2009年9月13日日曜日

鳥取大震災 2/3回

先回の記録的な記述に、もう2、3点、補足しておきたい。

1)当時の醇風国民学校の日誌の記入者が「恐懼感激ノ至リニタヘズ」と記した昭和天皇からのお見舞いについて、当時の県内発行の雑誌「大因伯」は、9月16日、小倉侍従の現地状況の詳細をお聞きになった天皇が「ご救恤(きゅうじゅつ)金として、ご内帑(ないど)金一封を鳥取県に下賜(かし)された。松平宮内大臣は、この日直ちに武島知事宛に、電報でその旨を伝達した」と報じている。
なお、上記引用文中にある難しい言葉は文脈からお分かりだと思うが、手元にある『福武国語辞典』で調べた結果を書いておく。

・救恤(きゅうじゅつ)  (貧困・被災などで)困っている人を助けること。
・内帑(ないど)金   天子の手元にある金。

2)わたしが未見であるとした『鳥取震災小誌』について、『鳥取の災害』のうち「鳥取大震災」を担当した芦村登志雄さんが[あとがき]のなかで次のように述べている。
…当時の記録は、戦争中の防諜事情もあって、殆ど残されてはいない。わずかに、特高警察の記録した『鳥取震災小誌』が、その面影を偲ばせるばかりである。
こんな記録がよく残っていたと思う。

3)この『小誌』は、中部第四十七部隊(鳥取連隊)をはじめとする軍の活動についても、詳細に記録している。

震災当日、川上部隊長は直ちに救援・救護のために全員に出動命令を下し、市内に出動し、警備、死傷者の収容救護、防火消防、県庁・鳥取駅・陸軍病院間の通信確保、さらに陸軍病院も、救護班を編制、鳥取駅・日赤病院・修立国民学校などで治療活動を展開した。
翌11日。前日の活動に加えて、鳥取駅、山陰本線・因美線の復旧作業。この日から夜間警備も開始。さらに、中部第五十二部隊より140名、舞鶴鎮守府から海軍軍医以下132名が来援。
12日。中部第五十四部隊より自動車隊3輌が来援、患者および衛生材料運搬に当たる。さらに、皆生と姫路の陸軍病院からも救護班が来援。
13日。東京陸軍軍医学校・岡山陸軍病院から、救護班が来援。

子供心にも、多くの兵隊さんたちの、きびきびした、統制ある行動が頼もしく、心強く感じられたのは事実だ。

4)戦時下であったから、鳥取震災のニュースは控えめに報道されたというが、全国からの物心両面の救援もあった。各府県から見舞金や、米をはじめとする食料品、衣類、日用雑貨品にいたるまで多くの物資が送られてきた。
海外からも、タイ国からは米3000石が寄贈され、中国(国民政府側)からは見舞金が寄せられたという。

5)さらに、芦村さんは、2)に引用した文の直前に、こう書いている。
あれから四十五年(引用者注:1988年)、戦後経済の飛躍的発展により、震災被害の残象は、どこにも見当らないほどに復興をみた。現在、少なくとも五十歳以下の市民で、鳥取大地震の悲劇を知る人は、全くいないといってよい。それほどに鳥取震災は、もはや風化し去ったのである。
この芦村さんの歎きからさらに21年が過ぎている。先回、マスコミさえ何も報じていないと嘆いたが、現状は当然というべきであろうか。

今回も『鳥取の災害』の中の、芦村登志雄さんが担当した[鳥取大震災]からの引用と孫引きに終始してしまった。
この本が刊行された当時の西尾優鳥取市長が、[はじめに]の中で次のように述べいる。 
わたしたちは、これらの災害をよき教訓として日々の暮らしに生かし、明るく住みよい鳥取市づくりを目指していきたいものです。そんな願いを込めた『鳥取の災害』を、家庭や職場にぜひ揃えてほしいとお勧めする次第です。
しかし、現在、鳥取市民の多くはこの本の存在すら知らないのではあるまいか。わたし自身、あらためて知ったことが多い。

そんなことで、このようなブログになってしまった。2回で終わる予定だったが、もう一回続けて、次回、わたし自身の思い出を記したい。

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