2009年7月19日日曜日

鳥取を愛したベネット父子 (37)

【スタンレーの戦後初の帰国はいつであったか?】

5月27日付「鳥取を愛したベネット父子(36回)」の終わりに、次のように書いたあと、2ヶ月近くが過ぎてしまった。
付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。
昨日、久しぶりに県立図書館へ出かけて調べた。朝日新聞の縮刷り版で、この学会についての記事を見つけた。

1956(昭和31)年10月21日付新聞の11ページ。新聞の下段(広告のすぐ上)にある一段の記事を「べた記事」というが、そこに短い記事があった。記事の最終ページに今もある「青鉛筆」という小さなコラムの右隣に「急性ジン臓炎で倒れた牧野富太郎博士が危機を脱した」という7行の記事があり、その右に次のような記事があった(見出しは省略、本文は全文)。
二つの中国やソ連から二十余人の学者を招いてアジア・太平洋州国際電子顕微鏡会議が二十四日から四日間、東京産経会館国際ホールで開かれる。主催は日本電子顕微鏡学会(谷安正会長)で、日本学術会議、文部省の後援。参加外人学者はドイツのアーネスト・ルスカ教授をはじめ米、インド、インドネシア、カンボジア、台湾、中共。ソ連から二十三人が参加を申込み、日本側は約二百三十人が加わる。
 このうち中共からは方志芳博士以下五人が来ることになっ
 ているが、日本政府が入国許可をしぶって二人しかみとめ
 ていないので、同学会では「学問の交流を妨げるものだ」と
 いっている。
加藤恭子が『S・ベネットの生涯』138ページで「この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。」と書いているのは、「…十月、第一回アジア・大平洋州国際電子顕微鏡会議…」ということになる。

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