2009年9月17日木曜日

鳥取大震災 3/3回

1943年9月10日(金曜日)。この日は雨だった。
…鳥取震災の日の前ぶれの雨のすさまじさも、眼に刻みこまれている。墨のような黒雲が、まるでハヤテのように走ってきてひろがり、イキナリ夜になったと思うほどまっくらになって、たちまち物凄い雨が鳥取の街をたたきつけた。
はねかえる白い水シブキが、高さ数米にも見えた。県庁前から市役所あたりまで、見る間に川になってしまった。
あの時の雨の異常さは、あとで人々に奇怪な感触さえ残したが、鳥取を一瞬のうちに恐怖の底にたたきこんだ大地震は、雨がようやく小止みになった直後に起こった。(注)
当時わが家は二軒あった。鹿野街道と川端通りが交わって十文字を作る。横棒が鹿野街道、縦棒が川端通りとする。この右下角にわが家があった。街道を右手の方へ行くと袋川になる。わが家から袋川の手前まではアーケードになっていて、ここを内市といい、昔は賑わっていた通りだった。
この内市の角屋の一軒であるわが家は[浪花屋]という練り製品製造業、平たく言えば、かまぼこ屋あるいは竹輪屋をやっていた。一階が仕事場で、二階に義兄夫婦が暮らしていた。
川端通りは浪花屋までが川端四丁目で、ここから十字の縦線を下にのばした通りは単に四丁目尻と呼ばれていた(現在は、川端五丁目)。袋川は川端通りとほぼ並行して流れきて、川端五丁目の半ばあたりから J字形に曲がる。再び文字を使えば、「サ」の―が鹿野街道、左の|が川端通り、右のノが袋川。そして四丁目尻と交わった川は、そのあと鹿野街道とほぼ並行して流れていく。
川端通りと並行して何本もの通りが左側にあって久松山へ近づいていく。川端五丁目の左が元魚町四丁目(旧魚町尻)、さらにその左が茶町と続く。これらの通りを、二分するように、鹿野街道と袋川の間に細い道が通っている。ちょうど川と三の文字が田を作るように。

もう一軒のわが家は、川端五丁目の鹿野街道よりのところにあった。現在二つのマンションが並立しているが、街道寄りのマンションのあるあたりだ。四つに仕切られた二階建ての長屋で、右端が華道か茶道の先生をしていたお婆さんが、その隣には中年の夫婦が住んでいて、次がわが家だった。四軒目は空き家で物置。裏側には住吉という料亭があって、長屋とは広い庭でへだてられていた。
この住まいに、両親と妹と四人で暮らしていた。

あの日学校から帰宅したのは午後2時か3時過ぎであったであろう。家にはだれもいなかったに違いない。(当時は、旅行にでも出かけなければ、留守になっても家に鍵を掛けたりはしなかった。)
冒頭に引用したように、雨が降っていた。かばんを置くと、増水した袋川の様子を見にでかけた。おそらく土手沿いを歩いて魚町尻へ出たのであろう。
母方の伯父の家に立ち寄った。妹も来ていて、二人の従姉妹と遊んでいた。わたしも三人に加わったが、どんな遊びをしていたのか、記憶にない。部屋は玄関の脇にある道路に面して大きな窓があった。

ゴォーという不気味な音がしたと思うと、ガタガタと音をたてて家が揺れ始めた。上下、左右、同時に揺れるような激しさで、棚から物が落ちてくる。あわてて立ち上がったが、すぐ足をすくわれたような格好で、しりもちをついてしまった。再び立ち上がったとき、窓ガラス越しに、道路をへだてた向かいの家の庭を囲む板塀が左右に波打つようにしなりながら倒れていくのが見えた。
この年の春、かなりの地震を体験していた。(例の醇風国民学校の日誌に、「三月四日 午後七時十三分鳥取地方ニ相当強度ノ地震アリ」との記述がある。)その時は、玄関の下駄箱の上あった植木の鉢が落ちて割れた。
だが、この時の揺れの激しさはその比ではなかった。われわれ四人のこどもは言葉にならない叫び声をあげるばかりだった。激しい揺れがとまると、はだしのまま、道路へとびだした。
波打っているのを見た板塀は倒れ、何本もの電柱は大きく傾き、電線は垂れ下がっている。鹿野街道の方はもうもうと土煙が上がって他にはなにも見えない。髪を振り乱したどこかの小母さんが、これもはだしのまま、何やら泣きわめきながら袋川の土手の方へ駆け抜けて行った。
四丁目尻と魚町尻の間には魚市場があった。魚町尻側に小さな事務所があり、その前の四丁目尻まで続く広い空間は柱だけが立っていて、スレート板の屋根を支えていた。同じ作りの青果市場が魚市場とL字を作るように、四丁目尻の通りに沿っていて、事務所は土手側にあった。どちらも前年に作られたように思う。
わが家の方へ振り向いてみると、この魚市場がぺしゃんこにつぶれ、灰色の大きな屋根が山形になって地面を覆い、四丁目尻の方の視界をさえぎっている。一瞬にして見慣れていた世界が一変してしまったという思いに圧倒された。
大きな地震の後には揺り戻しがあるという知識はもっていたが、とにかく家に帰らなくてはの一心で、妹を従姉妹に頼み、一人で大きな屋根を上り、越えたところで、わたしたちを探して、もしやと叔父の家へ向かってやって来た両親とばったり出会った。そのすぐ後、駆け付けてきた義兄姉ともいっしょになって、家族全員の無事を確かめ喜び合った。
四丁目尻の長屋は、一棟全体の一階がペしゃんこにつぶれ、二階はしゃんとして残っていた。
両親たちは、この日たまたま芝居見物に出かけるどこかの団体の仕出し弁当の注文を受けており、内市の店で忙しくしていた。そのため夕食が遅くなることを、妹とわたしは知っていたから伯父の家で遊んでいたのだ。
ぐらっと来たとき、父は義姉を相手に大きな鍋でてんぷらを揚げていたという。鍋の油がゆっさゆっさ揺れ、二人はありたけの野菜類を鍋に投げ込み、外へ飛び出した、と聞いた。この店は倒れず、全員が無事であった。すぐに長屋に駆けつけた両親は、わたしと妹が一階で下敷きになっていると思い、何度も大声で呼んだそうだが、もしやと一縷の望みをいだいて、伯父の家に向かったのだった。

長屋は一階が潰れてしまっただけではなかった。隣かお師匠さんの家のどちらかで火か出たのだ。あたりが暗くなりはじめた頃だったから、6時になる頃であったろうか、一階全体に回っていた火が、ぼっという音とともに、吹きあげるように二階全体に広がった。道路側の窓は窓ガラスはもちろん、窓枠も下に落ちてしまっていたから、一瞬、部屋の中が照明に照らされたように浮かび出た。窓際にあった机の上の本立ても、安藝ノ海の写真を入れた小さな写真立ても机上にあったし、アッツ島守備隊長・山崎大佐、連合艦隊司令長官・山本元帥の写真の額も長押の上にそのままあった。みんなあっという間に炎に包まれて焼けてしまった。そのとき、わたしは、はじめてわっと泣き出してしまった。
1936(昭和11)年末から発行されていた『乃木大将』『岩見重太郎』『金太郎』などをはじめ、何十冊かそろっていた「講談社の絵本」や幼稚園で購読していた『キンダーブック』も焼けてしまった。ランドセルも教科書や文房具もみんな焼けてしまった。階下の壁に貼っていた大きな世界地図も、縁側の近くに置いていた網を掛けた水盤のなかのカジカガエルも……。

魚市場は全壊したが、青果市場は被害を受けなかった。長屋の火が鎮まるころ近所の人たちが市場に集まってきた。二十世紀梨の入った木箱が積み上げられていたが、箱が崩れ落ちて、ナシが散乱していた。事務所の人が好きなだけ食べろ、というのでみんなが食べた。
母と姉が大きな釜で炊きあげたご飯をそのまま持ちこんで、にぎりめしを作って、まわりの人たちに振る舞った。仕出し弁当に使う料理も提供した。ふだん話をしたこともないような人たちも地震のときの有様を興奮したようにしゃべりあっていた。こんなとき、大人はよくしゃべるんだ、と子供心にも思った。

長屋ではお師匠さんだけが亡くなった。助けを求める声が聞こえたが、火のまわりが早くで救出できなかった。
市場の下はコンクリートだった。内市の家から持ち込んだ畳を並べ、布団を敷いて寝た。暗闇のなかで、亡くなったお師匠さんの燐が燃える青白い光が
ゆれていた…。

先回引用した『鳥取の震災』の「大震災」の部に、次のような『大因伯』10月号からの引用がある。その一部を孫引きする。
「また、鳥取市大黒座に出演し、同日夜の部開演前の六代目大谷友右衛門は、楽屋にあって顔作り中であったが、隣家が倒壊して楽屋にのりかかり、不幸圧死した」「鳥取駅前に小屋掛けをしていたサーカス団(引用者注:木下サーカス)も、この地震で団長が亡くなり、曲芸や象使いの子どもたちも三人圧死した」。(同書p.20)

大谷友右衛門の來鳥が、そしてその芝居の見物客の注文を受けたことが(父は気に入らない客のくずし物以外の注文は受け付けなかった)両親と妹とわたしの命を救ったのだ。

先回述べたように、醇風国民学校の児童16名がこの地震で亡くなった。そのうち、6名が茶町、1名が四丁目尻。妹とわたしは、その間にある魚町尻の家にいて助かったのである。亡くなった児童の内、同学年以外にも何人か、顔が思い浮かぶ子がある。みな10歳前後だ。生き残ったわたしは、あれから70年近くまで、こうして馬齢を重ねている……。

(注)『鶴田憲次遺文集 風に訊け』1982年 同編集委員会(pp.295-296)

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