2009年4月18日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (29)

保坂正康が「解体」と名付けた段階の末期になると、人間を爆弾にするという段階になった。

1944(昭和19)年10月20日、関行男大尉以下24名の神風(しんぷう)特別攻撃隊が編制され、敷島、大和、朝日、山桜の4隊に区分された。(本居宣長「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」によって命名されたのであろう。)
特別攻撃隊は編制翌日から出撃し、25日に関大尉の率いる敷島隊の9機が空母1隻を沈没、2隻を大破させる戦果を挙げると、陸軍も特別攻撃隊を編制した。こうして陸・海軍とも体当たり攻撃を「制式化」し、翌年1月までに海軍が106回(約440機)、陸軍が62回(約400機)実施した。
『若い人に語る戦争と日本人』で保坂は次のように書いている。
 …乗っているパイロットは、当初こそ海軍兵学校出身の軍人もいましたが、その大半は学徒出陣で軍に徴用された現役の大学生たちでした。彼らはわずかの訓練を受けただけで、特攻機を操り、アメリカ軍の艦艇をめざして体当たり攻撃をつづけたのです。
 …こうした人間爆弾を作戦のなかにとり入れたこの期の大本営は、軍事的にも、人間的にもまさに「解体」していたといえるでしょう。(p.165)
このような人間爆弾は、これだけではなかった。この年11月には人間魚雷「回天」がつくられた。魚雷を1人の乗員で操作できるように改造したもので、約1550キロの爆弾ごと敵艦に体当たりするのだ。
このように人命を消耗品扱いにする特攻を冷ややかにとらえ、次のような川柳を残して死んでいった学徒出陣の青年たちもいた。
 生きるのは良いものと気が付く三日前
 神様と思えばおかしこの寝顔
 体当たりさぞ痛かろうと友は征き
  特攻のまずい辞世を記者はほめ
「桜花」という人間爆弾は、飛行機につり下げられて目標近くで切り離される人間ロケットで、爆弾は1200キロ、乗員1人。ブリキと木材を多用した「剣」と呼ばれた、爆弾800キロ、乗員1人の特攻専用機もあった。
米軍は、死を賭したこのような特攻を非常に恐れたけれども、絶対に命中しないといわれた「桜花」に対しては、「BAKA[バカ]BOMB[ボン=爆弾]と嘲笑していたという。(マンガの「天才バカボン」はこれとは全く関係ない。念のため。)
(この項の記述は『昭和二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争』pp.360-361によって記した。)

いよいよ日本は1945年3月から始まる「降伏」への道を歩むことになる。
2月19日、米軍は硫黄島に上陸を開始した。5日間でこの島の攻略を終える予定であった米軍第四海兵師団は、地下20~30メートル、総延長28キロに及ぶ強固な地下陣地網を使った日本軍の抵抗に、半数の9098人の死傷者(死者は6591人)を出し、3月18日、ハワイに引き揚げ再び戦線に戻ることはなかった。
一方日本軍も、3月3日までに指揮官の65パーセントが死傷、22500人の兵力も3500人までに落ち、組織的な戦闘は困難になっていた。
3月17日、兵団長の栗林忠道中将は大本営に訣別の辞と辞世の歌を打電、日本軍守備隊は全滅した。
米軍司令部は、上陸4日後の2月23日には「世界で一番攻め難い島」と発表しており、前述のように大きな犠牲も払ったのだが、同日、擂鉢山占領、翌日には千鳥飛行場の修復を始め、3月12日爆撃機用滑走路を完成させている。
その日の3日前の3月9日から10日にかけて、B29、298機による東京大空襲が行われ、江東地区は全滅した。
これまでのB29は一万メートル以上の上空を飛び、都市の軍需生産施設が攻撃目標の中心であったが、東京大空襲は非戦闘員を対象にした、はじめての無差別絨毯(じゅうたん)爆撃であった。以後、このような無差別爆撃は繰りかえされ、東京空襲も四月、五月と徹底的に継続されることになる。
この空襲による正確な被害状況ははっきりとはしていないが、10万人近い死亡者を出し、広島・長崎の原爆に匹敵する大規模な被害を与えた。
なお、あえて付記しておく。この爆撃の計画の責任者は太平洋方面第二〇空軍司令官であったカーチス・ルメイだった。彼は、1963年の4月に米空軍参謀総長として来日、日本政府は航空自衛隊建設に貢献したとの理由で、勲一等旭日大綬章を彼に贈った。
(この項目は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』pp.48-49 および pp.57-58 によって記した。)

保坂正康さんは、次のように書いている。
 この「降伏」の期に、もっとも戦争の苛酷さを肌身(はだみ)で感じたのは沖縄(おきなわ)県民でした。日本で唯一(ゆいいつ)本土決戦の戦場となったこの地では、四月に一八万人のアメリカ軍の上陸により戦闘が始まりました。これに対して守備隊の約七万五〇〇〇人の日本軍将兵は、しばらくは持久作戦をとりました。しかしアメリカ軍の圧倒的な攻撃の前に、戦闘を行っても充分に戦うことができず、しだいに日本軍は壊滅的な打撃を受けることになります。六月二十三日に守備隊の司令官である牛島満(うしじまみつる)が自決し、日本軍は実質的に壊滅したのです。
 沖縄戦では、県民や兵士を含めて二〇万人近い犠牲者がでています。このなかには、日本軍の兵士がときに沖縄の人たちをスパイ扱(あつか)いして殺害したケースもあるといわれますし、民間人がときに楯(たて)がわりにされて戦死したこともありました。あるいは、アメリカ軍の捕虜になったり保護されることは好ましくないとして、自決した者もいました。
 こうした状態になっても、大本営は本土決戦にこだわりました。彼ら軍人たちの戦略とは、とにかく敗戦につぐ敗戦の状態であったにせよ、いちどは戦勝の機会を得てそれをもとに有利な条件で講和を結ぼうというものでした。あるいは中国やソ連と講和をして、対米英の「百年戦争」を考える者もいました。しかし、どのような戦略をもって戦争をいているのか、この戦争の目的は何だったのかなどを問うどころではなく、ただひたすら軍事で決着をつけようと考えるだけだったのです。
(『若い人に語る戦争と日本人』pp.169-170)
スタンレー・ベネットは、いよいよ沖縄へ向かうこととなる。
 


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