2009年4月21日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (30)

『戦場からの手紙』の第2部ともいうべき、スタンレーの「沖縄からの手紙」は、1945(昭和20)年3月10日―あの東京大空襲の日から始まっている。
日付を追って数えてみると、3月―7通、4月―17通、5月―20通、6月―27通、7月(7日まで)―5通、計76通の抄訳が収録されている。いずれも妻、アリス宛のものだ。勝ち戦を進めている米軍の、しかも一般兵士ではなく、士官級の地位にあったとは言え、その健筆ぶりには驚かざるをえない。(スタンレーは、ガダルカナル島にいたときと同様、軍医としての任務と、日本語による情報収集などに当たっていたらしい。)

沖縄戦については、若い人たちもそれなりの知識をもっているであろう。前回の『若い人に語る戦争と日本人』からの引用にとどめておく。ただ、米軍が上陸した日のことと、スタンレーがはじめて上陸した日のことについては、やや詳しく記し、彼の手紙も長めに引用する。その後は、手紙の中でわたしが興味、関心を抱いた部分をいくつか紹介することにとどめておきたい。

4月1日早朝、米軍は沖縄本島中部の嘉手納(かでな)・北谷(ちゃたん)海岸に上陸した。上陸軍は1時間もたたないうちに四個師団16,000人になり、戦車部隊も上陸。午前中に嘉手納と読谷(よみたん)飛行場を占領、日没までに60,000人が上陸して師団砲兵もすべて上陸を完了した。米軍の戦死者は28人だった。
守備についていた日本軍の、ある高級参謀であった大佐は、戦後こう書いている。
「午前八時、敵上陸部隊は、千数百隻の上陸用舟艇に搭乗し、一斉に海岸に殺到し始めた。その壮大にして整然たる隊形、スピードと重量感に溢れた突進振りは、真に堂々、大海嘯(だいかいしょう)の押し寄せるが如き光景である。」
「実に奇怪な沖縄戦開幕の序幕ではある。アメリカ軍は、ほとんど防備のない嘉手納海岸に莫大(ばくだい)な鉄量を投入して上陸する。敵を洋上に撃滅するのだと豪語したわが空軍は、この重大な時期に出現しない」(八原博通『沖縄決戦』読売新聞社)
(この項は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』p.68 による。)

こんな有様で、大本営は「本土決戦」を叫んでいたのだ。
四月一日(日)午前十時四十分の日付をもつスタンレーの長い手紙は、「沖縄上陸の初段階は成功を収めたという報告が艦に届く。」という一文で始まっている。
翌日付の手紙も長いものだが、はじめて沖縄に上陸した日のことを細かく記しているので、3分の2あまりを引用する。
 八時半、上陸用意の命令。…
 …上陸してみると、島はいろいろな作物の収穫期らしく、実った穀物や豆類は、取り入れを待つばかり。畦道沿いにながめたが、段々畑やサンゴ礁を石垣に使って囲った畑は、トラックなどでひどく踏みつけられてはいるものの、戦火による損害は少ない模様。
 村を通り抜けていくにつれ、グアムに比べて比較的損害の少ないのにびっくりした。いはいえ、焼失し、粉々になった家も多い。あちこちに穴のあいた家もある。
 村には木陰があり、静かでなかなかよい。太い道はなく、細い小路が通じている。沖縄人は石工芸に優れているとみえ、不揃いに切り取ったサンゴをぴったりと組み合わせた石塀で庭を囲っている。その石塀には細かい葉の華奢な蔓草が一面にびっしりとからみついており、種々の老木はあちこちでその石塀をまたぐようにして、根を張っている。老木から出た無数の気根は、塀の中の石と一体になり、ゆるい編み目模様をつけたようになった幹は、石塀を取り囲み、食い込んで、その一部のようになっている。立派な松や桑の木が木陰を作り、多くの家にはゼラニウムやスミレの花がきれいに咲き乱れている。肥溜めが点在し、あちこちに馬、豚、山羊などの死骸はあるものの、町は不潔だという感じはしない。
 ……
 戻ってから野戦用非常食の昼食をすませ、住む所を探しに村へ向かって出発した。住み心地のよさそうなかやぶきの家を見つけたが、壁は砲弾で穴だらけだった。箒を見つけてきて瓦礫を掃除し、戸棚を整理して荷物をしまった。ホレースはハンモックを吊り、私は簡易ベッドをしつらえ、かやを吊って落ち着いたところだ。この家の主は、防空壕に日用品や書類などを保管していた。我々はこれらの品々を注意深く集め、住民が帰ってきたときのために、家の中へ入れ、しまっておいた。
 村には住民の姿はなかった。逃げてしまっていたのだ。我々は洞窟で、二人の老人と二人の老婦人とが隠れているのを見つけた。私が踏み入ったとき、彼らはふとんの下に隠れた。ふとんの外に出すと、一人の老婦人が、「殺さないで」と嘆願した。万一にそなえて、私は弾をこめたピストルをかまえていたし、同行したコフ大尉もそうだった。私は、「おばあさん」と日本語で声をかけ、「心配しないように。保護するから」と告げた。彼女は手を合わせ、膝をつき、頭を地面につけて礼を言った。だが、私の日本語はあまり彼らに通じないようだったし、彼らの沖縄弁は私にはわからなかった。若い人なら両方が話せるので、私はあとでちゃんとした日本語を話せる中学生を一人連れ、担架を携えて洞窟に戻った。怪我をしている老婦人を乗せ、他の人たちも助け出して水陸両用戦車に乗せた。彼らは驚いたように成り行きを見守っていたが、これで面倒を見てもらえるさきができたのだ。
 住民たちはうろたえながらあちこちをさまよっているが、軍政府の人たちは手を尽くして世話をしている。海兵員たちは親切で、子供たちにはキャンディをやり、年寄りや体の弱った人たちを運び込んできたりし、略奪など、見る限りほとんどない。島民は漆器づくりに優れ、何軒かの家で見事なものを見つけた。中には漆器や陶磁器や急須などを持っていった者もあるが、概して兵士たちは品行方正である。




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