2009年4月13日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (27)

スタンレーの[ガダルカナル島からの手紙]は、第23回で書いたように、保坂正康のいう日本軍「崩壊」の時期の末期にあたる。彼はガ島で日本軍と直接戦ってはいなかった。

1944(昭和19)年1月~45年2月は「解体」、3月~8月15日が「降伏」の最終期である。
具体的には、
・6/19-20 マリアナ沖海戦で、日本海軍惨敗。
・7/7 前年5月のアッツ島についで、4万人余のサイパン島守備隊玉砕。
 (日本人住民の半数1万余が死亡)→B29による本土爆撃が射程距離内 となる。
・10/24-25 レイテ沖海戦で「武蔵」など主力艦を喪失。神風特攻隊5機がはじめて出撃。
・11/20 人間魚雷「回天」による発の攻撃。
・11/24 B29、111機が東京を初めて本格的に空襲。
・1945/1/10 B29、334機、前夜から東京大空襲
・3/17 硫黄島の日本軍守備隊が全滅。

スタンレーの[ガダルカナルよりの手紙]は、既述したように、1943年11月25日付から翌年の1月1日付まで38通、そのうち33通の抄訳が、『戦場からの手紙』の第1部として収録されている。その収録されている手紙の最後は、12月29日付のものである。
その後、スタンレーはどこにいたのであろうか。加藤恭子によれば、検閲もあって居場所を明らかにできなかったが、妻のアリスは、ガ島は海兵隊の重要な基地であったから同島を出たり入ったりしていた可能性がある、と推測していたという。そしてその後の手紙からアリスが判読した結論を次のように伝えている。
 スタンレーは、ガダルカナルからニューカレドニアに戻ったのではないだろうか。そして、またガダルカナルに滞在し、一九四四年夏にはグアム戦に参加した。(引用者注:7月21日、米軍、グアム島に上陸開始。8月11日、日本守備隊玉砕。)それからまたガダルカナルへ戻り、一九四五年一月と二月はハワイの真珠湾。それからガダルカナルへ戻ったあと、沖縄戦に向けて出航したのではないか。これがアリスの意見である。(p.85)
前述の通り、東京大空襲の日、硫黄島の日本軍守備隊玉砕の直前の3月10日、スタンレー・ベネットの「沖縄からの手紙」が始まっている。

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