2009年12月14日月曜日

昭和十六年十二月八日③

ちょっとわき道にそれるが、今回のブログ記事を書くのにモタモタしていたら、昨13日の朝日新聞の【昭和史再訪】が12月8日の太平洋戦争開戦を取りあげて、(ハワイ=石川雅彦)がこんなことを書いていた。

……敗戦による国の崩壊へと突き進む起点が「真珠湾」だった。
 日本からはるか6千キロ。現在でもジェット機で7時間かかる。真珠湾をながめ、私は「よく、まあ、 こ んなところまで」と無謀さにあきれる。
 日本海軍は空母6隻に最新鋭の零戦を載せてハワイに向かった。だがそれは、真珠湾以降を 考えない日本海軍の「総力戦」だった。

引用した部分のなかでも、とくに零戦で真珠湾攻撃をしたなんて、ウソを書いてはいけない。

真珠湾攻撃総隊長であった淵田美津雄の自叙伝(注2)から引用しておく。
 オアフ島に向かう第一波空中攻撃隊の進撃隊形は、私の総指揮官機が先頭に立って、その直後に、私が直率する水平爆撃隊四十九機が続いている。右側に五百米離れて、…雷撃隊四十機…。左側には…降下爆撃隊五十一機…。そして…制空隊四十三機の零戦が、これら編隊軍の上空を警戒援護しながら、随伴しているのであった。(p.110)
二波にわたって発進した飛行機は、360機であった。

注2.編/解説 中田整一『淵田美津雄自叙伝』講談社 2007年12月8日

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