足元の石くれをよけるのが精一杯道を選ぶ余裕もなく 自分を選ぶ余裕もなく目にしみる汗の粒をぬぐうのが精一杯風を聴く余裕もなく 人を聴く余裕もなくまだ空は見えないか まだ星は見えないかふり仰ぎ ふり仰ぎ そのつど転けながら重き荷を負いて 坂道を登りゆく者ひとつ重き荷も坂も 他人には何ひとつ見えはしないまだ空は見えないか まだ星は見えないか這いあがれ這いあがれと 自分を呼びながら 呼びながら
2009年12月31日木曜日
サヨナラ、2009年
昭和十六年十二月八日⑦最終回
…どんなに 祖父が怒っても戦争は拡大し、中国各地に兵は進められて行った。親類の甥達は召集を受け、近所で毎日のように御用聞きに来ていた魚屋の息子も炭屋の跡取りも佐倉の連隊へ集められ外地へ行く先も知らされず送り出されて行った。祖父は自身老いて力なく、国を守るべき息子はとうに先立っている。たまらなかったに違いない。古書を扱っていた人に中国の雲南の地図を取り寄せさせて、新聞やラジオのニュースを聞いて、どこへ兵士が派遣されたか自分も地図の上で道を辿った。この地方はどんな気候で地形はどうなっている。今の季節はどんな風が吹き、雨はどんな降り方をするか、炎熱酷暑、洪水泥濘、ろくな食べ物もなく、風土病に冒されれば全滅の憂き目に逢う。軍を預かる者は何を考えているのだ。古くからこの地であった戦さに、かくも無謀な兵の進め方をした者は無い、と怒りと悲しみで活火山のようになった。遂に真珠湾攻撃の特攻隊、人間魚雷、病んで仰臥したまゝ白髪も、白くなった鬚も震えて、「ああ若い者がなあ、若い者が」と号泣し 、私は居たたまれず部屋から飛び出してしまった。(pp.124-125)
2009年12月30日水曜日
昭和十六年十二月八日⑥
私が、十二月二十六日(引用者注:昭和十六年)拝謁で上京していたとき、大本営の潜水艦主務参謀の有泉龍之介中佐が、私のところへやって来て、「淵田中佐、アリゾナの撃沈を特別攻撃隊の戦果に呉れないか」と、もちかけたのである。私は苦笑した。「別に功名争いするわけではないし、特殊潜航艇は特攻だから、その功績を大々的に吹聴してあげたいのはやまやまだけれどね、アリゾナは無理だよ。それはね、アリゾナはフォード島東側の繋留柱にかかっていたのだが、その外側にヴェスタルという工作艦が横付けしていたので、アリゾナには魚雷は利かなかったのだよ。従って特殊潜航艇の魚雷による轟沈などと発表したのでは、あとあと世界の物笑いになるよ」有泉中佐…は憤然として出て行ってしまった。(注1)
2009年12月24日木曜日
昭和十六年十二月八日⑤
2009年12月15日火曜日
昭和十六年十二月八日④
2009年12月14日月曜日
昭和十六年十二月八日③
オアフ島に向かう第一波空中攻撃隊の進撃隊形は、私の総指揮官機が先頭に立って、その直後に、私が直率する水平爆撃隊四十九機が続いている。右側に五百米離れて、…雷撃隊四十機…。左側には…降下爆撃隊五十一機…。そして…制空隊四十三機の零戦が、これら編隊軍の上空を警戒援護しながら、随伴しているのであった。(p.110)
2009年12月12日土曜日
昭和十六年十二月八日②
2009年12月10日木曜日
昭和十六年十二月八日①
▼今日が何の日か知らない若い世代が、ずいぶん増えていると聞く。わが身も含めて4人に3人が戦後生まれになった今、風化はいっそう容赦ない。伝える言葉に力を宿らせたいと、かつて破滅への道を踏み出した日米開戦の日に思う。
何時になったらば、アメリカ、イギリスに対する宣戦の大詔を拝する事が出来るのかと、我々一億の国民は、実に待ちに待って今日に至りましたが、勿体無くも去る八日、アメリカ合衆国及イギリスに対し、宣戦の大詔を御煥発になりました。我々国民として、感激此の上もない次第であると存じます。恐らく皆さんや私共が一生を通じて、こうした大詔を拝する事は、これが最後であろうと思います。私はこれで大詔を拝する事は三回目であります。日清日露両戦争と、此の度の対米英戦争と三回であります。一昨日に、即ち十二月八日、午前十一時三十分、ラジオを通じて、宣戦の大詔が御煥発になった事を知って、只それだけの事を皆さんにお知らせしました。続いて十一時四十五分、宣戦の大詔の奉読あり、東條首相の「宣戦の大詔を拝して」と題する涙のこぼれる様なお話があったのでありました。幸に十時頃にサイレン吹鳴禁止の命令(引用者注:空襲警報などをサイレンで知らせるため、学校の授業の開始、終了などをサイレンで知らせることを禁止したと思われる。)があったのと同時に、校長室のラジオをかけておいて、仕事をしていたので、この事が一早く知る事が出来、皆さんにお知らせもし、詔書の拝読や、首相のお話も、校内放声装置のお蔭で、聞く事が出来ました事は、他の学校でも数多く無い事でしょう。……国力からいっても、軍備からいっても、経済力からいっても、世界一々々々と自分から誇っているし、又実力も持っているアメリカ合衆国並に地球上太陽の没する事のないという、広い領地を持つイギリスが、この太平洋方面の作戦の大事な基地にしている、アメリカのハワイや、ミッドウエイや、ウエイク、フィリッピン、又イギリスの香港、マレー、シンガポール等を電光石火の如く、八日午前三時を期して、米英両国の軍隊が立上がるひまもない程に爆撃し、又軍艦を轟沈する等、陸海軍の手ぎわのよさ、このニュースを聞いた皆さんの嬉しさ、私共の感激は死んでも忘れる事は出来ないと思います。(後略)注1.pp.270-271
2009年12月6日日曜日
当世ーワード(2009年12月①)
青いバラ・邸宅カフェ・コンビニ用書籍・記憶の銀行・横手焼きそば・目的別積立預金。このなかから三つをご紹介しよう。
◆邸宅カフェ
ヨーロッパの豪華な邸宅を模したカフェのこと。邸内には特別注文のアンティーク風の家具が並んでいて、お客さんは一階の入口付近でお菓子とドリンクを購入して、好みの席まで運んでいって、気ままに自由にくつろぐことができる。神戸市に本社のある洋菓子メーカーが今年5月神戸市に開いたもので、コンセプトはリカルディーナという架空の王女さまが住んでいるヨーロッパ地中海沿いに建てられた邸宅としている。休日には兵庫県外からの客も訪れて、行列ができる賑わいを見せているという。
ネットで調べてみると「メニューは700~800円のドリンク類と、300~500円の約15種類あるケーキ。売れ筋はドリンクが付いたケーキセット」だそうな。
◆コンビニ用書籍
コンビニ大手の三社が出版取次大手の会社と組んで、販売する書籍。複数の出版社をまたいで、背表紙のデザインを統一してお客さんの目を引くようにしている。現在のところ中堅出版社の7社が参加を表明している。出版社はある作家の作品を先ずハードカバーの単行本で売り出して、一定期間経った後に文庫本として売り出すのが一般的なのだが、それをさらにコンビニ用書籍として売り出し、一作品あたりの収益を拡大しようとしている。分野としては、ビジネス、自己啓発、雑学、健康、ファッションなどを想定している。
◆記憶の銀行
イタリヤ北部の都市、トリノの若者四人が立ち上げたNPOのメモロというところが運営するオンラインのアーカイブ。イタリヤの高齢者が体験した第二次世界大戦中のファシズムとレジスタンス、その後の復興、繁栄などを貴重な財産として後世に残すために、ビデオカメラなどに収めて記録に残す運動。核家族化が進む中で、高齢者が体験したことを子どもたちに語り継ぐことで、家族のあり方を再構築したいという思いもあるようだ。
各国にも広がっているようだ。本家と日本の場合とアドレスは、下記をどうぞ。
http://www.memoro.org/it/
http://www.memoro.org/jp-jp/index.php
2009年12月4日金曜日
Google日本語入力が公開された!
2009年12月3日木曜日
ことば巡り③
2009年12月2日水曜日
ことば巡り②
2009年12月1日火曜日
ことば巡り①
2009年11月22日日曜日
当世キーワード(2009年11月④)
2009年11月15日日曜日
当世キーワード(2009年11月③)
2009年11月8日日曜日
当世キーワード(2009年11月②)
2009年11月1日日曜日
当世キーワード(2009年11月①)
2009年10月19日月曜日
当世キーワード(2009年10月②)
2009年10月6日火曜日
田中菊雄『現代読書法』で知った新渡戸稲造
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2009年10月5日月曜日
当世キーワード(2009年10月①)
2009年9月29日火曜日
当世キーワード(2009年9月③)
最初の二つは、頭髪が減少しつつあるわたしには、関心はありませんが、1個所ずつサイトを紹介しておきます。亀井さんは、「ボブヘアーも、自分らしく生きたいという心の現れ」とおっしゃていましたが…。
◇ボブ男
http://mjwatch.jugem.jp/?eid=973
◇スジ盛りヘアー
http://ameblo.jp/chidu-h/entry-10156055038.html
次のふたつは、生きづらくなってきた現在、生まれるべくして生まれたものでしょう。
◇貸しスーツ
http://job.yomiuri.co.jp/news/ne_09071601.htm
◇ライド シェア
http://notteco.jp/
◇歩き食べ族
これについては、自称、東京・新宿は余丁町のご隠居、橋本尚幸さんのブログ、Letter from Yochomachi が1ヶ月前に取り上げておいでです。そちらをご覧下さい。
http://www.yochomachi.com/2009/07/blog-post_28.html
◇信州プレミアム牛肉
おいしそうだが、お高いンでしょうねえ。
http://www.pref.nagano.jp/nousei/nousei/oisiinet/contents-premium.html
2009年9月23日水曜日
もう一度宮沢賢治
*パルバースさんによる"STRONG IN THE RAIN"の朗読を本誌ホームページしかし、ここでは10月号に掲載されているものしか聞けません。いろいろ探してみましたが、NHKのサイトではだめのようです。
(http://radio.nhk-sc.or.jp)で聞くことができます。
パルバースさんは「雨ニモマケズ」の英訳についてこう語っている。
「雨ニモマケズ」の英訳はいくつかあるのですが、そのどれもが、「マケズ」をそのまま否定形で訳していて、「ちょっと違うな」と思っていました。だからぼくの訳は、“Strong in the rain”で始まっています。「強い」という意味の“strong”で、「よし、やるぞ」という感じを出したかったんです。著作権のこともあるので、前半の英訳をご紹介する。
それは賢治の願望であり、祈りでもあったから。
「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/欲ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシズカニワラッテイル/一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ/……」
Strong in the rain
Strong in the wind
Strong against the summer heat and snow
He is healthy and robust
Free from all desire
He never loses his generous spirit
Nor the quiet smile on his lips
He eats four go of unpolished rice
Miso and a few vegetables a day
He does not consider himself
In whatever occurs...his understanding
Comes from observation and experience
And he never loses sight of things
パルバースさんに関連するサイトなどを追加しておきます。
Strong in the Rain: Selected Poems | |
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2009年9月22日火曜日
昨日は宮沢賢治の命日だった
山内修=編著『年表作家読本 宮沢賢治』 (河出書房新社)1981年9月発行
この本は、上段が年譜、下段がそれに沿った解説という構成になっていて、ページ数は印刷されていない。
賢治が亡くなったのは、1933(昭和8)年の9月21日。
二一日、午前一一時半、賢治の寝ている二階から、突然「南無妙法蓮華経」と高々と唱題する声が聞こえてきたので、みな驚いて二階へ上がると、容態は急変していた。父が何かいい残すことはないかと聞くと、国訳の法華経を一千部印刷して、知己友人にわけてほしいという。父は賢治のいうことをまとめて文章にして賢治に確認した。(ここまで読んで何気なく時計を見たら、正に午後1時30分ではないか! 偶然とはいえ、いささか驚いた。)同じページの下段には、賢治の弟、清六の文章が載せられている。
「合掌、私の全生涯の仕事はこの経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意にふれて、あなたが無上道に入られんことをお願いする外ありません。昭和八年九月二一日臨終の日に於いて、宮沢賢治」
午後一時三〇分、永眠。(上段)
父はその通りに紙に書いてそれを読んで聞かせてから、「お前も大した偉いものだ。後は何も言うことはないか。」と聞き、兄は「後はまた起きてから書きます。」といってから、私どもの方を向いて「おれもとうとうお父さんにほめられた。」とうれしそうに笑ったのであった。この文章は、書棚から持ってきたもう1冊の本、宮澤清六『兄のトランク』(筑摩書房 1987年9月)のⅣに収められている「兄賢治の生涯」の最終部分(p.238)でもある。
それから少し水を呑み、からだ中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落したときには、息を引きとっていた。九月二十一日午後一時三十分であった。
―――*―――*―――*―――*―――*―――
醇風国民学校2年生のとき、教室(特別教室であったと思うが、正確な名称は分からない)の板張りの床に座って、映画「風の又三郎」を見せてもらったのを覚えている。
―――*―――*―――*―――*―――*―――
賢治の作品を英訳したロジャー・パルバース(Roger Pulvers)という在日オーストラリア人(元アメリカ人)がいる。昨年、宮沢賢治賞を受賞した。
今年の5月17日と18日、2回にわたってNHKラジオ深夜便[こころの時代]のインタビューに出演した。この放送をCDに録音していたので、昨夜、聞き直してみた。
冒頭部分で、聞き手の鈴木健次さんが、「宮沢賢治賞を受賞された昨年は賢治の没後75年でしたね」と言ったのにたいして、パルバースさんは、「賢治が他界したのは1933年9月21日午後1時30分でした。2008年のその日その時、ぼくは授賞式出席のため花巻にいたので、賢治が〔イギリス海岸〕と名づけた北上川のほとりに立って、お祈りしました。賢治の魂が北上川の上空を散歩しているような気がしたものですから」と答えている。
彼はカリフォルニア大ロサンゼルス校、ハーバード大学大学院で政治学とソビエト近代史を専攻、ポーランド留学中スパイ容疑をかけられ帰国したが、ベトナム戦争さなかの母国を嫌って、1967年9月に来日した。その時のことを次のように語っている。
日本のことは何も知らなかったが、羽田国際空港に飛びました。そして都内のホテルに宿を取ると、屋台のおでん屋さんに入ったんですね。だから、ぼくが初めて覚えた日本語は、「チクワ」です(笑)。先回、ブログ「
日本語がまったく出来なかったのに、なぜ宮沢賢治を選んで学習したか、彼がなぜすぐれた詩人であるのか、インタビューはなかなか興味深い。しかし、前後合わせて100分前後の分量なので、要約するにも時間がかかる。幸い、雑誌に要約して採録されているから、すぐあとでご紹介する。
今日はこれにて失礼します。以下の情報を役立てていただければ幸甚です。
◇「ラジオ深夜便」9月号 350円
インタビューの要約のあとに「雨ニモマケズ」の英訳も載っている。
次のホームページで、パルバースさん自身の訳詞朗読が聴けます。
http://radio.nhk-sc.or.jp/
◇次の書には、賢治の詩50編とその英訳詩が収録されています。
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2009年9月18日金曜日
当世キーワード(2009年9月②)
【出版社/著者からの内容紹介】◎ 本書概要無駄な告白はしない、余分なパワーは消費しない、交際してもハマらない----不況下で恋愛にも「エコ」を求める男女が増える背景を分析し、新しい恋愛・結婚のあり方を考える。◎【エコ恋愛(ラブ)婚】とは【自分にも周りにもやさしい恋愛・結婚】のこと
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小山晴子「かしわの力で海岸林をつくる」
NHKのR1blo に次のように紹介されている。
小山晴子(こやま はるこ)さんは、40年間調べ続けた海岸林のマツとカシワの木の共生に関する本「マツ枯れを超えて ~カシワとマツをめぐる旅~」を出版しました。著書では、マツ枯れを防ぎ、これからの海岸林をつくる担い手は、カシワであると提言しています。カシワ(柏)の葉は、柏餅をくるんでいたから、子ども時代からおなじみだけれど、米や麦などをたいて飯をつくることを「かしぐ(炊ぐ)」というが、そのとき、よくカシワの枝や葉を燃したことから「カシワ」という名前がついたそうだ。小山さんの話ではじめて知った。
海岸林は、風、飛砂、潮、霧などを防ぎ、田畑や住宅地を守っています。しかし、約200年前に植えられたマツによる海岸林はマツ枯れのため、その対応策が急がれています。
なぜ、カシワが海岸林に有効なのかお話ししていただきます。
http://www.nhk.or.jp/r1-blog/050/26112.html
鳥取市では砂丘の砂を減らさないように努めているが、日本全体としては、大切な土地を浸食や砂漠化から守ることは重要なのだ。
著書は2冊あるようだが最新のものは、
『マツ枯れを越えて-カシワとマツをめぐる旅』
小山晴子/著 秋田文化出版/発行 2008.11
本書では、枯れていく海岸の防砂林を調べていく中でわかってきた
カシワの木とマツの関係について述べられています。人間と樹木の関
わり方について考えさせられる一冊です。著者の前作「マツが枯れる」
の続編として発行されました。
鳥取県立図書館にはなかったが、秋田にはあるから、各県の図書館で取り寄せてもらい、帯出できるだろう。
秋田県立図書館
http://www.apl.pref.akita.jp/kensaku/kyodo/2009_1.html
マツ枯れを越えて―カシワとマツをめぐる旅 | |
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2009年9月17日木曜日
鳥取大震災 3/3回
…鳥取震災の日の前ぶれの雨のすさまじさも、眼に刻みこまれている。墨のような黒雲が、まるでハヤテのように走ってきてひろがり、イキナリ夜になったと思うほどまっくらになって、たちまち物凄い雨が鳥取の街をたたきつけた。はねかえる白い水シブキが、高さ数米にも見えた。県庁前から市役所あたりまで、見る間に川になってしまった。あの時の雨の異常さは、あとで人々に奇怪な感触さえ残したが、鳥取を一瞬のうちに恐怖の底にたたきこんだ大地震は、雨がようやく小止みになった直後に起こった。(注)
2009年9月13日日曜日
鳥取大震災 2/3回
…当時の記録は、戦争中の防諜事情もあって、殆ど残されてはいない。わずかに、特高警察の記録した『鳥取震災小誌』が、その面影を偲ばせるばかりである。
あれから四十五年(引用者注:1988年)、戦後経済の飛躍的発展により、震災被害の残象は、どこにも見当らないほどに復興をみた。現在、少なくとも五十歳以下の市民で、鳥取大地震の悲劇を知る人は、全くいないといってよい。それほどに鳥取震災は、もはや風化し去ったのである。
わたしたちは、これらの災害をよき教訓として日々の暮らしに生かし、明るく住みよい鳥取市づくりを目指していきたいものです。そんな願いを込めた『鳥取の災害』を、家庭や職場にぜひ揃えてほしいとお勧めする次第です。
2009年9月10日木曜日
鳥取大震災 1/3回
一九四三(昭和十八)年九月十日、午後五時三十六分五十七秒、突如として、鳥取地方に大地震が起こった。この地震で鳥取の町並みは一瞬のうちに崩れ去ってしまった。地震の規模は、直下型烈震で、マグニチュード七・四を記録した。この、震度の大きさからいえば、一九二三(大正十二)年の関東大震災、一九三三(昭和八)年の三陸沖地震につぐものといえよう。だが倒れた家や死傷者の率からすれば、かつて例のないほどの激しい地震であったことがわかる。
「……平和な各家庭においては、楽しい夕餉の支度に忙しく、官庁や会社等においても、残暑の名残りまだ消えやらぬ暑苦しい一日の勤めを終えて、やっと解放された気持ちで帰途につきつつあった。……略……道を歩いていた者は、瞬間に地上に投げ出されている自分を見出した。立ち上がろうにも立てないのである。そこかしこの家々からおこる悲痛な叫び声に続いて、バラバラと身一つで逃れ出る人びと。かくてこの瞬間に、家々の建物は、目の前で凄まじい土煙を立てて崩れて行ったのである。ほんの一瞬の出来ごとであるが、今までの平穏な世界は一変して、この世ながらの生地獄と化し、倒れた家の下敷きとなって瞬時に生命を失う者、悲痛な声をふりぼって助けを求める者、親を呼び子を求めて号哭する声は巷に充ち溢れ、あわれ罪なくして親を奪われ、傷つき、住むに家なく、逆上狂乱して右往左往する人々の姿は痛ましいというか、全く凄惨きわまりない、阿鼻叫喚の地獄であった。……略」(この引用文中の省略は『鳥取の災害』の著者)
尚、其ノ夜震災ニヨル火災発生ス。校下ニテハ鹿野町・元魚町・川端四丁目尻ニ起リ、倒壊・焼失ノ厄ニ遭遇セル家庭多数ニ上ル。コノ大被害ノ外ニ、本校児童中、下校後家庭ニアリテ家屋ノ下敷トナリ、惨死ヲ遂ゲタル者一六名ノ多数ニ及ビシコト、マコトニ哀悼痛惜ノキワミデアル。ココニ罹災遭難児童ノ名ヲ記録シ、冥福ヲ祈ル。
2009年9月6日日曜日
当世キーワード(2009年9月①)
自動車販売は減っているが自転車は人気だ。百貨店は苦しんでいるがユニクロは絶好調だ。エコ志向、ナチュラル志向、レトロ志向、和風好き、コミュニティ志向、先進国より世界遺産、農業回帰…新しい価値観が台頭してきたのだ。シンプル族が日本を変える。
2009年9月1日火曜日
今日から9月
◇Twitter を始めてみる気にさせてくれたサイト
2009年8月26日水曜日
自分の画像
2009年8月6日木曜日
鳥取を愛したベネット父子 (38)
【毎年のように「帰国」したスタンレー】
加藤恭子の『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』は、いわゆる「編年体」というか、人物の誕生から死に至るまで年月を追って記述する形式では書かれていない。太平洋戦争戦後、何度来日し、来鳥したか、正確には分からない。『S・ベネットの生涯』からざっと拾い上げてみると、つぎのようになる。
1956(昭和31)年。戦後初めての来日。
第1回アジア・大平洋州国際電子顕微鏡会議(東京)10月24日~27日
◆26年ぶりに日本へ帰った喜びを語っている(p.139)。
11月1日 早朝鳥取着。久松山に登る。
1959 (昭和34) 年、広島大学訪問(p.173)。
1960(昭和35)年、日本解剖学会総会で特別講演(p.175)。
1962(昭和37)年、3月29日~4月10日、アリスも初来日(p.146~)。
1965(昭和40)年
このシリーズ第11回(2009/01/06)。スタンレーが「鳥大メディ カル」に寄稿した「鳥取の思い出」(拙訳)の中で次のように書いている。「1965年の夏、妻と いっしょに米子を訪れたとき、鳥取大学の親切な教授方にご一緒していただき、夫婦して大山の頂 上まで非常に快適な登山をする恩恵を受けた。」
1966(昭和41)年8月
京都で第6回電子顕微鏡学会。(p.227)
神戸で国際解剖学会議(p.238)。
1974(昭和49)年。
日本政府より勲二等瑞宝章を授与された。 (p.194.pp.226-227 p.237)
6月14日、東京医科歯科大で講演。(pp.226―227)
1979(昭和54)年。
3月~6月、東大医科学研究所に客員教授としてアリスと共に招かれる(p.146)。
この来日の際に、鳥取も訪れ、 NHK鳥取の「マイク訪問」に出演(p.51)。
[1977年、科長を退職。1981年、生殖生物学研究所所長を退職。( pp. 250~251)]
1984(昭和59)年。
8月26~31日、第3回国際細胞生物学会。(p.256 p.260 )
9月22日、フレデリックの墓参。ヘンリーの蔵書などを県立博物館へ寄贈。(pp.266-269)
9月29日、日本を発つ。
1986(昭和61)年。
8月30日~9月17日、夫婦で最後の来日(p.272)。
1988(昭和63)年来日の予定をキャンセル。手術、入院。(ページ、同上)
1992(平成4)年8月9日、スタンレー死去。享年81歳(p.305)。
2009年8月4日火曜日
当世キーワード(2009年8月①)
「今、この新語・流行語にこだわると、世の中少しは見えてくるかも」の私のコーナー紹介で始まる「日曜あさいちばん 当世キーワード」(日曜午前5時半から放送)は、いつも多くのリスナーから反響をいただきます。新語アナリスト・亀井 肇さんが、昨今世の中で使用されてきた新しい言葉を毎週5~6語紹介してくれます。今年で11年目になる名物コーナーです。私も思わず「うーんなるほど!」と唸(うな)ってしまったり、また「うふふ……」と笑ってしまう言葉ありで、たいへん楽しみにしています。http://www.nhk.or.jp/r1-blog/200/23005.html
2009年7月19日日曜日
鳥取を愛したベネット父子 (37)
5月27日付「鳥取を愛したベネット父子(36回)」の終わりに、次のように書いたあと、2ヶ月近くが過ぎてしまった。
付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。昨日、久しぶりに県立図書館へ出かけて調べた。朝日新聞の縮刷り版で、この学会についての記事を見つけた。
1956(昭和31)年10月21日付新聞の11ページ。新聞の下段(広告のすぐ上)にある一段の記事を「べた記事」というが、そこに短い記事があった。記事の最終ページに今もある「青鉛筆」という小さなコラムの右隣に「急性ジン臓炎で倒れた牧野富太郎博士が危機を脱した」という7行の記事があり、その右に次のような記事があった(見出しは省略、本文は全文)。
二つの中国やソ連から二十余人の学者を招いてアジア・太平洋州国際電子顕微鏡会議が二十四日から四日間、東京産経会館国際ホールで開かれる。主催は日本電子顕微鏡学会(谷安正会長)で、日本学術会議、文部省の後援。参加外人学者はドイツのアーネスト・ルスカ教授をはじめ米、インド、インドネシア、カンボジア、台湾、中共。ソ連から二十三人が参加を申込み、日本側は約二百三十人が加わる。加藤恭子が『S・ベネットの生涯』138ページで「この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。」と書いているのは、「…十月、第一回アジア・大平洋州国際電子顕微鏡会議…」ということになる。
このうち中共からは方志芳博士以下五人が来ることになっ
ているが、日本政府が入国許可をしぶって二人しかみとめ
ていないので、同学会では「学問の交流を妨げるものだ」と
いっている。
2009年7月14日火曜日
原爆の恐怖
昨日は、地域を指定すると、その地域を攻撃できる核兵器がどれぐらいあるかを教えてくれる『Nukeometer』というサイトを紹介していた。
もうすぐ広島、長崎での原爆による犠牲者の鎮魂を祈り、不戦を誓う日を迎える。
月から見た地球の美しさを見たばかりだが、今日は、その地球の住民であるわれわれの愚行に思いを致そう。
田口さんは「情報の正確さについては賛否両論あるだろうが、何かを考えるきっかけにはなるかもですね・・・」と言っているが、人間の怖さと愚かしさを改めて考えてみましょう。
攻撃目標は鳥取にしましたが、日本中どこにしても数字は同じであろう。しかし、自分の住んでいるところを記入して、この核弾頭の数字を見るべきでしょう。
2009年6月25日木曜日
ふるさと:地球
「かぐや」から眺めた地球の映像を見た。(JAXA・NHK)わたしも、これらの映像をテレビで見た。
なかでは「月の出」ならぬ「地球の出」の映像がいい。…
そんな「地球の出」を記録した数本のなかでも、とくに「ふるさと」の歌が入ったものが、ぼくは好きだ。月の地平からゆっくり昇ってくる地球と歩調を合わせるように、♪うさぎ追いしかの山~と、澄んだ女性の歌声がきこえてくる。「ふるさと」。作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一。歌っているのは土居祐子さん。おなじみの唱歌である。
(科学的データである映像に情緒的なナレーションや音楽をまぶし、勝手に押しつけられるのはめいわくだ、と述べ、次のように続けている。)
が、この「ふるさと」には、そんな押しつけがましさがまったくない。無音の宇宙から、地球と一緒に歌声がせり上がってくるというツクリに、思わず引きこまれてしまう。で、約4分の映像を見終わったぼくらの胸に、「そうだ、地球はぼくらのふるさとなんだ」という思いが自然にわいてくる。
…あちこちに「地球にやさしく」風のキャッチコピーが目につく。が、地球を「人類のふるさと」ととらえたこの〝作品〟は、環境CMとしても最上のものじゃないだろうか。……
それにしても、だれがこの〝作品〟をつくったのか。その人にぼくは、座ぶとんを3枚くらい上げたい。
小学唱歌「故郷」について、これまでこのブログでもなんどか書いた。高野の出身地である長野県の人々はそれぞれの山や川を思いえがくであろう。岡野と同じ鳥取県人であっても、西部の人は大山や日野川を思いうかべるにちがいない。鳥取市で生まれ育ち、今も暮らしているわたしにとって、ちっぽけな久松山や袋川がふるさとの象徴だ。
だが、荒涼とした月の向こう側から昇ってくる地球を眺めながら、土居祐子の歌を聞いているとこの小さな地球こそわれわれのふるさとなんだと、しみじみ思う。
天野さんの文章を読んでから、自分の記憶を確かめるために、今朝からウェブ上をあちこち探索してみた。その結果をみなさんへご紹介したい。
NHKの番組についてのサイト:
天野祐吉さんのブログ:http://amano.blog.so-net.ne.jp/
天野さんのブログでも見ることができるが、今日の話題の画面を再現している YouTube を下にのせているので、ここでもご覧になれます。
ちと、デカ過ぎちゃった!
2009年5月27日水曜日
鳥取を愛したベネット父子 (36)
父ヘンリーの死から6ヶ月後の1956(昭和31)年11月、スタンレーは26年ぶりに鳥取の地に戻った。
「子供時代に去った日本、ことに鳥取へ戻るためには、戦勝国アメリカの人間にとってさえも、二十六年という歳月が必要だったのだ。スタンレーは四十六歳になっていた」と加藤恭子は書いている。
この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。彼は「細胞学と組織学における電子顕微鏡の貢献」と題する講演を英語で行った。今回はほとんど引用のみになってしまった。著者にたいしても、このブログを読んでくださった方にも申し訳ないと思う。
その中で彼は、この学会が自分の生まれた国へ帰る二十六年ぶりの機会になった感動を述べたあとで、こう続けている。
「日本海に近い小さな都市鳥取で、私は生まれ、育ちました。そこは西洋の影響があまり強くない土地でしたので、日本の古くからの、そしてすばらしい文化的伝統に密接にふれながら育ったのです。こうした子供の日々の経験は、すばらしい文化、そして日本人や他のアジアの人たちが成し遂げた芸術的な業績に対し、変わらない賞賛とそれを楽しむ気持ちを私の中に植えつけました」
この招待講演の実現には、その年四月に帰国した山田英智の尽力があった。彼はこの年に久留米大学解剖学の教授に就任していた。
……………………
学会が終わると、スタンレーと英智は山陰線の夜行列車の薄暗い寝台車にもぐり込んだ。
十一月一日の早朝、鳥取駅着。寒い朝だったが、空はくっきりと晴れていた。生まれ故郷の土地に降り立った感慨が、駅前のまだ扉を下した家々を、無言のまま眺めているスタンレーからひしひしと感じられた。
最近アメリカから赴任してきた宣教師の家にまず立ち寄り、朝食をとった。小さな家だった。赤ん坊を抱えた夫人にとっては、異郷での生活が苦しそうな感じだった。新婚間もない父と母が、二日かけて中国山脈を越えた日のことを、スタンレーは連想していたのかもしれない。
朝食後、久松山に登った。ずんずんと一人で先に立って登るスタンレーのあとを、英智も追った。城跡からは、朝日に照らされる鳥取の町が一望できる。じっと立ち尽くすスタンレーの姿を、英智は少し離れた場所から見つめていた。
(帰って来た……)
長身のスタンレーの身体全体が、鳥取の町へ向かってそう語りかけているようであった。
スタンレーが生まれ育った「宣教師館」は、戦後進駐軍によって使用され、失火により焼失してしまっていた。焼け跡にたたずむスタンレーの脳裡には、「異人屋敷」ともよばれた「宣教師館」でのあれこれが去来していたにちがいない。機械好きのスタンレーは、おもちゃを片はしから分解した。足の踏場もなかった自室……、庭で遊ぶ子供たち……。そしてその中には、あのフレデリックも交じっていたかもしれない。
孤児院、教会、幼稚園、どこでも大歓迎だった。昔を知る人たちが集まって、アルバムを広げ思い出話がはずんだ。
「まあ、こんなに大きくなって……」
と、スタンレー少年の成長した姿に眼を細める老婦人たち。尾崎誠太郎をはじめ、幼な友だちは、話し始めるとすぐ、〝子供の顔〟になってしまうのだった。
……………………………………………
フレデリックの墓にも詣でた。
「花を捧げてじっとぬかずく教授の上に松風がかすかな音を立てます」
と英智は記している。
母のアンナは、スタンレーのみやげ話を楽しみにしている。長年の伴侶を失ったばかりのアンナのために、スタンレーはあちこちの写真を撮りまくった。一つ一つの場所を、スタンレーは鮮明に記憶していた。
長年心の中だけで想い続けてきた土地に、スタンレーは戦争をはさみ、まさに二十六年ぶりに立っていた。そして、この昭和三十一年以降、彼は何度も何度も鳥取へ帰って来る(引用者付記:この前5字に傍点あり)ことになる。
(『スタンレーの生涯』pp.138―141)
ただ、付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。
この点を確認することは今のわたしにはできないし、また、ここでは、学会での発言と鳥取へ帰ってきたスタンレーの様子を知ることでいいだろうと思っている。
2009年5月15日金曜日
鳥取を愛したベネット父子 (35)
スタンレーの最初の弟子となった山田英智の『電子顕微鏡とともに』(城島印刷、1984年)の中に「砂山」と題したエッセイがあり、スタンレーの父、ヘンリーの晩年の姿を描いているという。
加藤恭子が『スタンレー・ベネットの生涯』の中(pp.136-137)で引用しているのを孫引きしておく。
1955年の4月5日、フィラデルフィアでの第6回アメリカ組織化学会に出席したスタンレーは山田を伴って、2日目の午後の講演と夜の発表の間の短い時間に、フィラデルフィア郊外のジャーマンタウンに当時住んでいたヘンリーを訪問したのである。
「ドアをノックしますと扉が開いて小柄で痩せた上品なお母さんが出てみえて中に案内されました。居間にはお父さんが椅子に座したままで挨拶されます。肥って血色がよくとても八十に近いと思は(ママ)れません。然し脳溢血の為に半身不随で殊に視覚に障害を受けて殆んど今では見えないということなのです。(略)小さな声で断片的に出る話は日本の昔のことでした。始めて鳥取に赴任する時未だ汽車もなく人力車で山陽道から山を越えていった話。その時、車夫に一円あげたら警官から多すぎるといって注意されたとか、日光を見ぬ中は結構というなとか」みんなで夕食をとって、すぐに辞去した二人を、出口まで見送った母のアンナは、「さよなら、またいらっしゃい」と山田英智に日本語で別れを告げたという。
ヘンリーとアンナから届いたクリスマスプレゼンとのことを、スタンレーの幼な友だち尾崎誠太郎は、はっきりと記憶している。鉛筆百本と、アメリカの少年少女雑誌から人物写真を切り抜いたもの。「日曜学校の生徒さんたちに。今の私たちには、これだけしか送れません」という手紙が添えてあった。(p.137)
母のアンナは97歳まで生き、1973年12月20日、タルサで死去した。1966年に彼女が書いた鳥取の思い出を『スタンレー・ベネットの生涯』(p.222)から、これまた孫引きしておく。
「宣教師たちは英語やアメリカ文化を伝えようとしましたが、関係は相互的なものでした。こちらが与えたよりずっと多くのものを、私たちはもらったのでした。教育水準の高さ、礼儀と名誉の尊重など、私たちは日本人を尊敬するようになりました。私たちがいくつかの間違いを犯したにもかかわらず、人々が私たちに与えて下さった思いやりのある理解、親切、誠実な友情を、私たちは決して忘れないでしょう。子供たちは日本で育ち、ほかの国の人々との〝友愛〟の大切さを学びました。私たちが日本に住むことができたことを、感謝しています」
2009年5月14日木曜日
鳥取を愛したベネット父子 (34)
【若い日本人科学者たちの養成と、日本の電子顕微鏡製造技術への貢献】
先回の終わりに引用した文のなかで加藤恭子が述べていたように、戦場から戻ったスタンレーの心の中では日本、わけてもこども時代を過ごした鳥取への望郷の思いが大きくふくらんでいったのであろう。その具体的の表れの一つが、日本人研究者の育成と日本における電子顕微鏡の発展を手助けすることであった。
1954(昭和29)年の5月、一人の日本人が横浜から二週間の船旅の後、サンフランシスコに着いた。2日後、夜行列車でシアトルへ。針葉樹林がどこまでも続く景色を眺めつつ、不安を胸に抱きながら彼はシアトルのキングス駅に降り立つ。
「…トランクを下げて歩いてゆくと、出口のところで、額の広い、がっちりした体格の白人が、にこやかに笑みをみせながら日本語で話しかけてきた。『山田さんですか。私がベネットです。荷物はそれだけですか』
これが、スタンレーと日本人弟子第一号、山田英智との出会いであった。
(この項、『スタンレー・ベネットの生涯』pp.125-126 による。)
山田は当時、30歳を過ぎたばかりで、九州大学医学部解剖学教室の助教授だった。山田を含む9人の日本人がスタンレーの下で指導を受けた。これが「第一世代」である。
スタンレーは、1961年から約八年をシカゴ大学で過ごすが、日本人の弟子はとっていない。
1969年にノース・カロライナ大学へ移ってからのスタンレーに師事した若手研究者たちが「第二世代」である。その第一号が飯野晃啓。1938(昭和13)年北海道生まれで、鳥取大学医学部を卒業後、同大学助手となっていた。
1966年神戸で開かれた国際解剖学会議での彼の発表―偏光顕微鏡観察によるキチン質の形態学―を最前列で聞いていたスタンレーが「非常に面白い。いい発表ですね」と誉め、アメリカに来るように、さっそった。
晃啓は、妻の佳世子、二歳の光伸とともに、一九七〇年から七一年にかけて、客員助教授としてベネット研究室に在籍することになった。第二世代第一号の弟子である。一九七〇年四月二十八日午後にチャペル・ヒル着。
晃啓が鳥取大学医学部硬式テニス部の文集に書いたエッセイによると、スタンレーは飛行場まで出迎えてくれたという。
「手を上げて待っていてくれ、流暢な日本語で迎えてくれ、疲れも吹き飛んでしまった」この{第二世代」は六人だった。
第一世代第一号の山田英智以来、スタンレーが示してきた心遣いである。遠来の客の心細さが彼の日本語のひと言で吹き飛ぶことを知っていたのだろうか。しかも、スタンレー自身大好物の羊かんを、
「これは虎屋のですから、召し上がって下さい」
と、佳世子に手渡した。箱入りで、ちゃんとのし紙がかかっていた。
スタンレー愛用のベンツには東大寺、東照宮、善光寺など、お守りがざらざらとぶら下げてあった。
「保険に入るより安いですからねえ」
と、スタンレー。(『スタンレー・ベネットの生涯』p.239)
これらの人々は、加藤恭子の言葉を借りると、「日本における解剖学の発展に寄与する錚々(そうそう)たる学者」たちとなって、「ベネット会」を結成していた。加藤恭子の二冊の本は、この会の要請によって生まれたものである。
いまひとつ、日本の電子顕微鏡の製作に関するベネットの貢献にふれておきたいが、正直に言って、わたしにはよくわからない。
・日本でも1932(昭和7)年頃から電子顕微鏡という言葉(electron microscope の訳語として)が生まれ、1939年には電子顕微鏡発展のための基礎を担う委員会ができたこと。
・日立研究所が電子顕微鏡1号機を作ったのは1942(昭和17)年春のことであったこと。
・日本における研究は戦争で中断したが、国分寺にあった日立の中央研究所は戦災をまぬがれ研究が続けられていたこと。
・戦後、なんども来日したスタンレー(彼は物理や電気にも強く、図面を見ただけですべてが分かり、すべてを読み取ってしまったという)の助言や弟子たちの厳しい注文などを受けて、「今日、世界で最も優秀な電子顕微鏡を生産しているのは、日立製作所、日本電子株式会社を中心とする日本のメーカーである」(『スタンレー・ベネットの生涯』p.180)こと。
加藤恭子が様々な文献を読み、取材を重ねて、この面についてもよく調べて書いていることにただただ感心するばかりだ。
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2009年5月5日火曜日
鳥取を愛したベネット父子 (33)
電子顕微鏡が、将来の医学、生物学にとっていかに重要になるかを見抜いたのも、その〝才能〟であったのだろう。だが、その〝才能〟は、日本に対しても働いたにちがいない。十三歳で日本を離れたスタンレーが再度日本とのかかわり合いを持つことになったのは、いわば異常な状況においてだった。ガダルカナル、沖縄など、〝敵〟としての日本、日本人との再会であった。だが、ワシントン州立大学の正教授と科長の地位を得ることによって、望ましい形での交流に乗り出すことができる。実現させられる(引用者注:原文には、左の7文字に傍点)という思いがあったのかもしれない。あるいはそれが、彼にとっては、自己と日本人の傷への〝癒しの道〟だったかのかもしれない。彼の心の中には、二つの計画があったのではないだろうか。日本人研究者の育成に手を貸すこと。そして、日本における電子顕微鏡の発展を助けること。もちろん、この二つだけが彼の後半生における重要な計画であったわけではない。彼自身の研究を実りのあるものにしていくこと。そして、何よりもまずアメリカ市民として、アメリカにおける電子顕微鏡を用いた細胞生物学のレベルを上げることに尽力しなければならなかった。だが、同時に、彼の心の底には、日本に対して何か確たるものがあったように思える。その〝何か〟とは、日本人へ対する愛着と言ってよいかもしれない。「私たちはここへ骨を埋めるために戻ってきました」と告げたヘンリーとアンナから引き継いだ鳥取への望郷の思いかもしれない。だが、その〝何か〟は、いつのころからか、スタンレーの心の中に巣喰い、成長し続けたように見える。