2009年4月11日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (26)

ガダルカナル島から発信されたスタンレー・ベネットの手紙(妻宛)は、1943(昭和18)年11月24日付~翌年1月1日付まで、38通が発信されている。そのうち、33通の抄訳が第1部として『戦場からの手紙』に収録されている。
これらの手紙はほとんど毎日書かれていたことになる。スタンレーの健筆ぶりに驚く。日本兵も手紙や手帳、日記などの記録を多くの者が残していることが知られている。しかし、特に手紙では、検閲されるためにこのように、妻への愛を伝えることはできなかったであろう。(ここでは、それらの言葉を引用しないが。)さらに日々このような手紙を書くゆとりなど、戦場の日本兵にはなかったことであろう。

前回同様、日本(人)への思いや日本語の勉強ぶりがうかがえる部分を中心に引用を続ける。 
今日もまた〝町〟へ行った。陸軍病院内の憲兵に見張られている一病棟で捕虜の尋問をするためである。捕虜たちは食事が口に合わず、果物と米、日本茶がほしいと言う。だから、午後PXでキャンディー・バーとクッキーを彼らのために買った。帰りがけに、どこかで果物が手に入らないかとジープの運転手に聞いてみた。キャンプから三マイルほどの村の近くにパパイヤの木があるのを知っている、と彼は答えた。それを手に入れられるかどうか、私には疑問だった。ところが、この運転手はジープを運転していき、八つの見事なパパイヤを盗んできてくれた。日本兵捕虜の〝我がボーイズ〟のために、おかげで果物も手に入れることができた。たぶんオレンジもいくらか手に入れられるだろう。(12月2日付 pp.31-32)

 オレンジ、パパイヤ、クッキーそれにチョコレートなどを病院にいる私の捕虜の患者たちに持っていったが、哀れさを感じるほどに感謝された。尻に大きな潰瘍のある男は、私が海軍軍医と聞くと、私に面倒をみてもらえるよう、海軍病院に連れていってほしいと頼んだ。自分は海軍軍人なのだから、そう取り計らわれるべきだと言うのだが、ここの捕虜たちは陸軍憲兵隊の管理下にある。そのような移送は、当然不可能だ。
 私は自分用の語学クラスを作った。フェンスの囲いの中で最も優秀な捕虜を選び、指導教官になるよう要請し、私の間違えそうな個所を訂正してほしいと依頼した。今日の彼との二時間の勉強中、いくつかの単語を漢字に置き換えてもらった。彼が大変協力的なので助かる。本人も仕事を楽しんでいる様子なので、毎日続けたいと思っている。このキャンプの通訳たちより、私の日本語はうまいそうだ。ヌーメアとオーストラリアには、私などよりもっとうまい通訳がたくさんいるはずなのだが。(12月3日付。pp.32-33)

……午後中、単語カードに明け暮れ、1000以上のカードを作成した。カタカナやひらがな、変則的な読み方のものなどだが、およそ二百十一は精通している単語。およそ三百五十は部分的にわかっているが、まだ努力が必要なもの。百五十の熟語は記憶ずみのほうに入れた。勉強の成果で語彙が増え続け、面白くてたまらない。(12月8日付。p.36)

 レヴィンソン少尉と一緒に、今日フェンスの中の捕虜収容所に出かけた。私は「桃太郎」や「もしもしかめよ」などの日本の歌を歌って彼を楽しませた。(12月20日付。p.43)

 ……陸軍病院に行き、金沢出身の十八歳の青年と話をした。純真無垢な青年だ。この若さでこんな苦境にいるなんて、本当に気の毒なことだ。戦争がおわったら、こうした若者たちにも、人並みの幸せを掴んでほしいと思った。そうしてあげるのが、私たちの義務なのだ。彼らは自分たち自身ではそれができないだろうから。(12月23日付。pp.51-52)

 一日のほとんどを、日本海軍についての日本語の本を翻訳して過ごした。非常に興味深い本だ。日本人の心理を理解するための助けになるからである。日本人の最大の弱点の一つだけ指摘するならば、データを客観的に読み、それを偏見なしに評定する能力を育てなかったことだろう。私の意見では、この欠点が彼らにこの戦争を始めさせたし、彼らを敗北へと導くことでもあろう。持ち合わせの単語カードを全部使い切ってしまった。新しいのが来るのを今か今かと待ち構えているところだ。五千枚頼んだが多すぎるとは思わない。そちらにあれば、すぐ送ってくれないだろうか。(12月26日付。p.54)

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