2009年4月10日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (25)

ガダルカナル島からの第1信は、1943年11月24日付のものだ。全文を引用する。
最愛のアリス
 無事この島に上陸したので、また手紙が出せるようになった。小石だらけの海岸からは、大小の島々が見渡せる。私のテントは、五〇ヤード先のココヤシの木々の間に張られた。鮮やかな深紅色のオウムたちが飛び回り、甲高い声で鳴きながら追いかけ合っている。
 テント内の床は、小石だらけ。壁は布張りだが、電灯が灯り、上官用の席と食堂が仕切られている。地面は清潔で小石が多く、雑草は生えているが、埃っぽくはない。
 今朝九時の下船から、このキャンプへの輸送手配が整うまで、照りつける太陽の下でえんえんと待たされた。私はココヤシの下の箱に腰を下ろし、日本語カードを見直していた。
 君に最後の手紙を送ったのは金曜日で、所持品をまとめヌーメアを発つ前だった。土曜日の午後、乗船。新しい高速艇で、乗り心地は上々。大半は日本語の勉強をして過ごした。新しい漢字をずいぶん学んだ。ここには八から一○インチもある大ムカデがいて、噛まれるととても痛いそうだ。クロコダイル、サメ、アカエイ、バラクーダなどもいるので用心するようにとのこと。
 マラリアにかかりやすいので、アタブリンを服用しはじめた。暗くなってからはズボンの折り返しは靴下の中へ押し込み、袖は下ろし、衿はボタンをかけ、肌が出ている所には防虫剤を塗っている。(『戦場からの手紙』pp.25-26)

第21回で紹介した亀岡高夫の日記と比べてみて欲しい。軍隊での階級はほぼ同じなのだが、戦闘中の手記と日本軍撤退から10ヶ月後の手紙であることを考慮しても、両者の違いにあらためて驚かざるをえない。

 キャンプにある洗濯屋へ、汚れものを全部持って行った。下士官が二人、シアーズ・ローバックの洗濯機を動かしている。お金が足りなかったので、今夜のとことは衣類を置いてきた。
 食堂で、感謝祭のディナー。七面鳥は手際よく焼け、肉汁もおいしい。スクウォッシュのパイ、新鮮なルバーブ、さやいんげん、マッシュポテト、ビートのピクルス、チョコレートミルクなどが並び、果汁たっぷりの新鮮なフロリダオレンジが一つずつ出され、ロックキャンディーもあった。
 そのあと、海岸へ散歩に出た。海辺にはかなりの〝戦争の遺物〟が残っているが、ほとんど記念品として拾われている。小さな流れが海岸を切るように海へと注いでいる所へ出た。ズボンとズボン下を脱ぎ靴を持って向こう岸へ渡ると、靴と靴下以外一糸まとわぬ裸となった。この島では皆このいでたちだが、これだと体のすみずみまで洗えるうえにきれいに日焼けする。シャワーを浴びてさっぱりしたが、こうして毎日風呂に入れる限り、この戦争にも耐えていけそうだ。(11月25日付。p.27)

日本軍やこの戦争についての私の考え方は変わってきている。この戦争は、昨年の夏に考えていたほど長くは続くまい。恐らくあと二年もしたら、日本は占領されるだろう。日本軍の巧妙な戦いぶりは落ち目になってきている。こう書きながらも、私にはサム・ハートレット発電機の軸受けに油をさしていた日本のおじいさんのことが思い出されるのだ。日本人は、よい人たちだと思うのだ。この対日戦では、日本をとことん痛めつけることになりかねない。(11月26日付。p.28)

 PX(軍内の売店)で今日十月十八日付のハワイで印刷された『タイム』誌を買った。これがまさしく私にとって最新のニュースになる。
 今日は日本語の勉強に長い時間をかけ、新しい文字をたくさん学んだ。皆、私の所にラベル、本、チラシ、墓標、名札など何でも翻訳してほしいものを持ち込むようになっている。いずれも、初めて目に触れる文字が混じっているので骨が折れるが、練習にはなるし興味もある。(11月27日付。p.29)

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