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2009年8月6日木曜日
鳥取を愛したベネット父子 (38)
【毎年のように「帰国」したスタンレー】
加藤恭子の『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』は、いわゆる「編年体」というか、人物の誕生から死に至るまで年月を追って記述する形式では書かれていない。太平洋戦争戦後、何度来日し、来鳥したか、正確には分からない。『S・ベネットの生涯』からざっと拾い上げてみると、つぎのようになる。
1956(昭和31)年。戦後初めての来日。
第1回アジア・大平洋州国際電子顕微鏡会議(東京)10月24日~27日
◆26年ぶりに日本へ帰った喜びを語っている(p.139)。
11月1日 早朝鳥取着。久松山に登る。
1959 (昭和34) 年、広島大学訪問(p.173)。
1960(昭和35)年、日本解剖学会総会で特別講演(p.175)。
1962(昭和37)年、3月29日~4月10日、アリスも初来日(p.146~)。
1965(昭和40)年
このシリーズ第11回(2009/01/06)。スタンレーが「鳥大メディ カル」に寄稿した「鳥取の思い出」(拙訳)の中で次のように書いている。「1965年の夏、妻と いっしょに米子を訪れたとき、鳥取大学の親切な教授方にご一緒していただき、夫婦して大山の頂 上まで非常に快適な登山をする恩恵を受けた。」
1966(昭和41)年8月
京都で第6回電子顕微鏡学会。(p.227)
神戸で国際解剖学会議(p.238)。
1974(昭和49)年。
日本政府より勲二等瑞宝章を授与された。 (p.194.pp.226-227 p.237)
6月14日、東京医科歯科大で講演。(pp.226―227)
1979(昭和54)年。
3月~6月、東大医科学研究所に客員教授としてアリスと共に招かれる(p.146)。
この来日の際に、鳥取も訪れ、 NHK鳥取の「マイク訪問」に出演(p.51)。
[1977年、科長を退職。1981年、生殖生物学研究所所長を退職。( pp. 250~251)]
1984(昭和59)年。
8月26~31日、第3回国際細胞生物学会。(p.256 p.260 )
9月22日、フレデリックの墓参。ヘンリーの蔵書などを県立博物館へ寄贈。(pp.266-269)
9月29日、日本を発つ。
1986(昭和61)年。
8月30日~9月17日、夫婦で最後の来日(p.272)。
1988(昭和63)年来日の予定をキャンセル。手術、入院。(ページ、同上)
1992(平成4)年8月9日、スタンレー死去。享年81歳(p.305)。
2009年8月4日火曜日
当世キーワード(2009年8月①)
「今、この新語・流行語にこだわると、世の中少しは見えてくるかも」の私のコーナー紹介で始まる「日曜あさいちばん 当世キーワード」(日曜午前5時半から放送)は、いつも多くのリスナーから反響をいただきます。新語アナリスト・亀井 肇さんが、昨今世の中で使用されてきた新しい言葉を毎週5~6語紹介してくれます。今年で11年目になる名物コーナーです。私も思わず「うーんなるほど!」と唸(うな)ってしまったり、また「うふふ……」と笑ってしまう言葉ありで、たいへん楽しみにしています。http://www.nhk.or.jp/r1-blog/200/23005.html
2009年7月19日日曜日
鳥取を愛したベネット父子 (37)
5月27日付「鳥取を愛したベネット父子(36回)」の終わりに、次のように書いたあと、2ヶ月近くが過ぎてしまった。
付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。昨日、久しぶりに県立図書館へ出かけて調べた。朝日新聞の縮刷り版で、この学会についての記事を見つけた。
1956(昭和31)年10月21日付新聞の11ページ。新聞の下段(広告のすぐ上)にある一段の記事を「べた記事」というが、そこに短い記事があった。記事の最終ページに今もある「青鉛筆」という小さなコラムの右隣に「急性ジン臓炎で倒れた牧野富太郎博士が危機を脱した」という7行の記事があり、その右に次のような記事があった(見出しは省略、本文は全文)。
二つの中国やソ連から二十余人の学者を招いてアジア・太平洋州国際電子顕微鏡会議が二十四日から四日間、東京産経会館国際ホールで開かれる。主催は日本電子顕微鏡学会(谷安正会長)で、日本学術会議、文部省の後援。参加外人学者はドイツのアーネスト・ルスカ教授をはじめ米、インド、インドネシア、カンボジア、台湾、中共。ソ連から二十三人が参加を申込み、日本側は約二百三十人が加わる。加藤恭子が『S・ベネットの生涯』138ページで「この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。」と書いているのは、「…十月、第一回アジア・大平洋州国際電子顕微鏡会議…」ということになる。
このうち中共からは方志芳博士以下五人が来ることになっ
ているが、日本政府が入国許可をしぶって二人しかみとめ
ていないので、同学会では「学問の交流を妨げるものだ」と
いっている。
2009年7月14日火曜日
原爆の恐怖
昨日は、地域を指定すると、その地域を攻撃できる核兵器がどれぐらいあるかを教えてくれる『Nukeometer』というサイトを紹介していた。
もうすぐ広島、長崎での原爆による犠牲者の鎮魂を祈り、不戦を誓う日を迎える。
月から見た地球の美しさを見たばかりだが、今日は、その地球の住民であるわれわれの愚行に思いを致そう。
田口さんは「情報の正確さについては賛否両論あるだろうが、何かを考えるきっかけにはなるかもですね・・・」と言っているが、人間の怖さと愚かしさを改めて考えてみましょう。
攻撃目標は鳥取にしましたが、日本中どこにしても数字は同じであろう。しかし、自分の住んでいるところを記入して、この核弾頭の数字を見るべきでしょう。
2009年6月25日木曜日
ふるさと:地球
「かぐや」から眺めた地球の映像を見た。(JAXA・NHK)わたしも、これらの映像をテレビで見た。
なかでは「月の出」ならぬ「地球の出」の映像がいい。…
そんな「地球の出」を記録した数本のなかでも、とくに「ふるさと」の歌が入ったものが、ぼくは好きだ。月の地平からゆっくり昇ってくる地球と歩調を合わせるように、♪うさぎ追いしかの山~と、澄んだ女性の歌声がきこえてくる。「ふるさと」。作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一。歌っているのは土居祐子さん。おなじみの唱歌である。
(科学的データである映像に情緒的なナレーションや音楽をまぶし、勝手に押しつけられるのはめいわくだ、と述べ、次のように続けている。)
が、この「ふるさと」には、そんな押しつけがましさがまったくない。無音の宇宙から、地球と一緒に歌声がせり上がってくるというツクリに、思わず引きこまれてしまう。で、約4分の映像を見終わったぼくらの胸に、「そうだ、地球はぼくらのふるさとなんだ」という思いが自然にわいてくる。
…あちこちに「地球にやさしく」風のキャッチコピーが目につく。が、地球を「人類のふるさと」ととらえたこの〝作品〟は、環境CMとしても最上のものじゃないだろうか。……
それにしても、だれがこの〝作品〟をつくったのか。その人にぼくは、座ぶとんを3枚くらい上げたい。
小学唱歌「故郷」について、これまでこのブログでもなんどか書いた。高野の出身地である長野県の人々はそれぞれの山や川を思いえがくであろう。岡野と同じ鳥取県人であっても、西部の人は大山や日野川を思いうかべるにちがいない。鳥取市で生まれ育ち、今も暮らしているわたしにとって、ちっぽけな久松山や袋川がふるさとの象徴だ。
だが、荒涼とした月の向こう側から昇ってくる地球を眺めながら、土居祐子の歌を聞いているとこの小さな地球こそわれわれのふるさとなんだと、しみじみ思う。
天野さんの文章を読んでから、自分の記憶を確かめるために、今朝からウェブ上をあちこち探索してみた。その結果をみなさんへご紹介したい。
NHKの番組についてのサイト:
天野祐吉さんのブログ:http://amano.blog.so-net.ne.jp/
天野さんのブログでも見ることができるが、今日の話題の画面を再現している YouTube を下にのせているので、ここでもご覧になれます。
ちと、デカ過ぎちゃった!
2009年5月27日水曜日
鳥取を愛したベネット父子 (36)
父ヘンリーの死から6ヶ月後の1956(昭和31)年11月、スタンレーは26年ぶりに鳥取の地に戻った。
「子供時代に去った日本、ことに鳥取へ戻るためには、戦勝国アメリカの人間にとってさえも、二十六年という歳月が必要だったのだ。スタンレーは四十六歳になっていた」と加藤恭子は書いている。
この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。彼は「細胞学と組織学における電子顕微鏡の貢献」と題する講演を英語で行った。今回はほとんど引用のみになってしまった。著者にたいしても、このブログを読んでくださった方にも申し訳ないと思う。
その中で彼は、この学会が自分の生まれた国へ帰る二十六年ぶりの機会になった感動を述べたあとで、こう続けている。
「日本海に近い小さな都市鳥取で、私は生まれ、育ちました。そこは西洋の影響があまり強くない土地でしたので、日本の古くからの、そしてすばらしい文化的伝統に密接にふれながら育ったのです。こうした子供の日々の経験は、すばらしい文化、そして日本人や他のアジアの人たちが成し遂げた芸術的な業績に対し、変わらない賞賛とそれを楽しむ気持ちを私の中に植えつけました」
この招待講演の実現には、その年四月に帰国した山田英智の尽力があった。彼はこの年に久留米大学解剖学の教授に就任していた。
……………………
学会が終わると、スタンレーと英智は山陰線の夜行列車の薄暗い寝台車にもぐり込んだ。
十一月一日の早朝、鳥取駅着。寒い朝だったが、空はくっきりと晴れていた。生まれ故郷の土地に降り立った感慨が、駅前のまだ扉を下した家々を、無言のまま眺めているスタンレーからひしひしと感じられた。
最近アメリカから赴任してきた宣教師の家にまず立ち寄り、朝食をとった。小さな家だった。赤ん坊を抱えた夫人にとっては、異郷での生活が苦しそうな感じだった。新婚間もない父と母が、二日かけて中国山脈を越えた日のことを、スタンレーは連想していたのかもしれない。
朝食後、久松山に登った。ずんずんと一人で先に立って登るスタンレーのあとを、英智も追った。城跡からは、朝日に照らされる鳥取の町が一望できる。じっと立ち尽くすスタンレーの姿を、英智は少し離れた場所から見つめていた。
(帰って来た……)
長身のスタンレーの身体全体が、鳥取の町へ向かってそう語りかけているようであった。
スタンレーが生まれ育った「宣教師館」は、戦後進駐軍によって使用され、失火により焼失してしまっていた。焼け跡にたたずむスタンレーの脳裡には、「異人屋敷」ともよばれた「宣教師館」でのあれこれが去来していたにちがいない。機械好きのスタンレーは、おもちゃを片はしから分解した。足の踏場もなかった自室……、庭で遊ぶ子供たち……。そしてその中には、あのフレデリックも交じっていたかもしれない。
孤児院、教会、幼稚園、どこでも大歓迎だった。昔を知る人たちが集まって、アルバムを広げ思い出話がはずんだ。
「まあ、こんなに大きくなって……」
と、スタンレー少年の成長した姿に眼を細める老婦人たち。尾崎誠太郎をはじめ、幼な友だちは、話し始めるとすぐ、〝子供の顔〟になってしまうのだった。
……………………………………………
フレデリックの墓にも詣でた。
「花を捧げてじっとぬかずく教授の上に松風がかすかな音を立てます」
と英智は記している。
母のアンナは、スタンレーのみやげ話を楽しみにしている。長年の伴侶を失ったばかりのアンナのために、スタンレーはあちこちの写真を撮りまくった。一つ一つの場所を、スタンレーは鮮明に記憶していた。
長年心の中だけで想い続けてきた土地に、スタンレーは戦争をはさみ、まさに二十六年ぶりに立っていた。そして、この昭和三十一年以降、彼は何度も何度も鳥取へ帰って来る(引用者付記:この前5字に傍点あり)ことになる。
(『スタンレーの生涯』pp.138―141)
ただ、付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。
この点を確認することは今のわたしにはできないし、また、ここでは、学会での発言と鳥取へ帰ってきたスタンレーの様子を知ることでいいだろうと思っている。
2009年5月15日金曜日
鳥取を愛したベネット父子 (35)
スタンレーの最初の弟子となった山田英智の『電子顕微鏡とともに』(城島印刷、1984年)の中に「砂山」と題したエッセイがあり、スタンレーの父、ヘンリーの晩年の姿を描いているという。
加藤恭子が『スタンレー・ベネットの生涯』の中(pp.136-137)で引用しているのを孫引きしておく。
1955年の4月5日、フィラデルフィアでの第6回アメリカ組織化学会に出席したスタンレーは山田を伴って、2日目の午後の講演と夜の発表の間の短い時間に、フィラデルフィア郊外のジャーマンタウンに当時住んでいたヘンリーを訪問したのである。
「ドアをノックしますと扉が開いて小柄で痩せた上品なお母さんが出てみえて中に案内されました。居間にはお父さんが椅子に座したままで挨拶されます。肥って血色がよくとても八十に近いと思は(ママ)れません。然し脳溢血の為に半身不随で殊に視覚に障害を受けて殆んど今では見えないということなのです。(略)小さな声で断片的に出る話は日本の昔のことでした。始めて鳥取に赴任する時未だ汽車もなく人力車で山陽道から山を越えていった話。その時、車夫に一円あげたら警官から多すぎるといって注意されたとか、日光を見ぬ中は結構というなとか」みんなで夕食をとって、すぐに辞去した二人を、出口まで見送った母のアンナは、「さよなら、またいらっしゃい」と山田英智に日本語で別れを告げたという。
ヘンリーとアンナから届いたクリスマスプレゼンとのことを、スタンレーの幼な友だち尾崎誠太郎は、はっきりと記憶している。鉛筆百本と、アメリカの少年少女雑誌から人物写真を切り抜いたもの。「日曜学校の生徒さんたちに。今の私たちには、これだけしか送れません」という手紙が添えてあった。(p.137)
母のアンナは97歳まで生き、1973年12月20日、タルサで死去した。1966年に彼女が書いた鳥取の思い出を『スタンレー・ベネットの生涯』(p.222)から、これまた孫引きしておく。
「宣教師たちは英語やアメリカ文化を伝えようとしましたが、関係は相互的なものでした。こちらが与えたよりずっと多くのものを、私たちはもらったのでした。教育水準の高さ、礼儀と名誉の尊重など、私たちは日本人を尊敬するようになりました。私たちがいくつかの間違いを犯したにもかかわらず、人々が私たちに与えて下さった思いやりのある理解、親切、誠実な友情を、私たちは決して忘れないでしょう。子供たちは日本で育ち、ほかの国の人々との〝友愛〟の大切さを学びました。私たちが日本に住むことができたことを、感謝しています」
2009年5月14日木曜日
鳥取を愛したベネット父子 (34)
【若い日本人科学者たちの養成と、日本の電子顕微鏡製造技術への貢献】
先回の終わりに引用した文のなかで加藤恭子が述べていたように、戦場から戻ったスタンレーの心の中では日本、わけてもこども時代を過ごした鳥取への望郷の思いが大きくふくらんでいったのであろう。その具体的の表れの一つが、日本人研究者の育成と日本における電子顕微鏡の発展を手助けすることであった。
1954(昭和29)年の5月、一人の日本人が横浜から二週間の船旅の後、サンフランシスコに着いた。2日後、夜行列車でシアトルへ。針葉樹林がどこまでも続く景色を眺めつつ、不安を胸に抱きながら彼はシアトルのキングス駅に降り立つ。
「…トランクを下げて歩いてゆくと、出口のところで、額の広い、がっちりした体格の白人が、にこやかに笑みをみせながら日本語で話しかけてきた。『山田さんですか。私がベネットです。荷物はそれだけですか』
これが、スタンレーと日本人弟子第一号、山田英智との出会いであった。
(この項、『スタンレー・ベネットの生涯』pp.125-126 による。)
山田は当時、30歳を過ぎたばかりで、九州大学医学部解剖学教室の助教授だった。山田を含む9人の日本人がスタンレーの下で指導を受けた。これが「第一世代」である。
スタンレーは、1961年から約八年をシカゴ大学で過ごすが、日本人の弟子はとっていない。
1969年にノース・カロライナ大学へ移ってからのスタンレーに師事した若手研究者たちが「第二世代」である。その第一号が飯野晃啓。1938(昭和13)年北海道生まれで、鳥取大学医学部を卒業後、同大学助手となっていた。
1966年神戸で開かれた国際解剖学会議での彼の発表―偏光顕微鏡観察によるキチン質の形態学―を最前列で聞いていたスタンレーが「非常に面白い。いい発表ですね」と誉め、アメリカに来るように、さっそった。
晃啓は、妻の佳世子、二歳の光伸とともに、一九七〇年から七一年にかけて、客員助教授としてベネット研究室に在籍することになった。第二世代第一号の弟子である。一九七〇年四月二十八日午後にチャペル・ヒル着。
晃啓が鳥取大学医学部硬式テニス部の文集に書いたエッセイによると、スタンレーは飛行場まで出迎えてくれたという。
「手を上げて待っていてくれ、流暢な日本語で迎えてくれ、疲れも吹き飛んでしまった」この{第二世代」は六人だった。
第一世代第一号の山田英智以来、スタンレーが示してきた心遣いである。遠来の客の心細さが彼の日本語のひと言で吹き飛ぶことを知っていたのだろうか。しかも、スタンレー自身大好物の羊かんを、
「これは虎屋のですから、召し上がって下さい」
と、佳世子に手渡した。箱入りで、ちゃんとのし紙がかかっていた。
スタンレー愛用のベンツには東大寺、東照宮、善光寺など、お守りがざらざらとぶら下げてあった。
「保険に入るより安いですからねえ」
と、スタンレー。(『スタンレー・ベネットの生涯』p.239)
これらの人々は、加藤恭子の言葉を借りると、「日本における解剖学の発展に寄与する錚々(そうそう)たる学者」たちとなって、「ベネット会」を結成していた。加藤恭子の二冊の本は、この会の要請によって生まれたものである。
いまひとつ、日本の電子顕微鏡の製作に関するベネットの貢献にふれておきたいが、正直に言って、わたしにはよくわからない。
・日本でも1932(昭和7)年頃から電子顕微鏡という言葉(electron microscope の訳語として)が生まれ、1939年には電子顕微鏡発展のための基礎を担う委員会ができたこと。
・日立研究所が電子顕微鏡1号機を作ったのは1942(昭和17)年春のことであったこと。
・日本における研究は戦争で中断したが、国分寺にあった日立の中央研究所は戦災をまぬがれ研究が続けられていたこと。
・戦後、なんども来日したスタンレー(彼は物理や電気にも強く、図面を見ただけですべてが分かり、すべてを読み取ってしまったという)の助言や弟子たちの厳しい注文などを受けて、「今日、世界で最も優秀な電子顕微鏡を生産しているのは、日立製作所、日本電子株式会社を中心とする日本のメーカーである」(『スタンレー・ベネットの生涯』p.180)こと。
加藤恭子が様々な文献を読み、取材を重ねて、この面についてもよく調べて書いていることにただただ感心するばかりだ。
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2009年5月5日火曜日
鳥取を愛したベネット父子 (33)
電子顕微鏡が、将来の医学、生物学にとっていかに重要になるかを見抜いたのも、その〝才能〟であったのだろう。だが、その〝才能〟は、日本に対しても働いたにちがいない。十三歳で日本を離れたスタンレーが再度日本とのかかわり合いを持つことになったのは、いわば異常な状況においてだった。ガダルカナル、沖縄など、〝敵〟としての日本、日本人との再会であった。だが、ワシントン州立大学の正教授と科長の地位を得ることによって、望ましい形での交流に乗り出すことができる。実現させられる(引用者注:原文には、左の7文字に傍点)という思いがあったのかもしれない。あるいはそれが、彼にとっては、自己と日本人の傷への〝癒しの道〟だったかのかもしれない。彼の心の中には、二つの計画があったのではないだろうか。日本人研究者の育成に手を貸すこと。そして、日本における電子顕微鏡の発展を助けること。もちろん、この二つだけが彼の後半生における重要な計画であったわけではない。彼自身の研究を実りのあるものにしていくこと。そして、何よりもまずアメリカ市民として、アメリカにおける電子顕微鏡を用いた細胞生物学のレベルを上げることに尽力しなければならなかった。だが、同時に、彼の心の底には、日本に対して何か確たるものがあったように思える。その〝何か〟とは、日本人へ対する愛着と言ってよいかもしれない。「私たちはここへ骨を埋めるために戻ってきました」と告げたヘンリーとアンナから引き継いだ鳥取への望郷の思いかもしれない。だが、その〝何か〟は、いつのころからか、スタンレーの心の中に巣喰い、成長し続けたように見える。
2009年4月30日木曜日
鳥取を愛したベネット父子 (32)
米軍は3月26日から27日にかけて、沖縄本島西方にある慶良間(けらま)列島座間味(ざまみ)島、渡嘉敷(とかしき)島などへ上陸し、多くの住民が集団自決している。
本島への上陸を開始したのは、先回述べたように、4月1日の早朝であった。本島への上陸はほとんど日本軍の抵抗を受けなかったが、その後86日間にわたって日本軍の抵抗に苦しめられた。
この闘いでは町ぐるみ、村ぐるみ、住民たちが正規軍に組み込まれて、多くの死傷者を出した。
さらに学徒も動員され、男子は中学校・師範学校生徒1779人のうち890人、女子は高等女学校・師範学校生徒581人のうち334人が死亡した。
日本軍による住民の虐待もしばしばあった。日本本土の楯として犠牲を強いられた住民の死者は正規軍の2.2倍に及んだ事実を忘れてはいけない。
(この項、『昭和二万日の全記録』第7巻p.68 & p.92による。)
このような沖縄戦のさなかにいて、スタンレー・ベネットはどうして長い手紙を76通も書くことができたのか、いぶかる人もいるだろう。
慶良間列島に米軍が上陸した直後、総司令官ニミッツ海軍元帥の名で、米国海軍軍政府布告第一号が布告され、その地域が米軍の軍政下に入ったことが宣言された。
沖縄戦に参加した米軍は、陸軍三個師団、海兵二個師団であった。この海兵師団で編制されていた第三水陸両面作戦軍司令官は、ガイガー将軍だった。
スタンレーは、この将軍の参謀本部付軍医中佐だったのである。
検閲の関係から、あまり具体的に語ってはいないが、スタンレーは軍医としての任務の他に、種々の仕事にたずさわっていたらしい。医薬品など、日本軍の残留物資の調査収集、文書の翻訳、住民対策などである。(『沖縄からの手紙』p.119)すでに引用した手紙からも推測できるように、スタンレーは多くの住民たちとも直接接触し、彼らの惨状に心を痛め、いろいろと親切に対応している。
住民についての彼の報告や意見は上層部でも評価され、彼自身もこのような仕事で米軍に対しても住民のためにも貢献できると自負もし、軍政府へ入ることを希望もしたが、1945年7月、スタンレーは沖縄を去る。
戦闘にこそ直接参加しなかったにせよ、多忙な毎日を送っていた。一日の仕事を終えた夜、妻への手紙を書き続けたのであろう。いずれにせよ、彼の健筆ぶりには驚く。
加藤恭子の2冊の本の中でもかなりのページをさいている、沖縄の医師、家坂幸三郎との邂逅と交流についても割愛する。
最後に、もう一度だけ、妻アリスへの手紙を一部引用しておきたい。
君からもらった手紙のことだが、…「私が家族に対して責任感をもつようには、あなたはもっていないと思えてならないのよ。あなたのお仕事はそちらですものね」と言っている。君の言い方は少々不公平なので、ショックだった。二年半以上、アメリカでも何千もの家族が戦争により連絡を断たれ、我々のような少数の人間のみが連絡が取れているのだ。今のところ、私は日本語を話す最高位の将校であるため、あらゆる軍事行動において、日本語を話す一般住民と接し、陣頭指揮に当たっている。ヒューマニズムと我が国のために最善を尽くしている。たとえ、大して成功しなかったとしても、何千もの家族を救うことができるのだ。さらなる戦争を避けるために、今すぐに住民を再教育し、新たな出発をさせなければならない。このために可能な限り力を尽くしたいと思っている。日本の無条件降伏まで、あと一ヶ月後となる7月10日、スタンレー・ベネットは沖縄を去り、21日までグアム島、それから真珠湾へと送られた。戦後の9月7日、休暇でワシントンへ帰り、10月31日付で海軍から除隊となった。
今、沖縄島民という文明人を、我々は武力で制圧した。我々も彼らを理解できないし、彼らも我々を理解しない。このギャップの架け橋になるのは、私のような者だ。ほんのわずかな人間のみが、この使命を果たすことができるのだ。アリス、寂しいときに思い出してほしい―私はここでは必要とされ、私が実行に移そうとすることは我が家の将来の平和と同じように大切だ―ということを。困窮する無数の人々を救うために、連絡を断たれている我が軍の家族を最小限にするために、しばらく、君とともに暮らすことをあきらめなければならない。アリス、将来、平和な生活が我々に訪れるためにも、今現在を犠牲にしなければならないのだと、私は言いたいのだよ。どんなにか君には辛かろうが、我々の完全な勝利によって、沖縄の母親たちの多くが夫を失い、想像を絶する辛苦を味わっている現実を君に理解してほしい。この戦時下に、自分以外の人々を救うことで、私は君や家族に対する責任を遂行しているつもりだ。」(1945年5月23日付。『戦場からの手紙』pp.143-144)
2009年4月22日水曜日
鳥取を愛したベネット父子 (31)
この島は気持ちのよい所で、すばらしい。いろいろな点でハワイやグアムよりよいと思う。畑は整然として、肥沃。本土と同じように、ヒバリが畑から囀(さえず)りながら舞い上がったりしている。枝ぶりのよい松の木が道路に沿って並び、ハイビスカスの花は生け垣に咲き乱れ、島は緑に包まれている。ここまでは、昨日エディタで打ち込んでいたのだが、こんな調子でスタンレーの手紙を紹介していたら、きりがない。どんどんブログの回数が増えるばかりだ。このあたりで切り上げて、先に進まねば、と考えた。もともと、このテーマを書き始めたのは、
多くの家屋が損害を被っているのを見るのは、とても心が痛む。日常生活がいきなり断ち切られた痕跡が家のあちこちに見られる。一軒などでは洗う間もなかった食器、あわてて縫い針が刺さったままになっている縫いかけの子供服、用意したまま火のつけてないかまどなどが、そのままになっている。そこここに、子供や大人が息絶えてころがっている。辺り一面というわけでもないのが、せめてもの幸せだ。多くの家屋は爆撃や砲撃を受けていたことがわかったが、大部分の住民はその前に家を離れていたのだ。二人の女が洗濯をしていたので、話しかけてみた。彼女たちは那覇出身で、激しい爆撃が始まってからは山の中に住んでいたそうだ。自分の家が残っているのかどうか知らなかった。方言でしゃべっていたが、よくわかった。
こんなところが、日本の一角の最初の占領に参加した私の印象だ。沖縄は、鳥取県とか島根県などと同じように、れっきとした日本の一つの県なのだ。那覇はこの島の県庁所在地だが、多分まもなく陥ちることになるだろう。もし日本軍の弱さが見せかけのものでなく、本当だったとすると、もうこっちのものと思ってよいのかもしれない。
四月六日(金)
この辺りの住民は今では私のことをよく知っていて、敬意を表してくれる。「先生」と日本語で呼んでくれるし、彼らの援助に力を尽くす我々に感謝している。住民は日本軍より、ここの方が自分たちをずっと大切に扱ってくれると病院の軍医に言ったそうだが、よくわかる。何か困ったことはにか尋ねようと、私も何回か足を運んだが、二、三人が出てきて丁重にお辞儀をし、謝意を表す。彼らのことを「すばらしい人々」だと、今朝リヴィングストン軍医が言っていたが、確かに皆穏やかで感謝の心に満ち、忍耐強い人々だ。
1)ベネット父子をはじめ家族の人々について、こういうアメリカ人たちがいたことを知って欲しい。
2)これらに人々に関心を寄せていただいて、ぜひ、加藤恭子さんの著書と編訳書を一人でも多くの人に読んでいただきたい。
と願っているからにほかならない。
確かに、両書とももはや新刊書では入手できないが、古書として入手が可能だし、図書館からの借り出しも可能であろう。(鳥取県立図書館では帯出可能であることを確認している。)
次回で、太平洋戦争時代を終えて、戦後のベネット一家について、スタンレーを中心に紹介させていただきたい。
2009年4月21日火曜日
鳥取を愛したベネット父子 (30)
日付を追って数えてみると、3月―7通、4月―17通、5月―20通、6月―27通、7月(7日まで)―5通、計76通の抄訳が収録されている。いずれも妻、アリス宛のものだ。勝ち戦を進めている米軍の、しかも一般兵士ではなく、士官級の地位にあったとは言え、その健筆ぶりには驚かざるをえない。(スタンレーは、ガダルカナル島にいたときと同様、軍医としての任務と、日本語による情報収集などに当たっていたらしい。)
沖縄戦については、若い人たちもそれなりの知識をもっているであろう。前回の『若い人に語る戦争と日本人』からの引用にとどめておく。ただ、米軍が上陸した日のことと、スタンレーがはじめて上陸した日のことについては、やや詳しく記し、彼の手紙も長めに引用する。その後は、手紙の中でわたしが興味、関心を抱いた部分をいくつか紹介することにとどめておきたい。
4月1日早朝、米軍は沖縄本島中部の嘉手納(かでな)・北谷(ちゃたん)海岸に上陸した。上陸軍は1時間もたたないうちに四個師団16,000人になり、戦車部隊も上陸。午前中に嘉手納と読谷(よみたん)飛行場を占領、日没までに60,000人が上陸して師団砲兵もすべて上陸を完了した。米軍の戦死者は28人だった。
守備についていた日本軍の、ある高級参謀であった大佐は、戦後こう書いている。
「午前八時、敵上陸部隊は、千数百隻の上陸用舟艇に搭乗し、一斉に海岸に殺到し始めた。その壮大にして整然たる隊形、スピードと重量感に溢れた突進振りは、真に堂々、大海嘯(だいかいしょう)の押し寄せるが如き光景である。」
「実に奇怪な沖縄戦開幕の序幕ではある。アメリカ軍は、ほとんど防備のない嘉手納海岸に莫大(ばくだい)な鉄量を投入して上陸する。敵を洋上に撃滅するのだと豪語したわが空軍は、この重大な時期に出現しない」(八原博通『沖縄決戦』読売新聞社)
(この項は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』p.68 による。)
こんな有様で、大本営は「本土決戦」を叫んでいたのだ。
四月一日(日)午前十時四十分の日付をもつスタンレーの長い手紙は、「沖縄上陸の初段階は成功を収めたという報告が艦に届く。」という一文で始まっている。
翌日付の手紙も長いものだが、はじめて沖縄に上陸した日のことを細かく記しているので、3分の2あまりを引用する。
八時半、上陸用意の命令。…
…上陸してみると、島はいろいろな作物の収穫期らしく、実った穀物や豆類は、取り入れを待つばかり。畦道沿いにながめたが、段々畑やサンゴ礁を石垣に使って囲った畑は、トラックなどでひどく踏みつけられてはいるものの、戦火による損害は少ない模様。
村を通り抜けていくにつれ、グアムに比べて比較的損害の少ないのにびっくりした。いはいえ、焼失し、粉々になった家も多い。あちこちに穴のあいた家もある。
村には木陰があり、静かでなかなかよい。太い道はなく、細い小路が通じている。沖縄人は石工芸に優れているとみえ、不揃いに切り取ったサンゴをぴったりと組み合わせた石塀で庭を囲っている。その石塀には細かい葉の華奢な蔓草が一面にびっしりとからみついており、種々の老木はあちこちでその石塀をまたぐようにして、根を張っている。老木から出た無数の気根は、塀の中の石と一体になり、ゆるい編み目模様をつけたようになった幹は、石塀を取り囲み、食い込んで、その一部のようになっている。立派な松や桑の木が木陰を作り、多くの家にはゼラニウムやスミレの花がきれいに咲き乱れている。肥溜めが点在し、あちこちに馬、豚、山羊などの死骸はあるものの、町は不潔だという感じはしない。
……
戻ってから野戦用非常食の昼食をすませ、住む所を探しに村へ向かって出発した。住み心地のよさそうなかやぶきの家を見つけたが、壁は砲弾で穴だらけだった。箒を見つけてきて瓦礫を掃除し、戸棚を整理して荷物をしまった。ホレースはハンモックを吊り、私は簡易ベッドをしつらえ、かやを吊って落ち着いたところだ。この家の主は、防空壕に日用品や書類などを保管していた。我々はこれらの品々を注意深く集め、住民が帰ってきたときのために、家の中へ入れ、しまっておいた。
村には住民の姿はなかった。逃げてしまっていたのだ。我々は洞窟で、二人の老人と二人の老婦人とが隠れているのを見つけた。私が踏み入ったとき、彼らはふとんの下に隠れた。ふとんの外に出すと、一人の老婦人が、「殺さないで」と嘆願した。万一にそなえて、私は弾をこめたピストルをかまえていたし、同行したコフ大尉もそうだった。私は、「おばあさん」と日本語で声をかけ、「心配しないように。保護するから」と告げた。彼女は手を合わせ、膝をつき、頭を地面につけて礼を言った。だが、私の日本語はあまり彼らに通じないようだったし、彼らの沖縄弁は私にはわからなかった。若い人なら両方が話せるので、私はあとでちゃんとした日本語を話せる中学生を一人連れ、担架を携えて洞窟に戻った。怪我をしている老婦人を乗せ、他の人たちも助け出して水陸両用戦車に乗せた。彼らは驚いたように成り行きを見守っていたが、これで面倒を見てもらえるさきができたのだ。
住民たちはうろたえながらあちこちをさまよっているが、軍政府の人たちは手を尽くして世話をしている。海兵員たちは親切で、子供たちにはキャンディをやり、年寄りや体の弱った人たちを運び込んできたりし、略奪など、見る限りほとんどない。島民は漆器づくりに優れ、何軒かの家で見事なものを見つけた。中には漆器や陶磁器や急須などを持っていった者もあるが、概して兵士たちは品行方正である。
2009年4月18日土曜日
鳥取を愛したベネット父子 (29)
1944(昭和19)年10月20日、関行男大尉以下24名の神風(しんぷう)特別攻撃隊が編制され、敷島、大和、朝日、山桜の4隊に区分された。(本居宣長「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」によって命名されたのであろう。)
特別攻撃隊は編制翌日から出撃し、25日に関大尉の率いる敷島隊の9機が空母1隻を沈没、2隻を大破させる戦果を挙げると、陸軍も特別攻撃隊を編制した。こうして陸・海軍とも体当たり攻撃を「制式化」し、翌年1月までに海軍が106回(約440機)、陸軍が62回(約400機)実施した。
『若い人に語る戦争と日本人』で保坂は次のように書いている。
…乗っているパイロットは、当初こそ海軍兵学校出身の軍人もいましたが、その大半は学徒出陣で軍に徴用された現役の大学生たちでした。彼らはわずかの訓練を受けただけで、特攻機を操り、アメリカ軍の艦艇をめざして体当たり攻撃をつづけたのです。このような人間爆弾は、これだけではなかった。この年11月には人間魚雷「回天」がつくられた。魚雷を1人の乗員で操作できるように改造したもので、約1550キロの爆弾ごと敵艦に体当たりするのだ。
…こうした人間爆弾を作戦のなかにとり入れたこの期の大本営は、軍事的にも、人間的にもまさに「解体」していたといえるでしょう。(p.165)
このように人命を消耗品扱いにする特攻を冷ややかにとらえ、次のような川柳を残して死んでいった学徒出陣の青年たちもいた。
生きるのは良いものと気が付く三日前
神様と思えばおかしこの寝顔
体当たりさぞ痛かろうと友は征き
特攻のまずい辞世を記者はほめ
「桜花」という人間爆弾は、飛行機につり下げられて目標近くで切り離される人間ロケットで、爆弾は1200キロ、乗員1人。ブリキと木材を多用した「剣」と呼ばれた、爆弾800キロ、乗員1人の特攻専用機もあった。
米軍は、死を賭したこのような特攻を非常に恐れたけれども、絶対に命中しないといわれた「桜花」に対しては、「BAKA[バカ]BOMB[ボン=爆弾]と嘲笑していたという。(マンガの「天才バカボン」はこれとは全く関係ない。念のため。)
(この項の記述は『昭和二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争』pp.360-361によって記した。)
いよいよ日本は1945年3月から始まる「降伏」への道を歩むことになる。
2月19日、米軍は硫黄島に上陸を開始した。5日間でこの島の攻略を終える予定であった米軍第四海兵師団は、地下20~30メートル、総延長28キロに及ぶ強固な地下陣地網を使った日本軍の抵抗に、半数の9098人の死傷者(死者は6591人)を出し、3月18日、ハワイに引き揚げ再び戦線に戻ることはなかった。
一方日本軍も、3月3日までに指揮官の65パーセントが死傷、22500人の兵力も3500人までに落ち、組織的な戦闘は困難になっていた。
3月17日、兵団長の栗林忠道中将は大本営に訣別の辞と辞世の歌を打電、日本軍守備隊は全滅した。
米軍司令部は、上陸4日後の2月23日には「世界で一番攻め難い島」と発表しており、前述のように大きな犠牲も払ったのだが、同日、擂鉢山占領、翌日には千鳥飛行場の修復を始め、3月12日爆撃機用滑走路を完成させている。
その日の3日前の3月9日から10日にかけて、B29、298機による東京大空襲が行われ、江東地区は全滅した。
これまでのB29は一万メートル以上の上空を飛び、都市の軍需生産施設が攻撃目標の中心であったが、東京大空襲は非戦闘員を対象にした、はじめての無差別絨毯(じゅうたん)爆撃であった。以後、このような無差別爆撃は繰りかえされ、東京空襲も四月、五月と徹底的に継続されることになる。
この空襲による正確な被害状況ははっきりとはしていないが、10万人近い死亡者を出し、広島・長崎の原爆に匹敵する大規模な被害を与えた。
なお、あえて付記しておく。この爆撃の計画の責任者は太平洋方面第二〇空軍司令官であったカーチス・ルメイだった。彼は、1963年の4月に米空軍参謀総長として来日、日本政府は航空自衛隊建設に貢献したとの理由で、勲一等旭日大綬章を彼に贈った。
(この項目は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』pp.48-49 および pp.57-58 によって記した。)
保坂正康さんは、次のように書いている。
この「降伏」の期に、もっとも戦争の苛酷さを肌身(はだみ)で感じたのは沖縄(おきなわ)県民でした。日本で唯一(ゆいいつ)本土決戦の戦場となったこの地では、四月に一八万人のアメリカ軍の上陸により戦闘が始まりました。これに対して守備隊の約七万五〇〇〇人の日本軍将兵は、しばらくは持久作戦をとりました。しかしアメリカ軍の圧倒的な攻撃の前に、戦闘を行っても充分に戦うことができず、しだいに日本軍は壊滅的な打撃を受けることになります。六月二十三日に守備隊の司令官である牛島満(うしじまみつる)が自決し、日本軍は実質的に壊滅したのです。スタンレー・ベネットは、いよいよ沖縄へ向かうこととなる。
沖縄戦では、県民や兵士を含めて二〇万人近い犠牲者がでています。このなかには、日本軍の兵士がときに沖縄の人たちをスパイ扱(あつか)いして殺害したケースもあるといわれますし、民間人がときに楯(たて)がわりにされて戦死したこともありました。あるいは、アメリカ軍の捕虜になったり保護されることは好ましくないとして、自決した者もいました。
こうした状態になっても、大本営は本土決戦にこだわりました。彼ら軍人たちの戦略とは、とにかく敗戦につぐ敗戦の状態であったにせよ、いちどは戦勝の機会を得てそれをもとに有利な条件で講和を結ぼうというものでした。あるいは中国やソ連と講和をして、対米英の「百年戦争」を考える者もいました。しかし、どのような戦略をもって戦争をいているのか、この戦争の目的は何だったのかなどを問うどころではなく、ただひたすら軍事で決着をつけようと考えるだけだったのです。
(『若い人に語る戦争と日本人』pp.169-170)
2009年4月16日木曜日
鳥取を愛したベネット父子 (28)
中3になったばかりの孫が、来週、修学旅行で沖縄へ行くという。
世界史上はじめて原爆を投下された広島、長崎であれ、当時の中学生や女学校の生徒たちを含む全県民が戦闘に巻き込まれた沖縄であれ、修学旅行でこれらの地を訪れる彼らが、あの戦争についてどんな学習をしているのであろうか。「語り部」と呼ばれている人たちから悲惨な体験談を聞くのかもしれない。それも大事なことだが、なぜそんなことになったのか、当時の指導者たちはどのような国をつくろうし、どのようにあの戦争を推し進めてきたのか、どうして日本国民はその道を突き進んでいったのか、などなどを知り、考えることが大切だと思う。そのためにも、右サイドに紹介している保坂正康さんの『若い人に語る戦争と日本人』はぜひとも若い人たちに読んでほしい本のひとつだ。これまでにも何度かこの本に触れてきたが、昭和18年5月~12月の「崩壊」の時期の「命を捨てる戦い」について述べている部分を、長くなるが、もう一度だけ、引用しておきたい。(原文のルビはカッコ内に入れた。)
…この八か月ほどの間に、日本の戦闘はきわめて歪(ゆが)んだ形になってしまったのです。その例が五月末からのアッツ島での戦いであり、玉砕(ぎょくさい)でした。私は、日本の軍事指導者がもっとも責任を問われることはふたつあると思います。ひとつはアッツ島にみられるような玉砕であり、もうひとつは戦争の後半にみられる特別攻撃隊による作戦行動です。そして、保坂は、自らが行った講演(平成7年「戦争史研究国際フォーラム)での結論づけを引用し、さらに本文を続けている。
…アリューシャン列島の西端に位置するこの島(東西約五六キロ、南北約二四キロ)は、ほとんど人の住んでいない島でした。この地からアメリカ軍の攻撃があったら困るということで、日本は守備隊を置いたのですが、昭和十八年五月からアメリカ軍の本格的な攻撃を受けています。
二五〇〇人の守備隊は、二万人近いアメリカの海兵隊員の攻撃を受けながら二週間近くももちこたえましたが、その後山崎保代(やまさきやすよ)守備隊長をはじめとする生存兵士が、最後の肉弾作戦を行いました。援軍も補給もないままにその身を銃弾に代え、アメリが軍にむかっていったのです。このときの様子を、アメリカ軍のある中尉が次のように書き残しています。そこには、「どの兵隊も、どの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握(にぎ)っている。最後の突撃というのに皆どこか負傷しているのだろう。足をひきずり、膝(ひざ)をするようにゆっくりと近づいてくる」とあり、アメリカ兵はたどたどしい日本語で「降参せい、降参せい」と叫(さけ)んだとあります。だがそれにもかかわらずむかってくる。それで一斉に機関銃を発して撃ち殺したというのです。
(私たちのなかに)こうした玉砕に対して、日本人の精神性を表すものとしての見方をとることがある。あるいは物量に劣(おと)る日本の戦いとみた場合、こうした精神性を対峙(たいじ)させる考えもある。だがつぶさに見ていくと、こうした玉砕作戦そのもののなかに、やはり大本営参謀たちに欠けていた思想があるのではないかと思う。この年、わたしは国民学校初等科の3年生(現在の小3)だった。
この思想とは、兵士を「人間」としてみていない不遜な態度のことです。
この「崩壊」の期に、七月、八月、九月のコロンバガラ島沖海戦、ブーゲンビル島沖海戦、ギルバート諸島、マーシャル群島、それにラバウル大空襲と、アメリカ軍は次々と日本の占領地域を爆撃してきました。アッツ島玉砕は、国内では戦時美談として語られ、「アッツにつづけ」が合言葉になっていきました。歌までつくられましたが、それは命を捨てて戦えという意味でもありました。冷静な判断よりも、感情を主体にした思い込みや陶酔が重視されていくのもこのときからだったのです。(pp.158-160)
4月29日アッツ島の日本軍が玉砕し、5月に山本五十六連合艦隊司令長官の戦死が公表され(戦死は4月18日)、元帥を追贈され6月5日国葬が行われた。
そして、9月10日の夕刻鳥取市を大きな地震が襲った。当時わたしは現在の川端5丁目にあった二階建ての四軒長屋に住んでいた。長屋は一階がぺしゃんこにつぶれ、二階はしゃんとしていたが窓のガラス戸は壊れてなくなっていた。(普通であれば夕食を始める時刻で、一家全滅になっていたかもしれなかった。両親の仕事が忙しかったため、家は無人であった。)
隣家から出た火はつぶれた一階全体に廻っていたのだろう。暗闇が近くなった頃、ボッと音を立てて突然火が二階に移り、室内を明るく照らした。
階段をあがった三畳間の、久松山が大きく見える窓の前に、わたしの机と椅子があった。前年照國とともに横綱になった安藝ノ海―あの双葉山の七〇連勝を阻止した安藝ノ海の写真を小さな額に入れて机上に置いていた。その写真立てが倒れないでうらを見せたまま、ちゃんと立っていた。
階段側の鴨居の上に二枚の額を掲げていた。奥の方は山崎大佐、手前の方は山本元帥の写真だった。それらを見た瞬間、炎が部屋中に広がった。その時はじめて、わたしはわっと泣き出した。
刃も凍る北海の 御盾と立ちて二千余騎
精鋭こぞるアッツ島 山崎大佐指揮を執る
山崎大佐指揮を執る
今でもこの歌をうたうことができる。
閑話休題。保坂さんは「崩壊」に続く「解体」―昭和19年1月~翌20年2月―について、こう書いている。
…日本は実質的に戦争をつづける国力を失っているにもかかわらず、玉砕や特攻作戦を行うことになりました。もはや軍事という物量による戦闘や政治の延長としての戦争という意味あいは薄(うす)れ、自己陶酔にふけっていたと私は分析しています。開戦時の精神主義が前面に出てきて、たとえば昭和十九年七月まで首相、陸相、そして参謀総長(この年二月に就任。軍令、軍政の両権をにぎる完全なる独裁体制)だった東條英機は、国民にむけて「戦争というのは最終的には意志と意志との闘いである。負けたと思ったときが負けである)と説く有様でした。そしてこの年10月、人間爆弾、神風特別攻撃隊が編成される。
これは私が以前から言ってきたことですが、「負けたと思ったときが負け」というのは冷静な判断をするな、客観的な考えなどもつな、指導者の言うことだけを聞け、という恐るべき論理です。…
こういう精神的な逃げ場のない迷路のなかに入りこんでしまった日本は、はたして戦争を戦っていたといえるのだろうか、というのが私の考えです。これはもう文化の領域と思えますが、軍事指導者たちはこういう文化的にも恥ずかしい論を用いて、戦争という現実を戦っていたのです。ここに「昭和の戦争の過ち」があると、私は指摘したいのです。(pp.161-163)
2009年4月13日月曜日
鳥取を愛したベネット父子 (27)
1944(昭和19)年1月~45年2月は「解体」、3月~8月15日が「降伏」の最終期である。
具体的には、
・6/19-20 マリアナ沖海戦で、日本海軍惨敗。
・7/7 前年5月のアッツ島についで、4万人余のサイパン島守備隊玉砕。
(日本人住民の半数1万余が死亡)→B29による本土爆撃が射程距離内 となる。
・10/24-25 レイテ沖海戦で「武蔵」など主力艦を喪失。神風特攻隊5機がはじめて出撃。
・11/20 人間魚雷「回天」による発の攻撃。
・11/24 B29、111機が東京を初めて本格的に空襲。
・1945/1/10 B29、334機、前夜から東京大空襲。
・3/17 硫黄島の日本軍守備隊が全滅。
スタンレーの[ガダルカナルよりの手紙]は、既述したように、1943年11月25日付から翌年の1月1日付まで38通、そのうち33通の抄訳が、『戦場からの手紙』の第1部として収録されている。その収録されている手紙の最後は、12月29日付のものである。
その後、スタンレーはどこにいたのであろうか。加藤恭子によれば、検閲もあって居場所を明らかにできなかったが、妻のアリスは、ガ島は海兵隊の重要な基地であったから同島を出たり入ったりしていた可能性がある、と推測していたという。そしてその後の手紙からアリスが判読した結論を次のように伝えている。
スタンレーは、ガダルカナルからニューカレドニアに戻ったのではないだろうか。そして、またガダルカナルに滞在し、一九四四年夏にはグアム戦に参加した。(引用者注:7月21日、米軍、グアム島に上陸開始。8月11日、日本守備隊玉砕。)それからまたガダルカナルへ戻り、一九四五年一月と二月はハワイの真珠湾。それからガダルカナルへ戻ったあと、沖縄戦に向けて出航したのではないか。これがアリスの意見である。(p.85)前述の通り、東京大空襲の日、硫黄島の日本軍守備隊玉砕の直前の3月10日、スタンレー・ベネットの「沖縄からの手紙」が始まっている。
2009年4月11日土曜日
鳥取を愛したベネット父子 (26)
これらの手紙はほとんど毎日書かれていたことになる。スタンレーの健筆ぶりに驚く。日本兵も手紙や手帳、日記などの記録を多くの者が残していることが知られている。しかし、特に手紙では、検閲されるためにこのように、妻への愛を伝えることはできなかったであろう。(ここでは、それらの言葉を引用しないが。)さらに日々このような手紙を書くゆとりなど、戦場の日本兵にはなかったことであろう。
前回同様、日本(人)への思いや日本語の勉強ぶりがうかがえる部分を中心に引用を続ける。
今日もまた〝町〟へ行った。陸軍病院内の憲兵に見張られている一病棟で捕虜の尋問をするためである。捕虜たちは食事が口に合わず、果物と米、日本茶がほしいと言う。だから、午後PXでキャンディー・バーとクッキーを彼らのために買った。帰りがけに、どこかで果物が手に入らないかとジープの運転手に聞いてみた。キャンプから三マイルほどの村の近くにパパイヤの木があるのを知っている、と彼は答えた。それを手に入れられるかどうか、私には疑問だった。ところが、この運転手はジープを運転していき、八つの見事なパパイヤを盗んできてくれた。日本兵捕虜の〝我がボーイズ〟のために、おかげで果物も手に入れることができた。たぶんオレンジもいくらか手に入れられるだろう。(12月2日付 pp.31-32)
オレンジ、パパイヤ、クッキーそれにチョコレートなどを病院にいる私の捕虜の患者たちに持っていったが、哀れさを感じるほどに感謝された。尻に大きな潰瘍のある男は、私が海軍軍医と聞くと、私に面倒をみてもらえるよう、海軍病院に連れていってほしいと頼んだ。自分は海軍軍人なのだから、そう取り計らわれるべきだと言うのだが、ここの捕虜たちは陸軍憲兵隊の管理下にある。そのような移送は、当然不可能だ。
私は自分用の語学クラスを作った。フェンスの囲いの中で最も優秀な捕虜を選び、指導教官になるよう要請し、私の間違えそうな個所を訂正してほしいと依頼した。今日の彼との二時間の勉強中、いくつかの単語を漢字に置き換えてもらった。彼が大変協力的なので助かる。本人も仕事を楽しんでいる様子なので、毎日続けたいと思っている。このキャンプの通訳たちより、私の日本語はうまいそうだ。ヌーメアとオーストラリアには、私などよりもっとうまい通訳がたくさんいるはずなのだが。(12月3日付。pp.32-33)
……午後中、単語カードに明け暮れ、1000以上のカードを作成した。カタカナやひらがな、変則的な読み方のものなどだが、およそ二百十一は精通している単語。およそ三百五十は部分的にわかっているが、まだ努力が必要なもの。百五十の熟語は記憶ずみのほうに入れた。勉強の成果で語彙が増え続け、面白くてたまらない。(12月8日付。p.36)
レヴィンソン少尉と一緒に、今日フェンスの中の捕虜収容所に出かけた。私は「桃太郎」や「もしもしかめよ」などの日本の歌を歌って彼を楽しませた。(12月20日付。p.43)
……陸軍病院に行き、金沢出身の十八歳の青年と話をした。純真無垢な青年だ。この若さでこんな苦境にいるなんて、本当に気の毒なことだ。戦争がおわったら、こうした若者たちにも、人並みの幸せを掴んでほしいと思った。そうしてあげるのが、私たちの義務なのだ。彼らは自分たち自身ではそれができないだろうから。(12月23日付。pp.51-52)
一日のほとんどを、日本海軍についての日本語の本を翻訳して過ごした。非常に興味深い本だ。日本人の心理を理解するための助けになるからである。日本人の最大の弱点の一つだけ指摘するならば、データを客観的に読み、それを偏見なしに評定する能力を育てなかったことだろう。私の意見では、この欠点が彼らにこの戦争を始めさせたし、彼らを敗北へと導くことでもあろう。持ち合わせの単語カードを全部使い切ってしまった。新しいのが来るのを今か今かと待ち構えているところだ。五千枚頼んだが多すぎるとは思わない。そちらにあれば、すぐ送ってくれないだろうか。(12月26日付。p.54)
2009年4月10日金曜日
鳥取を愛したベネット父子 (25)
最愛のアリス
無事この島に上陸したので、また手紙が出せるようになった。小石だらけの海岸からは、大小の島々が見渡せる。私のテントは、五〇ヤード先のココヤシの木々の間に張られた。鮮やかな深紅色のオウムたちが飛び回り、甲高い声で鳴きながら追いかけ合っている。
テント内の床は、小石だらけ。壁は布張りだが、電灯が灯り、上官用の席と食堂が仕切られている。地面は清潔で小石が多く、雑草は生えているが、埃っぽくはない。
今朝九時の下船から、このキャンプへの輸送手配が整うまで、照りつける太陽の下でえんえんと待たされた。私はココヤシの下の箱に腰を下ろし、日本語カードを見直していた。
君に最後の手紙を送ったのは金曜日で、所持品をまとめヌーメアを発つ前だった。土曜日の午後、乗船。新しい高速艇で、乗り心地は上々。大半は日本語の勉強をして過ごした。新しい漢字をずいぶん学んだ。ここには八から一○インチもある大ムカデがいて、噛まれるととても痛いそうだ。クロコダイル、サメ、アカエイ、バラクーダなどもいるので用心するようにとのこと。
マラリアにかかりやすいので、アタブリンを服用しはじめた。暗くなってからはズボンの折り返しは靴下の中へ押し込み、袖は下ろし、衿はボタンをかけ、肌が出ている所には防虫剤を塗っている。(『戦場からの手紙』pp.25-26)
第21回で紹介した亀岡高夫の日記と比べてみて欲しい。軍隊での階級はほぼ同じなのだが、戦闘中の手記と日本軍撤退から10ヶ月後の手紙であることを考慮しても、両者の違いにあらためて驚かざるをえない。
キャンプにある洗濯屋へ、汚れものを全部持って行った。下士官が二人、シアーズ・ローバックの洗濯機を動かしている。お金が足りなかったので、今夜のとことは衣類を置いてきた。
食堂で、感謝祭のディナー。七面鳥は手際よく焼け、肉汁もおいしい。スクウォッシュのパイ、新鮮なルバーブ、さやいんげん、マッシュポテト、ビートのピクルス、チョコレートミルクなどが並び、果汁たっぷりの新鮮なフロリダオレンジが一つずつ出され、ロックキャンディーもあった。
そのあと、海岸へ散歩に出た。海辺にはかなりの〝戦争の遺物〟が残っているが、ほとんど記念品として拾われている。小さな流れが海岸を切るように海へと注いでいる所へ出た。ズボンとズボン下を脱ぎ靴を持って向こう岸へ渡ると、靴と靴下以外一糸まとわぬ裸となった。この島では皆このいでたちだが、これだと体のすみずみまで洗えるうえにきれいに日焼けする。シャワーを浴びてさっぱりしたが、こうして毎日風呂に入れる限り、この戦争にも耐えていけそうだ。(11月25日付。p.27)
日本軍やこの戦争についての私の考え方は変わってきている。この戦争は、昨年の夏に考えていたほど長くは続くまい。恐らくあと二年もしたら、日本は占領されるだろう。日本軍の巧妙な戦いぶりは落ち目になってきている。こう書きながらも、私にはサム・ハートレット発電機の軸受けに油をさしていた日本のおじいさんのことが思い出されるのだ。日本人は、よい人たちだと思うのだ。この対日戦では、日本をとことん痛めつけることになりかねない。(11月26日付。p.28)
PX(軍内の売店)で今日十月十八日付のハワイで印刷された『タイム』誌を買った。これがまさしく私にとって最新のニュースになる。
今日は日本語の勉強に長い時間をかけ、新しい文字をたくさん学んだ。皆、私の所にラベル、本、チラシ、墓標、名札など何でも翻訳してほしいものを持ち込むようになっている。いずれも、初めて目に触れる文字が混じっているので骨が折れるが、練習にはなるし興味もある。(11月27日付。p.29)
2009年4月6日月曜日
鳥取を愛したベネット父子 (24)
太平洋戦争当時、アメリカ人が日本人に対して抱いていた偏見、人種差別のことについて以前のブログでふれた(1月23日付の第13回のブログ)。このことについて、もう一度書いておきたい。
手紙の中でスタンレーが〝ジャプス〟を使うのは、日本軍に対してだけであり、日本人について語るときには、〝ジャパニーズ〟に戻る。つまり、スタンレーの頭の中には、軍国主義者〝ジャプス〟が〝ジャパニーズ〟を間違った方向へ導く、それをどうにかするために何か自分にできることはないか、何かをしなければならない、という考えがあったのではないだろうか。ただ、実際に戦場に出て行ったのは、鳥取での幼友だちのような、ふつうの日本人であった。その辺りの矛盾も、スタンレーは意識していたに違いない。(p.14)また、脇道にそれるが、過日、書斎の片付けをしていた折り、古い切り抜きの束のなかにこんなものがあった。「日本経済新聞」1988年8月18日号(p.30)からの切り抜きである。
【ロンドン十七日=土屋記者】日本人に対する差別用語と言われてきた「ジャップ(JAP)が欧州でファッション・ブランドとして登場、差別用語を脱皮したと話題を呼んでいる。
採用したのは高田賢三のファッションブテック「ケンゾー(KENZO)」で、同氏が欧州に登場した一九七〇年代初めにマスコミがそのファッションを「ジャングル・ジャップ」と呼んだのが今回のブランド名採用の由来と説明している。
昨冬から出荷したジャップ・ブランドは売れ行き好調で、特に反発はない様子。高田氏はもともと人気の高いデザイナーだが、同氏が日本人であることを強調するブランド名だったことも、若者の間に広がる「日本へのあこがれ」を刺激したと指摘する人もいる。
差別用語使用には慎重な英国放送協会(BBC)によれば、ニュースなど一般的な放送では「ジャップ」を使用しないのが原則だが、劇やバラエティー番組などはこの限りではないという。
同協会の広報担当ギョーンジョンズ氏は「戦後四十年以上が過ぎ差別用語としての意識は薄れた。英国人のことを『ブリッツ(BRITS)』と呼ぶように、ジャップもむしろ親しみのある呼び方に変わってきている」と指摘している。
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