2009年5月14日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (34)

【若い日本人科学者たちの養成と、日本の電子顕微鏡製造技術への貢献】

先回の終わりに引用した文のなかで加藤恭子が述べていたように、戦場から戻ったスタンレーの心の中では日本、わけてもこども時代を過ごした鳥取への望郷の思いが大きくふくらんでいったのであろう。その具体的の表れの一つが、日本人研究者の育成と日本における電子顕微鏡の発展を手助けすることであった。

1954(昭和29)年の5月、一人の日本人が横浜から二週間の船旅の後、サンフランシスコに着いた。2日後、夜行列車でシアトルへ。針葉樹林がどこまでも続く景色を眺めつつ、不安を胸に抱きながら彼はシアトルのキングス駅に降り立つ。
「…トランクを下げて歩いてゆくと、出口のところで、額の広い、がっちりした体格の白人が、にこやかに笑みをみせながら日本語で話しかけてきた。『山田さんですか。私がベネットです。荷物はそれだけですか』
これが、スタンレーと日本人弟子第一号、山田英智との出会いであった。
(この項、『スタンレー・ベネットの生涯』pp.125-126 による。)

山田は当時、30歳を過ぎたばかりで、九州大学医学部解剖学教室の助教授だった。山田を含む9人の日本人がスタンレーの下で指導を受けた。これが「第一世代」である。

スタンレーは、1961年から約八年をシカゴ大学で過ごすが、日本人の弟子はとっていない。
1969年にノース・カロライナ大学へ移ってからのスタンレーに師事した若手研究者たちが「第二世代」である。その第一号が飯野晃啓。1938(昭和13)年北海道生まれで、鳥取大学医学部を卒業後、同大学助手となっていた。
1966年神戸で開かれた国際解剖学会議での彼の発表―偏光顕微鏡観察によるキチン質の形態学―を最前列で聞いていたスタンレーが「非常に面白い。いい発表ですね」と誉め、アメリカに来るように、さっそった。
晃啓は、妻の佳世子、二歳の光伸とともに、一九七〇年から七一年にかけて、客員助教授としてベネット研究室に在籍することになった。第二世代第一号の弟子である。一九七〇年四月二十八日午後にチャペル・ヒル着。
晃啓が鳥取大学医学部硬式テニス部の文集に書いたエッセイによると、スタンレーは飛行場まで出迎えてくれたという。

「手を上げて待っていてくれ、流暢な日本語で迎えてくれ、疲れも吹き飛んでしまった」
第一世代第一号の山田英智以来、スタンレーが示してきた心遣いである。遠来の客の心細さが彼の日本語のひと言で吹き飛ぶことを知っていたのだろうか。しかも、スタンレー自身大好物の羊かんを、
「これは虎屋のですから、召し上がって下さい」
と、佳世子に手渡した。箱入りで、ちゃんとのし紙がかかっていた。
スタンレー愛用のベンツには東大寺、東照宮、善光寺など、お守りがざらざらとぶら下げてあった。
「保険に入るより安いですからねえ」
と、スタンレー。(『スタンレー・ベネットの生涯』p.239)
この{第二世代」は六人だった。
これらの人々は、加藤恭子の言葉を借りると、「日本における解剖学の発展に寄与する錚々(そうそう)たる学者」たちとなって、「ベネット会」を結成していた。加藤恭子の二冊の本は、この会の要請によって生まれたものである。

いまひとつ、日本の電子顕微鏡の製作に関するベネットの貢献にふれておきたいが、正直に言って、わたしにはよくわからない。

・日本でも1932(昭和7)年頃から電子顕微鏡という言葉(electron microscope の訳語として)が生まれ、1939年には電子顕微鏡発展のための基礎を担う委員会ができたこと。

・日立研究所が電子顕微鏡1号機を作ったのは1942(昭和17)年春のことであったこと。

・日本における研究は戦争で中断したが、国分寺にあった日立の中央研究所は戦災をまぬがれ研究が続けられていたこと。

・戦後、なんども来日したスタンレー(彼は物理や電気にも強く、図面を見ただけですべてが分かり、すべてを読み取ってしまったという)の助言や弟子たちの厳しい注文などを受けて、「今日、世界で最も優秀な電子顕微鏡を生産しているのは、日立製作所、日本電子株式会社を中心とする日本のメーカーである」(『スタンレー・ベネットの生涯』p.180)こと。

加藤恭子が様々な文献を読み、取材を重ねて、この面についてもよく調べて書いていることにただただ感心するばかりだ。

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