2009年12月31日木曜日

昭和十六年十二月八日⑦最終回

なぜ横山艇についての報告が見あたらないのか?
なぜ今回発見された横山艇は、三つに分断されているのか、なぜそれぞれの部分にチェインやワイヤーが乱雑に巻き付けられていたのか? 

今回の調査に同行した軍事評論家のパークス・スティーベンスンさんは米海軍が戦争中に引き上げ、切断して捨てたのだと、推定した。
開戦直後、米国では、なぜ日本軍の真珠湾攻撃を許したのか、議会を中心に、調査や検討が行われていた。そういう最中に横山艇は発見されたのではないか? 米軍艦艇による敵潜水艦発見の通信が米海軍司令部に無視されたこともあった。追求を免れるための隠蔽だったのではないか、という。日本が軍神として騒いでいても、われわれにとっては何でもないのだということを示すためだったかもしれない、ともいう。

徹底的に分解調査された酒巻艇は、復元されて米国中を巡回した。戦意高揚のために利用されたのだ。ルーズベルト大統領も「見物」し、六千万ドル以上の戦時国債を売ったという。
一方日本では、捕虜になった酒巻少尉を消し去り「九軍神」を作った。軍部のなかには酒巻が自殺することを望む者もいたという。事実、彼自身二回自殺に失敗している。酒巻は米国で得た情報を手紙で遺族に知らせたりもしている。
(『九軍神は語らず』の巻末にある《主要参考文献》の中に『捕虜第一号』新潮社 1949、『俘虜生活四ヶ年の回顧』東京講演会 1947 があげられているが、いずれも未読である。)

米国においても、日本においても、彼らはプロパガンダに利用されたのだ。
日本では、軍人、学者、小説家、が競うように「九軍神」を讃える文章を書き、歌人、俳人、詩人たちも讃歌をつくった。
かつて、個人紙に今回と同じテーマをとりあげた。そのとき引用した文章を今回も引用しておきたい。幸田露伴の孫、青木玉の『小石川の家』からの引用である。
 …どんなに 祖父が怒っても戦争は拡大し、中国各地に兵は進められて行った。親類の甥達は召集を受け、近所で毎日のように御用聞きに来ていた魚屋の息子も炭屋の跡取りも佐倉の連隊へ集められ外地へ行く先も知らされず送り出されて行った。
祖父は自身老いて力なく、国を守るべき息子はとうに先立っている。たまらなかったに違いない。古書を扱っていた人に中国の雲南の地図を取り寄せさせて、新聞やラジオのニュースを聞いて、どこへ兵士が派遣されたか自分も地図の上で道を辿った。この地方はどんな気候で地形はどうなっている。今の季節はどんな風が吹き、雨はどんな降り方をするか、炎熱酷暑、洪水泥濘、ろくな食べ物もなく、風土病に冒されれば全滅の憂き目に逢う。軍を預かる者は何を考えているのだ。古くからこの地であった戦さに、かくも無謀な兵の進め方をした者は無い、と怒りと悲しみで活火山のようになった。遂に真珠湾攻撃の特攻隊、人間魚雷、病んで仰臥したまゝ白髪も、白くなった鬚も震えて、
「ああ若い者がなあ、若い者が」
と号泣し 、私は居たたまれず部屋から飛び出してしまった。(pp.124-125)
露伴翁こそ、あの時代にあって、まともな精神を持ち続けた稀有な人物の一人であったと思う。

最後の特殊潜航艇の艇長となった植田一雄さんは、言った。「十名の若者たちは、わずか一ヶ月足らずの訓練を受けて出陣したのだ。不運にも戦果をあげることはできながったが、それはそれでいいではないか。軍神になぞしなくてもいい。任務を果たすべく、努力を尽くしたんだ。」
植田さんと同じように訓練を受けて出陣した4000名の若者たちが命を捨てた。

68年の歳月が流れた今も、真珠湾沖合い6キロ、水深400メートルの海底に放置されたままの横山艇。植田さんはいう。「あの司令塔に乗っておられたことは、間違いないですからねえ。」

別れるときがきた。植田さんは、遺族や戦友から預かった写真を調査艇の丸窓にかざしながら、呼びかける。「みなさん、お元気で、おふたりによろしくとおっしゃていました。横山さーん、上田さーん、安らかにお休みください……」






0 件のコメント:

コメントを投稿