2007年9月25日火曜日

米原万里の父 (13)

もう一度、敗戦前の話に戻る。
1929(昭和4)年、米原昶がフランス留学を、という父親の最後の説得を聞き入れず、その志を貫いて敗戦後の「政治犯釈放の日」までの16年間をどのように生きてきたか―その概略を先回ご紹介した。その間、父親の米原章三はどうしていたのか、若干述べておきたい。引用を含め、資料はすべて『米原章三傳』(編集・発行 同刊行会)による。なお、本書についてはこの「米原万里の父」の最終回に詳しくご紹介する。

米原章三は1932(昭和7)年9月(すなわち昶が北海道での地下生活から、再び東京へ戻った年の3か月前)貴族院議員となり、1946(昭和21)年4月、貴族院議員を辞している。つまり、この間絶えず上京していたということになる。
六男の米原弘(1919年・大正8年生まれ。東京大学名誉教授)が『傳』に「東京の宿」という一文を寄稿している(pp.324―328)。以下は、必要な箇所だけを抜き出して結びつけるといった、著者に対してたいへん失礼な引用をしているが、お許しいただきたい。「…」は省略〔 〕内は引用者の付加「/」は改行を表している。
 父が東京に長く滞在するようになったのは貴族院議員に選出されてからだろうが、私はその頃、鳥取二中の生徒だったし、…山口高等学校に進んだので、東京での父の宿が何処であったかはよく知らない。/…父の常宿を初めて訪ねたのは昭和十五年三月初めのことで、神田駿河台の日昇館である。…〔ここ〕を利用させてもらって、東京大学の受験をした。その当時、鳥取から上京される多くの方が、この日昇館を利用しておられたようである。
私が東京大学農学部の学生になった…頃から、父は港区琴平町の村上旅館に常宿を移した。多分、国会に近いという事がその理由だったろう。…私は本郷の下宿で、父からの呼び出しを楽しみにしたものだ。父からの呼び出しは大抵食事を一緒にしようというもので、当時二十才前後の食い盛りだった私にとって、父のおごりは干天の慈雨だった。食事は外の飲食店やホテルに出掛けるのではなくて、近くの有名店から村上旅館に取り寄せて、父子で卓を囲むもので、随分度々御馳走になり、戦地に行っている兄弟に悪いなあと思う程だった。…特に、すき焼きを自分で味付けし、少々濃味に甘辛くしたものを「どうだ、旨いだろう。食え、食え」といって奨めたものである。
在学中に太平洋戦争が始り、私は卒業すると直ぐに陸軍技術部に入隊した。技術将校になると自宅からの通勤が認められる。丁度その頃、長兄穣が高知高等学校の教師から、文部省の課長に転勤になって東京に住んでいた。私は神奈川県登戸の第九陸軍技術研究所に勤務することになったので、兄と一緒に暮らすことにした。たまたま、兄の知人の家が麻布広尾町に空いていたので、そこを借りることになった。…今でも麻布広尾といえば東京山手の一等級住宅地である。隣は大東亜大臣の桜井兵五郎氏の邸であった(今はそこに立派な西ドイツ大使館が建っている)。そこに、かなりの庭のついた平屋建五十坪位の家を借りたのである。兄との二人住まいには、少々もったいない位であった。父が上京するとそこへ来るようになった。多分、戦争が激しくなり、食料事情も悪化して、村上旅館も、都心でゆうゆうと旅館業をやっていられなくなったからだと思う。/そこから父は議会に通った。父の上京は年に数回だったが、父の運ぶ物資は、物の無い東京住いの者にとっては大きな恵みであった。
昭和十九年空襲が始まり、中野に住んでいた代議士の叔父由谷義治は叔母を鳥取に帰し、我々と合流することになった。昭和二十年、空襲は益々激しく、東京は焼のが原となって行く。麻布は、その九割までが焼け…た。だが、私達の住んだ家は、隣が有栖川公園という地の利もあって、焼け残った。都心に近い家が焼けなかったので、便利なこともあったろう。今度は三好英之代議士(引用者注:長女世志子がその長男に嫁す)が栃木県選出の故森下国男代議士と共に同居を求めてやってこられた。終戦間際になって、一軒の家に四人の国会議員と一緒に住まうことになったのである。…
終戦後、陸軍から復員して、東京大学の研究室に復帰した。待遇は無給副手である。兄も文部省にそのままだったので広尾で一緒に暮らした。都内は焼のが原なので、父も上京するとそこへやって来た。(以下省略)
10年ほど前、いやもっと以前のことだったかもしれない。「週刊読書人」に、井上ひさしがこんなエピソードまで書かれている人物事典があると紹介していた。【地下活動をしていた米原昶と貴族院議員でもあった父親の米原章三が東京駅(頭)でばったり顔を合わせる。互いに互いを認め合いながらも、二人はそのまま無言で別れざるをえなかった。】
井上は何故この例を取り上げたのだろう、と思ったが、その後、彼が米原ユリと再婚していることを知り、合点した。
それはそれでいいのだが、肝心の事典の名称を忘れてしまっている。いろいろ調べてみて日外アソシエーツの『近代日本社会運動史人物大事典』ではあるまいか、と見当をつけた。〔本の検索 books search〕という有り難いフリーソフトで調べてみると、総索引も含めて5巻からなるこの事典を所蔵しているのは中国地方では広島、山口、岡山の県立図書館だけである。
そこで、鳥取県立図書館を通して、「上記のような記述がその事典にあったら、コピーを送って欲しい」むね、岡山県立図書館へ依頼して貰った。しかし「米原昶」の項目自体が無かったとのことであった。

「なにごとであれ、これはと思ったらメモせよ」の教訓をあらためて思い知らされているが、どなたか、ご教示いただけませんか?
      


2007年9月21日金曜日

米原万里の父 (12)

米原昶の16年間の地下生活は「年譜」を見ても、かなり具体的なことが分かる。
1930(昭和5)年、日本繊維労働組合の会員となり、翻訳のアルバイトや家庭教師をしながら、偽名を使い偽名を使い、住所を転々と変えながら労働運動を行った。
翌年の夏には、拷問で重体となった同志に付添い札幌の知人を訪れたが、引き取りを拒絶され、その同志の看病をしながら小樽の鉄工所で仕上げ工として働いた。北海道に1年半滞在した後、1932年12月帰京。以来、石川島造船所の下請けで肉体労働をしたりしながら、身辺に危険が迫ると群馬、福島、また東京へと転々と移り住んだ。
1939(昭和14)年、30歳で、東京・中野区の育英社で中学生を対象にした数学の通信教育の指導に当たるようになって、やっと生活が落ち着いた。『回想の米原昶』に、「育英社時代 一九三九年から敗戦まで」と題した池田平吾(引用者注:出版当時、トーイツ株式会社会長)の寄稿がある。

当時の彼は地下にもぐったままだったので、名前は勿論偽名で、「弘世哲夫」と名のっていました。本名を知っていたのは義兄(引用者注:矢崎秀雄。昶の一高時代の同級生で、親友。昶はずっと矢崎とだけは連絡を保っていたという。)夫婦と私との三人だけだったとおもいます。
育英社での彼の仕事は数学のテキスト、問題、模範解答の作成及び添削員(主としてアルバイトの大学生)の指導即ち数学の先生の仕事でした。彼の純粋素朴誠実な人柄は集まってくる添削員の大学生達の信頼を得、仕事を離れて話しにやってくる者が多かったことも思い出のひとつです。……
育英社も一九四二年頃までは会員も少なく、自炊して食っていくのがやっとでしたが、一九四三年頃から会員もふえて生活も楽になって行きました。当時の育英社は、会員向けの機関誌にも戦争については一切ふれず、社の内部には戦争の匂いは少しもありませんでした。結局育英社は、反戦、反ファッショの少数の仲間の小さな隠れ家で、皆がより集まって力づけ合いながら、嵐の吹き終わるのを待っていたと言えるでしょう。ただしかし彼はこんな時節に何らの政治活動、反戦運動もせずに暮らしているのが非常に辛いらしく、或る時彼から「僕は今むしろ刑務所に入っていたい。」と言われたことがあります。随分悩んでいたに違いありません。
一九四四年に彼に徴用令が来たことがあります。勿論偽名のまま本籍もでたらめで住民登録をしていたのですが、徴用になると戸籍謄本を提出しなければならなくなるので、困ったことになったと思いましたが、幸い中学生の数学の教師だということが重視されて、徴用解除になりホッとしたことも、思い出の一つです。
一九四五年になって空襲がはじまってくると、育英社も継続できなくなって休業し、私の妹も又当時彼を同居させて貰っていた私の友人畑山昇麓君も郷里に疎開したので、我々は再び同居して自炊生活をはじめました。空襲がはげしくなってきましたが、彼は空襲の翌日には必ず自転車で、焼死体のゴロゴロいている焼け跡を見て廻り、空襲の惨禍を調べて歩いていました。
八月十五日の敗戦を告げるラジオは、彼と二人で京王線の北野の駅で聞きました。感無量でした。
十月十日の政治犯釈放の日には、皆集まって彼のために乾杯しました。これからは晴れて政治活動に没頭できるであろう彼の前途を祝し、心から喜び合いました。
そして彼は代々木に党の本部ができるとすぐ本部に出頭し、戦線に復帰しました。又彼は一九二九年地下にもぐって以来十六年間音信不通だった郷里の家に、連絡の手紙を出しました。父君が我々の住む世田谷の家にあらわれたのは、十月半ば過ぎのことだったと思います。(pp.74―76)
この育英社を始めた年、後に昶と結婚した北田美智子が女子学生のアルバイトとしてやってきた。敗戦の年の12月、昶は代々木の日本共産党本部で入党、赤旗編集局に所属し、記者として働き始めた。翌1946年12月二人は結婚した。昶は37歳だった。
妻の美智子も『回想の米原昶』に寄稿しているがそのなかに次のような文章がある。
 戦後、池田さんの弟さんから聞いた話では、米軍の空襲で、育英社の近くでもたくさんの焼死者が出たとき、米原は、焦土のうえにつっぷして、「自分たちの力が足りなかった」と号泣したという。その気持ちが分かるような気がする。(一部ゴチックにしたのは、引用者。p.80)
ごうなは、この話を万里が「文春」かなんかの雑誌に書いていたのを読んだ記憶があるがさだかではない。ただ、米原昶という人物をもっともよくあらわしている感動せずにはいられない話だと思っている。

 




2007年9月18日火曜日

米原万里の父 (11)

米原昶の兄、穣の『回想の記』に「愛弟との別れ」と題する一文がある。
 兄弟の中で一番気分の合ったのは次弟の昶であった。……一高二年の夏休みに「兄貴、わしはとうとう決心したんだ。誰にもまだ言ってもらっては困るんだが、すべてをなげうって共産主義運動に専念する決心をした!」と言う驚くべき告白であった。私は彼との約束を守って一高を放校になるまで父母にさえ言わなかった。(p.150)
「米原昶年譜」によると、ひとつ年上の穣はすでに六高在学中であったが、前年の夏休みに二人が帰郷したとき、英文の『共産党宣言』を昶にみせている。
『由谷義治自伝 上巻』には、次のような文章がある。
 森元(引用者注:麻布の森元町)時代には大事な思い出がある。アレは昭和三、四年頃になるだろうか、米原昶君が当時一高の寮生で時々遊びに来た。昶君はその頃から既に共産党に入党しておるかの疑いもあり、国許の御両親も心を痛めていた時代である。この昶君の思想関係につき、わたしがオセッカイを出したのである。昶君を転向せしめる目的の下に、森元の借家の二階でその昶君を対手に議論した。議論の内容は例によって記憶せぬが、とも角共産主義は現実不可能だという理屈を主張した訳である。往年の社会主義青年たるわたしが、その社会主義を裏切る議論をやるのだから、何だか割り切れぬものがあつた訳ではあるが、しかし議論をやつている時は一生懸命である。ところが当の昶君は泰然たるものである、今頃そんな議論が通るものかという態度である。わたしに一理屈陳述さして置いて、彼は冷然として言い切つた。曰く『叔父さん、そんな経済論は世界戦争の前の議論ですよ!』なつておらんという訳である。
こゝでいう『世界戦争』というのは勿論第一次世界大戦を指すのである。そんな大戦以前の古くさい理屈で、共産主義を批判するなんて、僭越極まるという量見である。この一セリフでわたしは、ダアとなつてしまつた。この対決は見事に敗けたと痛感した。若いものゝ真剣な勉強に頭を下げた次第であつた。
昶君はこの頃を最後として、モウ東京には居なかつた。そして彼の二十年(引用者注:正確には十六年)に亘る潜行忍苦の党運動が始つた訳であるが、この問答以来わたしは矢張彼に敬意を払わねばならなかつた。(pp.180-181)
もう一度「年譜」の記述を引用する。
一九二九年(昭和四年)二十歳 十月、学生運動を指導したという理由で退学処分を受けた。父、鳥取より上京、下宿先の叔父由谷義治宅で(引用者注:1928年の正月以降南寮を出て由谷の家に身を寄せたのかも知れないが、推測の域を出ない。)プロレタリア解放運動から身を引いて、フランスへ留学しないかと説得された。が、すでに日本共産党の旗の下で、人民解放運動の戦列に参加する決意を固めていた。それを知った父は一晩中泣いていた。

昶は6歳の時(1914年)中耳炎にかかった。父の章三は、京大病院和辻耳鼻咽喉科主任教授のもとにいた鳥取県出身の脇田助手を智頭町の自宅に招き手術を受けさせた。その後も、父は昶を京都へ連れて行き何日間か滞在して治療を受けさせ、完治させている。(そのときの自宅での記念写真と穣の文章が『回想の米原昶』のp.6とp.66にある。)
このことも、さきほど記した「フランス留学」の説得も、生家が裕福であったから、と言ってしまえばそれまでだが、親の深い愛情に思いをいたしたい。

以下は冒頭の『回想の記』からの引用文の続きである。
彼と別れたのは忘れもしない昭和五年七月二十一日、信州へ旅立つ私を上野の駅に送ってくれた時で、それ以来終戦の年の九月まで苦しい地下生活をつづけたわけだ。「家のこと親のことすべてまかしたぞ!」という言葉が今も尚消えうせない気持ちがするのである。(pp.150―151)

  




2007年9月17日月曜日

米原万里の父 (10)

普通選挙法(納税義務の制限を廃し、25歳以上の男子に選挙権を与える)に先立って、労働・社会運動を取り締まるための治安維持法が公布された翌年の1926(大正15・昭和1)年、17歳の米原昶は鳥取一中を卒業、第一高等学校に入学した。フランス語を第一外国語とする文科丙類(仏法)であった。
鳥取一中時代から柔道をやっていた昶は、一高入学と同時に柔道部に入った。一高生は寮生活をしていたのだが、柔道部員は「南六」と呼ばれた南寮六番室で三年間起居を共にした。寮生活を共にした渡辺博の文章(注1)を引用しながら当時の昶について述べる。
 寮内で彼につけられたあだ名は「梟」、風貌もさること乍ら、いささか夜行性もあり、したたかさを感じさせる事から、実によくつけたと思う。以後三年間の寮生活の間、彼は梟の名で親しまれ、米原と呼ぶのは教官位しか居なかった。(p.69)
私等が柔道部に入って驚いたのは、その稽古の激しさであった。当時の一高の柔道部は対校試合を放棄し、選手制度を廃止して、道場は全寮生に開放されていたのであるが、部員は毎日毎日の道場での稽古に全てを注ぐ、という事で一般寮生の道場利用者とは、はっきり区別されていた。南六での生活は、全て放課後二時間の稽古を中心に考えられていたのである。柔道部の此の様な考え方は、ボート部や野球部の様に、対校試合を目標とし、選手がその部を独占している運動部、及びこれを支持する寮生からは、とかく異端視されがちであったが、彼等が敢えて文句をいわなかったのは、柔道部員の稽古に対する真剣さに、一目置いていたからである。従って柔道部を守り育てて行くには、部員のたゆまぬ努力と自覚とが要求されていた。そんな中で米原は、特に恵まれた体力を持っていたとは思われなかったが、常に私等の中心となり牽引車的な存在として頑張っていた。
然し南六の生活も、稽古以外の時間は全く自由で、稽古に支障を来す様な事でなければ何にも拘束されることは無かった。休日の前夜などは、共に酒好きの米原と私は、共によく飲みに出たものである。(pp.70―71)
三年間の南六の生活も、二学期を終わり正月を迎えると、三年生は稽古から解放される。殆んどが寮を出て、大学に進む準備に専念する。後から考えると、米原はその頃既に党の外郭の運動に或る程度関係していたのではないかと思われる。その頃から彼は、吾々の前から所在をくらます事が多くなったのである。
これより前、吾々が三年になった頃、寮内に各運動部の対校戦廃止の声が高くなり、遂に全校的な廃止運動となった。最終的には、その賛否が生徒大会に問われる事になり、その議長に選ばれたのが米原だった。大会の結果廃止論は否決されたが、彼の議長振りは双方から評判がよかった。私は彼の思想的な転機は此の頃から始まったものと見ている。
二月が終りに近づき卒業試験が始まったが、彼は試験にも姿を見せなかった。愈々これは本物だと思った。私が大学にはいってからは完全に彼との連絡は絶えてしまった。(pp.71―72)

[注1]『回想の米原昶』より。筆者、渡辺博のその当時の肩書きは、ホテル「ホリデイ・イン・東京」社長。

1928(昭和3)年、昶は一高社会科学研究会に加入し、科学的社会主義の学習を始めた。共産党員らの大量検挙、起訴した三・一五事件後は、学内外でビラまきなどの実践活動に参加し、11月、社会科学研究会の執行委員長となった。
1929(昭和4)年、四・一六事件(党の全幹部を逮捕)以後は、日本共産党の活動を援助した。先に引用した渡辺博の文章にあったように、米原昶は卒業試験を受けていなかったのだから、留年を続けていたわけだが、この年10月、学生運動を指導したという理由で退学処分を受けた。
   






2007年9月12日水曜日

米原万里の父 (9)

『回想の米原昶』へ米原穣が寄稿した文章のなかから「鳥取一中応援歌に応募一等当選」と題する一文(pp.67―68)を引用する。
 鳥取中学には大正十年から十五年まで在学したわけだが、いわゆる勉強家とか優等生というタイプではなかった。しかし数学は性分に合ったとみえて得意でもあったし相当熱心に取組んでいた。また英語はそれ程とは思わなかったが、エスペラントに興味を持っていて校外の団体で催される講習に参加したりしていた。これも昶伝説の様に言われている一つに中学時代応援歌を作ったという話がある。これも実際その通りで、しかも応募作品の中一等当選の栄を得たものであった。あたかも甲子園球場が竣工した大正十三年、野球では相当有名だった鳥取一中(大正十二年[引用者注:先回記した通り、十一年の誤り]から鳥取中学が改称)が三年連敗し、この年はどうしても勝ち抜きたいと言われた時であった。昶の作った応援歌をその一番だけ紹介すると、
[引用者注:後でご紹介する。]
幸にこの時鳥取一中は甲子園に出場し、[引用者注:その成績は後で詳述する。]
この応援歌の調子でも察せられる通り、旧制高校の寮歌に見られる様ないわば慷慨悲憤調はその頃既に彼が憧憬してやまなかった一高の寮歌の影響によるものと考えられる。
米原穣自身も、同窓会長として祝辞を寄せている『鳥取西高等学校野球部史』によると、日本に野球が伝えられたのは1873(明治6)年、鳥取県については資料の一つとして、1889(明治22)年―大日本帝国憲法発布の年でもある―5月26日千代川原で行われた鳥取県中学生徒の運動会の模様を伝える5月29日付「鳥取新聞第二號」の記事を紹介している。
「當日の來觀者は武井知事以下高等官諸氏並に令婦人其他縣官縣會議員諸有志及び婦人會々員にて皆特別の招待者なり」という一大行事である。プログラムは「障害物飛越の技」に始まって、8番目が「フートボール」、18番目「ベースボール」次いで綱引きで終わっている。
当時のベースボールがどのようなものであったか不明だが、「三角ベースのような素朴な草野球であった」と、明治35年鳥取中学卒業生の一人が回想している。1884(明治17)年生まれのごうなの父も「こどもの頃聖(ひじり)神社の境内で三角ベースをやって遊んだ」と話していた。

先へ急ごう。鳥西高の前身、鳥取中学に野球部ができたのは、明治29年とも言われているが、詳細は不明である。部の創設後、最初の対外試合は明治31年の対鳥取師範戦で、これに大勝したという記録があるそうだ。
1915(大正4)年8月、第1回全国中等学校野球大会が豊中球場で行われた。各府県聯合大会を勝ち抜いた10校が参加した。今日の全国高等学校野球選手権大会まで続く長い歴史の最初のページを飾る写真は、始球式のそれである。
羽織袴姿の村山朝日新聞社長が投球した直後を写したもので、その左に二人おいて直立不動の姿勢で立っているのが鳥取中学の鹿田一郎投手である。ユニホームの胸には、TOTTORI という文字がはっきりと見える。
この第一試合で、山陰地方代表の鳥取中学は山陽地方代表の広島中学を14対7で破り、初戦を飾った。次の大阪奈良和歌山地方代表の和歌山中に7対1で敗れた。  

1924(大正13)年7月31日、東洋一の大球場、甲子園球場が完成した。
大正10年から3年間、島根勢に敗れ続けた鳥取一中は、第10回の記念すべき大会、完成したばかりの甲子園球場での初の大会にぜひとも出場しなければ、と燃えていた。そして、松江で行われた山陰大会で倉吉中学を11対0、松江中学を4対2、島根商業を15対4で降して甲子園出場を決めた。

この年、第九代応援団長に選ばれたのは、小川清であった。小川は戦後新制の鳥取東中、鳥取西中の校長、鳥取市教育委員会教育長などを歴任した人物で『野球部史』にも寄稿しているが、『一河の流れのなかで―わたしの大正・昭和教育史―』という自著もある。
応援団長の小川は、副団長として四人に協力を求めた。その中の一人が米原穣であった。
さて、その穣が「一等になった」と書いていた昶の作った応援歌を含め、全ての当選歌を『一河のながれ』の中で紹介している。
 この時に作った応援歌には、現在まで歌いつがれているものもあるので、ここに紹介しておこう。なお選者をお願いした田中瑞穂先生のご意向で、一等当選歌は該当なしということになった。
◇二等当選歌(四年米原昶君)
(一)覇権流れて西に飛び      (二) 血潮に染めし紅の
沈滞の時幾歳ぞ            応援の旗手に持ちて
嗚呼堅忍の太刀佩きて        振れ一千の健児等よ
強敵倒す時は来ぬ          臥竜の飛躍今なるぞ
ああ肉は鳴り血は躍る        (同前二句繰り返し)
ああ肉は鳴り血は躍る
(三)熱と力の高潮に         (四)さらば歌わん諸共に
行手さえぎる猛者なく         さらば舞わなん諸共に
月桂冠は赫々と            我等の挙ぐる凱歌は
我等が頭上に輝きぬ          天にどよめき地にふるう
(同前)               (同前) 

あと、三等当選歌が一、佳作当選歌が二であった。
この年の成績は、どうであったか。京城中を10対0、同志社中を15対2、宇都宮中を5対4で破り、全国大会三度目の準決勝進出を果たしたが、松本商に3対9で敗れた。小川は『野球部史』へ寄せた「歌いつがれる勝利の歌」と題した一文の中にこう書いている。
 さて私は近頃になって、鳥取西高の応援歌の中に、私の時代に新しく作った歌が二三残っており、中でも勝利のたびに熱唱した、「熱と力の高潮に/行手さえぎる猛者なく」の歌は、六十年を経た現在も「西高祝勝の歌」として、歌いつがれていることを知って感動した。(p.103)

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『鳥取西高等学校野球部史』発行 鳥取西高等学校野球部史編纂委員会
1987(昭和62)年7月20日(非売品)
小川清『一河の流れのなかで―わたしの大正・昭和教育史―』私家版
1984(昭和59)年3月24日



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2007年9月10日月曜日

米原万里の父 (8)

1921(大正10)年、12歳の米原昶は、鳥取中学(現鳥取西高)に入学した。この翌年6月以降1948(昭和23)年3月末まで、鳥取県立鳥取第一中学校となる。
以下の記述の中で「 」内の文章は【米原昶 年譜】からの引用である。

「中学入学当座は鳥取市内に住んでいた祖母にあずけられ、漢文やソロバンの手ほどきを受けた。まちがえると長きせるでたたかれるなどきびしくしつけられた。」
祖母が鳥取市内のどこに住んでいたのか、わからない。
由谷義治の「自伝 上巻」から引用する。
 この鹿野街道の住居は、すなわち由谷呉服店という商売の場でもあつた。だが呉服商売の方は、義兄(姉聟)にゆずつて、わたしは運送業に専心したので、なにもそうぞうしい『内市』(当時もつとも殷盛をきわめた市内の魚菜市場)に住むこともないと考え、大正六年に西町惣門内に新しい家をたてて、そこへ移りすんだ。
建築費は、たしか八千円くらいだつたとおもうが、当時としては宏壮とはいえないまでも、マア相当な住居だった。木の香のあたらしい新築家屋に、若い夫婦がひとり子を擁してくらす気持も、まんざらではなかつた。(p.53)

「久松山下巍巍(ぎぎ)として甍聳ゆるわが校舎」と校歌にうたわれた鳥取一中の校舎は、鳥取城三の丸跡にあった(現在の鳥取西高も同じ)。引用文の新築家屋の位置を引用者は確認していないが、惣門内というのは薬研堀(やげんぼり・現在の市内では片原通り)から城側の地域をいうのだから、鳥取一中へは、川端四丁目の由谷呉服店からの距離の半分以下、徒歩10分以内の距離であったと思われる。
由谷義治は1920(大正9)年1月長男(9歳)を失っているし、前年より政治活動に相当な時間をとられていたであろう。そういう状態の家に嫁の母親がやってきてなにかと面倒を見る、ということは十分にありえよう。そして、一つ違いの兄弟が相次いで中学生になったのだから、穣、昶も由谷家から通学したと考えていいのではあるまいか。

中学校に入学した昶は「貧しいために成績が優秀でも進学できず農業をするか神戸、大阪へでっち奉公せざるを得ない同級生をみて貧富の矛盾を感じた」という。また当時「進歩的な文化運動の一翼をになっていたエスペラント語の講習を受けた。最年少の受講生」で「講師はのちに労農党から鳥取県で立候補した村上吉蔵」であった。
翌1923(大正12)年4月には「鳥取市で秋田雨雀、有島武郎の文芸講演をきいた。雨雀はエスペラント語の熱心な推進者だった。有島はホイットマンやゴーリキーについて語った。」
このとき、砂丘を訪れた有島が詠んだ歌「浜坂の遠き砂丘の中にして淋しき我をみいでけるかも」の碑が砂丘に建っている。この年6月、有島は鳥取へも同行していた波多野秋子とともにみずから死を選んだ。
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【付記】先回、ご紹介した『郷土出身文学者シリーズ③ 田中寒樓』編集・発行 鳥取県立図書館(2007年3月31日発行)について、昨日、同図書館へ行った際に確認したところ在庫はまだあるということであった。84ページの冊子であるが、写真も多く、年譜、文献案内なども充実している。1部 ¥315 で安い!
TEL:0857-26-8155
ホームページ:http://www.library.pref.tottori.jp/

   






2007年9月6日木曜日

米原万里の父 (7)

米原万里の父、昶(いたる)は、1909(明治42)年2月7日、米原家の二男として生まれた。
すでにご紹介した『回想の米原昶』の「年譜」によると「小学生の頃、母の女学校時代の教科書を使ってひとり数学の勉強をたのしみ、中学に入る前に代数、幾何の問題を解いた。数学者か物理学者になることが夢だった」という。
長男の米原穣も、この本に昶のエピソードをいくつか寄稿している。「小学校長から褒美にもらった銀時計」と題するエピソードを引用する。
 小学校時分から相撲は好きであったし、実際にもかなり強かった。中学に入ってから自然柔道に熱心になった。
小学校の時校長にほめられて銀時計を頂いたという話がその頃伝説のように伝えられて、私にも後年幼い弟妹達から度々質問があった。これは実際にあったことで私はその時計を見たこともあるし、本人からそのいきさつを聞いたこともある。私は中学に進んでいたから多分彼が小学六年生の時であったろう。その頃小学校では毎朝授業に先立って朝礼の行事が行われ校長の短い講話があった。ある時校長が話の末に「今日のこの事柄をどう考えたらよいと思うか?」と児童一同にたずねられた時、昶は早速「それこそ校長がよく申される小の虫を殺して大の虫を生かすことです。」と返答したそうで、それを聞くと校長は「その通りだ、よく答えた。」と言って身につけていた懐中時計を褒美として渡され、あっとばかりに全児童が驚いたということらしい。この校長は田中國三郎という方で寒楼と号し、若い時から正岡子規に認められ、尾崎放哉と共に因幡出身の俳人として特にこの地方の人々にはその風変わりな一生を今なお嘆賞されている。(pp.66―67)

【補注】田中寒樓は尾崎放哉ほどには知られていないかもしれない。このブログのテーマから離れるが、鳥取県立図書館が『郷土文学者シリーズ③ 田中寒樓』を本年5月発行したことと、寒楼と妙好人因幡の源左(いなばのげんざ)と民芸運動の創始者・柳宗悦(やなぎむねよし)の3人について述べている「とっとり豆知識」というサイトのアドレスをご紹介しておこう。
http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/topics/468_2.htm
 




2007年9月5日水曜日

米原万里の父 (6)

鳥取で家業を継いだ由谷義治の生涯を大急ぎで述べることにしよう。

病(脚気)を得て帰郷した義治は、その年の暮れ、大学を中退して、父が始めていた運送業(由谷運送部)に従事した。
明治が大正となった1912年の5月、父喜八郎が死去した。その前年米原千枝と結婚し、米原章三の義弟となった義治は、代々の家業の呉服店を長姉夫妻に委ね、自らは運送業に専念した。
しかし、時代は義治に家業専一を許さなかった。民間の電気事業をその公共性故に市営にしようという運動が起こり、1918(大正7)年、商工業の青年達を中心に「愛市団」が結成された。翌年5月、義治は彼らに推されて鳥取市会議員に当選、さらに9月県会議員に当選した。
1920年、5月の衆院選に愛市団は義治を立てて金権候補といわれた相手と戦い、善戦した。6月彼らは立憲青年会を組織し、会長に義治を選んだ。彼らの目標は普通選挙の実施、市政刷新、千代川(せんだいがわ)改修だった。
千代川は鳥取県東部の一級河川だが、当時毎年のように氾濫した。大正期に限っても、元年、7年、8年、12年の洪水では、流失・浸水家屋多数、死者まで出る被害があった。
1924(大正13)年、36歳の由谷義治は衆議院議員に初当選した。当選後の特別国会に「千代川改修促進に関する建議案」を提出、改修の急務なることを訴えた。彼の処女演説は議員の間でも好評を博したという。
1926(大正15)11月、総工費566万円の長期継続事業・千代川改修の起工式が行われた。1931(昭和6)年、大きく蛇行する下流の直進化、34(昭和9)年の新袋川の開削と通水によって、ようやく鳥取市民は洪水の恐怖から解放された。その後も改修工事は昭和の終わりまで続く一大事業へと発展した。

彼自身は、その千代川改修の起工式があった年(38歳)、破産に瀕し、財産を整理して東京に移住した。
1928(昭和3)年、議員立候補を断念するが、1930(昭和5)年衆議院議員に2度目の当選、以後1942(昭和17)年まで計6回の当選を果たした。
1946(昭和21)年2月、公職を追放され、翌年2月鳥取電機社長に就任、晩年を郷里鳥取で送った。(由谷運送部は昭和初期に同業者数社が合同して鳥取合同運送株式会社となり、太平洋戦争中に「運送国策」によって、現在の日本通運に吸収合併された。)

1956(昭和31)年、彼は請われて無報酬を条件に鳥取県教育委員に就任した。
この年、愛媛県教育委員会は教育効果の向上と教員の人事管理の適切公正化を理由に、教員に対する勤務評定(勤評)の実施を決めた。翌年、文部省はこれの全国実施を決定し、日本教職員組合(日教組)は激しい反対闘争を展開した。この対立はそのまま各地の教育委員会と教祖との対決となり、鳥取県でも同様であった。5年間の闘争で刑事罰、行政処分を受けた日教組の組合員は、全国で免職70名を含む62,000名にも達した。
1958(昭和33)年5月14日、鳥取県教育委員会は勤評実施の決定を行おうとしていた。勤評は政治が教育に介入し、その中立を犯すものだと考えた彼は、少数意見で否決されることを承知のうえで、採決直前に反対討論に立った。
その討論は序論にはじまり、10項目にわたって勤評の問題点を指摘、批判、結語として自分の論は少数意見と否定されるであろうが「否定されたことに対して、無限の光栄を自負する」と述べた。
この反対討論の全文は「自伝 下巻」pp.370―390 に収録されている。
この日から半年後の10月8日、由谷義治は日赤鳥取病院で亡くなった。七十歳だった。
3日後、鳥取市行徳の常忍寺で告別式が行われた。参列者約500人、遺言に従い献花も弔辞もない式典だったが、導師として参加した東京本涌院日泉師が歎徳文を読み上げた。
そのほぼ全文が「自伝 上巻」の最初に収録されている。由谷の生涯、業績、人となりを伝えた簡潔かつ格調の高い文章である。

1967(昭和42)年9月、鳥取市議会は由谷義治に名誉市民章第3号を議決した。
【参考書目】
竹本節・編『由谷義治自傳』由谷義治自伝刊行会 上巻 1959(昭和34)年9月
下巻       〃    11月
『鳥取県百傑伝』山陰評論社  1970(昭和45)年12月
『鳥取県 郷土が誇る人物誌』鳥取県教育委員会編集・発行 1990(平成2)年3月 
 



2007年9月1日土曜日

米原万里の父 (5)

由谷義治は、1907(明治40)年鳥取中学を卒業した。友人たちが次々に上京してゆくのを見て彼も上京を望んだが、父は「商人の子にこれ以上の学問は不用」と言ってなかなか承知しなかった。彼は四男として生まれたのだが、3人の兄はみな夭折したのである。それでも、やっと許しが出て、早稲田大学商学部に入学した。親孝行の気分も手伝って商学部を選んだ、と「自伝」のなかで述べている。
その「自伝」に戻ろう。
 ……例の平民社だが、毎水曜日の晩には、社会主義の研究会があった。神田三崎町に片山潜氏の事務所があり、二階建の小さい木造洋館であつた。その二階六畳二間ぐらいの部屋が会場であつた。五郎兵衛町の下宿から、これに出席するのが、わたしのなによりの希望でもあり、期待でもあつた。研究会には、片山潜、幸徳秋水堺利彦、木下尚江、安部磯雄、白柳秀湖その他の人々が出席した。わたしは無名の一書生だから、片隅に坐り、たゞ黙つて諸氏の名論卓説を拝聴するばかりだつた。研究会とはいうものの、どちらかといえば漫談会、放談会にちかかつた。
いわく、「最近ドイツからとどいた新聞には、これこれ、しかじかのことが書いてある」
いわく、「マルクスの大著に資本論というのがある。たれかこれを翻訳するものはあるまいか」など、など。(p.27)

しかし、彼の東京での大学生活は長くは続かなかった。この年の秋、病を得て帰郷し、そのまま退学して家業を継ぐこととなった。
3年後の1910年、いわゆる「大逆事件」という社会主義者弾圧事件が起こり、幸徳秋水ら24名を死刑(内12名は無期に減刑)とした。鳥取にいた由谷もブラックリストに載っていて、県の警察部長のもとへ出頭させられ、所有していた社会主義関係のすべての書籍や新聞雑誌を没収されたという。
由谷は、科学的社会主義を説く堺利彦らより、「むしろ感情的直接行動論を唱える幸徳秋水の影響を、より多く受けたものといつてよい」と述べている(p.31)。
青年時代に愛読したという幸徳秋水の『社会主義神髄』について述べている文章を引用して、若き由谷義治のご紹介を終わりとしたい。
 この本のなかで、かれは世の中の経済発展の法則をのべているが、たとえば、ローマ時代の奴隷制度をとりあげて、ローマは奴隷の犠牲において繁栄したが、やがてその奴隷制度のゆえに崩壊したと説明し、「花を催すの雨は、是れ花を散ずるの雨たらざるをえざりき」と書いている。
「花を催すの雨」と「花を散ずるの雨」――おそらくは、中国のふるい漢詩の一節を引用したものかとおもうが、このような名句が当時の少年由谷義治を、どんなに感銘させたことか、今なお記憶に明らかなものがある。要するに幸徳の文章は、少年期から青年期にかけてのわたしに、漢籍の教養を身につけさせてくれたのであつた。爾来、春風秋雨五十余年、わたしは地下の彼に対して何時までも感謝するものである。(p.33)