父ヘンリーの死から6ヶ月後の1956(昭和31)年11月、スタンレーは26年ぶりに鳥取の地に戻った。
「子供時代に去った日本、ことに鳥取へ戻るためには、戦勝国アメリカの人間にとってさえも、二十六年という歳月が必要だったのだ。スタンレーは四十六歳になっていた」と加藤恭子は書いている。
この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。彼は「細胞学と組織学における電子顕微鏡の貢献」と題する講演を英語で行った。今回はほとんど引用のみになってしまった。著者にたいしても、このブログを読んでくださった方にも申し訳ないと思う。
その中で彼は、この学会が自分の生まれた国へ帰る二十六年ぶりの機会になった感動を述べたあとで、こう続けている。
「日本海に近い小さな都市鳥取で、私は生まれ、育ちました。そこは西洋の影響があまり強くない土地でしたので、日本の古くからの、そしてすばらしい文化的伝統に密接にふれながら育ったのです。こうした子供の日々の経験は、すばらしい文化、そして日本人や他のアジアの人たちが成し遂げた芸術的な業績に対し、変わらない賞賛とそれを楽しむ気持ちを私の中に植えつけました」
この招待講演の実現には、その年四月に帰国した山田英智の尽力があった。彼はこの年に久留米大学解剖学の教授に就任していた。
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学会が終わると、スタンレーと英智は山陰線の夜行列車の薄暗い寝台車にもぐり込んだ。
十一月一日の早朝、鳥取駅着。寒い朝だったが、空はくっきりと晴れていた。生まれ故郷の土地に降り立った感慨が、駅前のまだ扉を下した家々を、無言のまま眺めているスタンレーからひしひしと感じられた。
最近アメリカから赴任してきた宣教師の家にまず立ち寄り、朝食をとった。小さな家だった。赤ん坊を抱えた夫人にとっては、異郷での生活が苦しそうな感じだった。新婚間もない父と母が、二日かけて中国山脈を越えた日のことを、スタンレーは連想していたのかもしれない。
朝食後、久松山に登った。ずんずんと一人で先に立って登るスタンレーのあとを、英智も追った。城跡からは、朝日に照らされる鳥取の町が一望できる。じっと立ち尽くすスタンレーの姿を、英智は少し離れた場所から見つめていた。
(帰って来た……)
長身のスタンレーの身体全体が、鳥取の町へ向かってそう語りかけているようであった。
スタンレーが生まれ育った「宣教師館」は、戦後進駐軍によって使用され、失火により焼失してしまっていた。焼け跡にたたずむスタンレーの脳裡には、「異人屋敷」ともよばれた「宣教師館」でのあれこれが去来していたにちがいない。機械好きのスタンレーは、おもちゃを片はしから分解した。足の踏場もなかった自室……、庭で遊ぶ子供たち……。そしてその中には、あのフレデリックも交じっていたかもしれない。
孤児院、教会、幼稚園、どこでも大歓迎だった。昔を知る人たちが集まって、アルバムを広げ思い出話がはずんだ。
「まあ、こんなに大きくなって……」
と、スタンレー少年の成長した姿に眼を細める老婦人たち。尾崎誠太郎をはじめ、幼な友だちは、話し始めるとすぐ、〝子供の顔〟になってしまうのだった。
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フレデリックの墓にも詣でた。
「花を捧げてじっとぬかずく教授の上に松風がかすかな音を立てます」
と英智は記している。
母のアンナは、スタンレーのみやげ話を楽しみにしている。長年の伴侶を失ったばかりのアンナのために、スタンレーはあちこちの写真を撮りまくった。一つ一つの場所を、スタンレーは鮮明に記憶していた。
長年心の中だけで想い続けてきた土地に、スタンレーは戦争をはさみ、まさに二十六年ぶりに立っていた。そして、この昭和三十一年以降、彼は何度も何度も鳥取へ帰って来る(引用者付記:この前5字に傍点あり)ことになる。
(『スタンレーの生涯』pp.138―141)
ただ、付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。
この点を確認することは今のわたしにはできないし、また、ここでは、学会での発言と鳥取へ帰ってきたスタンレーの様子を知ることでいいだろうと思っている。
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