2009年5月15日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (35)

【両親の死】
スタンレーの最初の弟子となった山田英智の『電子顕微鏡とともに』(城島印刷、1984年)の中に「砂山」と題したエッセイがあり、スタンレーの父、ヘンリーの晩年の姿を描いているという。
加藤恭子が『スタンレー・ベネットの生涯』の中(pp.136-137)で引用しているのを孫引きしておく。
1955年の4月5日、フィラデルフィアでの第6回アメリカ組織化学会に出席したスタンレーは山田を伴って、2日目の午後の講演と夜の発表の間の短い時間に、フィラデルフィア郊外のジャーマンタウンに当時住んでいたヘンリーを訪問したのである。
「ドアをノックしますと扉が開いて小柄で痩せた上品なお母さんが出てみえて中に案内されました。居間にはお父さんが椅子に座したままで挨拶されます。肥って血色がよくとても八十に近いと思は(ママ)れません。然し脳溢血の為に半身不随で殊に視覚に障害を受けて殆んど今では見えないということなのです。(略)小さな声で断片的に出る話は日本の昔のことでした。始めて鳥取に赴任する時未だ汽車もなく人力車で山陽道から山を越えていった話。その時、車夫に一円あげたら警官から多すぎるといって注意されたとか、日光を見ぬ中は結構というなとか」
みんなで夕食をとって、すぐに辞去した二人を、出口まで見送った母のアンナは、「さよなら、またいらっしゃい」と山田英智に日本語で別れを告げたという。

 加藤恭子は書いている。
 ヘンリーとアンナから届いたクリスマスプレゼンとのことを、スタンレーの幼な友だち尾崎誠太郎は、はっきりと記憶している。鉛筆百本と、アメリカの少年少女雑誌から人物写真を切り抜いたもの。「日曜学校の生徒さんたちに。今の私たちには、これだけしか送れません」という手紙が添えてあった。(p.137)
1956(昭和31)年5月7日にヘンリー・ベネットは死去した。
母のアンナは97歳まで生き、1973年12月20日、タルサで死去した。1966年に彼女が書いた鳥取の思い出を『スタンレー・ベネットの生涯』(p.222)から、これまた孫引きしておく。
「宣教師たちは英語やアメリカ文化を伝えようとしましたが、関係は相互的なものでした。こちらが与えたよりずっと多くのものを、私たちはもらったのでした。教育水準の高さ、礼儀と名誉の尊重など、私たちは日本人を尊敬するようになりました。私たちがいくつかの間違いを犯したにもかかわらず、人々が私たちに与えて下さった思いやりのある理解、親切、誠実な友情を、私たちは決して忘れないでしょう。子供たちは日本で育ち、ほかの国の人々との〝友愛〟の大切さを学びました。私たちが日本に住むことができたことを、感謝しています」

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