ筋はドリンクが付いたケーキセット」だそうな。

◆コンビニ用書籍
コンビニ大手の三社が出版取次大手の会社と組んで、販売する書籍。複数の出版社をまたいで、背表紙のデザインを統一してお客さんの目を引くようにしている。現在のところ中堅出版社の7社が参加を表明している。出版社はある作家の作品を先ずハードカバーの単行本で売り出して、一定期間経った後に文庫本として売り出すのが一般的なのだが、それをさらにコンビニ用書籍として売り出し、一作品あたりの収益を拡大しようとしている。分野としては、ビジネス、自己啓発、雑学、健康、ファッションなどを想定している。

◆記憶の銀行
イタリヤ北部の都市、トリノの若者四人が立ち上げたNPOのメモロというところが運営するオンラインのアーカイブ。イタリヤの高齢者が体験した第二次世界大戦中のファシズムとレジスタンス、その後の復興、繁栄などを貴重な財産として後世に残すために、ビデオカメラなどに収めて記録に残す運動。核家族化が進む中で、高齢者が体験したことを子どもたちに語り継ぐことで、家族のあり方を再構築したいという思いもあるようだ。

各国にも広がっているようだ。本家と日本の場合とアドレスは、下記をどうぞ。
   http://www.memoro.org/it/
   http://www.memoro.org/jp-jp/index.php

2009年12月4日金曜日

Google日本語入力が公開された!

これまで日本語入力にATOK17を使っていたのだが、新しいATOkの無料のトライアルを使ってみた。期限が切れて元に戻してから、調子が悪くて困っていた。
ところが、今月に入ってから「Google日本語入力」が使えるようになったことを知り、早速インストールした。むろんフリーだし、なかなかいい。こちらに切り替えることにした。こちらからインストールできます。

いろいろ説明しているサイトはたくさんあるが(親切な人が大勢いらっしゃるんですねえ)、下記のサイトが詳しいです。

2009年12月3日木曜日

ことば巡り③

「ことば巡り」も3日目になったので、今日でおしまいにする。

11月29日のNHKラジオ第1。5時台のおしまいは「音に会いたい」。過ぎ去った遠い昔にしばし戻ってみたいというリスナーたちのリクエストに応えて、さまざまな「昔懐かしい音」を聞かせてくれる。この日、二番目のリクエストは、静岡県のT.M.さん(79歳)から届いた点字の手紙。

小4の頃、ラジオから「紀元は二千六百年」という歌が連日のように流れてくる。昭和十五年、1940年は皇紀二千六百年[引用者注:つまり、天皇の御代になってから2600年目の目出度い年]に当たり、日本中が祝賀ムードに包まれていた。「金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて いまこそ祝へ[祝え]この朝(あした) 紀元は二千六百年 あゝ 一億の胸はなる 」
ところが、戦局の悪化とともに、ひどいインフレに見舞われた庶民のあいだに、替え歌が生まれ、またたくまに広がった。
「あの替え歌をもう一度聞いてみたいものです。」

「金鵄」上がって15銭
栄えある「光」30銭
今こそ来たる この値上げ
紀元は二千六百年
ああ1億の民は泣く

「金鵄」上がって15銭
栄えある「光」30銭
いちばん高い「鵬翼」(ほうよく)が
苦くて辛くて50銭
ああ1億のカネは減る

わたしも、この歌をリクエストされた方の四つ年下。この年、幼稚園の最上級生だったが、久松山下の堀端を行進する提灯行列の記憶が残っている。翌年、発足した国民学校入学後、この奉祝歌も替え歌も歌っていた。

金鵄(きんし)というのは金色のトビのことで、「神武天皇東征」のとき、天皇の持つ弓の先に止まって、その光り輝く金色が賊軍の目をくらませて、勝利に導いた。金鵄勲章はご存じでしょ?
「金鵄」「光」「鵬翼」はすべて当時売られていたタバコの名前。
この奉祝歌と替え歌の詳しい記事が、下記のアドレスにあります。

歌で思い出した。[深夜便のうた」というのがあって、毎回放送される。10月頃から放送されている「昭和浪漫~第2章~」が気に入っている。作詞・作曲:オオガタミズオ、歌:大川栄策。
 
風に追われるように街を歩いてる
痩(や)せた野良犬も見かけなくなった
路地の屋台で聴いた ギター流し歌
そんな風情もまた 消えて行(ゆ)くのですか
小さな手をつないで 夕焼けこやけの道を
歌って帰った昭和は風の中

裸電球点(とも)した小さな駅から
夢を枕にして あの日 町を出た
あれから幾年月 時は流れたけど
あの日の夢はまだ列車の棚の上
貧しかったけれどみんな元気だった
笑顔と一緒に昭和は夢の中

振り向けば人生の旅は半ば過ぎて
歩いて来た道に悔いはないけれど
これからが青春です もうひと花咲かせましょう
思い出つまった昭和は夢の中
昭和は夢の中

今まで好きでもなかったが、この大川栄策はいいと思う。

YouTubeがありましたよ。興味のある方はどうぞ。

ひと頃よく言われた「明治は遠くなりにけり」というフレーズがあったけれど、昭和に郷愁を覚えるのは、やはり、年取ったんですねえ…。
やがて、午前6時。お母さん方が起き出してきて、ラジオを聞きながら休日の朝の食事の準備に取り掛かるのでしょう。
「映画って、ほんとにいいですね」というキャッチフレーズを使った映画評論家がいたが、ラジオって、ほんとにいいですね。

2009年12月2日水曜日

ことば巡り②

前夜の11時のニュースの後から始まる【ラジオ深夜便】は午前5時に終わり、5分間程度のニュースが終わると、現役のアナウンサーが担当する【ラジオあさいちばん】が始まる。土日はそれぞれ【ラジオ】が【土曜】【日曜】に変わる。土日の担当は、佐塚元章・鈴木有才子の両アナである。

一昨日は今月5回目の日曜日だったので、亀井肇さんの「当世キーワード」の放送はなく、NHK放送文化研究所の田中浩史主任研究員が「美化語」について話した。美化語(びかご)とは、「お話」や「ご本」のように言葉の頭に「お」や「ご」つけた言葉をいう。
田中研究員が佐塚アナに、今年の初めに実施した調査と同じ言葉を示して、美化語を使うかどうかを尋ねる。

1.ビール →「これは、ビールですよ」
2.酢   →「お酢ですね」
3.正月  →「お正月ですね」
4.みかん →「これは、みかん」
5.台所  →「そのままですね」
6.鍋   →「男性の友達と鍋料理を食べるときは、『なべ、いこう』なんて言うが、娘には『今夜は、おと うさん、お鍋がいいな』などという」
7.カネ  →「どちらかといえば、お金がおおいですね。」
8.ソース →「これは、ソース」
9.酒   →「お酒ですね」
10.天気 →「これも使い分けていますね。相手や場所によって使い分け ているんですね」

田中さんによると、今年の調査では、「お正月」「お金」「お酒」は、7~8割の人がおかしくないと言っている。逆に、余り使わない、放送にはふさわしくないと言っているのは、「おビール」「おソース」「おみかん」「お台所」で、前の三つの言葉を支持したのは、それぞれ3%、5%、7%。
判断の分かれたもの、「迷った」というのは、酢、天気、鍋で、いずれも付ける、付けないが半々くらい、年代、性別、どんなグループの中で話しているか、などで異なるという結果であった。
もともと、「お」のつくのは一般に「お宮」「お寺」「お城」のように尊敬の対象になっていたものにつけた。
室町時代になって、女房言葉で、「でんがく」を「おでん」と、ていねいに、上品にいうようになったと言われている。
近代になると、幼稚園言葉というか、幼児向けの言葉で、
 おはな、お絵かき、お机
料理で
 お大根、お紅茶
といったものが加わって、今の言葉になったといわれている。やはり今でも、女性の方が美化語を多く使うことがハッキリ出ている、という。

13年前の1996年にも同様の調査をしているが、それに比べると、男性の美化語の使い方がこの間に急激に増えてきているそうだ。(たとえば、「お正月」は、51%→今回80%)
これからも、時代とか環境とか人間関係で、増えたり減ったりするかもしれない。日本語の中でも、揺れ続けているものの一つといえるかもしれない。

佐塚アナ「たいへん興味深い『お』話、ありがとうございました」w。

2009年12月1日火曜日

ことば巡り①

先月のブログは「当世キーワード」だけになってしまったが、11月29日は、5回目の日曜日だったので、亀井肇さんの「当世キーワード」の放送はなかった。しかし、「ことば巡り」と題して、言葉のあれこれを取りあげてみたい。

わたしのような年寄り―老人、(前期・後期)高齢者、じいさん・ばあさん、おいぼれ…)は、夜、床につくのが早い―その結果、目覚めるのが早いので、多くの者が【ラジオ深夜便】の愛聴者になってしまう。おッと、「愛聴者」と書いてしまったが、あってもいいと思うこの言葉は、一般には使用されていないようだ。
似たような言葉を並べてみよう。(○は、使用できる/×はできない)
  
  ○読み取る       ○聞(聴)き取る
  ×読取者         ○聴取者
  ○愛読する       ○愛聴する
  ○愛読書        ○愛聴盤(レコード)
  ○愛読者        ×愛聴者
         ○視聴者
         ×愛視聴者

いま一つ「聴取」という言葉があって、意味は次の二つ。
①事情や状況などをききとること。
②ラジオなどをきくこと。

①から、検察官や司法警察職員が作成する「聴取書」ができ、②から「聴取率」という言葉ができている。テレビの場合は「視聴率」となる。

テレビでは「視聴者のみなさん」と呼びかけ、ラジオでは「リスナーのみなさん」とアンカーがおっしゃる。

政府の行政刷新会議は昨日、国の事業見直しに関する国民の意見を来年1月から募集すると発表した。鳩山首相の名前にちなんだ hatomimi.com を立ち上げて意見を募るという。

「馬耳東風」あらため「鳩耳東風」にならねばいいが…。

とにもかくにも、いろいろと、ややこしいことではある。(つづく)

2009年11月22日日曜日

当世キーワード(2009年11月④)

今朝のNHKラジオ第1、亀井肇さんの当世キーワードより。

着地型旅行
これまでの観光旅行は首都圏や大都市などにある旅行会社が企画して参加者を集め、その参加者を地方の観光地に送り込む、というハッチ型旅行が主流であった。
それに対して、地元の旅行会社や団体や企業などが企画して主催する現地発着の旅行を着地型旅行という。最大の特徴は、地域の特色を生かした体験とか交流を重視していることにある。
2007年5月に旅行業法の施行規則が改正されて、中小の地元の旅行会社でもその地方のパッケージツアーなら企画できるようになったことから盛んに企画されているようだ。

◆エコ果物
葉の部分を再利用したパイナップルとか、二酸化炭素の排出枠をつけたバナナなど、環境に配慮した果物をいう。
果物の大手輸入商社は、昨年秋、一房あたり1キロの排出枠をつけたバナナを発売している。このバナナを買えば、輸出の時に排出される二酸化酸素などを考慮しても、一房500グラム程度の二酸化酸素削減につながる。
青果物販売大手の会社は、食べられない葉の部分を産地のフィリッピンであらかじめ取り除いたパイナップルを今年の4月から販売している。取り除いた葉の部分は農地に植えると再び実がなるために、年間3トン程度の葉のゴミ削減に連なるわけだ。
環境問題に関心のある消費者の需要を掘り起こしているらしい。


◆ボトム・オブ・ピラミッド(BOP)
アメリカ、ミシガン大学ビジネス・スクールのプラハラード教授が提唱したもので、経済ピラミッドの底辺ということを意味している。人口が多く、購買力の向上が見込まれる途上国の低所得者層を指している。
世界の有力企業はこの層を取り込むことに懸命になっているが、先進国向けの高価格帯商品の需要が先細りしていて、途上国の低所得者層をターゲットに切り換えているわけだ。
世界銀行の関連団体によると、BOPは、年間所得3000万ドル未満で暮らしている40億人の低所得者層が該当し、潜在的な市場規模は5兆ドルにのぼるという試算もある。
こうしたBPOに低・中価格帯の商品を売り込むと同時に、所得向上につながる仕事を提供して、貧困削減と新しい市場獲得の両立を目指しているようだ。


◆ラーメン ロボット
ラーメンを完全に調理するロボット。産業ロボットを製造している会社が作っている。
お客の注文を受けると、人間用の調理器具を使って、スープの調合、麺ゆでなどを素早くこなし、1分35秒で完成させる。できあがると、「一丁あがり」と電子音で威勢よく知らせる。
店長と副店長の、2台のアーム型ロボットが、お客さんをお待ちしてるそうな。醤油ラーメン、塩ラーメンと注文してもOKだそうで~す。


◆書道パフォーマンス
書道に音楽とダンスの要素を取り入れたパフォーマンス。白い着物に袴をはいた女子高生たちが一斉に筆をとって紙に向かい、キビキビとした動きで展開しているという。
今から11年前にテレビで放映された全国高校生文化祭グランプリで、福岡県立築上(チクジョウ)中部高校=現在は、県立青豊(セイホウ)高校=の書道部がDA PUMPの“Feelin' Good”の歌詞を横十数メートルの紙に歌いながら書き上げたのが最初とされている。
これが各地の女子高生たちに広がって、全国大会も昨年から「書道パフォーマンス甲子園」に発展している。

2009年11月15日日曜日

当世キーワード(2009年11月③)

NHKラジオ第1、亀井肇さんの当世キーワードより。ところで今日、11月15日は「かまぼこの日」です。なぜ? こちらをどうぞ。
いや、これは当世キーワードとは、何の関係もありません。

◆オリエンタル ウェスタン
イタリア製ウェスタンのことをマカロニ・ウェスタンと読んでいたが、韓国製のものをいう。

◆貼るワクチン
大手製薬会社などが開発を進めている、皮膚に貼り付ける新しいタイプのワクチンで、約1センチ角のシール状のワクチン。微細な突起が約1000本出ていて、腕などに押しつけるように貼る。
短い突起は皮膚の中までしか入らず、神経には達しないために痛みはほとんどなく、事故の心配もない。
皮膚には、ワクチン成分を認識し、ウィルスをやっつける抗体の作成に導く特殊な免疫細胞が皮下組織などより多く存在するので、効果が出やすいといわれている。実用化され、承認されるのは数年後といわれている。

◆どうぶつ しょうぎ
将棋のルールを簡素化し、駒を動物のキャラクターに置き換えたこども向けの将棋。詳しくはこちらでどうぞ。

◆エレベスト
世界一の山、エレベストではなく、「エレベーターをこよなく愛する人」という意味だ。編集プロダクション代表、梅田カズヒコさんによる命名。
ある出版社の編集者が「団地萌え」が流行した時期に、これと対抗するものとしてエレベーターを考え、それを本にすることを梅田さんに提案したという。「団地萌え? なんじゃ、そりゃ?」という人、こちらをどうぞ。 
「エベレスト」も、こちらをどうぞ。

◆スチームポット
陶器製の鍋と底に敷く簀の子とがセットになっているポット。
鍋の底に貼った水を加熱して、上がってくる蒸気で簀の子にのせた食材を蒸し上げるという仕組みになっている。
油を使わずに火を通すことができて、余分な油は簀の子の間から落ちるため、ローカロリーな食事を楽しむことができる。簀の子を使わなければ、土鍋としても使用することができる。
こちらが分かりやすいかな。








2009年11月8日日曜日

当世キーワード(2009年11月②)

今朝のNHKラジオ第1、亀井肇さんの当世キーワードより

◆タートルトーク
東京ディズニーランドで、今年の10月からはじまった新しいアトラクションの名前。ディズニーの人気映画のファインディングにも登場しているウミガメのクラッシュウが主人公で、客はコンピュータグラフィックスで再現された海の中で、クラッシュウと双方向で会話を楽しめる。
専用のマイクを通じて、クラッシュウが投げかけてくる質問に客が答えたり、逆に、クラッシュウが話しかけたりして楽しむ。
クラッシュウ役の声優が客からは見えないが、全体を見渡せる位置にいて、質問した客の服装とか、ジェスチャーなどについて質問したりして、客と同じ場所にいることを前面に押しだしている。

◆ラーメン フォーク
円形のスプーンの先にフォークのついたもの(実物の形は、後掲のアドレスなどでごらんあれ!)。学校給食で使用されている先割れスプーンにヒントを得て、名古屋のあるラーメン店、スガキヤが1978年に開発した。創業60周年の今年を記念して、デザイナーの高橋正実さんが刷新した。
麺とスープがよくからみ、箸よりもおいしく食べられると大人にも子どもにも好評。そのシンプルで使いやすいデザインが高い評価を得て、モダンアートの殿堂、アメリカ・ニューヨ-ク近代美術館、MoMAのミュージアムショップの大人気商品となっている。

◆音鉄(オトテツ)
鉄道オタクのなかで、電車の出す音や駅周辺の音に強い関心を寄せる人を指して、音鉄と呼ぶ。
もともとは電車のエンジンの音に関心を持って、それぞれのエンジン音や車輪の出す音について、その音を聞き分けて、それがどのような電車であるかを当てて自慢しあっていた。
それが次第に範囲を拡げて、車内に流される音楽とか、車掌のアナウンス、駅のアナウンスや発車メロディにまで興味が広がってきている。
最近では駅ごとに発車メロディが異なっていて、その発車メロディを模した目覚まし時計なども発売されている。
また発車メロディとクラシックを組み合わせた「山手線上のアリア」といったクラシックCD の電クラ(=電車クラシック)といったものも発売されてきている。

◆美人時計
インターネットのサイトで、時刻を書いたボードを持った美女の写真が1分ごとに切り替わるものが、美人時計である。
1人の「持ち時間」は4分間で、1分ごとにポーズが全身から顔のアップまで少しずつ変わるために、見ていると徐々に美人が迫ってくるような感じがする。
サイトでは、24時間で360人の美女が登場する。運営会社では、普通の女性のありのままの美しさを引き出したいということで、公募とか芸能事務所への依頼は行わず、スタッフが新宿や渋谷などの繁華街に出かけて、女性と出演を交渉して撮影している。
女性からのイケメンを見たいという要望に答えて、美男時計も今月からオープンしているらしい。

◆併願割引
大学受験の際に、ある学部の受験生が同じ大学の別の学部を受験する場合に、
2回目以降の受験料を割引する制度。
関西方面の大学からはじまり、全国的に普及してきている。ある大手予備校の調査によると、今年度においては全国の私大の半数を超える300校以上が取り入れているという。
来春から導入するある大学の例では、全学科で同じ試験日となる一般入試の場合、1学科目の受験料は35,000円であるが、2学科目は15,000円引きの2万円ですむようになっている。
関心のある向きは、ネットで調べてみてください。


2009年11月1日日曜日

当世キーワード(2009年11月①)

今朝のNHKラジオ第一、亀井肇さんの「当世キーワード」から。

①提案型書店
JR東京駅前にある大型書店が始めた。訪れる消費者に対して、「人生で夢見る出来事」とか「フフフと笑ってみたいときに読む本」といったテーマや内容ごとに、独自の分別陳列で商品を売っている書店。
これまでの書店は、委託販売制度に守られて、取次会社が配本したものを並べて販売するだけであった。売れなかった本も無償返品できるため、販売努力が足りないという反省から生まれた。
それぞれの分野の知識に強い店員を育て、その知識に基づいて仕入れを行い、それを消費者に対して提案していこう、としている。

②地図でユニセフ
世界各地の子どもたちが直面している問題について、地図やイラストを用いて、わかりやすく解説した、32ページ・オールカラーのパンフレット。
1テーマを2ページ見開きで解説している。
日本ユニセフが作成して、全国の小学生や希望者に配布している。
アフリカ諸国で大きな問題となっている5歳未満児の死亡率が高いことを伝えるページでは、率の高低で色分けをした地図を載せている。ほかにも、安全な水が使えるとか、小学校に通うことができるといった、子どもたち直面している、さまざまな問題について解説している。

③ICカードで出席管理
学生証をICカードにして、そのカードで授業の出席を管理するシステム。
教室のドア付近に読み取り端末を設置して、学生が講義前にカードをかざすと出席したことが確認される。5分たつと遅刻者となってしまう。
講義中に出席をとる時間が省略されて、教師はそれだけ講義に集中できる。これまでは、出席簿の読み上げ方式とか、出席カードの記入方式などが行われていたが、代返などをする学生が跡を絶たなかった。
ICカードで出席を取るようにすると、学生証の中に学内で使える電子マネーなども入っていて、カードを他人に貸すことはないので代返もなくなるといわれている。

④チルド弁当
いくつかのコンビニで売り出した冷蔵弁当のこと。これまでコンビニで販売する弁当は、18度前後の温度で配送、陳列していたために、製造から消費期限まで15時間ていどであった。
ところが、チルド弁当は5度以下で冷蔵保管しているために、61~85時間くらい保たせることができる。販売するときには電子レンジで温めて消費者に渡す。冷やしてもご飯が固くならないように炊き方に工夫をし、味も従来の弁当と変わらないという評判になっている。

⑤せんべろ
1000円でべろべろになるまで飲むということを「せんべろ」という。高級なクラブやバーに行けば、ビール1杯でも1000円を超えてしまうが、格安な店を探せば1000円で充分に飲むことのできる店がまだまだあるようだ。
リーマン・ショック以来、100年に一度という日本経済の景気悪化のなかで、家計がきびしくなり、奥さんから小遣いはほんの雀の涙程度しか貰えない。そこで、格安の立ち飲みの店とか980円均一などの店を、様々な情報を駆使しては探し出して、行くことになる。
もちろん、こうした店は一人ででふらふらと立ち寄ることができるが、コップに満々とつがれた日本酒とか焼酎を数杯飲めば充分に酔うことができる。ビジネスマン向けの雑誌などでも、こうした「せんべろ」の店の紹介を行う特集が増えてきているらしい。

ひとごとではない。「せんべろ」を探さなくちゃあ。

2009年10月19日月曜日

当世キーワード(2009年10月②)

昨日のNHKラジオ第1の放送から:

Ⅰ.ジュニア エコノミー カレッジ
福島県の会津若松商工会議所が2000年から始めている。
小学生5人が一組になって株式会社を設立し、3ヶ月かけて、2万円を元手に米や野菜など、会津の地場産品を使った商品を企画販売し、利益配分を行う。
事業運営の手本となるテキストはすべて会津若松の企業人が手作りで作成している。会社組織の運営だとか、商品の企画販売を疑似体験することで、次の世代が事業の継承を決意することの足がかりになれば、ということから始まった由。
愛知、大阪、熊本のど8つの商工会議所も今年から実施しているそうだ。

Ⅱ.スマート・ハウス
「スマート」には「かしこい」とか「情報化」といった意味がある。IT、いわゆる情報技術を使って、家庭の消費電力を制御する住宅がスマート・ハウスと呼ばれる。複数の家電をネットワークでつないで、エアコンやテレビなどの使用を制御する。
テレビの消し忘れをなくしたり、エアコンの温度調節などができるので、わずらわしい操作をしなくても、ムダな電力消費を抑えることができるというわけ。太陽光パネルや家庭用蓄電池と接続して、発電した電力をより効率的に使うことができる。
経済産業省は今年の9月から実証実験をはじめて、二酸化炭素の排出量などを測定している。

Ⅲ.カメラ女史
いつもバッグの中にデジカメを入れていたり、首から一眼レフなどをぶらさげていて、何か面白い被写体を発見したときには、すぐにシャッターを押す女性がカメラ女史と呼ばれている。
彼女たちの愛機というのは、中古のフィルム式から最新のデジタル式の一眼レフまで様々だが、自分たちの日常生活の一部を切り取って、自分らしさを表現したいということでは共通しているようだ。
失敗作と見なされそうな甘いピントの写真などもあるが、被写体に接したときの気持ちを表現したものであると、彼女たちは言っている(と亀井肇さんは言っている)。

Ⅳ.メタボ予防マグロ
魚の体内に蓄積しやすいオリザノールという成分をエサに混ぜて養殖されたマグロが「メタボ予防マグロ」とよばれている。
東京海洋大学の研究チームは、米ぬかの中に含まれているオリザノールが体内の脂肪をエネルギーに変えやすくすることを発見している。
その協力を得て、子会社の養殖場でオリザノールを含んだエサを養殖マグロに与えることにしている。
そのエサを食べた養殖マグロは体内にオリザノールを蓄積し、そのマグロを食べた人間がオリザノールによって体内の脂肪を燃焼させることができ、その結果、メタボリック症候群になるのを避けることができる。
オリザノールには成長促進作用もあって、約2年でマグロは30キログラムに育つと言われている。

Ⅴ.車輌オーナー制度
千葉県東部で営業している電鉄会社が老朽化した車輌を買い換えるために採用した債券が車輌オーナー制度だ。
新しい車輌は愛媛県松山で使用した車輌4両で、海路で銚子まで運ばれる。輸送費と整備費で約1億4千万円の費用がかかるが、そのうち2千万円を債券化し、1口10万円でオーナー200口を募集した。1人最大10口までで、現金の償還は行わず、1口につき1年間有効の全線優待招待券を発行して、車内にオーナーの名前を掲載する。

Ⅵ.プチ肉食系
仕事をバリバリとこなして、私生活においても積極的に男性を誘い込む肉食系女子に対して、ほんの少しだけ自分を主張している女性がプチ肉食系と呼ばれている。
肉食系がホストクラブなどで積極的にお金を使ったり、積極的に男の子を軟派するのに対して、プチ肉食はあくまでも自分が見つけた男性に対して一途に尽くすだけということだ。しかし、1度この男性とつきあっていたいと決めれば、この男性に対しては積極的になる。(**系だの××系だの、インフルエンザに負けぬほど大流行らしいが、まったく興味がない。イササカ、サビシイコトデハアルネ。)

以上、今回もほぼ、亀井肇さんが語った通りを掲載する。

2009年10月6日火曜日

田中菊雄『現代読書法』で知った新渡戸稲造

昨日、堀正岳さんのサイトを訪れて、驚いた。田中菊雄『現代読書法』が紹介されていたからである。このサイトはときどき拝見していろいろ学習させていただいているが、若い人がこの本を取り上げていることに驚いたけれど、またうれしくもあった。
この本の内容については堀さんが丁寧、かつ的確に紹介されているから、ぜひそのサイトをご覧いただきたい。
  http://lifehacking.jp/2009/10/book-reading-for-the-modern-age/

わたしは、これに便乗して、思い出話をさせていただく。
さっそく本棚から田中先生の著書を抜き出してみたら、下記の6冊があった。

『現代讀書法 現代人は如何に讀むべきか』柁谷書院 昭和17年1月
『現代読書法』三笠書房 1961年5月
『英語学習法』研究社 昭和33年8月
『英語研究者のために』講談社学術文庫 1992年1月
『知的人生に贈る どう生きるかを考える書』三笠書房 1983年7月
『岩波英和辞典 新版』岩波書店 1958年3月 
(*この辞典は、島村盛助・土居光知・田中菊雄の共著となっているが、田中の血と汗の結晶である。)

最初に挙げた『現代読書法』の裏表紙見返しの遊び紙に次のようにペン書きしている。

以前に、戦後版を購入していたが、四月の火事(注:1952年4月17日の 鳥取大火)で焼失してしまった。それを今日、増田古書店で買った。この書物には多大の利益を得た。本を読んで書き入れや、抄録をするようになったのも此の書の影響である。書中に引用せられている多くの書籍は、自分にとって極めて有益な良書紹介であった。新渡戸先生の著書を知り、読み、先生を崇拝するようになったのも、この書及び、同著者の「私の人生探求」の御陰である。この書が再び自分の書棚に収まることとなったのは嬉しい。(昭和27年6月29日)

上記書込みにもあるように、新渡戸稲造の『修養』を県立図書館から借りだして読み、感銘を受けた。この本をどうしても自分の書棚に置きたいと思った。しかし、明治44年の発行だから、古書店でも入手は難しかろうと、筆写することを決心した。新制中学3年生の秋、1948年9月12日の日記にその決意を記している。

図書館の本の帯出期間は限定されているから、3人の親友にも頼んで代わる代わる帯出してもらい、筆写を続けた。その後、親友の一人が自宅の蔵にあったと言ってきて、この本を借りっぱなしにすることができた。「大正五年十月一日縮刷五十一版」の小型本だった。
翌年「昭和二十五年十二月二十二日午後七時」筆写完了。

B4の罫紙の両面に朱色の縦罫が14行書きできるように引かれた用紙に、ガラスペンとインクで筆写した。ちょうど罫紙300枚、600ページだった。年の暮れではあったが、27日に、製本屋の主人が「感心した」と言って、わざわざ届けてくれた。「修 養  新渡戸稲造著」と背文字も刻されていた。2年後の大火の際も、これだけはという思いで持ち出した本の一冊として現在も書棚にある。
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もちろん現在では、教文館の新渡戸稲造全集もあるし、タチバナ教養文庫の一冊として『修養』も容易に入手できる。
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2009年10月5日月曜日

当世キーワード(2009年10月①)

10月4日の放送より。今回は、NHKラジオ第一で亀井肇さんが語ったとおりをほぼ忠実に文章化した。

★見守りサービス
元気なうちは子どもの世話になりたくないと、一人暮らしをしている高齢者の親を、子どもに代わって見守るサービス。
床に落ちているものでつまずいたりしないように定期的に掃除をしたり、家の中のセンサーで異変を察知したりする。
ある大手警備会社は、昨年の秋から、家の中にセンサーや警備ボタンを設置するシニアセキュリティーを開始している。
センサーの反応が一定時間なかったり、緊急ボタンが押されたりすると、異常が発生したと判断し、家族に知らせるとともに、警備員が即刻かけつけるというサービスである。

★公共自転車
環境省が今年の10月から12月の間、東京・丸の内のビジネス街で行う、いつでも、だれでも使用できる自転車の共同利用の社会実験で、公共自転車と呼ばれている。
駐輪ポートを300メートルごとに5ヶ所設置して50台の自転車を配備し、ちょっとした距離の移動に、気楽に自転車が使えるようにする。
利用者は初回1000円の登録料を払えば、30分以内の利用は無料で、どのポートに自転車を返してもよい。
30分以降は10分ごと、3時間以降は5分ごとに、おのおの100円ずつ課金される。

★世界ジオパーク
世界的に貴重な地形だとか地質、火山、断層などをもっている自然公園を認定する制度。ユネスコの支援で、2004年に設立された世界ジオパーク・ネットワークが認定している。
世界遺産が保全だとか保護を重視するのに対して、教育や観光を通じた地域振興にも目を向けているのが特徴。
今年の8月に中国の大安市で開かれた会議で、北海道の洞爺湖・有珠山、新潟県の糸魚川、長崎県の島原半島の3つの地域が選ばれて、その結果、現在、19ヶ国の63地域が世界ジオパークとして認定されている。

(蛇足:鳥取県も隣接県とともに、鳥取砂丘を含む山陰海岸を世界ジオパークに認定されるよう運動している。もう十数年以上の昔になろうか、月の砂漠をラクダにのって旅をする王子、王女にあやかって金儲けをしようと、日本にいるはずのないラクダを持ち込んだ。そんなみっともないことをするな、と反対したが、観光シーズンのテレビ画面には相変わらず、当たり前の如く、ラクダの背にのった観光客の姿が出てくる。こんなインチキが存在するようなところがジオパークに認められるものか、と思っているが、「観光振興」のためだ、と認められるのかな?)

★超人ネイガー
秋田県で人気沸騰のローカルヒーロー。ネイガーという名前は、「なまはげ」の発する「なくごはいねがぁ(泣く子はいないか)」にちなんでいる。
敵役は、だじゃく(=乱暴)組合のほじなし(=まぬけ)組合員がやっている。
ばすこぎ(=うそつき)、はんかくさい(=ばかくさい)、かまどきゃし(=放蕩者)、えらしぐね(=かわいげない)などの敵役がある。
「海を山を秋田を守る秋田発・地産地消ヒーロー」が、キャッチコピー。
秋田県の様々な場所で催される行事、イベントなどのショウに登場して、観客から万雷の拍手で迎えられている。

★インビジブル・ファミリー
日本語では「目に見えない家族」と訳される。
子どもたちが独立したり、お嫁に行ったりして、普段は二人暮らしの60台の夫婦で、つつましく暮らしているが、何週間に一回、あるいは数ヶ月に一回は、高価な肉とか、果物、洋菓子などをたくさん買い込むことがある夫婦のこと。
嫁いだ娘が家族を連れて、その二人暮らしの親の実家に戻ってくるので、そのためにそういった買い物をする。
商店やスーパーにとっては、盆や正月、ゴールデン・ウィーク、夏休みなどにおいて、そうしたインビジブル・ファミリーの夫婦に対して具体的な提案をすれば、そこに商売のチャンスが訪れることになる。

★ツリー・クライミング
ロープだとか安全保護具を使って、10メートル以上の大木を登る技術を競う競技がツリー・クライミングと呼ばれている。
1983年に、林業や樹木医らの専門家が行っていたロープを使った木登り技術を、子どもでも安全に楽しめるようにと、改善したリクリエーションとっして考案されている。
競技には、木に登るスピードを競うものだとか、ロープを投げる作業の精確さを競うものなど、5種類ある。
日本でも今年の5月に、愛知県瀬戸市で第1回日本ツリー・クライミング・チャンピオンシップ大会が開催されて、優勝者がアメリカ、ロードアイランドで7月に開催されたツリー・クライミング世界大会に出ている。

2009年9月29日火曜日

当世キーワード(2009年9月③)

少し遅くなったが、27日にNHKラジオ第1で聞いた当世キーワード(亀井肇さん)の報告。
最初の二つは、頭髪が減少しつつあるわたしには、関心はありませんが、1個所ずつサイトを紹介しておきます。亀井さんは、「ボブヘアーも、自分らしく生きたいという心の現れ」とおっしゃていましたが…。

◇ボブ男

  http://mjwatch.jugem.jp/?eid=973
◇スジ盛りヘアー
  http://ameblo.jp/chidu-h/entry-10156055038.html

次のふたつは、生きづらくなってきた現在、生まれるべくして生まれたものでしょう。
◇貸しスーツ
  http://job.yomiuri.co.jp/news/ne_09071601.htm
◇ライド シェア
 http://notteco.jp/

◇歩き食べ族
これについては、自称、東京・新宿は余丁町のご隠居、橋本尚幸さんのブログ、Letter from Yochomachi が1ヶ月前に取り上げておいでです。そちらをご覧下さい。
 http://www.yochomachi.com/2009/07/blog-post_28.html

◇信州プレミアム牛肉
おいしそうだが、お高いンでしょうねえ。
http://www.pref.nagano.jp/nousei/nousei/oisiinet/contents-premium.html

2009年9月23日水曜日

もう一度宮沢賢治

昨日の宮沢賢治についてのブログの終わりに「役立つ情報」としてパルバースさん自身の朗読が聞かれるサイトのアドレスをご紹介しました。「ラジオ深夜便」9月号の38ページに次のように書かれているからです。
*パルバースさんによる"STRONG IN THE RAIN"の朗読を本誌ホームページ
(http://radio.nhk-sc.or.jp)で聞くことができます。
しかし、ここでは10月号に掲載されているものしか聞けません。いろいろ探してみましたが、NHKのサイトではだめのようです。
パルバースさんは「雨ニモマケズ」の英訳についてこう語っている。
「雨ニモマケズ」の英訳はいくつかあるのですが、そのどれもが、「マケズ」をそのまま否定形で訳していて、「ちょっと違うな」と思っていました。だからぼくの訳は、“Strong in the rain”で始まっています。「強い」という意味の“strong”で、「よし、やるぞ」という感じを出したかったんです。
それは賢治の願望であり、祈りでもあったから。
著作権のこともあるので、前半の英訳をご紹介する。
「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/欲ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシズカニワラッテイル/一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ/……」

Strong in the rain
Strong in the wind
Strong against the summer heat and snow
He is healthy and robust
Free from all desire
He never loses his generous spirit
Nor the quiet smile on his lips
He eats four go of unpolished rice
Miso and a few vegetables a day
He does not consider himself
In whatever occurs...his understanding
Comes from observation and experience
And he never loses sight of things

パルバースさんに関連するサイトなどを追加しておきます。
Strong in the Rain: Selected Poems
Strong in the Rain: Selected PoemsRoger Pulvers


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英語で読み解く賢治の世界 (岩波ジュニア新書)
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stars英訳で賢治の理解が深まる
stars賢治と英語の世界

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→こちらも見てください。http://www17.ocn.ne.jp/~h-uesugi/eigodeyomitokukenji.html

2009年9月22日火曜日

昨日は宮沢賢治の命日だった

昨日、「今日は宮沢賢治の命日だ」と気づき、それを確かめようと、本棚から久しぶりに、2冊の本を取り出した。1冊は、
 
 山内修=編著『年表作家読本 宮沢賢治』   (河出書房新社)1981年9月発行

この本は、上段が年譜、下段がそれに沿った解説という構成になっていて、ページ数は印刷されていない。
賢治が亡くなったのは、1933(昭和8)年の9月21日。
 二一日、午前一一時半、賢治の寝ている二階から、突然「南無妙法蓮華経」と高々と唱題する声が聞こえてきたので、みな驚いて二階へ上がると、容態は急変していた。父が何かいい残すことはないかと聞くと、国訳の法華経を一千部印刷して、知己友人にわけてほしいという。父は賢治のいうことをまとめて文章にして賢治に確認した。
「合掌、私の全生涯の仕事はこの経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意にふれて、あなたが無上道に入られんことをお願いする外ありません。昭和八年九月二一日臨終の日に於いて、宮沢賢治」
 午後一時三〇分、永眠。(上段)
(ここまで読んで何気なく時計を見たら、正に午後1時30分ではないか! 偶然とはいえ、いささか驚いた。)同じページの下段には、賢治の弟、清六の文章が載せられている。
 父はその通りに紙に書いてそれを読んで聞かせてから、「お前も大した偉いものだ。後は何も言うことはないか。」と聞き、兄は「後はまた起きてから書きます。」といってから、私どもの方を向いて「おれもとうとうお父さんにほめられた。」とうれしそうに笑ったのであった。
 それから少し水を呑み、からだ中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落したときには、息を引きとっていた。九月二十一日午後一時三十分であった。
この文章は、書棚から持ってきたもう1冊の本、宮澤清六『兄のトランク』(筑摩書房 1987年9月)のⅣに収められている「兄賢治の生涯」の最終部分(p.238)でもある。
  ―――*―――*―――*―――*―――*―――
醇風国民学校2年生のとき、教室(特別教室であったと思うが、正確な名称は分からない)の板張りの床に座って、映画「風の又三郎」を見せてもらったのを覚えている。
     ―――*―――*―――*―――*―――*―――
賢治の作品を英訳したロジャー・パルバース(Roger Pulvers)という在日オーストラリア人(元アメリカ人)がいる。昨年、宮沢賢治賞を受賞した。
今年の5月17日と18日、2回にわたってNHKラジオ深夜便[こころの時代]のインタビューに出演した。この放送をCDに録音していたので、昨夜、聞き直してみた。

冒頭部分で、聞き手の鈴木健次さんが、「宮沢賢治賞を受賞された昨年は賢治の没後75年でしたね」と言ったのにたいして、パルバースさんは、「賢治が他界したのは1933年9月21日午後1時30分でした。2008年のその日その時、ぼくは授賞式出席のため花巻にいたので、賢治が〔イギリス海岸〕と名づけた北上川のほとりに立って、お祈りしました。賢治の魂が北上川の上空を散歩しているような気がしたものですから」と答えている。

彼はカリフォルニア大ロサンゼルス校、ハーバード大学大学院で政治学とソビエト近代史を専攻、ポーランド留学中スパイ容疑をかけられ帰国したが、ベトナム戦争さなかの母国を嫌って、1967年9月に来日した。その時のことを次のように語っている。
日本のことは何も知らなかったが、羽田国際空港に飛びました。そして都内のホテルに宿を取ると、屋台のおでん屋さんに入ったんですね。だから、ぼくが初めて覚えた日本語は、「チクワ」です(笑)。
先回、ブログ「 鳥取大震災」でも述べたように、竹輪屋の息子としてはうれしいですなw

日本語がまったく出来なかったのに、なぜ宮沢賢治を選んで学習したか、彼がなぜすぐれた詩人であるのか、インタビューはなかなか興味深い。しかし、前後合わせて100分前後の分量なので、要約するにも時間がかかる。幸い、雑誌に要約して採録されているから、すぐあとでご紹介する。

今日はこれにて失礼します。以下の情報を役立てていただければ幸甚です。

「ラジオ深夜便」9月号 350円
 インタビューの要約のあとに「雨ニモマケズ」の英訳も載っている。
 次のホームページで、パルバースさん自身の訳詞朗読が聴けます。
  http://radio.nhk-sc.or.jp/
◇次の書には、賢治の詩50編とその英訳詩が収録されています。 
英語で読む宮沢賢治詩集 (ちくま文庫)英語で読む宮沢賢治詩集 (ちくま文庫)
ロジャー・パルバース

筑摩書房 1997-04
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2009年9月18日金曜日

当世キーワード(2009年9月②)

NHKラジオ第1の[日曜あさいちばん]で、5時半過ぎに放送される亀井肇さんの【当世キーワード】。先ず、13日の放送から二つ、ご紹介。

◇あがる
この動詞にはたくさんの意味があって、使用される漢字も様々あるが、精神状態をときは「平常の落ち着きを失ってしまう」の意味で使っている。

最近の若い女性は
  気分が高揚する/うきうきする/うれしい
といった意味で使うそうだ。「るんるん」気分になることをいう、と言っていいのかな。

◇海賊党
Wikipedia をみると、スウェーデン、オーストリア、チェコ、スロバキア、フィンランド、ドイツ、アイルランド、イギリス、アメリカ合衆国、スイスの10カ国にできているそうだ。

おだやかでない党名だが、わたしの見たサイトを二つご紹介する。
・BENLI
・閑寂な草庵 - kanjaku -

今朝の放送から三つばかり。

◇圏外パパ
先回ご紹介した「ファーザーズ・バッグ」を持っているようなパパの対極にいるパパ。ご本家らしい次のサイトを見れば、汚名挽回できます。
さらにここへ

◇エコ恋愛(ラブ)
これも、元祖らしい、この本をアマゾンでどうぞ。
【出版社/著者からの内容紹介】
◎ 本書概要
無駄な告白はしない、余分なパワーは消費しない、交際してもハマらない
----不況下で恋愛にも「エコ」を求める男女が増える背景を分析し、新しい恋愛・結婚のあり方を考える。
◎【エコ恋愛(ラブ)婚】とは
【自分にも周りにもやさしい恋愛・結婚】のこと
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◇勉強カフェ
下記サイトで実例の一つをご覧あれ。今日はここまでにして、わたしは、インスタントのコーヒーでも飲みましょう。
   

小山晴子「かしわの力で海岸林をつくる」

今朝のNHKラジオ第1・[こころの時代]は元中学校教諭の小山晴子さんだった。

NHKのR1blo に次のように紹介されている。
小山晴子(こやま はるこ)さんは、40年間調べ続けた海岸林のマツとカシワの木の共生に関する本「マツ枯れを超えて ~カシワとマツをめぐる旅~」を出版しました。著書では、マツ枯れを防ぎ、これからの海岸林をつくる担い手は、カシワであると提言しています。
 海岸林は、風、飛砂、潮、霧などを防ぎ、田畑や住宅地を守っています。しかし、約200年前に植えられたマツによる海岸林はマツ枯れのため、その対応策が急がれています。
 なぜ、カシワが海岸林に有効なのかお話ししていただきます。
http://www.nhk.or.jp/r1-blog/050/26112.html
カシワ(柏)の葉は、柏餅をくるんでいたから、子ども時代からおなじみだけれど、米や麦などをたいて飯をつくることを「かしぐ(炊ぐ)」というが、そのとき、よくカシワの枝や葉を燃したことから「カシワ」という名前がついたそうだ。小山さんの話ではじめて知った。

鳥取市では砂丘の砂を減らさないように努めているが、日本全体としては、大切な土地を浸食や砂漠化から守ることは重要なのだ。

著書は2冊あるようだが最新のものは、

『マツ枯れを越えて-カシワとマツをめぐる旅』
小山晴子/著 秋田文化出版/発行 2008.11


本書では、枯れていく海岸の防砂林を調べていく中でわかってきた
カシワの木とマツの関係について述べられています。人間と樹木の関
わり方について考えさせられる一冊です。著者の前作「マツが枯れる」
の続編として発行されました。


鳥取県立図書館にはなかったが、秋田にはあるから、各県の図書館で取り寄せてもらい、帯出できるだろう。
 
秋田県立図書館
http://www.apl.pref.akita.jp/kensaku/kyodo/2009_1.html


マツ枯れを越えて―カシワとマツをめぐる旅



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2009年9月17日木曜日

鳥取大震災 3/3回

1943年9月10日(金曜日)。この日は雨だった。
…鳥取震災の日の前ぶれの雨のすさまじさも、眼に刻みこまれている。墨のような黒雲が、まるでハヤテのように走ってきてひろがり、イキナリ夜になったと思うほどまっくらになって、たちまち物凄い雨が鳥取の街をたたきつけた。
はねかえる白い水シブキが、高さ数米にも見えた。県庁前から市役所あたりまで、見る間に川になってしまった。
あの時の雨の異常さは、あとで人々に奇怪な感触さえ残したが、鳥取を一瞬のうちに恐怖の底にたたきこんだ大地震は、雨がようやく小止みになった直後に起こった。(注)
当時わが家は二軒あった。鹿野街道と川端通りが交わって十文字を作る。横棒が鹿野街道、縦棒が川端通りとする。この右下角にわが家があった。街道を右手の方へ行くと袋川になる。わが家から袋川の手前まではアーケードになっていて、ここを内市といい、昔は賑わっていた通りだった。
この内市の角屋の一軒であるわが家は[浪花屋]という練り製品製造業、平たく言えば、かまぼこ屋あるいは竹輪屋をやっていた。一階が仕事場で、二階に義兄夫婦が暮らしていた。
川端通りは浪花屋までが川端四丁目で、ここから十字の縦線を下にのばした通りは単に四丁目尻と呼ばれていた(現在は、川端五丁目)。袋川は川端通りとほぼ並行して流れきて、川端五丁目の半ばあたりから J字形に曲がる。再び文字を使えば、「サ」の―が鹿野街道、左の|が川端通り、右のノが袋川。そして四丁目尻と交わった川は、そのあと鹿野街道とほぼ並行して流れていく。
川端通りと並行して何本もの通りが左側にあって久松山へ近づいていく。川端五丁目の左が元魚町四丁目(旧魚町尻)、さらにその左が茶町と続く。これらの通りを、二分するように、鹿野街道と袋川の間に細い道が通っている。ちょうど川と三の文字が田を作るように。

もう一軒のわが家は、川端五丁目の鹿野街道よりのところにあった。現在二つのマンションが並立しているが、街道寄りのマンションのあるあたりだ。四つに仕切られた二階建ての長屋で、右端が華道か茶道の先生をしていたお婆さんが、その隣には中年の夫婦が住んでいて、次がわが家だった。四軒目は空き家で物置。裏側には住吉という料亭があって、長屋とは広い庭でへだてられていた。
この住まいに、両親と妹と四人で暮らしていた。

あの日学校から帰宅したのは午後2時か3時過ぎであったであろう。家にはだれもいなかったに違いない。(当時は、旅行にでも出かけなければ、留守になっても家に鍵を掛けたりはしなかった。)
冒頭に引用したように、雨が降っていた。かばんを置くと、増水した袋川の様子を見にでかけた。おそらく土手沿いを歩いて魚町尻へ出たのであろう。
母方の伯父の家に立ち寄った。妹も来ていて、二人の従姉妹と遊んでいた。わたしも三人に加わったが、どんな遊びをしていたのか、記憶にない。部屋は玄関の脇にある道路に面して大きな窓があった。

ゴォーという不気味な音がしたと思うと、ガタガタと音をたてて家が揺れ始めた。上下、左右、同時に揺れるような激しさで、棚から物が落ちてくる。あわてて立ち上がったが、すぐ足をすくわれたような格好で、しりもちをついてしまった。再び立ち上がったとき、窓ガラス越しに、道路をへだてた向かいの家の庭を囲む板塀が左右に波打つようにしなりながら倒れていくのが見えた。
この年の春、かなりの地震を体験していた。(例の醇風国民学校の日誌に、「三月四日 午後七時十三分鳥取地方ニ相当強度ノ地震アリ」との記述がある。)その時は、玄関の下駄箱の上あった植木の鉢が落ちて割れた。
だが、この時の揺れの激しさはその比ではなかった。われわれ四人のこどもは言葉にならない叫び声をあげるばかりだった。激しい揺れがとまると、はだしのまま、道路へとびだした。
波打っているのを見た板塀は倒れ、何本もの電柱は大きく傾き、電線は垂れ下がっている。鹿野街道の方はもうもうと土煙が上がって他にはなにも見えない。髪を振り乱したどこかの小母さんが、これもはだしのまま、何やら泣きわめきながら袋川の土手の方へ駆け抜けて行った。
四丁目尻と魚町尻の間には魚市場があった。魚町尻側に小さな事務所があり、その前の四丁目尻まで続く広い空間は柱だけが立っていて、スレート板の屋根を支えていた。同じ作りの青果市場が魚市場とL字を作るように、四丁目尻の通りに沿っていて、事務所は土手側にあった。どちらも前年に作られたように思う。
わが家の方へ振り向いてみると、この魚市場がぺしゃんこにつぶれ、灰色の大きな屋根が山形になって地面を覆い、四丁目尻の方の視界をさえぎっている。一瞬にして見慣れていた世界が一変してしまったという思いに圧倒された。
大きな地震の後には揺り戻しがあるという知識はもっていたが、とにかく家に帰らなくてはの一心で、妹を従姉妹に頼み、一人で大きな屋根を上り、越えたところで、わたしたちを探して、もしやと叔父の家へ向かってやって来た両親とばったり出会った。そのすぐ後、駆け付けてきた義兄姉ともいっしょになって、家族全員の無事を確かめ喜び合った。
四丁目尻の長屋は、一棟全体の一階がペしゃんこにつぶれ、二階はしゃんとして残っていた。
両親たちは、この日たまたま芝居見物に出かけるどこかの団体の仕出し弁当の注文を受けており、内市の店で忙しくしていた。そのため夕食が遅くなることを、妹とわたしは知っていたから伯父の家で遊んでいたのだ。
ぐらっと来たとき、父は義姉を相手に大きな鍋でてんぷらを揚げていたという。鍋の油がゆっさゆっさ揺れ、二人はありたけの野菜類を鍋に投げ込み、外へ飛び出した、と聞いた。この店は倒れず、全員が無事であった。すぐに長屋に駆けつけた両親は、わたしと妹が一階で下敷きになっていると思い、何度も大声で呼んだそうだが、もしやと一縷の望みをいだいて、伯父の家に向かったのだった。

長屋は一階が潰れてしまっただけではなかった。隣かお師匠さんの家のどちらかで火か出たのだ。あたりが暗くなりはじめた頃だったから、6時になる頃であったろうか、一階全体に回っていた火が、ぼっという音とともに、吹きあげるように二階全体に広がった。道路側の窓は窓ガラスはもちろん、窓枠も下に落ちてしまっていたから、一瞬、部屋の中が照明に照らされたように浮かび出た。窓際にあった机の上の本立ても、安藝ノ海の写真を入れた小さな写真立ても机上にあったし、アッツ島守備隊長・山崎大佐、連合艦隊司令長官・山本元帥の写真の額も長押の上にそのままあった。みんなあっという間に炎に包まれて焼けてしまった。そのとき、わたしは、はじめてわっと泣き出してしまった。
1936(昭和11)年末から発行されていた『乃木大将』『岩見重太郎』『金太郎』などをはじめ、何十冊かそろっていた「講談社の絵本」や幼稚園で購読していた『キンダーブック』も焼けてしまった。ランドセルも教科書や文房具もみんな焼けてしまった。階下の壁に貼っていた大きな世界地図も、縁側の近くに置いていた網を掛けた水盤のなかのカジカガエルも……。

魚市場は全壊したが、青果市場は被害を受けなかった。長屋の火が鎮まるころ近所の人たちが市場に集まってきた。二十世紀梨の入った木箱が積み上げられていたが、箱が崩れ落ちて、ナシが散乱していた。事務所の人が好きなだけ食べろ、というのでみんなが食べた。
母と姉が大きな釜で炊きあげたご飯をそのまま持ちこんで、にぎりめしを作って、まわりの人たちに振る舞った。仕出し弁当に使う料理も提供した。ふだん話をしたこともないような人たちも地震のときの有様を興奮したようにしゃべりあっていた。こんなとき、大人はよくしゃべるんだ、と子供心にも思った。

長屋ではお師匠さんだけが亡くなった。助けを求める声が聞こえたが、火のまわりが早くで救出できなかった。
市場の下はコンクリートだった。内市の家から持ち込んだ畳を並べ、布団を敷いて寝た。暗闇のなかで、亡くなったお師匠さんの燐が燃える青白い光が
ゆれていた…。

先回引用した『鳥取の震災』の「大震災」の部に、次のような『大因伯』10月号からの引用がある。その一部を孫引きする。
「また、鳥取市大黒座に出演し、同日夜の部開演前の六代目大谷友右衛門は、楽屋にあって顔作り中であったが、隣家が倒壊して楽屋にのりかかり、不幸圧死した」「鳥取駅前に小屋掛けをしていたサーカス団(引用者注:木下サーカス)も、この地震で団長が亡くなり、曲芸や象使いの子どもたちも三人圧死した」。(同書p.20)

大谷友右衛門の來鳥が、そしてその芝居の見物客の注文を受けたことが(父は気に入らない客のくずし物以外の注文は受け付けなかった)両親と妹とわたしの命を救ったのだ。

先回述べたように、醇風国民学校の児童16名がこの地震で亡くなった。そのうち、6名が茶町、1名が四丁目尻。妹とわたしは、その間にある魚町尻の家にいて助かったのである。亡くなった児童の内、同学年以外にも何人か、顔が思い浮かぶ子がある。みな10歳前後だ。生き残ったわたしは、あれから70年近くまで、こうして馬齢を重ねている……。

(注)『鶴田憲次遺文集 風に訊け』1982年 同編集委員会(pp.295-296)

2009年9月13日日曜日

鳥取大震災 2/3回

先回の記録的な記述に、もう2、3点、補足しておきたい。

1)当時の醇風国民学校の日誌の記入者が「恐懼感激ノ至リニタヘズ」と記した昭和天皇からのお見舞いについて、当時の県内発行の雑誌「大因伯」は、9月16日、小倉侍従の現地状況の詳細をお聞きになった天皇が「ご救恤(きゅうじゅつ)金として、ご内帑(ないど)金一封を鳥取県に下賜(かし)された。松平宮内大臣は、この日直ちに武島知事宛に、電報でその旨を伝達した」と報じている。
なお、上記引用文中にある難しい言葉は文脈からお分かりだと思うが、手元にある『福武国語辞典』で調べた結果を書いておく。

・救恤(きゅうじゅつ)  (貧困・被災などで)困っている人を助けること。
・内帑(ないど)金   天子の手元にある金。

2)わたしが未見であるとした『鳥取震災小誌』について、『鳥取の災害』のうち「鳥取大震災」を担当した芦村登志雄さんが[あとがき]のなかで次のように述べている。
…当時の記録は、戦争中の防諜事情もあって、殆ど残されてはいない。わずかに、特高警察の記録した『鳥取震災小誌』が、その面影を偲ばせるばかりである。
こんな記録がよく残っていたと思う。

3)この『小誌』は、中部第四十七部隊(鳥取連隊)をはじめとする軍の活動についても、詳細に記録している。

震災当日、川上部隊長は直ちに救援・救護のために全員に出動命令を下し、市内に出動し、警備、死傷者の収容救護、防火消防、県庁・鳥取駅・陸軍病院間の通信確保、さらに陸軍病院も、救護班を編制、鳥取駅・日赤病院・修立国民学校などで治療活動を展開した。
翌11日。前日の活動に加えて、鳥取駅、山陰本線・因美線の復旧作業。この日から夜間警備も開始。さらに、中部第五十二部隊より140名、舞鶴鎮守府から海軍軍医以下132名が来援。
12日。中部第五十四部隊より自動車隊3輌が来援、患者および衛生材料運搬に当たる。さらに、皆生と姫路の陸軍病院からも救護班が来援。
13日。東京陸軍軍医学校・岡山陸軍病院から、救護班が来援。

子供心にも、多くの兵隊さんたちの、きびきびした、統制ある行動が頼もしく、心強く感じられたのは事実だ。

4)戦時下であったから、鳥取震災のニュースは控えめに報道されたというが、全国からの物心両面の救援もあった。各府県から見舞金や、米をはじめとする食料品、衣類、日用雑貨品にいたるまで多くの物資が送られてきた。
海外からも、タイ国からは米3000石が寄贈され、中国(国民政府側)からは見舞金が寄せられたという。

5)さらに、芦村さんは、2)に引用した文の直前に、こう書いている。
あれから四十五年(引用者注:1988年)、戦後経済の飛躍的発展により、震災被害の残象は、どこにも見当らないほどに復興をみた。現在、少なくとも五十歳以下の市民で、鳥取大地震の悲劇を知る人は、全くいないといってよい。それほどに鳥取震災は、もはや風化し去ったのである。
この芦村さんの歎きからさらに21年が過ぎている。先回、マスコミさえ何も報じていないと嘆いたが、現状は当然というべきであろうか。

今回も『鳥取の災害』の中の、芦村登志雄さんが担当した[鳥取大震災]からの引用と孫引きに終始してしまった。
この本が刊行された当時の西尾優鳥取市長が、[はじめに]の中で次のように述べいる。 
わたしたちは、これらの災害をよき教訓として日々の暮らしに生かし、明るく住みよい鳥取市づくりを目指していきたいものです。そんな願いを込めた『鳥取の災害』を、家庭や職場にぜひ揃えてほしいとお勧めする次第です。
しかし、現在、鳥取市民の多くはこの本の存在すら知らないのではあるまいか。わたし自身、あらためて知ったことが多い。

そんなことで、このようなブログになってしまった。2回で終わる予定だったが、もう一回続けて、次回、わたし自身の思い出を記したい。

2009年9月10日木曜日

鳥取大震災 1/3回

9月1日は、[防災の日]であった。あらためてこの日の朝日新聞を開いてみたが、衆院選挙の記事ばかりで、「防災」なんかどっかへすっ飛んでしまっていた。この日が[防災の日]となったのは、言うまでもなく、関東大震災のあった日だからだ。

今日、10日は66年前、鳥取大震災のあった日である。朝日の鳥取版を見ても、郷土紙といわれる日本海新聞を見ても、1行の記事もない。それで、ブログにとりあげる気になった。

1995(平成7)年1月の阪神・淡路大震災の死者は6,434人といわれている。被災12市の当時の人口約30万人として、住民の2.4パーセントが死亡した。鳥取大震災の死亡者は鳥取市だけで1,025人だった。ウェブで調べてみたところ、市の人口は昭和15年が49,261人、昭和20年が51,848人というから、当時の人口を5万人として計算してみると、2.5パーセントということになる。

鳥取市社会教育事業団が発行している[郷土シリーズ」の第34巻『鳥取の災害―大地震・大火災―』から冒頭の部分を引用する。
一九四三(昭和十八)年九月十日、午後五時三十六分五十七秒、突如として、鳥取地方に大地震が起こった。この地震で鳥取の町並みは一瞬のうちに崩れ去ってしまった。
地震の規模は、直下型烈震で、マグニチュード七・四を記録した。この、震度の大きさからいえば、一九二三(大正十二)年の関東大震災、一九三三(昭和八)年の三陸沖地震につぐものといえよう。だが倒れた家や死傷者の率からすれば、かつて例のないほどの激しい地震であったことがわかる。
次いで地震の瞬間について、『鳥取県震災小誌』(引用者未見)から次のような引用がされている。
「……平和な各家庭においては、楽しい夕餉の支度に忙しく、官庁や会社等においても、残暑の名残りまだ消えやらぬ暑苦しい一日の勤めを終えて、やっと解放された気持ちで帰途につきつつあった。……略……道を歩いていた者は、瞬間に地上に投げ出されている自分を見出した。立ち上がろうにも立てないのである。そこかしこの家々からおこる悲痛な叫び声に続いて、バラバラと身一つで逃れ出る人びと。かくてこの瞬間に、家々の建物は、目の前で凄まじい土煙を立てて崩れて行ったのである。ほんの一瞬の出来ごとであるが、今までの平穏な世界は一変して、この世ながらの生地獄と化し、倒れた家の下敷きとなって瞬時に生命を失う者、悲痛な声をふりぼって助けを求める者、親を呼び子を求めて号哭する声は巷に充ち溢れ、あわれ罪なくして親を奪われ、傷つき、住むに家なく、逆上狂乱して右往左往する人々の姿は痛ましいというか、全く凄惨きわまりない、阿鼻叫喚の地獄であった。……略」(この引用文中の省略は『鳥取の災害』の著者)
この『鳥取の災害』には、わたしが通学していた醇風小学校の沿革誌からの引用がある。わたしも醇風と久松(当時は両国民学校)の戦時中の日誌のコピーを所有しているが、高校の教務部などが記録している教務日誌のようなもので、小学校では教頭さんあたりが記録していたものと思われる。当時はみな筆書きである。地震当日の記録では、校舎の被害の概要を記したあと、次のような記録がある。
尚、其ノ夜震災ニヨル火災発生ス。校下ニテハ鹿野町・元魚町・川端四丁目尻ニ起リ、倒壊・焼失ノ厄ニ遭遇セル家庭多数ニ上ル。
コノ大被害ノ外ニ、本校児童中、下校後家庭ニアリテ家屋ノ下敷トナリ、惨死ヲ遂ゲタル者一六名ノ多数ニ及ビシコト、マコトニ哀悼痛惜ノキワミデアル。ココニ罹災遭難児童ノ名ヲ記録シ、冥福ヲ祈ル。
死亡した児童は初六(初等科六年)から初一(初等科一年)まで全学年に及び、氏名と住所が記載されている。わたしは当時3年生だった。クラス数は3クラスで、1,2年生の時は男女共学で、黄組・青組・赤組、3年からは、男子組、女子組、混合組(男女一緒)に分かれた。死亡した児童は、むろん、みな氏名も記載されているが、同学年だけイニシャルをあげ、他学年は人数のみ記す。
初六 3名。初五 4名。初四 2名。
初三 S.Y.(川端四丁目尻) Y.M.(茶町) F.T.(元鋳物師町)。全員女子。
初二 3名。初一 1名。
死亡した児童の上記以外の住所は、新品治町、本町四丁目、新鋳物師町、鹿野町である。

もう一度、学校の記録に戻ると、翌11日には、「本日ヨリ震災ノタメ臨時休校トス。震災対策トシテ校下罹災民ニ対スル食糧配給本部ヲ学校ニ置キ之ガ救済ニ努ム。/応援奉仕隊多数来校。校下罹災家屋ノ取片付ケ作業ニ着手シ、本校ニ宿泊ス。」12日には「県庁会議室ニオイテ、安藤内務大臣ノ震災慰問激励ノ訓辞アリ。宮代校長出頭ス。(一部省略)本日大阪府救護班来校。本校ニ駐在シテ罹災者ノ救護ニ当ル。」さらに17日には「校庭ニ罹災民収容ノタメノ仮住宅建設工事ニ着手。姫路の陸軍工作隊ニヨル。」19日「御前十時ヨリ市役所市会議場ニオイテ、武島知事ヨリ畏キ聖旨伝達アリ。恐懼感激ノ至リニタヘズ。/午後五時武島知事親シク来校、震災復興状況ヲ視察セラレ激励ノ辞ヲ受ク。本日ヨリ天理教奉仕隊員約一五〇名来校、講堂内ニ宿泊。」その後も市内にある県立鳥取商業や市立高女の生徒達や兵庫県青少年工作隊などが来校し、校舎の取り片付け作業や修復工事に奉仕している。
翌10月になると、1日に、久松公園仁風閣前広場で開校し、教科書や学用品などが配分されている。当日の出席児童数は773名だったという。また、この日、校庭に罹災民仮住宅七棟が建築落成している。4日から二部授業が開始され、15日には、東京都国民学校職員児童代表として、東京都国民学校職員会幹事長、同会計部長、東京都四谷第五国民学校長、御徒町国民学校長の四人が来校し、見舞いを述べている。また彼らは、見舞金として五万一千一百六円を持参し、市の学務課に贈呈している。
11月16日には、震災死亡職員生徒児童合同慰霊祭が、県教育会主催の下、県立高女講堂で挙行された。12月10日には、醇風国民学校講堂で、16名の死亡児童の慰霊祭が行われた。

以上、いささか長すぎるほど紹介したのは、戦局が厳しくなってきたあの時期に救援活動や激励行動が敏速に行われていたことを知って欲しかったし、戦時下の被災記録がこんな形で残っているのは、『鳥取の災害』の著者も述べているように、珍しいからである。

長くなったので、ここまでとし、明日、わたしの個人的な思い出を書き加えたい。

※芦村登志雄・鷲見貞雄『鳥取の災害―大地震・大火災―』財団法人・鳥取市社会教育事業団 1988(昭和63)年9月10日

2009年9月6日日曜日

当世キーワード(2009年9月①)

【当世キーワード 2009年9月①】
◇石垣島ラー油
 略して「石ラー」ともいう。幻のラー油だそうな。
◇キャッシュパスポート
 海外旅行中、どこでも、いつでも、現地通貨を引き出せるカード。
◇シーナビ
 カーナビの海上版。
◇スーツ芸人
 ウッチャンナンチャンのように、スーツを着ている芸人のことだそうな。
◇シンプル族
 これ、読んでみて。Amazon の「内容紹介」には、こう書いてあります。  
自動車販売は減っているが自転車は人気だ。百貨店は苦しんでいるがユニクロは絶好調だ。エコ志向、ナチュラル志向、レトロ志向、和風好き、コミュニティ志向、先進国より世界遺産、農業回帰…新しい価値観が台頭してきたのだ。シンプル族が日本を変える。
今の日本の救世主かも。

◇ファーザーズバッグ
 マザーズバッグの父親版。

2009年9月1日火曜日

今日から9月

先月はブログの記事をほとんどアップしなかった。毎日コンピュータの前に坐ってはいたのだが……。
「ベネット父子」については、調べたいことがあるのに、県立図書館へも足が遠のいている。今月は何回か連続して掲載したい。
Twitterをはじめてみた。とりあえず、右のサイドバーにもアップした。ぶつぶつ独り言のつぶやきに終わることにならなきゃいいが、と危惧している。

◇Twitter を始めてみる気にさせてくれたサイト

Kamar Kecil di OnEco Travel

2009年8月26日水曜日

自分の画像

これまで右の自己紹介欄にヤドカリのマンガ風のイラストを載せていた。以前、ヤドカリの古名、寄居虫(ごうな)の筆名で文章を書いてきたからだ。

一年ほど前になろうか、ブログは実名にしようときめた。とりたてて申し上げるほどの理由はない。それなら肖像も実物にしなけりゃと思ってはいたが、むさ苦しい爺さんの顔をさらすのはどうもと、後込みしていた。
還暦を過ぎてから己独りの写真を撮ってもらたことはない。思い切って喫茶店のマスターに頼んで写してもらった。うーん、我ながら哀れな面(つら)だ。写真をもとに絵を描いてくれるサービスがあると知って、決心したのだが、そうは言ってもねえ...
100KB以内の顔写真をメールに添付して、件名に年齢の数字を入れて送れば絵画化したものを送り返す、というところがあったのでさっそく送った。
予想以上に素早い返信が届いて驚いたが、絵を見て仰天した。
ご覧の通りだ。これじゃあ、件名に書いた「75」は何だったのか?
国外のものだが、FotoSketcherという写真を絵画風に変換をしてくれるのを見つけた。
これを、さらにペン画風の絵にもしてくれたので、それをアップした。
どうもこういうことにはうといので、これでいいことにしておこう。





2009年8月6日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (38)

【毎年のように「帰国」したスタンレー】

加藤恭子の『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』は、いわゆる「編年体」というか、人物の誕生から死に至るまで年月を追って記述する形式では書かれていない。太平洋戦争戦後、何度来日し、来鳥したか、正確には分からない。『S・ベネットの生涯』からざっと拾い上げてみると、つぎのようになる。

1956(昭和31)年。戦後初めての来日。

  第1回アジア・大平洋州国際電子顕微鏡会議(東京)10月24日~27日
  ◆26年ぶりに日本へ帰った喜びを語っている(p.139)。
  11月1日 早朝鳥取着。久松山に登る。

1959 (昭和34) 年、広島大学訪問(p.173)。
1960(昭和35)年、日本解剖学会総会で特別講演(p.175)。
1962(昭和37)年、3月29日~4月10日、アリスも初来日(p.146~)。

1965(昭和40)年

  このシリーズ第11回(2009/01/06)。スタンレーが「鳥大メディ カル」に寄稿した「鳥取の思い出」(拙訳)の中で次のように書いている。「1965年の夏、妻と いっしょに米子を訪れたとき、鳥取大学の親切な教授方にご一緒していただき、夫婦して大山の頂 上まで非常に快適な登山をする恩恵を受けた。」

1966(昭和41)年8月

  京都で第6回電子顕微鏡学会。(p.227)
  神戸で国際解剖学会議(p.238)。

1974(昭和49)年。

  日本政府より勲二等瑞宝章を授与された。 (p.194.pp.226-227 p.237)
  6月14日、東京医科歯科大で講演。(pp.226―227)

1979(昭和54)年。

  3月~6月、東大医科学研究所に客員教授としてアリスと共に招かれる(p.146)。
  この来日の際に、鳥取も訪れ、 NHK鳥取の「マイク訪問」に出演(p.51)。
 

[1977年、科長を退職。1981年、生殖生物学研究所所長を退職。( pp. 250~251)]

1984(昭和59)年。

  8月26~31日、第3回国際細胞生物学会。(p.256 p.260 )
  9月22日、フレデリックの墓参。ヘンリーの蔵書などを県立博物館へ寄贈。(pp.266-269)
  9月29日、日本を発つ。

1986(昭和61)年。

  8月30日~9月17日、夫婦で最後の来日(p.272)。


1988(昭和63)年来日の予定をキャンセル。手術、入院。(ページ、同上)
1992(平成4)年8月9日、スタンレー死去。享年81歳(p.305)。

2009年8月4日火曜日

当世キーワード(2009年8月①)

以前、何度かこのブログで紹介したが、「当世キーワード」をまた取り上げる。

前の晩に深酒していなければ、朝の3時とか、4時頃には目を覚ましラジオを聞いている。
したがって、日曜の朝のラジオ(NHKラジオ)もよく聞いている。

「土曜・日曜あさいちばん」の番組を担当しているキャスターの佐塚元章さんが、NHKラジオのブログに、次のように書いている。
 
「今、この新語・流行語にこだわると、世の中少しは見えてくるかも」の私のコーナー紹介で始まる「日曜あさいちばん 当世キーワード」(日曜午前5時半から放送)は、いつも多くのリスナーから反響をいただきます。新語アナリスト・亀井 肇さんが、昨今世の中で使用されてきた新しい言葉を毎週5~6語紹介してくれます。今年で11年目になる名物コーナーです。私も思わず「うーんなるほど!」と唸(うな)ってしまったり、また「うふふ……」と笑ってしまう言葉ありで、たいへん楽しみにしています。
     http://www.nhk.or.jp/r1-blog/200/23005.html

世の中の動きにうとい老生にとって、この番組は興味深い。「世の中少しは見えてくる」からだ。これらの新語・流行語にこだわ」って、ウェブ上の「世の中」をのぞいてみる。
むろん、たくさんのサイトを見ることができるが、せっかくだから、新語・流行語の1語について、
ひとつのサイトのアドレスをご紹介するのも、おもしろかろうと思った次第。
◆野菜染料  
◆地域版エコポイント
◆熱中症計
◆買い物難民
◆マイタケパウダー
◆アラカルト婚

では、今の世の中を見に、お出かけ下さい。

2009年7月19日日曜日

鳥取を愛したベネット父子 (37)

【スタンレーの戦後初の帰国はいつであったか?】

5月27日付「鳥取を愛したベネット父子(36回)」の終わりに、次のように書いたあと、2ヶ月近くが過ぎてしまった。
付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。
昨日、久しぶりに県立図書館へ出かけて調べた。朝日新聞の縮刷り版で、この学会についての記事を見つけた。

1956(昭和31)年10月21日付新聞の11ページ。新聞の下段(広告のすぐ上)にある一段の記事を「べた記事」というが、そこに短い記事があった。記事の最終ページに今もある「青鉛筆」という小さなコラムの右隣に「急性ジン臓炎で倒れた牧野富太郎博士が危機を脱した」という7行の記事があり、その右に次のような記事があった(見出しは省略、本文は全文)。
二つの中国やソ連から二十余人の学者を招いてアジア・太平洋州国際電子顕微鏡会議が二十四日から四日間、東京産経会館国際ホールで開かれる。主催は日本電子顕微鏡学会(谷安正会長)で、日本学術会議、文部省の後援。参加外人学者はドイツのアーネスト・ルスカ教授をはじめ米、インド、インドネシア、カンボジア、台湾、中共。ソ連から二十三人が参加を申込み、日本側は約二百三十人が加わる。
 このうち中共からは方志芳博士以下五人が来ることになっ
 ているが、日本政府が入国許可をしぶって二人しかみとめ
 ていないので、同学会では「学問の交流を妨げるものだ」と
 いっている。
加藤恭子が『S・ベネットの生涯』138ページで「この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。」と書いているのは、「…十月、第一回アジア・大平洋州国際電子顕微鏡会議…」ということになる。

2009年7月14日火曜日

原爆の恐怖

わたし如きが今さら紹介するまでもないが、田口元さんの『百式』というサイトがあって、ユニークな海外のウェブサイトを毎日1件ずつ紹介している。(http://www.100shiki.com/)
昨日は、地域を指定すると、その地域を攻撃できる核兵器がどれぐらいあるかを教えてくれる『Nukeometer』というサイトを紹介していた。

もうすぐ広島、長崎での原爆による犠牲者の鎮魂を祈り、不戦を誓う日を迎える。
月から見た地球の美しさを見たばかりだが、今日は、その地球の住民であるわれわれの愚行に思いを致そう。

田口さんは「情報の正確さについては賛否両論あるだろうが、何かを考えるきっかけにはなるかもですね・・・」と言っているが、人間の怖さと愚かしさを改めて考えてみましょう。

攻撃目標は鳥取にしましたが、日本中どこにしても数字は同じであろう。しかし、自分の住んでいるところを記入して、この核弾頭の数字を見るべきでしょう。

(写真をクリックすれば、拡大します。)

2009年6月25日木曜日

ふるさと:地球

今朝の朝日新聞の【CM天気図】というコラムに天野祐吉さんが ―人類の「ふるさと」― と題した一文を寄せていた。
 「かぐや」から眺めた地球の映像を見た。(JAXA・NHK)
 なかでは「月の出」ならぬ「地球の出」の映像がいい。…
 そんな「地球の出」を記録した数本のなかでも、とくに「ふるさと」の歌が入ったものが、ぼくは好きだ。月の地平からゆっくり昇ってくる地球と歩調を合わせるように、♪うさぎ追いしかの山~と、澄んだ女性の歌声がきこえてくる。「ふるさと」。作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一。歌っているのは土居祐子さん。おなじみの唱歌である。
(科学的データである映像に情緒的なナレーションや音楽をまぶし、勝手に押しつけられるのはめいわくだ、と述べ、次のように続けている。)
 が、この「ふるさと」には、そんな押しつけがましさがまったくない。無音の宇宙から、地球と一緒に歌声がせり上がってくるというツクリに、思わず引きこまれてしまう。で、約4分の映像を見終わったぼくらの胸に、「そうだ、地球はぼくらのふるさとなんだ」という思いが自然にわいてくる。
 …あちこちに「地球にやさしく」風のキャッチコピーが目につく。が、地球を「人類のふるさと」ととらえたこの〝作品〟は、環境CMとしても最上のものじゃないだろうか。……
 それにしても、だれがこの〝作品〟をつくったのか。その人にぼくは、座ぶとんを3枚くらい上げたい。
わたしも、これらの映像をテレビで見た。
小学唱歌「故郷」について、これまでこのブログでもなんどか書いた。高野の出身地である長野県の人々はそれぞれの山や川を思いえがくであろう。岡野と同じ鳥取県人であっても、西部の人は大山や日野川を思いうかべるにちがいない。鳥取市で生まれ育ち、今も暮らしているわたしにとって、ちっぽけな久松山や袋川がふるさとの象徴だ。
だが、荒涼とした月の向こう側から昇ってくる地球を眺めながら、土居祐子の歌を聞いているとこの小さな地球こそわれわれのふるさとなんだと、しみじみ思う。
天野さんの文章を読んでから、自分の記憶を確かめるために、今朝からウェブ上をあちこち探索してみた。その結果をみなさんへご紹介したい。
NHKの番組についてのサイト:
http://www3.nhk.or.jp/kaguya/broadcast.html#kako
天野祐吉さんのブログ:http://amano.blog.so-net.ne.jp/
天野さんのブログでも見ることができるが、今日の話題の画面を再現している YouTube を下にのせているので、ここでもご覧になれます。
ちと、デカ過ぎちゃった!

【追記】土居祐子さんの オフィシャルブログ「do-it!」 にも、6月25日付〈満地球の出とふるさととのコラボ〉があります。
http://bowbowwanwan.jugem.jp/
 



受賞番組情報(イタリア賞受賞)







2009年5月27日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (36)

【26年ぶりの「帰国」】
父ヘンリーの死から6ヶ月後の1956(昭和31)年11月、スタンレーは26年ぶりに鳥取の地に戻った。
「子供時代に去った日本、ことに鳥取へ戻るためには、戦勝国アメリカの人間にとってさえも、二十六年という歳月が必要だったのだ。スタンレーは四十六歳になっていた」と加藤恭子は書いている。
 この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。彼は「細胞学と組織学における電子顕微鏡の貢献」と題する講演を英語で行った。
 
 その中で彼は、この学会が自分の生まれた国へ帰る二十六年ぶりの機会になった感動を述べたあとで、こう続けている。
「日本海に近い小さな都市鳥取で、私は生まれ、育ちました。そこは西洋の影響があまり強くない土地でしたので、日本の古くからの、そしてすばらしい文化的伝統に密接にふれながら育ったのです。こうした子供の日々の経験は、すばらしい文化、そして日本人や他のアジアの人たちが成し遂げた芸術的な業績に対し、変わらない賞賛とそれを楽しむ気持ちを私の中に植えつけました」
 この招待講演の実現には、その年四月に帰国した山田英智の尽力があった。彼はこの年に久留米大学解剖学の教授に就任していた。
 ……………………
 学会が終わると、スタンレーと英智は山陰線の夜行列車の薄暗い寝台車にもぐり込んだ。
 十一月一日の早朝、鳥取駅着。寒い朝だったが、空はくっきりと晴れていた。生まれ故郷の土地に降り立った感慨が、駅前のまだ扉を下した家々を、無言のまま眺めているスタンレーからひしひしと感じられた。
 最近アメリカから赴任してきた宣教師の家にまず立ち寄り、朝食をとった。小さな家だった。赤ん坊を抱えた夫人にとっては、異郷での生活が苦しそうな感じだった。新婚間もない父と母が、二日かけて中国山脈を越えた日のことを、スタンレーは連想していたのかもしれない。
 朝食後、久松山に登った。ずんずんと一人で先に立って登るスタンレーのあとを、英智も追った。城跡からは、朝日に照らされる鳥取の町が一望できる。じっと立ち尽くすスタンレーの姿を、英智は少し離れた場所から見つめていた。
(帰って来た……)
長身のスタンレーの身体全体が、鳥取の町へ向かってそう語りかけているようであった。
 スタンレーが生まれ育った「宣教師館」は、戦後進駐軍によって使用され、失火により焼失してしまっていた。焼け跡にたたずむスタンレーの脳裡には、「異人屋敷」ともよばれた「宣教師館」でのあれこれが去来していたにちがいない。機械好きのスタンレーは、おもちゃを片はしから分解した。足の踏場もなかった自室……、庭で遊ぶ子供たち……。そしてその中には、あのフレデリックも交じっていたかもしれない。
 孤児院、教会、幼稚園、どこでも大歓迎だった。昔を知る人たちが集まって、アルバムを広げ思い出話がはずんだ。
「まあ、こんなに大きくなって……」
 と、スタンレー少年の成長した姿に眼を細める老婦人たち。尾崎誠太郎をはじめ、幼な友だちは、話し始めるとすぐ、〝子供の顔〟になってしまうのだった。
 ……………………………………………
 フレデリックの墓にも詣でた。
 「花を捧げてじっとぬかずく教授の上に松風がかすかな音を立てます」
 と英智は記している。
 母のアンナは、スタンレーのみやげ話を楽しみにしている。長年の伴侶を失ったばかりのアンナのために、スタンレーはあちこちの写真を撮りまくった。一つ一つの場所を、スタンレーは鮮明に記憶していた。
 長年心の中だけで想い続けてきた土地に、スタンレーは戦争をはさみ、まさに二十六年ぶりに立っていた。そして、この昭和三十一年以降、彼は何度も何度も鳥取へ帰って来る(引用者付記:この前5字に傍点あり)ことになる。
   (『スタンレーの生涯』pp.138―141)
今回はほとんど引用のみになってしまった。著者にたいしても、このブログを読んでくださった方にも申し訳ないと思う。
ただ、付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。
この点を確認することは今のわたしにはできないし、また、ここでは、学会での発言と鳥取へ帰ってきたスタンレーの様子を知ることでいいだろうと思っている。



2009年5月15日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (35)

【両親の死】
スタンレーの最初の弟子となった山田英智の『電子顕微鏡とともに』(城島印刷、1984年)の中に「砂山」と題したエッセイがあり、スタンレーの父、ヘンリーの晩年の姿を描いているという。
加藤恭子が『スタンレー・ベネットの生涯』の中(pp.136-137)で引用しているのを孫引きしておく。
1955年の4月5日、フィラデルフィアでの第6回アメリカ組織化学会に出席したスタンレーは山田を伴って、2日目の午後の講演と夜の発表の間の短い時間に、フィラデルフィア郊外のジャーマンタウンに当時住んでいたヘンリーを訪問したのである。
「ドアをノックしますと扉が開いて小柄で痩せた上品なお母さんが出てみえて中に案内されました。居間にはお父さんが椅子に座したままで挨拶されます。肥って血色がよくとても八十に近いと思は(ママ)れません。然し脳溢血の為に半身不随で殊に視覚に障害を受けて殆んど今では見えないということなのです。(略)小さな声で断片的に出る話は日本の昔のことでした。始めて鳥取に赴任する時未だ汽車もなく人力車で山陽道から山を越えていった話。その時、車夫に一円あげたら警官から多すぎるといって注意されたとか、日光を見ぬ中は結構というなとか」
みんなで夕食をとって、すぐに辞去した二人を、出口まで見送った母のアンナは、「さよなら、またいらっしゃい」と山田英智に日本語で別れを告げたという。

 加藤恭子は書いている。
 ヘンリーとアンナから届いたクリスマスプレゼンとのことを、スタンレーの幼な友だち尾崎誠太郎は、はっきりと記憶している。鉛筆百本と、アメリカの少年少女雑誌から人物写真を切り抜いたもの。「日曜学校の生徒さんたちに。今の私たちには、これだけしか送れません」という手紙が添えてあった。(p.137)
1956(昭和31)年5月7日にヘンリー・ベネットは死去した。
母のアンナは97歳まで生き、1973年12月20日、タルサで死去した。1966年に彼女が書いた鳥取の思い出を『スタンレー・ベネットの生涯』(p.222)から、これまた孫引きしておく。
「宣教師たちは英語やアメリカ文化を伝えようとしましたが、関係は相互的なものでした。こちらが与えたよりずっと多くのものを、私たちはもらったのでした。教育水準の高さ、礼儀と名誉の尊重など、私たちは日本人を尊敬するようになりました。私たちがいくつかの間違いを犯したにもかかわらず、人々が私たちに与えて下さった思いやりのある理解、親切、誠実な友情を、私たちは決して忘れないでしょう。子供たちは日本で育ち、ほかの国の人々との〝友愛〟の大切さを学びました。私たちが日本に住むことができたことを、感謝しています」

2009年5月14日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (34)

【若い日本人科学者たちの養成と、日本の電子顕微鏡製造技術への貢献】

先回の終わりに引用した文のなかで加藤恭子が述べていたように、戦場から戻ったスタンレーの心の中では日本、わけてもこども時代を過ごした鳥取への望郷の思いが大きくふくらんでいったのであろう。その具体的の表れの一つが、日本人研究者の育成と日本における電子顕微鏡の発展を手助けすることであった。

1954(昭和29)年の5月、一人の日本人が横浜から二週間の船旅の後、サンフランシスコに着いた。2日後、夜行列車でシアトルへ。針葉樹林がどこまでも続く景色を眺めつつ、不安を胸に抱きながら彼はシアトルのキングス駅に降り立つ。
「…トランクを下げて歩いてゆくと、出口のところで、額の広い、がっちりした体格の白人が、にこやかに笑みをみせながら日本語で話しかけてきた。『山田さんですか。私がベネットです。荷物はそれだけですか』
これが、スタンレーと日本人弟子第一号、山田英智との出会いであった。
(この項、『スタンレー・ベネットの生涯』pp.125-126 による。)

山田は当時、30歳を過ぎたばかりで、九州大学医学部解剖学教室の助教授だった。山田を含む9人の日本人がスタンレーの下で指導を受けた。これが「第一世代」である。

スタンレーは、1961年から約八年をシカゴ大学で過ごすが、日本人の弟子はとっていない。
1969年にノース・カロライナ大学へ移ってからのスタンレーに師事した若手研究者たちが「第二世代」である。その第一号が飯野晃啓。1938(昭和13)年北海道生まれで、鳥取大学医学部を卒業後、同大学助手となっていた。
1966年神戸で開かれた国際解剖学会議での彼の発表―偏光顕微鏡観察によるキチン質の形態学―を最前列で聞いていたスタンレーが「非常に面白い。いい発表ですね」と誉め、アメリカに来るように、さっそった。
晃啓は、妻の佳世子、二歳の光伸とともに、一九七〇年から七一年にかけて、客員助教授としてベネット研究室に在籍することになった。第二世代第一号の弟子である。一九七〇年四月二十八日午後にチャペル・ヒル着。
晃啓が鳥取大学医学部硬式テニス部の文集に書いたエッセイによると、スタンレーは飛行場まで出迎えてくれたという。

「手を上げて待っていてくれ、流暢な日本語で迎えてくれ、疲れも吹き飛んでしまった」
第一世代第一号の山田英智以来、スタンレーが示してきた心遣いである。遠来の客の心細さが彼の日本語のひと言で吹き飛ぶことを知っていたのだろうか。しかも、スタンレー自身大好物の羊かんを、
「これは虎屋のですから、召し上がって下さい」
と、佳世子に手渡した。箱入りで、ちゃんとのし紙がかかっていた。
スタンレー愛用のベンツには東大寺、東照宮、善光寺など、お守りがざらざらとぶら下げてあった。
「保険に入るより安いですからねえ」
と、スタンレー。(『スタンレー・ベネットの生涯』p.239)
この{第二世代」は六人だった。
これらの人々は、加藤恭子の言葉を借りると、「日本における解剖学の発展に寄与する錚々(そうそう)たる学者」たちとなって、「ベネット会」を結成していた。加藤恭子の二冊の本は、この会の要請によって生まれたものである。

いまひとつ、日本の電子顕微鏡の製作に関するベネットの貢献にふれておきたいが、正直に言って、わたしにはよくわからない。

・日本でも1932(昭和7)年頃から電子顕微鏡という言葉(electron microscope の訳語として)が生まれ、1939年には電子顕微鏡発展のための基礎を担う委員会ができたこと。

・日立研究所が電子顕微鏡1号機を作ったのは1942(昭和17)年春のことであったこと。

・日本における研究は戦争で中断したが、国分寺にあった日立の中央研究所は戦災をまぬがれ研究が続けられていたこと。

・戦後、なんども来日したスタンレー(彼は物理や電気にも強く、図面を見ただけですべてが分かり、すべてを読み取ってしまったという)の助言や弟子たちの厳しい注文などを受けて、「今日、世界で最も優秀な電子顕微鏡を生産しているのは、日立製作所、日本電子株式会社を中心とする日本のメーカーである」(『スタンレー・ベネットの生涯』p.180)こと。

加藤恭子が様々な文献を読み、取材を重ねて、この面についてもよく調べて書いていることにただただ感心するばかりだ。

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2009年5月5日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (33)

1945(昭和20)年10月31日付で兵役を解除されたスタンレーは、その2日後、ボストン郊外のブルックラインへ再び戻ってきた。一家そろっての生活がまた始まった。

戦争の始まる前年、1940年の夏、スタンレーの父ヘンリーは、次男のフレデリックが眠る鳥取の地に骨を埋めたいという夢を断たれて、アメリカへ帰ってきた。ブルックラインに大きな家を非常に安く手に入れることができて、スタンレーの一家も移ってきた。
長女のイーデスは1937年生まれ、祖母の名前をもらった次女のアンナは1939年生まれだった。この家に移って間もない42年の春、祖父の名前をもらった長男のヘンリーが生まれた。そして、スタンレーが戦場にいた1944年の2月はじめの雪の日、女の子が生まれ、ペイシェンスと名づけられた。
この年、祖父ヘンリーと祖母アンナは政府の仕事でワシントンへ移ったので、スタンレーが帰ってきたとき、この家には妻のアリスと四人の子供だけが住んでいた。

スタンレーは、ハーバード大学を休職扱いで戦場に赴いていた。
退役後、MIT、マサチューセッツ工科大学理学部細胞学教室に、助教授として迎えられた。

ここでの3年間が終わった時点で、ハーバード大学医学部教授と、シアトルにあるワシントン州立大学医学部解剖学教授と科長の職と、二つの口がかかってきた。スタンレーは、熟慮の末、後者を選択した。この選択について加藤恭子は次のように述べている。(『スタンレー・ベネットの生涯』pp.106-107)
   電子顕微鏡が、将来の医学、生物学にとっていかに重要になるかを見抜いたのも、その〝才能〟であったのだろう。だが、その〝才能〟は、日本に対しても働いたにちがいない。
 十三歳で日本を離れたスタンレーが再度日本とのかかわり合いを持つことになったのは、いわば異常な状況においてだった。ガダルカナル、沖縄など、〝敵〟としての日本、日本人との再会であった。
 だが、ワシントン州立大学の正教授と科長の地位を得ることによって、望ましい形での交流に乗り出すことができる。実現させられる(引用者注:原文には、左の7文字に傍点)という思いがあったのかもしれない。あるいはそれが、彼にとっては、自己と日本人の傷への〝癒しの道〟だったかのかもしれない。
 彼の心の中には、二つの計画があったのではないだろうか。日本人研究者の育成に手を貸すこと。そして、日本における電子顕微鏡の発展を助けること。
 もちろん、この二つだけが彼の後半生における重要な計画であったわけではない。彼自身の研究を実りのあるものにしていくこと。そして、何よりもまずアメリカ市民として、アメリカにおける電子顕微鏡を用いた細胞生物学のレベルを上げることに尽力しなければならなかった。
 だが、同時に、彼の心の底には、日本に対して何か確たるものがあったように思える。
 その〝何か〟とは、日本人へ対する愛着と言ってよいかもしれない。「私たちはここへ骨を埋めるために戻ってきました」と告げたヘンリーとアンナから引き継いだ鳥取への望郷の思いかもしれない。
 だが、その〝何か〟は、いつのころからか、スタンレーの心の中に巣喰い、成長し続けたように見える。