2009年9月22日火曜日

昨日は宮沢賢治の命日だった

昨日、「今日は宮沢賢治の命日だ」と気づき、それを確かめようと、本棚から久しぶりに、2冊の本を取り出した。1冊は、
 
 山内修=編著『年表作家読本 宮沢賢治』   (河出書房新社)1981年9月発行

この本は、上段が年譜、下段がそれに沿った解説という構成になっていて、ページ数は印刷されていない。
賢治が亡くなったのは、1933(昭和8)年の9月21日。
 二一日、午前一一時半、賢治の寝ている二階から、突然「南無妙法蓮華経」と高々と唱題する声が聞こえてきたので、みな驚いて二階へ上がると、容態は急変していた。父が何かいい残すことはないかと聞くと、国訳の法華経を一千部印刷して、知己友人にわけてほしいという。父は賢治のいうことをまとめて文章にして賢治に確認した。
「合掌、私の全生涯の仕事はこの経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意にふれて、あなたが無上道に入られんことをお願いする外ありません。昭和八年九月二一日臨終の日に於いて、宮沢賢治」
 午後一時三〇分、永眠。(上段)
(ここまで読んで何気なく時計を見たら、正に午後1時30分ではないか! 偶然とはいえ、いささか驚いた。)同じページの下段には、賢治の弟、清六の文章が載せられている。
 父はその通りに紙に書いてそれを読んで聞かせてから、「お前も大した偉いものだ。後は何も言うことはないか。」と聞き、兄は「後はまた起きてから書きます。」といってから、私どもの方を向いて「おれもとうとうお父さんにほめられた。」とうれしそうに笑ったのであった。
 それから少し水を呑み、からだ中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落したときには、息を引きとっていた。九月二十一日午後一時三十分であった。
この文章は、書棚から持ってきたもう1冊の本、宮澤清六『兄のトランク』(筑摩書房 1987年9月)のⅣに収められている「兄賢治の生涯」の最終部分(p.238)でもある。
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醇風国民学校2年生のとき、教室(特別教室であったと思うが、正確な名称は分からない)の板張りの床に座って、映画「風の又三郎」を見せてもらったのを覚えている。
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賢治の作品を英訳したロジャー・パルバース(Roger Pulvers)という在日オーストラリア人(元アメリカ人)がいる。昨年、宮沢賢治賞を受賞した。
今年の5月17日と18日、2回にわたってNHKラジオ深夜便[こころの時代]のインタビューに出演した。この放送をCDに録音していたので、昨夜、聞き直してみた。

冒頭部分で、聞き手の鈴木健次さんが、「宮沢賢治賞を受賞された昨年は賢治の没後75年でしたね」と言ったのにたいして、パルバースさんは、「賢治が他界したのは1933年9月21日午後1時30分でした。2008年のその日その時、ぼくは授賞式出席のため花巻にいたので、賢治が〔イギリス海岸〕と名づけた北上川のほとりに立って、お祈りしました。賢治の魂が北上川の上空を散歩しているような気がしたものですから」と答えている。

彼はカリフォルニア大ロサンゼルス校、ハーバード大学大学院で政治学とソビエト近代史を専攻、ポーランド留学中スパイ容疑をかけられ帰国したが、ベトナム戦争さなかの母国を嫌って、1967年9月に来日した。その時のことを次のように語っている。
日本のことは何も知らなかったが、羽田国際空港に飛びました。そして都内のホテルに宿を取ると、屋台のおでん屋さんに入ったんですね。だから、ぼくが初めて覚えた日本語は、「チクワ」です(笑)。
先回、ブログ「 鳥取大震災」でも述べたように、竹輪屋の息子としてはうれしいですなw

日本語がまったく出来なかったのに、なぜ宮沢賢治を選んで学習したか、彼がなぜすぐれた詩人であるのか、インタビューはなかなか興味深い。しかし、前後合わせて100分前後の分量なので、要約するにも時間がかかる。幸い、雑誌に要約して採録されているから、すぐあとでご紹介する。

今日はこれにて失礼します。以下の情報を役立てていただければ幸甚です。

「ラジオ深夜便」9月号 350円
 インタビューの要約のあとに「雨ニモマケズ」の英訳も載っている。
 次のホームページで、パルバースさん自身の訳詞朗読が聴けます。
  http://radio.nhk-sc.or.jp/
◇次の書には、賢治の詩50編とその英訳詩が収録されています。 
英語で読む宮沢賢治詩集 (ちくま文庫)英語で読む宮沢賢治詩集 (ちくま文庫)
ロジャー・パルバース

筑摩書房 1997-04
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