2009年4月22日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (31)

スタンレーの沖縄上陸2日目の手紙(四月三日付)からの引用。
 この島は気持ちのよい所で、すばらしい。いろいろな点でハワイやグアムよりよいと思う。畑は整然として、肥沃。本土と同じように、ヒバリが畑から囀(さえず)りながら舞い上がったりしている。枝ぶりのよい松の木が道路に沿って並び、ハイビスカスの花は生け垣に咲き乱れ、島は緑に包まれている。
 多くの家屋が損害を被っているのを見るのは、とても心が痛む。日常生活がいきなり断ち切られた痕跡が家のあちこちに見られる。一軒などでは洗う間もなかった食器、あわてて縫い針が刺さったままになっている縫いかけの子供服、用意したまま火のつけてないかまどなどが、そのままになっている。そこここに、子供や大人が息絶えてころがっている。辺り一面というわけでもないのが、せめてもの幸せだ。多くの家屋は爆撃や砲撃を受けていたことがわかったが、大部分の住民はその前に家を離れていたのだ。二人の女が洗濯をしていたので、話しかけてみた。彼女たちは那覇出身で、激しい爆撃が始まってからは山の中に住んでいたそうだ。自分の家が残っているのかどうか知らなかった。方言でしゃべっていたが、よくわかった。
 こんなところが、日本の一角の最初の占領に参加した私の印象だ。沖縄は、鳥取県とか島根県などと同じように、れっきとした日本の一つの県なのだ。那覇はこの島の県庁所在地だが、多分まもなく陥ちることになるだろう。もし日本軍の弱さが見せかけのものでなく、本当だったとすると、もうこっちのものと思ってよいのかもしれない。

四月六日(金)
 この辺りの住民は今では私のことをよく知っていて、敬意を表してくれる。「先生」と日本語で呼んでくれるし、彼らの援助に力を尽くす我々に感謝している。住民は日本軍より、ここの方が自分たちをずっと大切に扱ってくれると病院の軍医に言ったそうだが、よくわかる。何か困ったことはにか尋ねようと、私も何回か足を運んだが、二、三人が出てきて丁重にお辞儀をし、謝意を表す。彼らのことを「すばらしい人々」だと、今朝リヴィングストン軍医が言っていたが、確かに皆穏やかで感謝の心に満ち、忍耐強い人々だ。
ここまでは、昨日エディタで打ち込んでいたのだが、こんな調子でスタンレーの手紙を紹介していたら、きりがない。どんどんブログの回数が増えるばかりだ。このあたりで切り上げて、先に進まねば、と考えた。もともと、このテーマを書き始めたのは、
1)ベネット父子をはじめ家族の人々について、こういうアメリカ人たちがいたことを知って欲しい。
2)これらに人々に関心を寄せていただいて、ぜひ、加藤恭子さんの著書と編訳書を一人でも多くの人に読んでいただきたい。
と願っているからにほかならない。
確かに、両書とももはや新刊書では入手できないが、古書として入手が可能だし、図書館からの借り出しも可能であろう。(鳥取県立図書館では帯出可能であることを確認している。)

次回で、太平洋戦争時代を終えて、戦後のベネット一家について、スタンレーを中心に紹介させていただきたい。
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