2008年12月20日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (7)

ヘンリーとアンナの間には5人の子どもが生まれた。
長女、サラ(Sara)1908(明治41)年生。
長男、スタンレー(Stanley)1910(明治43)年生。
次男、フレデリック(Frederick)1912(明治45)年生。
次女、アンナ(Anna)1913(大正2)年生。母と同名なので「ナニー」とニックネームで呼ばれたという。
三女、メアリー(Mary)1916(大正5)年生。

彼らが子ども時代を過ごしたのは、例の「異人屋敷」、私たちが子どもの頃の呼び方では「ベネットさんの家」であった。正確に言えば、鳥取弁で「ベネットさん家(げ)」と呼んでいた、というべきかもしれない。この言い方がどのように、また、いつ頃生まれたのわからない。「鳥取藩を治めていた池田家(いけだ・け)」のような「け」が「げ」となったのかとも思うが分からない。「◇◇ちゃんげの者(もん)」とか「◎◎ちゃんげは、○○ちゃんげの隣」といったように使った。前者は家族を指すとも言えるし、後者は明らかに建物を指している。前者の意味であったものが、後者の意味にも用いられるようになったのかも知れない。

本題に戻ろう。加藤恭子の本に「鳥取の異人屋敷。スタンレーもここで生まれた。(撮影年月日不明)」と注記してベネットさんの家の写真が掲載され、本文に「クローバー敷きの庭に囲まれ、一、二階ともにベランダ風な回廊をめぐらせた白っぽい洋風建築」と書いている(p.38)。
 ガス、電気、水道のまだなかった当時の生活の中で、ベネット家の飲料水は雨水に頼っていた。井戸もあるのだが、畑にまく人糞の肥料が地下水を汚染するので、飲み水としては使えない。屋根のすぐ下に、雨水を受ける大きな木槽があった。その下部には栓があって、それをひねると、地面に埋められた陶製の茶色の水がめに水が落ちた。そこから竹びしゃくで水を汲み上げ、煮立ててから飲むのだった。水がめの上には木の蓋がしてあり、子供たちは近づかないようにと言われていた。(pp.39-40)
私の父は1887(明治17)年12月の生まれだから、ヘンリーより13歳くらい年下だ。ヘンリー夫妻が「異人屋敷」で暮らし始めたときには、18歳前後で、たぶん鳥取にはいなかったと思う。だが、10歳前後の頃に父親が母親と自分を含む三人の子どもを捨てて出奔し、長男であった父が一人、元魚町2丁目にあった伯父の家に預けられた。毎朝天秤棒で桶を担いで袋川で水を汲んでくるのが仕事の一つで、とくに冬はつらかったという。私が子どもの頃、父は鹿野街道筋の内市で商売をしていた。水道はむろんあったが、井戸の水も電気を使ったポンプでじゃんじゃんくみ上げて「湯水の如く」の文字通りに使っていた。父の苦労話を聞くたびに、なぜ井戸水を使わなかったのだろうと思ったが、上に引用した加藤の文章を読んで納得した。(また、脇道にそれてしまったか?)

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