2008年12月19日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (6)

ヘンリー・ベネットと妻のアンナについて伊谷ます子の語っている内容をご紹介したが、伊谷隆一の文章や加藤恭子の『スタンレー・ベネットの生涯』からもう少し補足しておきたい。
ヘンリー・ベネットがハーバード大学卒業直後、宣教師として日本に派遣され鳥取に単身赴任したのは、1901(明治34)年だった。その後一時帰国してアンナと結婚し、日本に帰ってからアンナの任地だった岡山でしばらく暮らした後、二人で鳥取へ戻ってきたのは、1906年の秋であったことはすでに記した。
この時代を歴史的に見れば、日露戦争(1904ー1905)を挟んでいる。『百傑伝』の中で、伊谷隆一はこう書いている(pp.642-643)。
日露戦争前の排外主義気運勃興のさなかであり、いうまでもなくヤソと知れば露探(引用者注:ロシアのスパイ)と騒ぐ当時の風潮のなかで、彼の鳥取での苦難にみちた伝道がはじめられた。人を訪えば塩がまかれ、自宅には石が飛んだ。山陰を伝道センターと指定したアメリカンボードからの強い援助があったとはいえ、このようななかにある外人宣教師を支えるものは、その伝道に賭ける捨身の決意と、その地にある無名の信徒たちの祈りである。
 ベネットがまず第一に励んだことは日本語の習得であり、日本のくらしを身につけることであった。鳥取弁のまだるこいユーモアを解し、日本語ばかりでなく漢籍をも自由に読み、ミソ汁やタクアンの茶漬けの食事をし、そして正座して人と語ることをいとわなくなる、そのような謙虚な努力とそのくらしが、次第に、信徒たちとの結びつきを強めていった。
正座については先回紹介した伊谷ます子の話にも出てきたが、ヘンリーの長男スタンレーの遊び友達の一人であった尾崎誠太郎も後年こう語っている。(以下は、引用も含め、『スタンレー・ベネットの生涯』pp.48-49 による。)

「日曜学校で畳に座られるとき、ズボンをちょっと持ち上げる。そうすると、ズボンの筋がいつまでもくっきりとついている。私もそのやり方を応用しました。」
この尾崎誠太郎は、京都帝大工学部卒業後、陸軍航空技術学校教官と陸軍航空技術研究所員を兼ねた航空少佐で、戦争中はスタンレーと敵味方に別れることになった人物だが、戦後は国立米子高専と広島電気大学の教授を歴任した。1993(平成5)年9月、加藤恭子が鳥取に取材に来たとき、84歳の彼に会って直接取材している。弟の繁夫は鳥取大学名誉教授で、同級生だった評論家の荒正人は、ヘンリーから洗礼を受けたという。
その尾崎誠太郎が、鳥取一中(現在の鳥取西高)時代に、ヘンリーに向かってこんなことを言ったという。「『クラウン・リーダー』全五巻を英国人で文部省顧問のパルマーが読んだレコードを父が一式買ってくれましてな。私はキングズ・イングリッシュだと威張って、ベネットさんはアメリカ人だから英語は駄目だってなことを言ってしまった。子供というのは、生意気なものです。」そして「お怒りにならなかったのですか?」との問いにこう答えている。
「顔を真っ赤にされましたが、一つも怒られなかった。いや、内心は怒られたでしょう。ハーバード大学を何とか賞をもらって卒業した人に、田舎の中学生が『あんたの発音は悪い』ということを言ったのですから。後からは、冷や汗が出たり、すまんと思ったり…」
このエピソードのあとに、「生意気な子供がかえってかわいいのか、ヘンリーは誠太郎をとてもかわいがったという。」と加藤は書いている。

ヘンリーは、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語にも通じていた。日本語も鳥取弁を含む話し言葉を理解し、使うことができた。
話し言葉だけではない。江戸時代に書かれた鳥取藩の史書を読み、それを英訳しようとさえしていた。
幼稚園の式では、「教育ニ関スル勅語」、いわゆる「教育勅語」をおごそかに朗読したという。

教育勅語といえば、小4のときであったか、これを筆で清書して提出せよという夏休みの宿題があった。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ…」難しい漢字を書きまちがえては書き直し、半紙を何枚も使って、なんとか最後の「御名御璽」までたどりつき、その最後の「璽」を書きそこねて、べそをかいたことがあったっけ。
閑話休題。
ヘンリーは1956(昭和31)年、フィラデルフィアで亡くなった。スタンレーが父の持ち物を整理していると白い絹の布に包まれて桐の箱に入っている教育勅語がトランクの中から出てきたそうだ。「ずいぶんいい言葉で書かれていると思います。あれを父が読んでいたことを、誇りに思っています」と言ったという(加藤本p.222)。

ヘンリーについて、尾崎誠太郎は「怒られた顔を見たことがありませんでしたな。温厚篤実。日本人にもめったにいないような、実直な方でした」と言い、息子のスタンレーは先回紹介したように「聖人のような人でした」と言っている。

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