2009年12月24日木曜日

昭和十六年十二月八日⑤

第②回の冒頭に書いたように、今月6日の夜、NHKスペシャルがアメリカ公共放送WGBHとの国際共同制作「真珠湾の謎~悲劇の特殊潜行艇」を放映した。

17年前、ハワイ大学の海洋調査船が真珠湾沖合6キロで、偶然、日本海軍の特殊潜行艇の残骸を発見した。今年3月、日米の共同調査団がこれを調査することになった。使用された深海調査艇は、水深2000メートルまで10時間潜水可能で、水圧に耐えるカメラも装備していた。
搭乗できるのは三人で、日本人は植田一雄さん(83歳)が参加した。

真珠湾攻撃から2年後の1943年12月8日に封切りされた松竹映画「海軍」は、真っ先に真珠湾へ突入した横山正治少佐(軍神となって二階級特進)をモデルとしたもので、大本営海軍報道部が企画したものであるが、植田さんは、この映画を見て感激し、16歳で海軍兵学校に入学した。
特殊潜航艇は改良され、5人乗りの「蛟龍(こうりゅう)」となり、植田さんは艇長となって、特攻訓練を受けたが、戦後は、海上自衛隊を経て退役した。

深海調査艇は、水深380メートルのところで特殊潜航艇らしきものを発見、植田さんは、8の字のネット・カッターを確認して、日本海軍の特殊潜航艇だと断定した。さらに二本の魚雷は発射されており、これこそが横山艇に間違いないと言った。

もう一度、開戦時の真珠湾に戻る。
真珠湾からはるかに離れた裏オアフのベローズ・ビーチ沖合いのサンゴ礁に座礁した酒巻艇は、翌朝発見され、米軍によって分解され徹底的に調査、研究された。

水上機母艦カーチスと応急出動艦モナハンに魚雷を発射した岩佐艇は、その2隻によって撃沈され。2週間後引き上げられたが、損傷があまりにも大きかったので、「葬送の儀式を行ったうえ、…乗員二名の遺体を収めたまま当時建築中の潜水艦基地の基礎固めに用いられた。」「1947(昭和22)年3月、ハワイの米軍当局は、遺品として、真珠湾底の泥にまみれた海軍大尉の袖章を日本に送還、遺族(特別攻撃隊隊員中、大尉は岩佐直治隊長のみ)に送付された。」(『九軍神は語らず』 p.78&79)

前回、X-1艇とした特殊潜航艇は、「1960(昭和35)年6月13日、真珠湾湾口からダイヤモンド・ヘッドへ向かって、1.8キロ、深さ23メートルの海底から引き揚げられた。」「牡蠣(かき)が艇全体に付着して、艇番号もわからず、司令塔に砲弾痕…電池室付近に爆雷攻撃を受けた痕跡があるほか、艇体の破損は少なかった。/二本の魚雷は装着されたままで、未発射。その火薬は、約十九年間も海底にありながら、有効だった。/衝撃的なことは、艇内に、二名の乗組員の遺骨、遺歯がなかったことだ。遺留されたものは、作業衣一着、靴一足、一升瓶一本のみで、艇内は整理されていた。/…米海軍当局は、『搭乗員は沈没と同時に艇外に脱出、逃亡したものと推測される』とした。」(同上書 pp.73-74)
さらに、「司令塔ハッチの掛金が内側からはずされている」という米側の報告と、万一の場合には浮上上陸して敵陣に切り込むために、携行する日本刀と拳銃も艇内になかったことから、牛島秀彦はこう推測している。「搭乗員二名は、艇を浮上させ、司令塔ハッチを開いて、斬込みを敢行せんがために、海上に脱出した。」さらに、「真珠湾湾口からわずか一・八キロ。この海域は、裏オアフの海上とは違って波浪も穏やかで、人喰い鮫もめったに出ない。/また脱出したと見られる時刻には、未だ日本機による空爆も始まっておらず、海は、“平穏で、すばらしいハワイの海”なはずである。/…たかだか一・八キロの沖合いから陸地めざして泳ぎつくことは、『帝国海軍の遠泳の訓練』に比べれば、全く文字どおり屁の河童(ヘのカッパ)ではないか。/…オアフ島で、日本海軍軍人による斬込事件はない。/事実は小説より奇なり―。『九軍神』中二名(もしくは一名)が、脱出に成功をなし、ずうっとハワイの人となって生きつづけている可能性はある。」(同上書 pp.74-75)

日本軍の空爆の始まる前、6時45分にウォードが撃沈したX-1艇は無人だったことになる。このX-1艇は、1961(昭和36)年夏、日本に返還され、原形に復元されて、海上自衛隊第一術科学校教育参考館に安置されている。(同上書 p.73)

開戦当日の朝、巡洋艦セントルイスを湾口で魚雷攻撃したX-2艇は、魚雷を危うくかわしたセントルイスによって撃沈された。この艇は2002年に引き上げられている。

したがって、今回発見された特殊潜航艇は、横山艇ということになる。

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