2009年4月16日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (28)

スタンレー・ベネットは、いよいよ太平洋戦争最後の地上戦となる沖縄へ向かうことになる。

中3になったばかりの孫が、来週、修学旅行で沖縄へ行くという。 
世界史上はじめて原爆を投下された広島、長崎であれ、当時の中学生や女学校の生徒たちを含む全県民が戦闘に巻き込まれた沖縄であれ、修学旅行でこれらの地を訪れる彼らが、あの戦争についてどんな学習をしているのであろうか。「語り部」と呼ばれている人たちから悲惨な体験談を聞くのかもしれない。それも大事なことだが、なぜそんなことになったのか、当時の指導者たちはどのような国をつくろうし、どのようにあの戦争を推し進めてきたのか、どうして日本国民はその道を突き進んでいったのか、などなどを知り、考えることが大切だと思う。そのためにも、右サイドに紹介している保坂正康さんの『若い人に語る戦争と日本人』はぜひとも若い人たちに読んでほしい本のひとつだ。これまでにも何度かこの本に触れてきたが、昭和18年5月~12月の「崩壊」の時期の「命を捨てる戦い」について述べている部分を、長くなるが、もう一度だけ、引用しておきたい。(原文のルビはカッコ内に入れた。)
 …この八か月ほどの間に、日本の戦闘はきわめて歪(ゆが)んだ形になってしまったのです。その例が五月末からのアッツ島での戦いであり、玉砕(ぎょくさい)でした。私は、日本の軍事指導者がもっとも責任を問われることはふたつあると思います。ひとつはアッツ島にみられるような玉砕であり、もうひとつは戦争の後半にみられる特別攻撃隊による作戦行動です。
 …アリューシャン列島の西端に位置するこの島(東西約五六キロ、南北約二四キロ)は、ほとんど人の住んでいない島でした。この地からアメリカ軍の攻撃があったら困るということで、日本は守備隊を置いたのですが、昭和十八年五月からアメリカ軍の本格的な攻撃を受けています。
 二五〇〇人の守備隊は、二万人近いアメリカの海兵隊員の攻撃を受けながら二週間近くももちこたえましたが、その後山崎保代(やまさきやすよ)守備隊長をはじめとする生存兵士が、最後の肉弾作戦を行いました。援軍も補給もないままにその身を銃弾に代え、アメリが軍にむかっていったのです。このときの様子を、アメリカ軍のある中尉が次のように書き残しています。そこには、「どの兵隊も、どの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握(にぎ)っている。最後の突撃というのに皆どこか負傷しているのだろう。足をひきずり、膝(ひざ)をするようにゆっくりと近づいてくる」とあり、アメリカ兵はたどたどしい日本語で「降参せい、降参せい」と叫(さけ)んだとあります。だがそれにもかかわらずむかってくる。それで一斉に機関銃を発して撃ち殺したというのです。
そして、保坂は、自らが行った講演(平成7年「戦争史研究国際フォーラム)での結論づけを引用し、さらに本文を続けている。 
(私たちのなかに)こうした玉砕に対して、日本人の精神性を表すものとしての見方をとることがある。あるいは物量に劣(おと)る日本の戦いとみた場合、こうした精神性を対峙(たいじ)させる考えもある。だがつぶさに見ていくと、こうした玉砕作戦そのもののなかに、やはり大本営参謀たちに欠けていた思想があるのではないかと思う。

 この思想とは、兵士を「人間」としてみていない不遜な態度のことです。
 この「崩壊」の期に、七月、八月、九月のコロンバガラ島沖海戦、ブーゲンビル島沖海戦、ギルバート諸島、マーシャル群島、それにラバウル大空襲と、アメリカ軍は次々と日本の占領地域を爆撃してきました。アッツ島玉砕は、国内では戦時美談として語られ、「アッツにつづけ」が合言葉になっていきました。歌までつくられましたが、それは命を捨てて戦えという意味でもありました。冷静な判断よりも、感情を主体にした思い込みや陶酔が重視されていくのもこのときからだったのです。(pp.158-160)
この年、わたしは国民学校初等科の3年生(現在の小3)だった。
4月29日アッツ島の日本軍が玉砕し、5月に山本五十六連合艦隊司令長官の戦死が公表され(戦死は4月18日)、元帥を追贈され6月5日国葬が行われた。

そして、9月10日の夕刻鳥取市を大きな地震が襲った。当時わたしは現在の川端5丁目にあった二階建ての四軒長屋に住んでいた。長屋は一階がぺしゃんこにつぶれ、二階はしゃんとしていたが窓のガラス戸は壊れてなくなっていた。(普通であれば夕食を始める時刻で、一家全滅になっていたかもしれなかった。両親の仕事が忙しかったため、家は無人であった。)
隣家から出た火はつぶれた一階全体に廻っていたのだろう。暗闇が近くなった頃、ボッと音を立てて突然火が二階に移り、室内を明るく照らした。
階段をあがった三畳間の、久松山が大きく見える窓の前に、わたしの机と椅子があった。前年照國とともに横綱になった安藝ノ海―あの双葉山の七〇連勝を阻止した安藝ノ海の写真を小さな額に入れて机上に置いていた。その写真立てが倒れないでうらを見せたまま、ちゃんと立っていた。
階段側の鴨居の上に二枚の額を掲げていた。奥の方は山崎大佐、手前の方は山本元帥の写真だった。それらを見た瞬間、炎が部屋中に広がった。その時はじめて、わたしはわっと泣き出した。
   
    刃も凍る北海の 御盾と立ちて二千余騎
    精鋭こぞるアッツ島 山崎大佐指揮を執る
    山崎大佐指揮を執る

今でもこの歌をうたうことができる。

閑話休題。保坂さんは「崩壊」に続く「解体」―昭和19年1月~翌20年2月―について、こう書いている。
 …日本は実質的に戦争をつづける国力を失っているにもかかわらず、玉砕や特攻作戦を行うことになりました。もはや軍事という物量による戦闘や政治の延長としての戦争という意味あいは薄(うす)れ、自己陶酔にふけっていたと私は分析しています。開戦時の精神主義が前面に出てきて、たとえば昭和十九年七月まで首相、陸相、そして参謀総長(この年二月に就任。軍令、軍政の両権をにぎる完全なる独裁体制)だった東條英機は、国民にむけて「戦争というのは最終的には意志と意志との闘いである。負けたと思ったときが負けである)と説く有様でした。
 これは私が以前から言ってきたことですが、「負けたと思ったときが負け」というのは冷静な判断をするな、客観的な考えなどもつな、指導者の言うことだけを聞け、という恐るべき論理です。…
 こういう精神的な逃げ場のない迷路のなかに入りこんでしまった日本は、はたして戦争を戦っていたといえるのだろうか、というのが私の考えです。これはもう文化の領域と思えますが、軍事指導者たちはこういう文化的にも恥ずかしい論を用いて、戦争という現実を戦っていたのです。ここに「昭和の戦争の過ち」があると、私は指摘したいのです。(pp.161-163)
そしてこの年10月、人間爆弾、神風特別攻撃隊が編成される。

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