2009年9月10日木曜日

鳥取大震災 1/3回

9月1日は、[防災の日]であった。あらためてこの日の朝日新聞を開いてみたが、衆院選挙の記事ばかりで、「防災」なんかどっかへすっ飛んでしまっていた。この日が[防災の日]となったのは、言うまでもなく、関東大震災のあった日だからだ。

今日、10日は66年前、鳥取大震災のあった日である。朝日の鳥取版を見ても、郷土紙といわれる日本海新聞を見ても、1行の記事もない。それで、ブログにとりあげる気になった。

1995(平成7)年1月の阪神・淡路大震災の死者は6,434人といわれている。被災12市の当時の人口約30万人として、住民の2.4パーセントが死亡した。鳥取大震災の死亡者は鳥取市だけで1,025人だった。ウェブで調べてみたところ、市の人口は昭和15年が49,261人、昭和20年が51,848人というから、当時の人口を5万人として計算してみると、2.5パーセントということになる。

鳥取市社会教育事業団が発行している[郷土シリーズ」の第34巻『鳥取の災害―大地震・大火災―』から冒頭の部分を引用する。
一九四三(昭和十八)年九月十日、午後五時三十六分五十七秒、突如として、鳥取地方に大地震が起こった。この地震で鳥取の町並みは一瞬のうちに崩れ去ってしまった。
地震の規模は、直下型烈震で、マグニチュード七・四を記録した。この、震度の大きさからいえば、一九二三(大正十二)年の関東大震災、一九三三(昭和八)年の三陸沖地震につぐものといえよう。だが倒れた家や死傷者の率からすれば、かつて例のないほどの激しい地震であったことがわかる。
次いで地震の瞬間について、『鳥取県震災小誌』(引用者未見)から次のような引用がされている。
「……平和な各家庭においては、楽しい夕餉の支度に忙しく、官庁や会社等においても、残暑の名残りまだ消えやらぬ暑苦しい一日の勤めを終えて、やっと解放された気持ちで帰途につきつつあった。……略……道を歩いていた者は、瞬間に地上に投げ出されている自分を見出した。立ち上がろうにも立てないのである。そこかしこの家々からおこる悲痛な叫び声に続いて、バラバラと身一つで逃れ出る人びと。かくてこの瞬間に、家々の建物は、目の前で凄まじい土煙を立てて崩れて行ったのである。ほんの一瞬の出来ごとであるが、今までの平穏な世界は一変して、この世ながらの生地獄と化し、倒れた家の下敷きとなって瞬時に生命を失う者、悲痛な声をふりぼって助けを求める者、親を呼び子を求めて号哭する声は巷に充ち溢れ、あわれ罪なくして親を奪われ、傷つき、住むに家なく、逆上狂乱して右往左往する人々の姿は痛ましいというか、全く凄惨きわまりない、阿鼻叫喚の地獄であった。……略」(この引用文中の省略は『鳥取の災害』の著者)
この『鳥取の災害』には、わたしが通学していた醇風小学校の沿革誌からの引用がある。わたしも醇風と久松(当時は両国民学校)の戦時中の日誌のコピーを所有しているが、高校の教務部などが記録している教務日誌のようなもので、小学校では教頭さんあたりが記録していたものと思われる。当時はみな筆書きである。地震当日の記録では、校舎の被害の概要を記したあと、次のような記録がある。
尚、其ノ夜震災ニヨル火災発生ス。校下ニテハ鹿野町・元魚町・川端四丁目尻ニ起リ、倒壊・焼失ノ厄ニ遭遇セル家庭多数ニ上ル。
コノ大被害ノ外ニ、本校児童中、下校後家庭ニアリテ家屋ノ下敷トナリ、惨死ヲ遂ゲタル者一六名ノ多数ニ及ビシコト、マコトニ哀悼痛惜ノキワミデアル。ココニ罹災遭難児童ノ名ヲ記録シ、冥福ヲ祈ル。
死亡した児童は初六(初等科六年)から初一(初等科一年)まで全学年に及び、氏名と住所が記載されている。わたしは当時3年生だった。クラス数は3クラスで、1,2年生の時は男女共学で、黄組・青組・赤組、3年からは、男子組、女子組、混合組(男女一緒)に分かれた。死亡した児童は、むろん、みな氏名も記載されているが、同学年だけイニシャルをあげ、他学年は人数のみ記す。
初六 3名。初五 4名。初四 2名。
初三 S.Y.(川端四丁目尻) Y.M.(茶町) F.T.(元鋳物師町)。全員女子。
初二 3名。初一 1名。
死亡した児童の上記以外の住所は、新品治町、本町四丁目、新鋳物師町、鹿野町である。

もう一度、学校の記録に戻ると、翌11日には、「本日ヨリ震災ノタメ臨時休校トス。震災対策トシテ校下罹災民ニ対スル食糧配給本部ヲ学校ニ置キ之ガ救済ニ努ム。/応援奉仕隊多数来校。校下罹災家屋ノ取片付ケ作業ニ着手シ、本校ニ宿泊ス。」12日には「県庁会議室ニオイテ、安藤内務大臣ノ震災慰問激励ノ訓辞アリ。宮代校長出頭ス。(一部省略)本日大阪府救護班来校。本校ニ駐在シテ罹災者ノ救護ニ当ル。」さらに17日には「校庭ニ罹災民収容ノタメノ仮住宅建設工事ニ着手。姫路の陸軍工作隊ニヨル。」19日「御前十時ヨリ市役所市会議場ニオイテ、武島知事ヨリ畏キ聖旨伝達アリ。恐懼感激ノ至リニタヘズ。/午後五時武島知事親シク来校、震災復興状況ヲ視察セラレ激励ノ辞ヲ受ク。本日ヨリ天理教奉仕隊員約一五〇名来校、講堂内ニ宿泊。」その後も市内にある県立鳥取商業や市立高女の生徒達や兵庫県青少年工作隊などが来校し、校舎の取り片付け作業や修復工事に奉仕している。
翌10月になると、1日に、久松公園仁風閣前広場で開校し、教科書や学用品などが配分されている。当日の出席児童数は773名だったという。また、この日、校庭に罹災民仮住宅七棟が建築落成している。4日から二部授業が開始され、15日には、東京都国民学校職員児童代表として、東京都国民学校職員会幹事長、同会計部長、東京都四谷第五国民学校長、御徒町国民学校長の四人が来校し、見舞いを述べている。また彼らは、見舞金として五万一千一百六円を持参し、市の学務課に贈呈している。
11月16日には、震災死亡職員生徒児童合同慰霊祭が、県教育会主催の下、県立高女講堂で挙行された。12月10日には、醇風国民学校講堂で、16名の死亡児童の慰霊祭が行われた。

以上、いささか長すぎるほど紹介したのは、戦局が厳しくなってきたあの時期に救援活動や激励行動が敏速に行われていたことを知って欲しかったし、戦時下の被災記録がこんな形で残っているのは、『鳥取の災害』の著者も述べているように、珍しいからである。

長くなったので、ここまでとし、明日、わたしの個人的な思い出を書き加えたい。

※芦村登志雄・鷲見貞雄『鳥取の災害―大地震・大火災―』財団法人・鳥取市社会教育事業団 1988(昭和63)年9月10日

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