2009年5月5日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (33)

1945(昭和20)年10月31日付で兵役を解除されたスタンレーは、その2日後、ボストン郊外のブルックラインへ再び戻ってきた。一家そろっての生活がまた始まった。

戦争の始まる前年、1940年の夏、スタンレーの父ヘンリーは、次男のフレデリックが眠る鳥取の地に骨を埋めたいという夢を断たれて、アメリカへ帰ってきた。ブルックラインに大きな家を非常に安く手に入れることができて、スタンレーの一家も移ってきた。
長女のイーデスは1937年生まれ、祖母の名前をもらった次女のアンナは1939年生まれだった。この家に移って間もない42年の春、祖父の名前をもらった長男のヘンリーが生まれた。そして、スタンレーが戦場にいた1944年の2月はじめの雪の日、女の子が生まれ、ペイシェンスと名づけられた。
この年、祖父ヘンリーと祖母アンナは政府の仕事でワシントンへ移ったので、スタンレーが帰ってきたとき、この家には妻のアリスと四人の子供だけが住んでいた。

スタンレーは、ハーバード大学を休職扱いで戦場に赴いていた。
退役後、MIT、マサチューセッツ工科大学理学部細胞学教室に、助教授として迎えられた。

ここでの3年間が終わった時点で、ハーバード大学医学部教授と、シアトルにあるワシントン州立大学医学部解剖学教授と科長の職と、二つの口がかかってきた。スタンレーは、熟慮の末、後者を選択した。この選択について加藤恭子は次のように述べている。(『スタンレー・ベネットの生涯』pp.106-107)
   電子顕微鏡が、将来の医学、生物学にとっていかに重要になるかを見抜いたのも、その〝才能〟であったのだろう。だが、その〝才能〟は、日本に対しても働いたにちがいない。
 十三歳で日本を離れたスタンレーが再度日本とのかかわり合いを持つことになったのは、いわば異常な状況においてだった。ガダルカナル、沖縄など、〝敵〟としての日本、日本人との再会であった。
 だが、ワシントン州立大学の正教授と科長の地位を得ることによって、望ましい形での交流に乗り出すことができる。実現させられる(引用者注:原文には、左の7文字に傍点)という思いがあったのかもしれない。あるいはそれが、彼にとっては、自己と日本人の傷への〝癒しの道〟だったかのかもしれない。
 彼の心の中には、二つの計画があったのではないだろうか。日本人研究者の育成に手を貸すこと。そして、日本における電子顕微鏡の発展を助けること。
 もちろん、この二つだけが彼の後半生における重要な計画であったわけではない。彼自身の研究を実りのあるものにしていくこと。そして、何よりもまずアメリカ市民として、アメリカにおける電子顕微鏡を用いた細胞生物学のレベルを上げることに尽力しなければならなかった。
 だが、同時に、彼の心の底には、日本に対して何か確たるものがあったように思える。
 その〝何か〟とは、日本人へ対する愛着と言ってよいかもしれない。「私たちはここへ骨を埋めるために戻ってきました」と告げたヘンリーとアンナから引き継いだ鳥取への望郷の思いかもしれない。
 だが、その〝何か〟は、いつのころからか、スタンレーの心の中に巣喰い、成長し続けたように見える。

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